koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

Adue,Aylton 2・・・

2010年05月01日 23時59分59秒 | 車&モータースポーツ

F1は極東ラウンドが終わり,三週間のインターバルを経て発祥の地である欧州へ帰る。
周知のように,前回の中国GPの最中にアイスランドで大規模な火山の噴火が起こり,欧州の空が大混乱して,次戦であるスペインGPの開催が危ぶまれたが,どうやらその危機は回避された模様だ・・・。
今日は敢えてF1根多を書こうと思う。
それは,私にとって80年代の終わりにF1という存在を知るに至ったきっかけと,F1の面白さと穢さを知らしめることになったのだから・・・。


アイルトン・セナ・ダ・シルバ(1960.3.21-1994.5.1)。
ブラジル出身の不世出と言われる天才ドライバーである。
セナがワールドチャンピオンを獲っているが,そのいずれもがマクラーレン・ホンダというパッケージングによってもたらされたものであり,我が国ではホンダの人気とF1人気,そしてセナの人気が相乗効果をもたらしたと言っても良いかもしれない・・・。
ただ,CXを始めとするマスコミがF1に注目する契機は,やはりホンダエンジンの活躍だろう。
60年代にコンストラクターとして自前のシャーシとエンジンでF1に殴り込みをかけ,メキシコGPでリッチー・ギンサーが優勝を飾ったホンダの第2期参戦は80年代にエンジンサプライヤーとしてであった。
86年と翌87年はウィリアムズに搭載され,2年連続でコンストラクターズタイトル(87年はドライバーズタイトルも)を獲得するに至った。
その最強を誇ったホンダエンジンとセナの出会いは87年に遡る。
チームメイトに中嶋悟を得て,ロータスホンダのエースとなったセナは,果敢なレースを展開。
アクティブサスペンションが搭載されたロータスホンダ99Tは,セナのドライブでアメリカ(デトロイト),モナコという2つのストリートコースで優勝する。


この年は,CXによるF1中継が始まるというモニュメンタルな1年となった。
手の届かない海外のものだったF1が,突如として日曜夜の身近な存在となったからだ。
それまでは,ひところやっていたTBS系の録画収録番組を見るか雑誌を立ち読みするのがせいぜいで,ほぼリアルタイムでF1を見るなどということは有り得なかったし,考えもしなかった。
そのCXにとってセナは恰好の広告塔であったに違いない。
端正なマスクと恐ろしく速いが神経質な走り,そして独身である・・・といった具合に,新たなファン獲得には多大な貢献をしたに違いない・・・。
・・・と書くと,如何にも揶揄しているように取れれかねないが(否明らかに揶揄している),こうしたマスコミの贔屓はある面スポーツの活性化に必要なものと思う(90年代中盤の一過性の熱病のようなサッカー人気など典型だろう・・・)。
ましてや,私のような者をF1に目を向けさせたという点で,やはりCXとセナの存在は極めて大きかったと言っても良いだろう・・・。


しかし,天の邪鬼を標榜する私の面目は,セナに対してアンチであったことだった。
とにかく,CXとホンダ(ユーザーの方には申し訳ないが,私はホンダ車を購入の対象としたことは無い。二輪は別だが),そして過剰なしゃべりを旨とする古舘伊知朗がやたらとよいしょするのが気に入る筈もなく,また周囲の女性が悉くファンであるのも気に入らず(これは毎度のことだが・・・),以降8年,深夜までF1中継を見てセナが勝つ気分が悪かったものである・・・。
特に,どう見ても勝ちを拾われた感がある92,93年のモナコGPは中継のメンバー(何故か伝統と格調のモナコに似つかわしくない古舘が担当だった)もあって,温くなった熱燗を飲み過ぎて宿酔いになったような気分になったものである。
昨日今日のように甲子園で阪神が巨人に勝った時のような気分に近いかもしれない・・・。
だいたいあの研ぎ澄まされたような神経質な走りがどうも好きになれなかった。
予選一発のタイムを終わりに出してそのままPPというパターンが多く,セナ=速いドライバーというイメージを増幅させることにもなったと思うが,その結果悪役の代名詞にされたプロストや本能剥き出しの走りをするマンセルといったドライバーにむしろ惹かれていった・・・。


この2人とセナとの確執については語るまでもあるまい。
87年のベルギーGPではセナとマンセルが絡み(どこのコーナーだったか忘れた・・・),殴り合いにまでなった(真相は??)ことや,89,90年の鈴鹿でのセナとプロストの後味の悪い一件はよく知られたことだ。
その結果,セナ-善玉でいじめられ役,プロスト・マンセル-悪役の図式で語られることが多かったと思うが,3人の名誉のために言っておくとプロストがシートを失って1年の浪人を強いられた92年は,セナと連絡を取り合って情報交換していたという話だし(93年の序盤は表彰台で無視しあっていたようだが),94年のイモラでの惨事の3日前(多分フリー走行中?)に,ゲスト解説のプロストに走行中のセナが,
「親愛なるアラン,君が居なくて寂しいよ・・・」
といったことを無線で話しかけてきたことはよく知られている。
そしてセナの死後,プロストはフランスのアイルトン・セナ協会の会長を自ら引き受けたという・・・。
マンセルに関しては,91年の英国GPの後の一幕を参照されたい。
ガス欠で止まったセナがマシンを降り,シルバーストーンサーキットでは無類の強さを発揮しぶっちぎりで優勝したマンセルがウィニング・ランに入った時に,何とマシンの横にセナを乗せてウィニング・ラップを行ったのである。
また,翌年のモナコGPでは,F1史に残るラスト8周の激烈極まりない(それでいてフェアな)テール・トゥ・ノーズの大バトルの後,ポディウムではお互いのファイティング・スピリットをたたえ合う2人の清々しい姿を見ることができた。
まぁ,同年の最終戦豪州GPのように,その時点でラストランのマンセルに対しセナが・・・ということも有ったようだが,お互いの力量を認め合い決して険悪な仲ではなかったということである・・・。


以前も述べたが,この不世出のドライバーと時代を共にできた幸運を思うべきなのかもしれない・・・。
前人未踏に思われたセナのPP記録も,シューマッハーというこれまた天才によって遂に塗り替えられた。
時代の移ろいとはそういうものなのだろう。
そして,そのシューマッハーにも昔日の速さ・強さは無い・・・。
王者にも黄昏は訪れる・・・。
そうした意味でも,セナは全盛期に逝ってしまった・・・。
先頭を走ったまま・・・。


チャンピオンたちが個性でならした時代・・・。
私の知るところだと,フィッティパルディ,ラウダ,ハント,父アンドレッティ,ジョーンズ,父ロズベルグを第一世代とするならば(さすがにクラークやヒル,リント,スチュワートといった面々に関しては直接は知らない),セナは父ピケ(同胞の彼こそセナと犬猿の仲だった-セナの元かのがピケと付き合っていたらしいが・・・),プロスト,マンセル,ヒル,シューマッハーが第二世代ということになるのだろうか・・・。
その後のチャンピオンたち-ハミルトンにしてもバトンにしてもやんちゃなだけで,個性というには小粒感は否めないと思うのだが・・・。


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