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koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

「鳥海柵」

2009年11月30日 21時31分47秒 | 歴史
これも既に旧聞に属する話題かもしれないが,去る26日,岩手県金ヶ崎町にある城柵の遺跡が,11世紀中頃の前九年の役に於ける安倍氏の鳥海柵(とりみのさく)跡と断定された。


古代末期の奥州に於いて,安倍氏の存在が極めて大きいことは,手前味噌ながら昨年末の拙エントリで述べたところである。
朝廷による奥州支配が始まったのは,国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)による大和朝廷時代であり,7世紀には越後から出羽にかけての支配が強まり,やがて9世紀初頭には現在の岩手県中部まで朝廷の支配が及んだ(坂上田村麻呂と阿弖流爲はこの時代である)。
そして,安倍氏が俘囚の長として君臨するのは,その後のことである。
その安倍氏の遺跡が公的に断定されたのは今回が初めてとなる。
これは,私のような蝦夷及び俘囚の末裔にとって極めて大きな意味を持つ。


「11世紀の後半,東北地方では2回にわたって戦乱が起こった(前九年の役と後三年の役)後三年の役で源義家は武士を率いてこれをしずめた。このことにより源氏は武士の信望を集めて,大きな勢力をもつようになった。」(「新しい歴史教科書」市販本-扶桑社刊より)


と中学校の歴史教科書には書いてあるが(たまたま手元にあったのが,ひと頃物議を醸した教科書であっただけで,他意はない),一つ間違うと東北地方で蝦夷が政府に対して反乱を起こし,それを源氏が見事に鎮めて勢力を伸ばすに至ったと,とられそうである。
否,少なくても私は蝦夷の末裔であるにもかかわらずそう教わってきたし,時代がもっと新しくなって明治維新の際は,先進的な西日本の軍勢によって旧態然とした東北の諸藩は敗れた,と九州出身という教師に教わった(大きなお世話である)。


中央政府-つまり時の政権が正義であり,地方が反乱軍という論法は,あくまでも中央の人間の見方でしかないと思う。
もしそうならば,それこそ勝てば官軍となってしまう。
11世紀の奥州は,朝廷から認められた俘囚の長として安倍氏の支配が行われ,平和で安定した治世であった筈である。
安倍氏の財源は,何と言ってもこの地方特有の黄金であったと思う。
さらには東北の特産とも言うべき奥州馬も朝貢に使われた筈である。
やがて後三年の役を経て,源氏の勢力扶植を妨げた奥州藤原氏による黄金文化が咲き誇ることになった訳だが,その基盤はまさに安倍氏にあったと言っても差し支えないだろう。


その安倍氏の築いた城柵は,厨川柵や鳥海柵,河崎柵,嫗戸柵等岩手県内に12カ所有ったと言われるが,今まで鳥海柵と言われてきた史跡が安倍氏のものと断定されたのは,安倍氏の東北支配が確定的なものであることの大きな立証物件となると思う。
つまり,中央の支配が及ばぬところで(尤も安倍氏は中央に任命された後の在庁官人のようなものだったろうが)東北を支配した安倍氏の存在は,武士の発祥を語る上でも重要な存在となると思う。


鳥海柵を守備していたのは,安倍頼時の三男である鳥海三郎宗任であったという。
出羽の清原氏の増援によって勢力を盛り返した源氏によって,安倍氏は現在の盛岡市西部に位置する厨川柵に依って最後の一戦を試みるが敗れる。
宗任し降伏し,伊予~筑紫に配流され,現地に没したらしい(その子孫が安倍晋太郎-晋三だというから腹が立つ)。
私にとって,その安倍氏の時代に思いを馳せることのできる場所がまた一つ増えた。
昨日,現地説明会が行われたらしいが,是非立ち会いたかった・・・。
仕方がないので,こちらを見て我慢するか・・・。
日記@BlogRanking

1970.11.25

2009年11月25日 20時56分57秒 | 歴史
1970(昭和45)年11月25日夕刻。
子どもだった私は,夕刻いつものようにTVでアニメ(こんな単語は当時無かった)を見ようとスイッチを捻った。
ところが出てきた映像は,お目当てだったタツノコプロのアニメ(さてどの作品だったでしょう??)の再放送ではなく,騒然とした人混みだった。
奥に高い党のような建物が見えたが,それが陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地であったと知ったのは,それから随分たって物心ついてからである。
放送を見ているうちに,幼心にも何か重大な事件(それも良くないこと)が起こったことを理解した。
以下が,当時小学生だった私の記憶と印象である。


