goo blog サービス終了のお知らせ 

koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

黄金楽土-其之六

2008年12月09日 21時51分30秒 | 歴史

        6.巨星墜つ


安倍氏の意外な強さに,頼義は舌を巻いたことだろう。
そこで一計を講ずる。
阿部一族の分断を図るのである。


安倍頼時の版図は,前にも述べたとおり,陸奥の奥六郡であるから,平泉町から奥州市(どうも苦手な地名だ。水沢市・江刺市と呼びたい・・・),北上市,花巻市,石鳥谷町,盛岡市といった現代の岩手県中部を押さえていることになる。
その北-つまり青森県三八上北地方から下北半島に至る本州の最果てには,安倍氏の傍系とも言うべき安倍富忠の領地だった。
頼義は,その富忠に調略の手を伸ばす。
頼義が,海上から5,000の兵を富忠の本拠たる仁土呂志(にとろし:現在の八戸付近か?)
に派遣し,奥六郡を挟撃せん,というのだ。


これを知った頼時は,2,000の兵を率いて北進する。
所詮は同族,戦の経験もないので2,000の大軍を見ればたちまち降伏するだろう・・・という油断があったかどうか・・・。
浪打峠(現一戸町)を越えんとした時,突如として富忠軍が奇襲を掛けてきたのだ。
約一刻の戦いの後,初戦は有利だった富忠軍だが,戦慣れした頼忠軍に押され四散した。しかし,頼時は背に流れ矢を受けていた。
これが致命傷となった。
もはや仁土呂志への進軍どころではない。
出羽からの援兵だった清原光則が頼忠に変わって指揮を執り,全軍を厨川の柵(盛岡市北部)へ戻した。
しかし,ここでは満足な治療も出来ず,そのまま本拠である衣川関まで頼時を移送しようとした。
頼時の容態は益々篤く,厨川から同行した頼時次子宗任は,父が衣川まで持たぬことを悟り,自身が守る鳥海柵(岩手県東磐井郡大東町)へ運ぶ。
嫡男貞任を始め,安倍氏一族が衣川から駆けつける。
おそらく経清も来たことだろう。
彼等の見守る中,北辺の王者は末に不安を思ったまま逝った・・・。


頼時の後を継いだのは,嫡子の貞任である。
勇猛無比と言われ,奥六郡一とも言うべき居丈夫にして猛将であったが,頼時の老成・老獪さには程遠いと思われた。
安倍軍にとって頼時の死は,それ程までに痛手であった。
専守防衛に徹し,決して衣川関から南進しなかった頼時と違って,血気盛んな貞任は,衣川を発し,南進して磐井郡へ入り,河崎柵(東磐井郡川崎村)・黄海柵(同藤沢町黄海)へ兵を入れた。


頼時の死は,源氏軍にとっては逆で,遂に訪れた絶好の機会であった。
頼義はその機を逃さず,天喜5(1057)年11月,密かに兵を動かす。
旧暦の11月であるから,陸奥は雪である。
折からの吹雪の中を,頼義軍2,000は磐井郡へ侵入を開始した。
目標は河崎柵。
吹雪がその動きを隠したであろうことは,十二分に想像できる。
頼義対貞任。
源氏と安倍氏が,遂に直接対決となる。


                           (続く)


黄金楽土-其の伍

2008年12月08日 22時05分17秒 | 歴史

       5.経清離反


頼義最大の誤算は,何と言っても安倍氏の強さだっただろう。
頼時は南進して衣川関(現平泉町)を押さえると,押し寄せる源氏の大軍を迎撃した。
権力を背景にした国府軍であるから,俘囚の籠もる砦など一蹴,ぐらいに思っていたことだろうが,頑強極まりない安倍軍の抵抗に遭って,都度退却を余儀なくされた。
奥六郡をあっという間に席巻できる,と思っていた頼義の目算は見事に外れた。
それぐらい安倍軍は強く,源氏軍を常に圧倒した。


そうしているうちに,ある噂が立った。
頼義麾下の伊具十郎平永衡が,頼時の娘を室としている故に,寝返るのではないか,というものだ。
姓より分かるように,前の陸奥守藤原登任と共に下向し,伊具郡(現在の宮城県角田市・伊具郡丸森町)を領するようになった豪族であるが,安倍氏の勢力圏ではないため,源氏軍加わっていたのだろう。
前述の通り,頼義に安倍頼時が随従した際の融和策として,安倍氏との婚姻が行われたと予想されるが,これが仇となった・・・。
讒訴するものもあったかもしれないが,疑心暗鬼に駆られた頼義は,永衡を多賀城に呼び出し謀殺した。


この事件は思わぬ波紋を呼んだ。
同じく頼時の娘を室とした,つまり永衡の相婿である亘理権大夫藤原経清が,次は自分が疑われる,と思ったのだ。
安倍氏を初めとする奥州の人々に対する頼義の仕打ちを見て,忸怩たるところもあったのだろう。
このままでは自分の身が危うい。
そう思った経清は一計を講ずる。
安倍頼時が軽騎を密かに進発させ,軍勢を衣川関に集結させたために手薄になった多賀城に討ち入って占拠させ,頼義主従の妻子を人質に取る,という噂を意図的に流したのだった。
頼義は驚いた。
地の利を行かして,神出鬼没のゲリラ戦を旨とする安倍軍のことである。
そのぐらいのことをやっても,決して不思議ではなかった。
しかし,今総退却をすると,安倍軍が衣川関から討って出て,追撃に転ずる怖れもある。
そこで,頼義は麾下にいた気仙郡(現在の宮城県気仙沼市~岩手県陸前高田市にかけての沿岸部だろう)の部将金為時(こんのためとき)に,総攻撃を命ずる。
勇躍出撃した為時の勢いに,一瞬安倍軍はたじろいた。
その間隙に,頼義主力は撤退に成功し,長駆多賀城へ帰還することが出来た。


しかし,多賀城で頼義が聞いたのは,予想外のことだった。
幕下にあった藤原経清が離反,という報告に,頼義は耳を疑った。
金為時の猛攻を衣川関の安倍軍がはねのけた後,経清麾下の800余が衣川関へ入ったのである。
よもや,と思った経清の離反に,頼義は地団駄踏んで悔しがったという。
しかし,時は既に遅かった・・・。


こうして書くと,永衡を謀殺した頼義だが,相婿である経清の造反は予想し得なかったことになる。
故に,経清の離反は誤解と勘繰り,とも言えようが,亘理郡(現在の宮城県岩沼市・亘理郡亘理町・山元町)を領するようになって,奥州の人々に対する頼義の仕打ちをよしとしなかったことが大きいし,安倍氏の婿となって,頼時や貞任と接することで,源氏よりも安倍氏に本来の有るべき姿を見出したのではないだろうか。
安倍軍も,おそらく経清の帰順を大歓迎したことだろう・・・。
そして,士気はいやが上にも上がったと思われる・・・。
源氏と蝦夷の合戦は,まだまだ続く・・・。


                     (続く)


