「平家物語」では頼政勢が1,000余騎,知盛・重衡というおそらく最も戦闘能力の高い武将に率いられた(忠度という選択肢も)平氏軍は28,000余騎。
実際には数百と数千の戦いではなかったでしょうか・・・(余談ですが,これが「太平記」になると10万単位に膨れ上がります・・・)。
いずれにしても,畿内で細々と勢力を保ってきた摂津源氏+僧兵勢力では,平氏の大軍に抗すべくも無いところでしょう・・・。
しかし,頼政軍はよく戦いました。
橋板を外し,橋桁だけになった宇治橋の上で,五智院但馬,浄妙明秀,一来法師といった僧兵の猛者たちが奮戦して大軍を食い止めます。
平氏の侍大将である上総介忠清(通称伊藤五)は,知盛に河内方面への迂回を進言したと言いますが,その時平氏軍の中にあった下野国足利荘住人足利太郎俊綱・又太郎忠綱父子がかつて馬筏を組んで板東太郎(利根川)を渡河したことを進言。
当時17歳の忠綱を先頭に板東武者300余騎が一斉に宇治川へ馬を入れ渡河。
これにて宇治橋の守りは破れました・・・。
この足利父子ですが,後の有力鎌倉御家人にして室町将軍家の源姓足利氏ではなく,江州三上山の百足退治で名高い俵藤太秀郷の子孫である藤姓です。
同年秋,頼朝に従って挙兵する板東武者が,この時点で平氏に付いていたというのは興味深い内容ですが,彼らが直属する将たる忠清自身が藤姓ですし,忠清は上総介として板東武者を統べる立場にあったと思われますから,板東からの援軍,或いは大番役で上洛していたのかは分かりませんが,忠清の麾下に在ったからだろう・・・と予想されます・・・。
頼政は平等院まで退いて奮戦します。
何せ,近衛帝の御代,御所紫宸殿の屋根に夜な夜な出現し帝を悩ませたという謎の怪鳥(鵼とも)を射落としたという伝説の残る弓の名手です。
また,長子仲綱も父同様の射手で,矢頃をはかりやすくするために敢えて兜は被らず,烏帽子のみで戦闘を続けました。
次子兼綱も荒れ狂うような奮戦を見せますが,力尽きます。
仲綱は頭に重症を負い,平等院の釣殿(今回は見つけられず)で自害して果てます。
四男の宗綱,養子の仲家-家光父子も戦死。
頼政は,もはやこれまでと観念し,郎党の唱長七(となうのちょうしち,とのうのちょうしち-摂津渡辺党の1人)に介錯を頼み,平等院の扇の芝にて自害します。
享年77。
当時としては記録的な長命ですが,人生の終盤に老躯を押してまで勝算のない戦に臨んだ真意は想像するしかありません・・・。
ただ1つだけ確実に言えるのは,源氏の長(おさ)としての矜恃は間違いなく持っていたことでしょう。
平氏政権下で朽ち果てることを潔しとしなかったのか,時勢は平氏に競わず・・・と判断したのか分かりませんが,伊豆の配所にある頼朝に対しても,源家の嫡流としての矜恃を持っていたことでしょう・・・。
最期の地は,この世の極楽に準えて宇治関白頼通が建立した宇治平等院。
頼政の心に過ぎったものはなんだったのでしょう・・・。10円玉と撮っている人が居た・・・。以前は巨大に感じられたが・・・。
頼政墓。詣でる人も希・・・
扇の芝。頼政の苦衷と無念や如何に・・・
因みに,頼朝長子仲綱の官職は伊豆守でした。
数ヶ月後の8月,伊豆蛭ヶ小島に挙兵した直後の頼朝軍は伊豆国府(現三島市)の政庁
に入りますが,そこに蓄えられた武具や矢に感服します。
それらは,伊豆守だった仲綱を通して頼政が,来たるべき源家再興に向けて密かに備蓄していたものだった・・・という話が,吉川英治の「新平家物語」に載っていました・・・。
仲綱の二男有綱と頼政末子広綱は伊豆に居て難を逃れ,頼朝軍に加わります。
また上述の藤姓足利氏は,頼朝に敵対して没落します(俊綱は家来の桐生六郎に討たれ,子の忠綱は平氏軍に投じて消息不明)。