有名な作家である三島由紀夫とかいう人が仲間(楯の会という名前もこの時知った)と一緒に11時頃に自衛隊の本部に侵入。
自衛隊の偉い人を人質にして,我が国を自衛隊の力によって変えようとした。
しかし,それがかなわぬと察知し,持っていた日本刀で腹を切り,隣にいた同志が一刀のもとに首を刎ねた。
床には血が流れ,TVの白黒映像にもそれが映った・・・。
翌日の朝日新聞のトップ記事は,勿論その事件だった。
驚きべきことに,新聞には2個の生首が血だらけの床に転がっている写真がでかでかと掲載されていた。
当時,私の周囲の者は皆地方紙しかとっておらず,何日かたってから私が朝日新聞のその記事を見せると,同級生は皆驚愕した。
後に三島の遺体は解剖されたが,脳は正常だったという・・・。


とにかく衝撃的な事件だった。
三島の代表作である「仮面の告白」と「金閣寺」を読んだのは,その3年後だったが,どうしてもあのような最期を遂げた人物の作品,という印象を拭えなかった。
朝日新聞の朝刊に掲載された画像は,三島の割腹後真っ先に現場に飛び込んだ同社のカメラマンが撮影したものとも,部屋の様子が分からなかったのでカメラのみをドアから差し出してシャッターを切った結果あのように写ったとも言われているらしい。
私が見たのは,血の海の中に生首が2つ並んで置かれている画像で,目隠しをしていたように記憶しているが,鉢巻きだったのかもしれない。
一つは勿論三島の首で,今ひとつは同志で三島の介錯に失敗した森田正義のもの,と知ったのは後年のことである・・・。


浅学無知な私には三島の文学論を説くことも,三島の激烈な思想を云々することもできないが,とにかくこの事件を通して(そしてこの三島の死に懐疑的だった川端の1年半後の死を通して)人間というものの複雑さを強く感じた。
是非はともかくとして,国の行く末を案じて命を縮める者が居たという事実は幼心にも衝撃以外の何者でもなかった・・・。
後に読んだ「潮騒」や「伊豆の踊子」のような作品を書いた作家が・・・という思いもあったし,これらの作品は三島や川端のほんの一面でしかないことも思ったものだった・・・。


・・・ということで,根多切れの昨今,飛びついてみたものの何も書けなかった・・・(泣)。
文学や思想を論じるのは無学すぎる自分を露呈して終わってしまった・・・。

日記@BlogRanking

歴史教科書がブーム

2009年10月13日 20時33分46秒 | 歴史

高校の歴史教科書が人気だそうだ。
ここのところの歴史ブームが追い風となって,所謂「歴女」の方々を初めとする若者が購買層となっているらしい。


結論から言えば喜ばしいことと思う。
一般常識・教養として通史を学ぶに高校の日本史・世界史の教科書はコンパクトにまとめてあって最適と言えるかもしれない。
現に私も随分過去のものとなった高校の二冊の歴史の教科書(Y出版刊)は後生大事に取ってある。
特に,苦手な西洋史を文字通り繙く際に重宝している。
しかし,高校の教科書を一般向きに販売しているとは知らなかった。
以前話題となった例の「新しい歴史教科書をつくる会」の中学教科書が売られているのを買ってみたことがあったが(出版元の扶桑社が一昨年関係解消を通達し,今は書店売りは無いようだ),高校の教科書が書店で売られているとは知らなかった。


通史は大切である。
特に,小学校6年になる上の子の社会科の教科書を見るにつけ,その念を強くする。
劇的な歴史事象の数々は,多くの要因の連鎖によって起こり得たものであるから,極論すれば通史を知らずして正しい歴史認識は有り得ない,とも言えるかもしれない。
例えば,60数年前のあの不幸な戦争だって,列強によるアジアの植民地支配という帝国主義が引き起こした歪みと考えられる。
遡ると,15世紀からの大航海時代に始まるとも言えるだろうし,さらにそれらを誘発したのがオスマン帝国の隆盛とその前のローマの全盛・・・と連鎖していく。
その歴史の連鎖があるからこそ,我々が知っている歴史的事象は必然的に起こり得たものなのである。


以前から私が好きな,というか興味を持ち続けている時代が南北朝である。
小学校の教科書からは記述が消えて久しいが,これ程人が人らしく生き生きと活躍した時代もそうそう無いと思うので残念な限りである。
元寇以降の封建制崩壊と,それの反動のような鎌倉幕府の得宗専制。
そうした時代に起こるべくして起こった「悪党」の蟠踞,武士の世を延喜・天暦の時代に・・・と考えたであろう後醍醐帝の思潮も武家社会への反動と考えれば必然だし,結局は武士の府であった鎌倉を滅ぼすのもまた鎌倉武士,という一見矛盾と皮肉も時代の流れを考えると必然だし,支配力の弱い守護領国制を採らざるを得なかった室町幕府の脆弱さが応仁・文明の大乱を呼び,戦国時代へとなだれ込んでいったのもまた必然なのである。
こうした時代だからこそ,それぞれの立場の人物たちが実に魅力的に見える・・・。


・・・ということで,市販されている歴史教科書がどんなものであるか,読んでみたくなった。
私の時代とどう変わっているか,問題とされる時代の記述はどうなのか,興味は尽きない・・・。


桔梗紋

2009年07月11日 23時35分36秒 | 歴史

7月を迎えたのを契機に,テンプレートを替えた。
夏らしく,青を基調とした桔梗の花がデザインされたもので,何となく涼しげである。


花を愛でる高尚な趣味など絶無の私が言うのもなんだが,桔梗は夏を代表する花だ。
子どもの頃,夏休みになると母の実家のある山村に行き,自然が充ち満ちた中を山野を走り回った時,山道には必ず桔梗が自生していた。
祖母に,桔梗はお盆の花だから摘んでくるように,と頼まれたこともあった。


桔梗の紋所,と言えば,思い出されるのは,先ず明智光秀だ。
桔梗紋は,源頼光を祖とする摂津源氏の土岐一族の紋所である。
但し,今日述べるのは光秀についてではない。
甥とされる左馬介秀満(三宅弥平次),或いは従兄弟とされる左馬介光春と,その子孫とされる人物に関してである。


実は厄介なことに,この光秀の甥と従兄弟の二人の明智姓の武将,どうやら同一視されることが多いらしい・・・というより,いずれも左馬介を称していることから同一人物であるとも,別人であるとも言われ,未だに確固たる資料が無いというのが実際だそうである。いずれも明智家では家老格だったようだし,福知山城代を務めてもいるらしい。
ただ,「明智軍記」をはじめとする史料には,秀満の名はあっても光春の名は載っていないらしく,秀満の方の実在は確かなようである。
ここでは,どちらと決めつけるわけにもいかないので,共通の名乗りである明智左馬介と記して以下の内容に入っていきたい。


左馬介のエピソードで名高いのは,何と言ってもその生涯の最後を飾る「湖水渡り」の伝承であろう。
天正10(1582)年6月の本能寺の変では,先鋒として本能寺を襲撃。
その後,予想外の早さで秀吉が山陽道を大返ししてきた為,光秀の天下は山城大山崎の戦いに潰えた訳だが,左馬介はこの時後詰めとして江州湖西の坂本城にいたとも,湖東の安土城にいたとも言われる。
一説では,打出浜(大津市)にて堀久太郎の軍と戦って敗れ,坂本城に退去した後,光秀妻子を刺した後に自害したとされる。
しかし,それでは湖水渡りの伝承は成り立たない。
だから,やはり安土城を守備していたというのが真実であると思いたい・・・。
そして,安土城を退去の際に焼いたのも彼ではないかという説もあるが(或いは信長次男の信雄),どんなものだろう・・・。
湖水を渡るような壮挙に出る者が,そんなことをするとは考えられないと思うのだが・・・。
いずれにしても,伝承によると左馬介は,最後の残務処理をするべく愛馬を琵琶湖に入れた。
ただ,安土城下からすぐ湖に入れたとしても,坂本まではとんでもない距離である(30kmはある)。
しかも現在の琵琶湖大橋の下をくぐる,つまり琵琶湖南部を北東から南西に縦断する形になるので,如何に左馬介が水馬の名手だったとしてもほぼ不可能であろう。
だから考えられるのは,安土城で湖に入って対岸の比良山麓・蓬莱山麓で上陸したか(約15km弱),現在の草津市付近まで陸路を南下して,最短距離(約4.5km)のいずれかではないだろうか・・・。
いずれにしても,秀吉軍が東海道を抑えていた可能性が高いので,陸路は困難だったのだろう。
ただ,左馬介が着くまで坂本城は秀吉軍に囲まれた様子はないので,湖西を南下した可能性は有るかもしれない・・・。
・・・と思って調べたら,大津市の打出浜で馬を湖に入れ,唐崎に上陸したとあった。
つまり,安土から陸路を随分南下してきたことになる。
距離にして3km少しというところか・・・。
行く手を阻んだのは,同じく堀久太郎だったようだ・・・。


明智一族の墓所は,比叡山麓の西教寺にある。
しかし,その中に秀満の墓碑は無いらしい。
また,坂本城で討死した明智一族の記録も無いことから,秀満は坂本城から脱出したのではないか,とも言われているらしい・・・。


桔梗紋で思い出されるもう一人は坂本竜馬である。
これまた伝承であるが,明智左馬介の庶子である太郎五郎が坂本城を脱出して土佐に流れ着いて土着し,故地を偲んで坂本姓を名乗り,その子孫が竜馬だというのである。
竜馬は長曽我部時代の一領具足の子孫ということになっているので,太郎五郎が土佐に着いたときは,秀吉の四国征伐前で,まだ長曽我部元親が虎視眈々と四国を睥睨していた時代か・・・などと考えると,少し救われた気持ちになる・・・。


1989年6月4日・・・

2009年06月04日 20時38分13秒 | 歴史

「アジアの東と西から慟哭の声があがった」


20年前の1989(平成元)年6月5日付の新聞記事に,そんな意味の活字が踊った。
東とは勿論,第二次天安門事件である。
え゛,第二次??
ということは,天安門事件は二度有ったのか・・・。
となるが,実は二度有ったのである。
第一次は1976年4月5日,同年1月に逝去した周恩来追悼のために飾られた花輪が北京市当局が撤去。
それを見て激昂した民衆が政府によって暴力的に鎮圧された。
今となっては,第二次天安門事件があまりに知られているため,こちらを思い出す方は多くないだろう。


第二次天安門事件に関しては今更述べるまでもないだろう。
とにかく衝撃的な出来事だった。
民主化を要求する学生を中心とするデモ隊に対して,人民解放軍が無差別に発砲。
さらには車両で轢き殺す等,改めて当局の恐ろしさを知らしめた事件であった。
その背景には,胡耀邦と小平という自由化・保守派の対立があり,失脚して軟禁状態にあった胡耀邦が同年4月に逝去すると,民主化推進派の学生たちによるデモや集会が起こり,それが6月4日の第二次天安門事件への伏線となったと考えられる。


以来20年。
開放経済による都市部の近代化や,国威を賭けた北京五輪の誘致もあって,中国は経済大国となり発展を遂げたと思われている。
しかし,果たして本当にそうなのだろうか・・・。
都市部とそれ以外の地域の格差は今尚大きい。
昨年春のチベット自治区に対する弾圧は記憶に新しいし,新疆ウィグル自治区も同様。
我が国も欧米も世界最大の人口を誇る中国は最高の市場であるから,当局に臍を曲げられては商売あがったりとなる。
故に,はっきりとものを言えぬ状態が続いているのではないだろうか・・・。
北京で五輪が開催されたり,上海でF1が行われるのは,決して恒久平和とか世界の融和の為ではない。
10億を超える人口を抱える市場に対する「おいしさ」からである。
本当の意味での民主化からはほど遠いと思うのは私だけだろうか・・・。
真の民主化を国家が推し進めない限り,第三第四の天安門事件は十分に起こりうる可能性が有ろう・・・。


そして,アジアの西の慟哭とは・・・。
天安門で民衆が血に染まる前日に死去したイランの指導者,ホメイニの訃報に対してである。
イラン・イスラム革命から10年。
天安門広場での惨劇に肺腑をえぐられるような不快感を持った私の心に,さらに拍車をかけるような出来事であった・・・。
勿論,私はシーア派の回教徒でもなければ,無条件でイラン革命を支持する者でもない。
ただ,我が国の年号が変わり,個人的に新しい生活が始まったばかりのこの時期,忘れ得ぬ事件として,このアジアの東西二つのことが記憶されたのであった・・・。


2009年06月01日 20時40分45秒 | 歴史

昨日の「天地人」で,兼続が真田幸村に,
「幸村」
と呼びかける場面がありました。
それに違和感を感じたことを契機に,このエントリを立ち上げます。
多分考証の甘さから,無知であることを露呈すると思われますが,例によって物好きの戯言と,広い心で看過していただけると有り難いです・・・。


例えば,真田幸村(正しくは信繁)の場合,姓が真田で諱(いみな)が幸村となります。
諱=忌み名でもあったようで,古代には諱を呼ぶことは失礼に当たり,滅多に呼ばないようになっていたそうです。
だから,私が昨日述べたように春日山で上杉家の人質となっていた時代,幸村は源二郎と呼ばれていたと予想します。
やがて豊臣政権の下,秀吉にその才を愛された幸村は左衛門佐に任官し(律令時代の太政官制度が残っていたということでしょう),以降は左衛門佐と呼ばれることになります。
このように普段の呼称を,諱に対して字(あざな)といいます。
だから,兼続を兼続,幸村を幸村と呼ぶのはおかしいということになります。
このあたり,昨日私が真田関連で述べた「真田太平記」(85-86)はしっかりと考証されていました。
つまり,きちんと字で呼んでいたのです。


真田昌幸→安房守・房州
真田信之→源三郎→伊豆守・豆州
真田幸村(信繁)→源二郎・左衛門佐


と,なる訳です。


ですから,後世の我々が言うような呼称は,当時使われていなかったということになります。
では今日は,ここから有名な武将たちの主な字を推測してみます。
果たして当たっているかどうか・・・,かなり間違うことも予想されますので,訂正していただけると有り難いです。


平清盛→平太→太宰大弐→播磨守→浄海入道
源頼朝→佐殿(前右兵衛佐-さきのうひょうえのすけ,だったことから)→上様
北条政子→御台所・御台様→尼御台
楠木正成→多聞丸→多聞兵衛→河内守・摂津守?
新田義貞→小太郎→左馬介→上野介→播磨守・越後守→左衛門督?
足利尊氏→又太郎→左兵衛督→武蔵守→権大納言→上様
武田信玄→勝千代→太郎→大膳大夫→信玄入道
上杉謙信→虎千代→平三→謙信入道
織田信長→吉法師→三郎→上総介→弾正忠→右府
豊臣秀吉→日吉丸→藤吉郎→筑前守→殿下・関白殿下
徳川家康→竹千代→次郎三郎→三河守→江戸大納言→上様
前田利家→犬千代→孫四郎→又左衛門→越中少将→筑前守
山内一豊→辰之助→伊右衛門→対馬守・対州→土佐守
石田三成→佐吉→治部少
直江兼続→与六→山城守・城州
伊達政宗→梵天丸→藤次郎→美作守→左京大夫→羽柴伊達侍従→陸奥守  その他たくさん


・・・といった感じですが,最初は幼名が字ということになるようです。
ただ,武士の場合,通称は「殿」とか「御屋形様」,将軍になると「上様」,「公方様」ということでしょう・・・。


傾(かぶ)いて御免

2009年05月16日 23時59分59秒 | 歴史

前田利貞という武将をご存知だろうか。
前田利家の間違いじゃないか,或いは前田利家の親類縁者ではないか,と思った方は正解である。
前田慶次郎-と書けば,あの傾奇(かぶき)者のことかと,ご存知の方も多いことだろう。
何せ,利大(としひろ),利太・利卓(としたか),利益(とします)等,幾つもの諱を持っているために,一般的には慶次郎の呼称が多く使われるようだし,何と言っても故隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」と,それを原作とした原哲夫の「花の慶次-雲のかなたに」の影響が大きいのだろう。
それでもって,最近は歴女なるおねいさん方が激増中だそうで,「戦国無双」とか「戦国BASARA」といった格ゲーの影響も大きいらしい。
著書や書状も残っているので,間違いなく実在した人物なのだが,彼の行状や生涯のエピソードは,上記の作品に負うところが大きいと思われる。


確かに魅力的な人物である。
滝川一益の一族に生まれ(父は今尚確定していない),前田利家の長兄である利久の猶子となった経緯だけでも尋常ならざるものがあるし,前田家では家老クラスだったと思われるにも関わらず,天正末期~文禄年間に出奔している(しかも妻子-妻は前田利家の次兄安勝娘-を置いて)。
当主の利家自体が,信長の荒小姓上がりで,若い頃は槍の又左と称された程の武辺で,傾奇者と呼ばれていたくらいなので,前田家は武門として織田家中でも聞こえていただろうが,慶次郎の武勇はその中でも際立っていたらしい。
その後,京都において悠々自適の浪人暮らしをしつつ,里村紹巴や細川幽齋,古田織部といった当時の第一級の文化人と交流。
そして,かの直江山城守兼続の知遇で会津120万石の太守上杉景勝に仕官することになる。関ヶ原の役では,兼続とともに長谷堂城の合戦に参加する。
その後の余生は全く不明で,米沢に没したとも前田家から捨て扶持を貰ったのか大和で没したとも言われる。
一種の戦国自由人ともいうべき人生で,雑賀孫市とも被る気もする・・・。

 

私が読んだのは,上記「一夢庵風流記」と村上元三の「戦国風流」の二作で,あとは「花の慶次」を断片的に読んだだけである。
で,確か「花の慶次」の小田原の役の場面で,当代の傾奇者たちが一堂に会し,箱根の湯(底倉だったか?)に入るシーンがあったと記憶している。
メンバーは,慶次郎を筆頭に,兼続と真田幸村と伊達政宗で,後は誰だったか覚えていない。
可能性がありそうなのは,後藤又兵衛とか雑賀孫市とか渡辺勘兵衛・・・,後は誰だろう・・・。
で,ごつい傾奇者たちが風呂に入りながら「名刀鑑定」したのではなかっただろうか・・・(記憶は定かでない)。
山岡荘八の「伊達政宗」では,政宗が湯の傍の石の上にいた青大将に,自分の鎌首を見せる場面があったのだが・・・。


その慶次郎が,関ヶ原の役後上杉家の米沢移封に伴って京から米沢に行く際に見聞した道中の風物や自作の和歌を記したのが「前田慶次道中日記」で,米沢市内に現存している。
こちらを見ると内容が概観できるのだが,道中のエピソードがなかなかおもしろく書かれている。
朝鮮人の親子を助けで美濃の菩提山城(かつて竹中半兵衛の城だった)に預けたり,木曽路では怪しげなな女と遭ったり・・・と,ふむふむと納得しつつ読んだ。
傾寄者とは,傾いた者-つまり今で言えば人生や世間に対して斜に構えた洒落っ気のある者,といった意味であろうが,慶次郎は今のとっぽい兄ちゃんたちとは違って,硬骨な武辺者にして第一級の教養人でもあった。
それが,文中からも伺える。
・・・で,この「前田慶次道中日記」が,原文+訳+旅程図で発売されたのが8年前だそうだが,今年1月の再版以来あっという間に完売したという。
今月に1500部の増刷となるらしいが,どうやら買ったのは「歴女」のおねいさま方らしい・・・。


世の中変わったものである・・・。
ま,契機や理由はとうあれ,歴史に興味を持つ方々が(ましておねいさん方が)増えるのは喜ばしいことだが・・・。
で,毎度毎度の大きなお世話様をしてしまおう。