黄金楽土-其之四

2008年12月07日 21時04分49秒 | 歴史

          4.前九年の役再燃 


源氏の長が,陸奥守就任。
さらには追討使として奥州下向。
この事実を知った安倍頼良の反応は早かった。
先の平忠常同様,あっさりと服属を申し出たのである。
おそらく,源頼義としては拍子抜け,というか,安倍頼良の腹の底が見えるだけに,悔しい思いをしたのではないだろうか・・・。
さらに,安倍氏を除いて東北支配を目論む頼義にとって,不都合が起こる。
おそらく,追討軍の京洛進発後,或いは奥州到着後と思われるが,時の関白頼通の妹(つまり道長娘)なして一条天皇の中宮にして後冷泉天皇生母である上東門院彰子が発病したのである。
病気平癒の祈祷が行われると共に,大赦が発せられたのである。
したがって,安倍頼良はあっさり無罪となり,頼義としてはどうにもならなかったことだろう。


安倍頼良の随従は,徹底していた。
おそらく奥州産の名馬や黄金を山のように献上したであろうし,頼義と自分の名が同音なのを憚って,以後頼時と改めたのである。
頼時は,知っていたに違いない。
頼義が奥州にどのような野心を持って乗り込んできたか,そして自分たちを挑発して,戦端を開く口実を狙っている,ということを・・・。
なればこそ,頼義の任期が過ぎるまでじっと堪えようとしていたに違いない。
僻遠の地に暮らす者にとって,中央政権から派遣されてきた収奪者の腹の底は,簡単に見えていたのであるから・・・。
頼義麾下の現地の豪族,亘理権守藤原経清と伊具十郎平永衡が,安倍頼時の娘を娶ったのはこの時期と予想される。
つまり,源氏と安倍氏の共存が数年にわたって続くので,その間の融和の象徴的出来事ではなかったろうか・・・。
尤も,頼時長男貞任が,頼義の麾下にある権守藤原説貞の娘を妻に,と申し入れたところ,説貞長子の光貞が,家格が卑しいという理由で拒んだ一件もあった。
このことが,後に大事件の発端になるとは,頼時も貞任も予想だにしなかっただろう・・・。


頼義は焦っていたに相違ない。
安倍頼時が,とにかく挑発に乗らないのである。
陸奥守就任の翌々年には鎮守府将軍も兼任していたが,とにかく自分が在任中に安倍氏に反乱を起こさせることで,奥州に覇権を築きたかった訳だから,焦ったに違いない。
その時は,突然やってきた。
否,安倍氏にとっては突然であっただろうが・・・。
天喜4(1056)年,胆沢城にて頼時の饗応を受けた頼義主従は多賀城に戻るべく,阿久利川(現宮城県登米市)付近に野営した。
その時,部将の藤原光貞・元貞兄弟の幕舎が何者かによって襲撃されたのである。
頼義は即刻,先年光貞の妹を妻に,と申し入れて断られた頼時嫡子の貞任が犯人,と断定する。
真相もへったくれも無かった。
とにかく安倍氏に言いがかりを付けて挑発すれば良かった。
頼義は貞任の身柄引き渡しを要求する。
長年耐え抜いてきた頼時にとって,遂に堪忍袋の緒が切れた,というより,起たざるを得ないことを承知しての挙兵となった。
一度は沈静した筈の前九年の役が再燃,否本格化するのである・・・。


                       (続く)


黄金楽土-其之参

2008年12月06日 22時36分30秒 | 歴史

        3.安倍氏起つ


さて,摂関家とは別系で,不遇を託っていた藤原登任が齢60余にして陸奥守となり,着任するところから今回は始まる。


当時の奥州,それも奥六郡と呼ばれた現在の岩手県中部から北部にかけては,奥州一の大河日高見(北上)川沿いに,俘囚の長である安倍氏が忠頼-忠良-頼良と三代続く間に勢力を扶植していた。
特に頼良の代になると,柵と呼ばれる城柵を領内に何カ所も築いて,一族をそれぞれ配していた。
例えば,嫡男の貞任は厨川柵(盛岡市北部)を領していたので,厨川次郎(長子は夭折したのだろう)と呼ばれたし,次弟の宗任は鳥海柵(盛岡市西部)で生まれたか育ったようで鳥海三郎(居たのは胆沢城),さらにその弟の正任は黒沢尻柵(北上市西部)を領して黒沢尻五郎とそれぞれ呼ばれた。
胆沢城は,前項でも述べたとおり,陸奥鎮守府が置かれた地である。
つまり中央政府の出先機関であるはずなのだが,ここに安倍頼良が自分の子を配したということは,既に鎮守府の役割を果たしていないことがうかがえよう。
世はまさに道長-頼通と続く摂関家の全盛期であり,それに連なる貴族たちは遙任として,中央にて地方から上がってくる利益を搾取した。
地方行政が疎かになるのは当然で,族長たる安倍氏が奥六郡の実権を握ったのも何の不思議ではないといえる。
実力で奥六郡を従えた安倍氏にとって,中央政府(或いは多賀城の官人たち)何する者ぞ,といった気概は当然あっただろうし,奥州にとって中央政府こそ侵略者にして簒奪者に他ならなかった訳である。
安倍氏が朝貢を拒否したのは至極当然,と蝦夷の子孫たる私は思う・・・。


さて,そんなところへやってきたのが登任である。
中央官界では頭打ち故,陸奥守になったのを幸いと,地方の民から搾取して「外貨稼ぎ」を目論んで,老躯を押して奥州までやってきたのだろう。
当然,安倍頼良が賦貢遙役を拒否することなど許せるはずもない。
度々の訓告を当然無視したであろう頼良に対し,陸奥守の権勢をかさに登任は兵を起こす。
多分,兵馬の経験はなかったからだろうが,出羽に援軍を要請し,秋田城介重成とともに数千の兵で安倍氏討滅を計った。
時に永承6年(1051)3月。
世に言う「前九年の役」の始まりである。
九年とはいうものの,足かけ12年にわたる奥州兵乱は,この陸奥守藤原登任+秋田城介重成と安倍頼良一族の激突が端緒となった。
これを鬼切部の戦いという。
鬼切部の場所は,現在の宮城県玉造郡鳴子町鬼首-去年から大崎市鳴子町-というのが定説だが,随分と安倍氏の本拠地たる奥六郡より離れているように思われる。
安倍氏の前哨基地が衣川柵(岩手県奥州市衣川区)と考えると,相当な行軍距離となる。
そうなると,磐井郡鬼切沢(一関市西部)がその地では??という説も頷ける気がするが,こちらは磐井川の渓流に沢が合流する場所で,軍勢がぶつかるには狭隘な気もする。
また,現在の鬼首には「軍沢」なる地名も残り,こちらもあなかち誤りとは言えまい・・・。
いずれにしても,官軍と安倍軍は奥州鬼切部で激突した。
奥州の山間部の3月であるから,積雪を蹴散らしての合戦だったろう。
結果は,安倍氏の圧勝。
慌てたのは,登任は勿論中央政界であろう。
安倍氏反乱!!
100年前の承平・天慶の乱を思った者がどれほど居たか分からないが,官軍が散々に負けたのだから衝撃は大きかったと思われる。
慌てて追討軍の大将の人選にかかったが,公家に適任など居るはずもない。
そこで白羽の矢が立ったのが,源頼義である。
源氏の長ならば,武門として間違いなし,という評価があっただろう。


遂に頼義は,念願の奥州経営の契機を得た。
前九年の役は源氏vs安倍氏となり,いよいよ歴史が動き出す・・・。
現在の鬼首
           
 
                                                                            (続く・・・)


黄金楽土-其之弐

2008年12月04日 21時36分03秒 | 歴史

          2.風雲前夜


板東(東国)の源氏,海(西国)の平氏,という。
しかし,果たしてそうなのだろうか。
では,東国に平氏は居ないのか・・・ということになるのだが,承平の乱-即ち平将門の乱を思い出していただきたい。
将門の本拠地は,下総と常陸の境にあたる豊田郷であり,以後平氏は板東各国に拠った。有名な氏族を挙げると,常陸には官職名を名字とした大掾氏一族,上総には千葉一族,相模には鎌倉・三浦・中村等の各氏が,武蔵には秩父一族が,それぞれ蟠踞した。


では,源氏はどうか。
幸運にも承平の乱の功労者の一人となった六孫王源経基は武蔵に住んだようだが,やはり中央政界での成功を望んだようで,彼の子の満仲は畿内に勢力を扶植し,その3人の息子である頼光は摂津源氏,次男頼親は大和源氏(宇野源氏とも),そして三男の頼信は河内源氏のそれぞれ祖となった。
で,源氏が板東に進出してくるのは,頼信とその子である頼義の登場を待たなければならない。


1028(長元元)年,承平の乱より100年の後,板東に兵乱が起きた。
世に言う長元の乱,教科書風に言えば平忠常の乱である。
最初の追討使は,同族の平直方だった。
しかし,忠常は  徹底的に抗戦。
戦は泥沼化した。
その直方解任後に追討使となったのが,源頼信である。
これを聞いた忠常は,あっさり降伏。
頼信・頼義父子と共に上洛の途中に謎の死を遂げるのであるが(このあたりは極めて怪しい・・・),板東の武士たちは先を競って麾下に入り,源氏の声望は日増しに上がった。
やがて,直方も頼信の声望を慕い,頼義に娘を娶らせる。
その直方から譲られた地が相州鎌倉であり,鎌倉と奥州の因縁はここに始まる,と言って良いかもしれない・・・。


板東に根を張りつつある源氏の頭領となった頼義が,次に狙ったのは広大な板東平野の北に広がる奥州だった。
当時の奥州は,何と言っても良馬の産地であり,さらには天平以来の黄金が採掘されていた。
30を超える郡があり,陸奥守は実においしい官職であったに違いない。


11世紀の中央政界では,何と言っても摂関家が全盛を極めていた。
源氏はその家人として力を伸ばしていった訳だが,公家のように簡単に昇殿を許されたり,受領となったりはできなかったに違いない。
現に,頼義が奥州を狙っている時期の陸奥守は藤原登任なる下級公家だった。
藤原氏と言っても,摂関家の藤原北家(不比等の次子房前を祖とする)の出ではなく,南家(不比等長男武智麻呂を祖とする)の出身で,中央での官位・官職は望めない状況にあったと思われる。
しかも,当時の国司は遙任が主だったのに対し,登任は実際に奥州へ出向いた。
11世紀半ばで既に齢60は超えていたと思われるが,実際に受領として奥州下向を余儀なくされたところに,登任の立場と苦衷が推察される・・・。
で,先ずは,この登任が赴任して間もなく苦渋を味わうことになった。
当時,胆沢(現岩手県花巻市付近)に鎮守府が置かれ,そこで政務を執ることになっていたが,この胆沢を含む江刺,和賀,稗抜(稗貫),志和(紫波),岩手各郡を奥六郡と言い,国司の遙任を良いことに,その地の族長である安倍氏が鎮守府の権限を掌握しつつあり,登任の蝦夷経営は茨の道となった。
奥六郡の主,安倍氏がいよいよ歴史の表舞台に踊り出る・・・。
そして,虎視眈々と奥州を狙う源氏は・・・。                  (続く)


黄金楽土-其之壱

2008年12月03日 23時05分36秒 | 歴史

いよいよエントリする。
古代史,しかも地域のものとなると,今まで全くの関心外で,何の知識もない。
果たして,どのような内容と分量になるか想像もつかないが,無謀を承知でエントリを敢行する。
ちらりとで結構なので,読んでいただけると幸甚である・・・。

        1.序章        

東北地方を「みちのく」と呼ぶ。
何とも旅情を感じさせる響を持った言葉であるが,道の奥が変化しただけである。
道-即ち陸の奥。
陸奥国の語源は,そんなところにあったと言える。
で,畿内や九州から見れば,それこそ陸の奥であり,荒ぶる東夷(あづまえびす)の住む東国のさらに北は未開の地であり,それこそ毛むくじゃらな食人族のような野蛮人が棲息していると思われたであろうことは,想像に難くない。


誤解を覚悟で言うが,西国に対して東国や東北は後から開けた後進の地,と思われがちである。
ただ,それは飽くまでも中央政府による支配が遅かったというだけの話であり,だから文化的に後進地域,と断ずるのは短絡的にすぎると思う。
例えば,東北に縄文遺跡は数多く存在するが,残された遺構からも優れた意匠の跡がうかがえる。
そして,何よりも本州最北端部に位置する後期縄文時代の三内丸山遺跡の発掘により,縄文-狩猟・採集,弥生-農耕という単純な図式が成り立たなくなったくらいである。


中央政府が,東北を支配した最初の例は,多分大和朝廷時代の国造(くにのみやつこ)ではないだろうか。
以前,会津国造が高度な文明を有していたのではないか,という雑文を書いたことがあったが(こちら参照),古代の東北は,会津と越の国(越後)から支配が浸透していったと思われる。
道奥国-陸奥国の成立は,多分律令制初期と思われるが,全部で三十五郡もある大国で,陸奥守に任命された国司は,上の位階の貴族が多かったとされる。
東北経営の最初の入り口は,高校の日本史の教科書にもある大化の改新直後に設けられた越後の淳足(ぬたり:沼垂),磐舟両柵である。
そして,阿倍比羅夫の水軍による北航が続く。
時に斉明天皇4(658)年。
比羅夫は渡島(北海道南端)まで行ったという記録があるが,おそらく白村江の海戦を想定した軍事演習だったとの見方もある。
秋田(土崎?)に能代,そして十三湊はこの時期から開けたと思われる。