下野の大族は,同じく藤姓の小山氏が強勢でしたが,その対抗上平氏に味方した故の悲劇だったのかもしれません・・・。
・・・ということで,高校の修学旅行以来の平等院をゆっくり見てきました。
鳳凰堂の裏手には立派な展示室もできていましたし,頼政の墓に詣で,扇の芝にもお参りして,非命に散った老将に手を合わせてきました。
そう言えば,数年前の大河ドラマ「義経」では,故丹波の御大が鬼気迫る頼政を演じていましたが,何故か踏み込んできた知盛に斬り伏せられるという訳分からん設定になっていて仰け反りました・・・。
前後しますが,宇治橋から平等院の前まで小規模ながら門前町が形成されておりました。平等院門前町
宇治茶の自販機。味についてはいずれ述べたい・・・・・。
今回の旅行中初めて見る結構な人出で,その活気が妙に嬉しく感じられました。
お茶屋や茶店が並び抹茶の香りも漂い,折からの日差しもあって,明るい風光が宇治の天地を満たしておりました。
中州から宇治川を渡り,宇治神社に詣でて京阪で洛中へ戻りましたが,実質初めて見る宇治の風物は大いに気に入りました。
相方が嵐山に似ていると言っておりましたが,確かに川を控えている点で類似していると思いましたし,平安貴族の別荘が有ったという点でも共通していると思います。
ただ,宇治は嵯峨嵐山に比べるとかなり洛中から遠く,行き来するのは大変だったと思われます。あらはれわたる・・・・・
わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり(喜撰法師,『古今集』983)
朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 (権中納言定頼,『千載集』冬419)
という『小倉百人一首』にも載っている2首が思い浮かびますが,喜撰通りとかあじろ木の道と名付けられた通りがありました。
そう言えば,宇治川先陣之碑から宇治神社門前へ渡る橋は,喜撰橋でした。
喜撰法師は,歌の通り宇治に庵を結んで,飄々と世を楽しんだ様子が伝わってきますし,平安朝きってのイケメンの1人定頼は,小式部内侍(和泉式部の娘)にやり込められたあたりは(はて『十訓抄』だったか『古今著聞集』だったか・・・。高校の古文の知識しかない・・・)多少軽薄な印象ですが,大弐三位や相模といった当時の女流歌人おねいさんたちと関係を持ったという羨ましい(爆),否とんでもない男だったようです(笑)・・・。
やはり宇治は嵯峨嵐山程高級ではないものの,平安貴族にとってはやはり特別な高級別荘地だったのではないでしょうか・・・。
『源氏物語』の最終章の舞台が宇治だったというのも,著者自身が宇治の風物に対して格別な思い入れを持っていたからではないかと想像されます・・・。
・・・という訳で長々と続いた關西紀行もこれで終わりとします。
この日の午後は,宇治から京阪に乗り中書島で特急(3000系)に乗り換えたら,あっという間に洛中北東の出町柳まで着いてしまい,鴨川と高野川の合流点(上の子の5年生の社会科の教科書に載っていた)で遊んでパワースポットと言われる糺の森から下賀茂神社へ行ったのですが(唯一の京都市内観光),糺の森の雰囲気を味わおうとしたら下の子におしっこと言われて(泣)下賀茂社に走ったことと,食事をしてゆっくりとお土産を物色したことしかありませんでした。
いずれ,番外編も載せたいと思いますが,紀行はこれで終わりとなります。
もう暫く行けないかと思うと残念ですし,何度行っても京都・奈良は見るべきところ,見たいところが満載ですので,またぜひ行きたいものです・・・。
中身のない駄文でしたが,最後までお読みくださったすべての方々に感謝です。
ありがとうございました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます