6.巨星墜つ
安倍氏の意外な強さに,頼義は舌を巻いたことだろう。
そこで一計を講ずる。
阿部一族の分断を図るのである。
安倍頼時の版図は,前にも述べたとおり,陸奥の奥六郡であるから,平泉町から奥州市(どうも苦手な地名だ。水沢市・江刺市と呼びたい・・・),北上市,花巻市,石鳥谷町,盛岡市といった現代の岩手県中部を押さえていることになる。
その北-つまり青森県三八上北地方から下北半島に至る本州の最果てには,安倍氏の傍系とも言うべき安倍富忠の領地だった。
頼義は,その富忠に調略の手を伸ばす。
頼義が,海上から5,000の兵を富忠の本拠たる仁土呂志(にとろし:現在の八戸付近か?)
に派遣し,奥六郡を挟撃せん,というのだ。
これを知った頼時は,2,000の兵を率いて北進する。
所詮は同族,戦の経験もないので2,000の大軍を見ればたちまち降伏するだろう・・・という油断があったかどうか・・・。
浪打峠(現一戸町)を越えんとした時,突如として富忠軍が奇襲を掛けてきたのだ。
約一刻の戦いの後,初戦は有利だった富忠軍だが,戦慣れした頼忠軍に押され四散した。しかし,頼時は背に流れ矢を受けていた。
これが致命傷となった。
もはや仁土呂志への進軍どころではない。
出羽からの援兵だった清原光則が頼忠に変わって指揮を執り,全軍を厨川の柵(盛岡市北部)へ戻した。
しかし,ここでは満足な治療も出来ず,そのまま本拠である衣川関まで頼時を移送しようとした。
頼時の容態は益々篤く,厨川から同行した頼時次子宗任は,父が衣川まで持たぬことを悟り,自身が守る鳥海柵(岩手県東磐井郡大東町)へ運ぶ。
嫡男貞任を始め,安倍氏一族が衣川から駆けつける。
おそらく経清も来たことだろう。
彼等の見守る中,北辺の王者は末に不安を思ったまま逝った・・・。
頼時の後を継いだのは,嫡子の貞任である。
勇猛無比と言われ,奥六郡一とも言うべき居丈夫にして猛将であったが,頼時の老成・老獪さには程遠いと思われた。
安倍軍にとって頼時の死は,それ程までに痛手であった。
専守防衛に徹し,決して衣川関から南進しなかった頼時と違って,血気盛んな貞任は,衣川を発し,南進して磐井郡へ入り,河崎柵(東磐井郡川崎村)・黄海柵(同藤沢町黄海)へ兵を入れた。
頼時の死は,源氏軍にとっては逆で,遂に訪れた絶好の機会であった。
頼義はその機を逃さず,天喜5(1057)年11月,密かに兵を動かす。
旧暦の11月であるから,陸奥は雪である。
折からの吹雪の中を,頼義軍2,000は磐井郡へ侵入を開始した。
目標は河崎柵。
吹雪がその動きを隠したであろうことは,十二分に想像できる。
頼義対貞任。
源氏と安倍氏が,遂に直接対決となる。
(続く)