奈良に遷都された8世紀になると,律令政府による東北政策はさらに活性化する。
越後の沼垂・磐舟両柵を足がかりとしたため,まず出羽が開けた。
和銅2(709)年には出羽柵,3年後には置賜柵と最上郡が設置された。
それに比べると太平洋岸(宮城・福島)は少し遅く,養老~神亀年間(720年代)に石城(岩城=磐城)郡,石背(いわしろ-岩代)国,刈田郡,そして多賀城が設置された。
多賀城に政庁が置かれた時代は長く,陸奥の中心だったわけだが,その前は同国郡山(現在の仙台市南東部)に政庁があった。
秋田城が設置されたのもこの時期と思われる。
陸奥守とともに秋田城介(あきたじょうのすけ)も権威有る職階となり,8世紀後半には,岩手県中部にまで中央政府の支配は及ぶことになった。
この時期,朝鮮半島に拠る渤海の使者が出羽国に度々来航している。


9世紀で著名なのは,何と言っても坂上田村麻呂であろう。
桓武帝の命によって蝦夷を征伐し,初の征夷大将軍となったことは,小学生の頃教わった記憶がある(今は教科書から削除されているようだ)。
阿倍比羅夫の時代から150年後のことである。
この間に征討将軍として,多くの者が陸奥の土を踏んだ。
例えば,藤原不比等の子で,後に天然痘で相次いで没した宇合(うまかい)と麻呂の兄弟も,8世紀前半に征討将軍となっているし,歌人として有名な大伴家持も同様である。
田村麻呂は胆沢城を築き,そこに鎮守府を置いた。
それまで15年にわたって征討軍を悩ませた阿弖流爲(あてるい)は田村麻呂の薦めによって投降したが,中央貴族たちの反対によって阿弖流爲は畿内で斬られる。
それによって,奥州の民を帰順させようとした田村麻呂の政策は実らず,さらに奥の雫石川畔に紫波城を築くことになる。
以来,奥州の民は中央政府に対して一層不信感を募らせる結果となる。
そして,元慶年間や承平年間には出羽で反乱が起きる。
中央の官吏たちは彼等を俘囚と呼んで蔑んだ。
蝦夷という語も,野蛮人という意味である。
蘇我入鹿の父の名は蝦夷(えみし)となっているが,律令政府が後に付けたであろうことは容易に想像される。
因みに九州では,隼人や熊襲と呼ばれるのも同義であろう・・・。


古代の東北の歴史は,中央政府との軋轢の歴史とも言える。
平和な生活を送っていた彼等にとって,中央から派遣される役人は簒奪者でしかなかった。
だから征夷大将軍などという語も,我々にとっては差別以外の何者でも無いのである。
蝦夷が反乱を起こしたので,政府は征討将軍を送って鎮圧したと言えば,格好良いかもしれないが,先日のチベット蜂起同様,歴史とはそんな一面的なものではないのである・・・。

紫波城跡

                                                                                                            

                                             (続く・・・)


伏見城跡出土品

2008年11月19日 21時47分23秒 | 歴史

さいたま市南区と東京都中野区上鷺宮で連続して起きた,元厚生省事務次官殺傷事件に民主国家の危機を感じるとともに,当時の厚生相って誰だったんだ・・・と思って調べたら納得してしまったりして・・・。
殺伐とした事件が続くので,せめて今日の話題はそうしたものからかけ離れたものにしたい・・・。


以前,大阪城の地下から,安土桃山期のものとおぼしき什器類が大量に発見され,秀吉最晩年の醍醐の花見に使用されたものか・・・なる雑文を書いたことがあったが,今度は伏見城跡桃陵遺跡で,金箔の道具が発見された(こここちら)。


周知のように,伏見城は秀吉の隠居城として文禄年間に伏見指月山に建てられたものだが,数年後の慶長元(1596)年に地震によって倒壊した(この時,秀吉の危急を案じた加藤清正が,文禄の役で不興を買って謹慎中にもかかわらず駆けつけて面目を施したのが,「地震加藤」である)。
その後,すぐに再建されたが,それは隣の木幡山に建てられた。
したがって,秀吉時代の伏見城は2種類有ることになる。
ここでは,指月伏見城と木幡伏見城と便宜上分類することにする。


関ヶ原の役の前哨戦で,東軍の捨て石的存在として,鳥居元忠を将とする1800人の城兵が,4万を超えるといわれた西軍を相手に10日以上も持ちこたえて落城。
この時,秀吉時代の木幡伏見城は燃え落ちた。
そして,翌年家康が再建。
1603年の将軍宣下はここで行われた。
やがて徳川政権下では,畿内の中心は大坂に移り,伏見城は政治的な役割を終えて,1625(寛永7)年に廃城となる。
その際に,建物の多くは二条城や大和郡山城に移築されたという。
だから,木幡伏見城も秀吉と家康がそれぞれ建てているということになる。
勿論,今ある天守は,私が生まれてから建てられたもので,鉄筋コンクリート製であり,往事を偲ぶものでは無い。
岡山池田家に伝わる「洛中洛外図屏風」をもとにしたらしいから,あながち違うとは言い切れないだろうが・・・。


今回出土したのは,金箔をメッキした煙管と金具,毛抜きと思われるピンセット等,20点程だそうだが,黄金趣味は派手好きの秀吉の面目躍如といったところである。
勿論,秀吉が直接使用したものかどうかは分からないが,織豊政権期を生き残った多くの武将たちが往来した時代のもの,と思うと何となく心楽しくなるのは私だけだろうか。
非現実的にして過去のことを今更云々言ったって・・・と思われる向きも有ろうが,私にとって歴史とは,感情移入から始まるものなのである・・・。


さらに,本日付の朝日新聞のトップは,江戸初期の画家,菱川師宣による「江戸名所風俗図巻」が長野市で発見されたというものであった。
まもなく削除されるであろうから,ぜひこちらをご覧いただきたいが,この華やかにして鮮やかな色彩感は,桃山期に通じるものではないだろうか。
何せ100年違わないわけだから・・・。


因みに,安土桃山の安土は言わずもがなだが,桃山とは伏見廃城後に桃の木を植えたことから呼ばれた。
つまり,秀吉時代には「桃山」なる地名は存在していないことになる。
尤も,それを言うなら,1576(天正4)年に築城の安土城も,数年で廃城の憂き目に遭っており,「安土桃山時代」な呼称は相応しくないことになる。
かといって,岐阜安土大坂時代というのも変だ。
「天正時代」なる呼称を唱える識者も居るらしいが,やはり「織豊時代」が相応しいと思う。
ま,武田や上杉が好きな輩からは,断じて織田は天下取っていない,と言われそうだが・・・。


落選・・・

2008年07月08日 22時22分11秒 | 歴史

世界遺産に立候補した平泉が,落選した。
昨年の石見銀山の指定を受けての立候補であるが,落選は東北人として極めて遺憾である。


ま,落選したからといって,文化遺産としての価値はいささかも減ずるものではない,ということを先ずは言っておこう。
映画の○△賞◇部門受賞とか,全米ヒットチャート○週連続第一位,とかの文言(というか宣伝文句)に極めて弱い,短絡思考の日本人だから,
「ああ,価値が無いから認められなかったんだな」
と,思われるのも癪だし,京都・奈良・鎌倉と共に平泉は,東北人として一度は見ておくべきところ,と放言して憚らない私なので,この際はっきりと言っておく。


新聞記事によると,落選の原因は,あの時代特有の浄土信仰が,海外からは理解しがたかったのではないだろうか,ということだった。
平安末期は,末法の世が来る,という末法思想が広がり,爛熟した貴族文化が翳りを見せ,地方に武士が起こった。
11世紀は,この世の極楽と言われた宇治平等院が建立された藤原頼通の時代は,長くこの世の春を謳歌した藤原摂関家が,最後の光芒を見せた時期でもある。
しかし,地方を見ると板東の平忠常の乱,奥州の前九年・後三年の役といった地方の武士による蜂起を,中央から派遣された武士が鎮める,という次代を担う者たちが育ってきたのもこの時期だ。
そして,その後三年の役の結果,源氏勢力を奥州から合法的に駆逐し,中央をも凌駕するような平和と絢爛たる文化が百年続いたのが,奥州藤原氏による平泉である。
その後,延久の荘園整理令によって摂関家が凋落し,院~平氏という為政者の変遷に対しても平泉は独立・中立を守り続けた。
周知のように,最終的には因縁浅からぬ源氏によって平泉は滅亡するのだが,おそらく絢爛たる北方の文化に,頼朝をはじめとする関東の御家人たちは目を見張ったことであろう・・・。
浄土信仰は,その後戦国期にも熱烈なる一向宗の興隆によってピークを迎えるのではあるが(信長も家康も死にかけているくらいだ),確かに,西洋人,否,当時の日本人以外には簡単に理解できない代物かも知れない。
何せ,理解するには,当時の歴史背景を知らなければならないし・・・。


ただ,私が思うに,落選の理由としては,京都・奈良に比して堂塔伽藍が有るわけでもないし(鞘堂内の金色堂だけではつらいか・・・),尾瀬や鳴門の渦潮,屋久杉に比しても,自然の景観としても決め手に欠けたのでは・・・,と思う。
安芸の宮島など,海を借景(反対側は弥山を借景)とした景観は,訴えかける力があると思う。
昨年指定の石見銀山は,残念ながら見たことはないが,山陰地方特有の手つかずの自然が残されたところではないだろうか・・・。
その点で,平泉はインパクトに欠ける面は否めないと思う・・・。
例えば桜の季節,上記金色堂のある中尊寺境内から,藤原氏三代が京の東山に準えたという束稲山(たばしねやま-通称東山)を望む景観など,眼下に悠然と北上川が流れ,岸には桜並木が咲き誇り,義経が生涯を閉じた高舘の小高い丘が見える,といった東北有数の名勝と私なんか思うのであるが,上記世界遺産指定の各地と比べると,知名度としても景観の与えるインパクトにおいてもつらいものがある・・・。


しかし,これに懲りずに何度も立候補して欲しいものだ。
そして近い将来,因縁浅からぬ鎌倉と共に世界遺産に指定・登録されることを強く望みたい。
残念ながら,往事の平泉を偲ぶものは,金色堂の他に毛越寺の浄土庭園と広々とした観自在王院跡ぐらいしかないのだが,こちらを見ると少しは往事を偲ぶことが出来るかも知れない。
久しく行っていないが,まったりとした時を過ごすことの出来る,私のお気に入りの場所でもある・・・。


単一民族

2008年06月06日 23時32分45秒 | 歴史

全くをもって迂闊極まりないことに知らなかったが,本日国会においてアイヌ民族を先住民族として認め,関連する政策を一層推進するよう政府に求める決議が衆参両院本会議に於いて全会一致で可決。
官房長官は,アイヌが先住民族であることを正式に表明した。


我が国は,決して単一民族ではない。
勿論中国のように,民族単位の政権交代が古来行われてきた訳ではないので,○△系といった分化はされないが,古来渡来人・帰化人系の人々の子孫と思われる姓も少なからず存在するので,単純に大和民族の国,という考え方・言い方は避けねばなるまい。


我が国が,一応統一国家としての体裁を持ったのが4~5世紀頃の大和朝廷であったとされている。
奈良盆地に散在した豪族たちの集合体とも言うべきもので,古来関西を中心とした政権や文化が営まれてきた。
例えば,古代に於いて畿内以外は異国であり,そこに棲むのは異民族に思われた。
「古事記」には大国主命や素戔嗚尊,日本武尊による冒険譚が書かれており,八岐大蛇をはじめとする敵は,すべてその地方の豪族たちであったことだろう。
熊襲にせよ隼人にせよ出雲族にせよ安曇族にせよ,大和から見れば,皆異民族だったことだろう。


律令時代以降,政府は度々東北地方を侵した。
蝦夷征伐,と書くと,如何にも蝦夷が悪いことをしたので正義の政府軍が鎮定に向かったようにとられがちだが,それは飽くまでも政府側だけの視点である。
平和に暮らしていた(と思われる)辺境(これ自体が差別だが)の民を一方的な範疇に取り込もうとした-つまり,辺境の住民にとっては迷惑極まりないことだったのである。
だから,そうした意味でも,坂上田村麻呂も源頼義・義家父子も,勿論源頼朝も,私たち蝦夷の先祖にとっては迷惑極まりない闖入者だった。
征夷大将軍の征夷とは,夷を征する-つまり東方の野蛮人を退治するという意味である。極めて差別的な言葉と言っても良かろう。


蝦夷地と呼ばれた北海道に倭人が住んだのは中世以降だろうか・・・。
幕藩体制の元,松前藩はアイヌの土地を簒奪する。
つまり,米国政府がかつてインディアンに対してやったことと同種のことを行ったのである。
大陸や朝鮮半島を占領した時代よりはるか以前に,同様の事実があるのだ。
そして,今回の決議は,先住民族の独自の文化体系を尊重し,民族の尊厳を改めて認識する意味でも価値のあるものと思う(今更,とも思うが・・・)。


ただ,問題点もあることを認識せねばなるまい。
先住民族の権利を認めるということは,土地の所有に混乱が生じる怖れがある。
そのあたりを,どうクリアしていくかが問題となろう。


現在の歴史教科書には,松前藩に対して一斉に蜂起したアイヌの酋長シャクシャインのことが記されている。
北海道民ならずとも,こうした史実を重く受け止めるべきであろう。
尤も,戦前・戦中の七生報国・滅私奉公の理念への反動からか,南北朝時代の記述が極めて薄っぺらなのも気になるが・・・。


「曾我物語」異聞-其之参

2008年06月01日 21時40分54秒 | 歴史

さて,3日に跨った記事は久々だが,ようやく特濃エントリが可能な内容が見つかった,と言うべきだろうか,それとも明日以降の根多切れの心配をするべきだろうか・・・。

 

古来忠孝の美談として語り継がれ,戦前は修身の教科書にも載っていたであろう曾我兄弟の仇討ちであるが,これが思わぬ余波を引き起こした。
否,引き起こしたというのは語弊がある。
起こるべくして起こった,と言った方が妥当かも知れない。
つまり,頼朝弟三河守範頼失脚である。


頼朝は猜疑心が強く,弟の義経と範頼を次々と殺した,と,私も子どもの頃何かで読んだが,勿論そんな単純なものではない。
ましてや,裾野の巻狩りで一時頼朝の安否が不明だったとき,留守を守る頼朝夫人政子に範頼の,
「私がおりますので,ご心配なく」
というひと言が頼朝の逆鱗に触れた,などという単純なものでもないだろう。
範頼自体が野心もなく,義経の例を見ているだけに,用心して欲を出さずにいたことは重文に想像されるのだが,頼朝の機嫌を案じた範頼が郎党の当麻太郎を頼朝居館の床下に忍ばせて逆に発見されたことで,範頼の命運は尽きた。
源氏にとってお決まりの伊豆修善寺配流である。
範頼は間もなく自害したということだが,10年後の頼家同様刺客に誅されたのだろう。


・・・ということは,弟の範頼が曾我兄弟の黒幕か?
と考えるのも短絡に過ぎよう。
上述のように,範頼は頼朝に取って代わろうとする野心など持たなかったと思われる。
だとしたら,誰かに祭り上げられたと考えるのが妥当であろう。
つまり現政権:頼朝-北条ラインに不満を持つものが,範頼を担ぎ出して頼朝と北条を仇討ちにかこつけて一気に屠ろうとしたのではなかろうか。


治承寿永の内乱が終わり,奥州征伐も終わった。
前年に幕府という念願の武士の府が動き出し,戦乱は文治6(1190)年の大河兼任の乱以降収束の兆しを見せている。
侍所に和田義盛に梶原景時,政所に大江広元といった有力者が揃い,保元・平治の乱を戦い抜き,治承の頼朝挙兵以来の百戦錬磨の板東武者たちにとって,不満が募ったであろうことは容易に想像できる。
例えば,北条氏に属さない伊豆や相模の武士たちはどうであろうか。
自分たちと同様に,地方の一土豪に過ぎなかった北条氏に従うのを潔しとしなかった輩は少なくなかったと思われる。
例えば,富士の裾野に程近い西相模には,波多野,中村,土肥(早川,小早川),岡崎,土屋,大庭といったいずれも板東平氏の流れを汲む豪族たちが蟠踞していた。
その中で,工藤祐経だけが北条とも親しく,将軍頼朝のおぼえもよろしい,となれば役者は揃う。


この時代を扱った作品を多く書いた作家の永井路子氏は,幕府の公式記録である「吾妻鏡」を熟読した結果,この事件の直後に大庭平太景能と岡崎悪四郎義実の2人が老齢を理由に突然出家したことを発見。
この2人が曾我兄弟の仇討ちの背後に居たであろうことを,幾つかの作品で述べられている。
さらには,この時期に常陸では同国の御家人である多気義幹が館に籠城の準備に入ったという。
大庭景能は,保元の戦いで源為朝に脚を射貫かれたことでも分かるとおり古豪であり,岡崎義実は三浦半島一帯を支配した三浦一族であるが,西相模の岡崎(現茅ヶ崎市)に本拠を持っていた。
頼朝挙兵には,伊豆の目代山木兼隆襲撃当初から応じ,石橋山の敗軍の際に息子の佐奈田余一義忠を失っている。
悪四郎と呼ばれたということは,相当の強者だつたということであろう。
やがて景能は頼朝に許されたらしいが,義実の方は頼朝在世中は遂に許されず頼朝没の翌年,寡婦となった政子に窮状を訴え,ようやく領地を回復してもらい安心したのか間もなく世を去っている。
昭和54(1979)年放送の大河ドラマ「草燃える」では,完全にこの設定が生かされており,北条時政が項垂れる大庭と岡崎に対して,頼朝の御前で皮肉たっぷりに台詞を言ってのける場面があった。

 

・・・ということで,ようやく終わろうとしているが,最後に不名誉な最期を遂げたため悪役イメージが強い2人について。
工藤祐経は歌舞音曲に通じた粋人だったらしい。
静御前が鶴岡八幡の社前で舞った際,鼓を担当したのが祐経だった。
大番役で在京中に身につけたのだろうが,板東武者の中にあって,希な才能と言うべきであろう。
また,伊東祐親は娘の八重姫が流人時代の頼朝の子を淵に沈めさせたことで評判が悪いが,地元伊東市では今尚慕われており,祐親祭なるものが催されているようである。


「曾我物語」異聞-其之弐

2008年05月31日 21時00分31秒 | 歴史

曾我の仇討ち,或いは富士の裾野の仇討ちと呼ばれる建久4年5月28日の事件は,我が身を楯にして積年の父の敵を討った兄弟の忠孝の物語として伝えられてきた。


しかし,そんな単純な美談なのだろうか。
鎌倉幕府草創期は,権謀術数渦巻く時代でもある。
特に,勝利者として政権をとった北条氏は,多くの関東御家人たちを手にかけ失脚させることで,自分たちの権力を確固たるものにした。
だから,私は先ず北条時政が背後に居ると思った。
周知のように,時政の長女政子が頼朝に嫁し,次女(保子という名が伝わる)が頼朝弟阿野禅師全成(常盤御前の一番上の子今若丸。義経の兄)に嫁ぎ源家との結びつきにより,勢力を伸ばしてきた。
しかし,頼朝挙兵当初から大勢力だったように思われがちだが,北伊豆の韮山近辺の一土豪に過ぎなかったことは意外に知られていないと思う。
挙兵後の頼朝軍団で最も力があったのは,やはり上総介(平)広常だろう(挙兵の後梶原景時に謀殺される)。
後は,やはり上総の千葉一族,下野の小山一族と足利一族,そして相模の三浦一族だろう。伊豆で最も力があったのは前述の伊東一族であり,北条氏は無名の豪族であった。
だから,時政が背後で糸を引いて,仇討ちのどさくさに紛れて頼朝を誅し,政権奪取を企てた,と考えるのは妥当と思われた。
さらに,兄弟のうち弟である五郎時致(どうして兄が十郎で,弟が五郎なのか不明だが)は,その名から推測されるように伊東・工藤氏系の「祐」ではなく,北条氏系の「時」がつく。これは,時政が十郎の烏帽子親となって時の一時を与えたから,と言われる。
そう考えると,北条氏が兄弟の背後に居たであろうことは容易に想像できる。


ここでもう一度,北条氏について考えてみたい。
上述の通り,北伊豆の田方郡韮山郷北条(現伊豆の国市-ふざけた地名だ)に拠った一豪族である。
現在,伊豆箱根鉄道の長岡駅近辺に「南條」なる地名があるので,その北にある小高い守山の麓を「北條」と呼んだのだろう。
今は,韮山北条簡易郵便局とJA伊豆の国北条がかろうじてその名を留めている。
その北東には「江間」という知名が残る。
時政次男の義時は江間小四郎と称したので,分家して江間に住する予定だったのかもしれない。
さらに伊豆箱根鉄道を起点である三島に向けて北上すると,伊豆仁田という駅がある。
ここは,頼朝挙兵当時から北条氏と緊密な関係を持ち,やがて比企氏討滅の際に時政に粛正される仁田四郎忠常の所領だったのだろう。


その忠常が十郎を討っているということは,何を意味するのだろう。
祐経を討った十郎が,北条氏と緊密な関係の仁田忠常に討たれたということは,十郎が祐経の次に狙ったのは時政だったのではないだろうか。
こうなると,北条氏黒幕説は覆ってしまう・・・。
だいたい北条氏にとって,頼朝は(そして後の実朝も)大事な旗印である。
政子=頼朝ラインは北条氏の生命線である。
だから源家の政権を,頼朝を屠ることで北条氏が奪取する,というのはあまりに短絡的すぎる。
仮にそんなことをしたら,他の有力御家人に袋叩きに遭うに決まっている。
千葉介常胤,安達藤九郎盛長,三浦介義澄,梶原平三景時といった保元・平治の乱や治承・寿永の内乱を戦い抜いた有力御家人はまだまだ生き残っているのだ・・・。
北条氏が完全に政権を掌握したと思われるのは,朝廷の支配権を粉砕した承久の乱(1221年),或いは宿敵三浦一族を葬った宝治合戦(1247)以降と思われる。
それまでの間に,梶原,比企,平賀,畠山,稲毛,和田といった東国の有力御家人が,次々と北条氏によって粛正されていった訳だが,それはいずれも頼朝没後の13世紀になってからであり,この建久4(1193)年時点では,北条氏よりも勢力を持った御家人はまだまだ多い。


 ・・・ということで,北条氏黒幕説は,根底から覆ることになる。
では,一体誰が曾我兄弟を唆したのだろう。
そして,仇討ちにかこつけて頼朝と時政をも同時に葬り去るという幕府草創期の大陰謀の首謀者は一体誰なのだろう・・・。
残念ながら,今日も最後まで書けずに終わることになる・・・。
明日,果たして結論は出るのだろうか・・・


「曾我物語」異聞-其之壱

2008年05月29日 22時38分50秒 | 歴史

「仇討ち」というと真っ先に思い浮かべるのは何だろう・・・。
多分,「忠臣蔵」とか,「鍵屋の辻」あたりが有名だろう。
で,今回は建久4(1193)年5月28日にあった所謂「曾我の仇討ち」について述べてみたい。
以上の三つを,日本三大仇討ちというらしいが,根拠があるのかどうか・・・。
 で,一体どんな分量になるのか皆目見当が付かない。
できれば,要領よくまとめて短い文章で提示したいが,周知の通りそうした文才は持ち合わせていない。
さて,どうなることやら・・・。


仇討ちに至った経緯は以下の通りである。

 

話は,安元2(1176)年10月に遡る。
舞台は,伊豆半島北東部。
彼の地の豪族,工藤三郎祐経は所領のことで,叔父である伊東入道祐親を恨んでいた。
彼が大番役で在京中に,叔父の祐親入道が所領を横領したというのが理由である。
伊東氏は,東伊豆きっての大豪族。
とても祐経のかなう相手ではない。
そこで,祐経は隙あらば,と祐親入道を付け狙う。
ところが,祐親入道が狩りに出た際,2人の郎党を刺客に放って祐親入道を射殺しようとしたまでは良かったが,郎党の放った矢が当たったのは入道の嫡男である河津祐泰に当たる。
祐泰は死亡し,祐経の郎党2人はその場で斬られ,後には祐泰の妻の万劫御前と2人の男子,一萬丸と箱王が残された。


万劫御前は2人の子を伴って,西相模曾我郷の曾我祐信に再嫁する。
厳しい環境で育った2人の兄弟は,元服してそれぞれ曾我十郎祐成,曾我五郎時致と名乗る。
そうしている間に時代は大きく動く。
伊豆田方郡蛭ヶ小島に流されていた前右兵衛佐頼朝が東国の兵を糾合して挙兵。
頼朝勢は一度は敗れるも関東を席巻。
やがて仇敵の平氏を倒し,相州鎌倉に武家の府を定める。
祐経はいち早く頼朝の挙兵に応じ,有力の御家人になったのに対し,祐親入道は敵対したため養和元(1182)年に助命されたことを潔しとせず自害して果てた。


そして,時は満つる。
建久4年5月28日。
富士の裾野において,東国武士の一大軍事演習とも言うべき巻狩りが挙行される。
その夜,天気が急変する。
その雷雨の中を宿所に乱入した曾我兄弟は,見事に亡き父の仇である工藤祐経を寝所にて討ち果たす。
十郎はその場にて北伊豆の御家人仁田四郎忠常に討たれ,五郎は頼朝の寝所に討ち入ろうとして捕らえられる。
翌29日,五郎は頼朝の面前で仇討ちの経緯を述べ,頼朝は武士の鑑と五郎を讃え助命を考えたが,祐経の子(祐時か祐長?)の嘆願により斬首となった。

 

と,いうものである。


個人的には,源平合戦のサイドストーリー的な出来事故に,あまり興味は無かったのだが,こうして改めて事実を追っていくと,幾つかの疑問を感じる。


まず,兄弟の父河津祐泰の横死時点で,兄弟はそれぞれ数えで5歳・3歳である。
父の仇,と思うには幼すぎる。
ということは,兄弟を煽った者が居るのではないか。
母の万劫御前とも考えられるが,再嫁して生きる道を模索した女性が,我が子に仇討ちを望むとは考えにくい。


また,父の仇である工藤祐経を討ち取ったのは理解できるとしても,その後五郎は頼朝の寝所を襲おうとしたのである。
何故頼朝を襲撃しようとしたのだろう。
確かに,兄弟の祖父に当たる伊東祐親入道は頼朝によって自害した。
だから,頼朝をも狙った,というのが通説なのだが,この辺りも合点がゆかない。
もし頼朝を討ったりしたら,大混乱が生じる。
そうなると得をするのは誰なのか,そいつが兄弟の背後に居て仇討ちを煽ったのでは・・・と勘繰りたくなる。

 

・・・ということで,ようやくのってきたと思ったら,ワープロ2ページ分に達してしまった。
眠いし,頭に霞がかかってきたようなので,取り敢えず今日はここまでにしておく。
明日は仕事で飲むことになるので,次回の更新時に続きを述べてみたいと思う。
さて,曾我兄弟の背後に居たのは誰なのだろう・・・。


あの世へ行かぬ,行かせぬ六文銭

2008年05月27日 21時57分14秒 | 歴史

久々に歴史根多,それも真田根多でいってみようか・・・・。


真田氏所縁の地,松代と上田を訪れたのは,もう20年以上も昔,NHKの水曜時代劇で「真田太平記」をやっていた時期である。
松代城-即ち,千曲川を隔てて善光寺平を望む地に,対上杉対策として山本勘助が築城し,後に真田信之が入った-海津城のことであるが,町中が真田一色といった感じで,真田氏の家紋である六文銭を染め抜いた旗が林立していた。
また,信之の父である昌幸が,佐久平と善光寺平を結ぶ小県の狭隘地に建てた上田城のある上田市でも,地元タクシーの社章が六文銭であり,こちらも真田氏発祥の地だけあって負けていないという感じだった。


以前,「風林火山」根多で述べたが,真田氏の発祥は謎に包まれている。
一応,信濃の名族滋野氏流海野氏族とされ,源氏の祖である清和天皇(現在では陽成天皇が祖という説が有力だが)の皇子である貞純親王(六孫王と呼ばれた源経基父)の弟が祖,ではなかったたかと記憶している。
但し,真田を称したのは16世紀半ば以降の幸隆の代からであり,武田晴信を佐久・小県地方へ手引きし,信濃平定の尖兵となった。


六文銭の家紋は,どうもこの幸隆の代からのようだ。
六文銭-六連銭とも冥銭とも六紋連銭とも,或いは六道銭とも言うそうだが,何のことはない三途の川の渡し賃だそうだ。
以前は納棺の際,首に提げた袋に実際に六文をいれたそうだが,今は紙に印刷されたものを入れる。
つまり,合戦の際に死をも厭わぬ姿勢を示したということであろう。
幸隆-昌幸-信幸(関ヶ原以降は信之)と三代にわたって,真田の六連銭の征旗は甲信の野に翻った。


因みに,真田氏で最も有名な幸村(昌幸次子,信幸次弟,正しくは信繁)は,その面目を大いに施した大坂の役の際には六連銭の旗は用いなかったらしい。
やはり,関ヶ原以降東軍に付いた兄信之に遠慮してのことと思われる。
また,後に「井伊の赤備え」が有名になるが,これは武田軍中にあった真田の赤備えを模倣したのではないかと思われる。
大坂の役での真田は,旗も具足も赤備えであったという。
最後の一華ということで目立つ色彩にしたとも思われるし,飽くまでも最強だった武田軍団の中核を為した真田の矜恃が為したのかもしれない・・・。


でもって,なんでまた突然こんな根多を書いたかというと,こちらを見たからである。
上田市のナンバープレートが何と六連銭!!!
ご当地ナンバーの強みである。
私が上田市民なら,即原チャリを買うことだろう・・・。


名古屋大空襲

2008年05月14日 20時15分49秒 | 歴史

3月10日の東京大空襲の陰にあって,或いは我が地域では7月10日の仙台空襲に隠れてあまり目立たない感じだが,今日は名古屋大空襲の日なのである。


昭和20(1945)年5月14日,今日と同様5月にしては肌寒い日だったらしい。
サイパン等マリアナ諸島の各基地を飛び立ったB29の大編隊は,紀伊半島を縦断して琵琶湖上空で合流。
総数480機は,東京空襲の325機を大きく凌ぐ。
同年3月に硫黄島が陥落しているので,同島を飛び立ったB29や護衛戦闘機のP51Dも居たかも知れない。
制空権を奪われると,敵の重爆が本土上空をのうのうと飛んでいても全く手出しできないものなのだ・・・。
同日午前8時,市内北部への爆撃が始まり,やがて国宝名古屋城の天守閣が焼夷弾を受けて,2時間ほどで焼け落ちた。
往事の姿を留めていた貴重な文化財が呆気なく灰燼に帰した。
我が町でも,藩政時代の貴重な遺産であった大手門が消失している。
また,この空襲の2ヶ月前,東京大空襲の2日後の3月12日未明には,200機のB29による市の中心部を狙った爆撃があり,500人以上が犠牲になっている。
その後,3月19日,25日,4月7日にも同規模の空襲が行われ,2,000人以上の人命が失われた。


東京大空襲も,神戸や仙台の空襲も,否,日本本土への米軍の空襲は殆どが無差別爆撃である。
攻撃目標は軍需施設のみ,という戦争のルールは有色人種相手には全く守られなかったのである(ドイツでは同様のドレスデン空襲もあったが・・・)。
アメリカが我が国に対する無差別爆撃をどのようにして正当化したかについては,以前述べた。
勿論,詭弁意外の何者でもないのだが,補償要求とか,戦争責任追及とか,果ては極端な反米英教育とか,この国にはそうしたものが微塵も無いのだ。
でもって,自国民に対して謝罪せよ,と言って,米英中に頭を下げている。
つくづくお人好しな国民である・・・。
挙げ句の果てに,悪い侵略戦争を仕掛けた報いだ,と本気で言う者ので居るのだから何をか言わんや,である。


戦後63年がたとうとしている。
若者の中には,かつて米国と戦争したことさえ知らぬ者も居ると聞く(一体何を学んで来たんだ)。
かつて,我が国で絶対戦争は起きない,と主張する者が多かったが,周辺諸国がきな臭い今,何事も起きない,と誰が言い切れるのだろう・・・。
「もはや戦後ではない」
という言葉がかつてあったが,63年前の大戦で受けた傷は容易に癒えない人たちも多いことだろう。
したがって,
「戦後は未だ終わらない」
のである・・・。


歴史の動いた日・・・

2008年05月07日 23時05分50秒 | 歴史

毎年思うのだが,この5月7日という日は,歴史上の重要な出来事があった日である。


1333(元弘3)年には,足利高氏(2年後に尊氏と改名)の裏切りにより,鎌倉幕府の京都出先機関である六波羅探題(南北2ヶ所)が滅亡。
鎌倉幕府の断末魔となる。


1615(元和元)年には,以前述べたように,大坂夏の陣によって大坂城天守閣が焼け落ち,翌日豊臣家が滅亡する。
真田信繁(幸村)が家康をあと少しのところまで追い詰めたものの衆寡敵せず討死(自害とも)したのもこの日だし,東軍では徳川四天王の1人本多忠勝の次男忠朝が戦死している。


その90年程後の1703(元禄16)年には,その大坂で近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」が初演される。


さらに下って,1824年にはウィーンのケルントナー・トア劇場においてベートーヴェンの第9交響曲がベートーヴェンの自身の指揮によって初演されている。
殆ど聴力を失った状態での作曲・初演であり,聴衆の熱狂的な拍手・喝采もベートーヴェンの耳には届かなかったと思われる。


そして20世紀に入ると,1942(昭和17)年には珊瑚海海戦が行われる。
海戦史上初の機動部隊同士による戦いであり,日米ともに空母を失っている。
その3年後には,赤軍と連合軍が東西から挟み撃ちの形でベルリンが陥落し,ドイツが無条件降伏する。
まさに第二次世界大戦の分水嶺ともいうべき日だった。


その他,1251(建長3)年には,品川沖でかかった鮫の腹から観音像が出てきて,鮫頭観音が祭られた結果,その一帯を鮫洲と呼ぶようになった,とか,1875(明治8)年には「樺太・千島交換条約」が締結され,千島列島が日本領,樺太がロシア領に定められた,とか結構大きな出来事のあった日であった。


本来なら,いずれかの事象について史論のまねごとを展開すべきなのだが,一度大坂夏の陣を扱って以来頓挫している。
特に,樺太千島交換条約やベルリン陥落については旧ソ連問題と絡めて述べてみたい内容ではあるのだが・・・。