前田慶次郎利益(どうやらこの呼称が一番一般的なようだ)の生年は,天文2(1533)年とも同10(1541)年とも言われている。
ということは,上記作品で情けない体制順応派の年寄りとして描かれた利家よりも年上,若しくは同年代ということになる。
だから末森城攻防戦や前田家を出奔した時は完全に中年であったし,長谷堂城の戦いの時は老境に入っていた。
コミック版は傾いた若者として描かれていたので,そのイメージと史実は大きく違うと思う。
因みに前田家出奔の際に,慶次郎の理想の女性として描かれていた利家夫人於松の方(芳春院)と遂にえっちしてしまう描写があったが,フィクションだろう・・・。


さて,せっかくなので今から上記二作を書架から引っ張り出してみようか・・・。
前田慶次郎という人物を再認識するとともに,読んだ時代を懐かしく思い出すであろうから・・・。


(投稿ボタンを押したら,パスワード認証を求められ,再ログインしたら当エントリのデータをすべて失った。リンクは1つだけだったし,全文はワープロからのコピペだつたから最悪の事態は避け得たが,ひどい話である。サイトを開いた際に認証求めろよな・・・)


黄金楽土-其之壱拾四

2008年12月20日 00時19分00秒 | 歴史

        14.黄金楽土


朝廷が,義家に対して「私闘」と見なし,論功行賞を行わなかったのは何故だろう。
一つには,以前から言われてきたように,源氏の勢力拡大を抑えるため,ということがある。
確かに,10世紀に承平の乱を(運良く)平定した六孫王経基に始まり,多田満仲-河内守頼信-陸奥守頼義と,武門の統領として君臨してきたから,朝廷としてはこれを抑える必要があったということである。
・・・で,拙文では,源氏について言及することは本論から大きく逸脱する危険性があるのだが,11世紀末の政情を語る上で朝廷と源氏のことは極めて重要と考えられるので敢えて述べてみたい。


今まで朝廷が・・・と述べてはきたが,11世紀に実質中央を支配したのは言うまでもなく摂関家とも呼ばれる藤原氏である。
特に,道長-頼通と続く時期が全盛とされるが,後三年の役の時期は,嫡子に恵まれなかった頼通の代が終わり,さらに後三条天皇による延久の荘園整理令が出され,摂関家の基盤である寄進地系荘園が廃され,さらにその子である白河天皇による親政の真っ最中である。
摂関家の家人として勢力を伸ばしてきた源氏にとっては大打撃であった。
故に,後三年の役に際して,朝廷が冷淡な態度を取ったのは当然,というか必然であった。
院政への過渡期に当たるこの時期,既に12世紀前半の源氏不遇の時代は予兆されていたのである。


そうした時期,奥六郡のみならず出羽をも勢力下に置くことになった清衡によって,奥州は着々と独立国家としての体制が整えられていったといえる。
ただ,安倍氏の統治と清衡のそれが根本的に異なるのは,清衡は積極的に中央と関わりを持ったという点である。
奥州の特産は,何と言っても黄金と馬である。
それを基盤に,中央との繋がりを密にし(義家を頼って上洛もしている),父や叔父・祖父が果たし得なかった奥羽独立を推進した清衡の慧眼はさすがとしか言いようがない。


そして,清衡が奥六郡を出で,さらに父祖が戦った衣川の関を出でて,平泉に本拠を構えたのは,康和元(1099)年のことであった。
清衡の統治の根底にあったのは,何と言っても平和国家の構想であった。
不幸な生い立ちや,打ち続く戦乱が彼の思潮を形成していったのだろうし,末法思想が広まる時勢に,仏法による鎮護国家を目指したのは必然だったとも言えよう。
そして,その平泉の北方の小高い関山に,荘厳極まりない中尊寺を建立。
まさにこの世の楽土とも言うべき地を現出せしめたのである。


その中尊寺の境内奥,黄金に彩られし金色堂の須見壇に,清衡は今も眠っている。
自らが成し遂げた黄金王国は,その後100年にわたって院政と平氏の治世にも独立を保った。
その後の奥州藤原氏に関しては,興が向けば一筆書くやもしれないが,今のところ私の関心は,経清-清衡父子で留まったままである。
約二週間にわたる長大エントリに少しでも目をとめてくださった方々に唯々感謝である。
これから暫く歴史根多に困るかも知れないが,懲りずに書いていきたい・・・。

 


◎参考文献
「藤原四代」-奥州に煌めいた黄金の炎(歴史群像シリーズ34)学習研究社刊
「中世奥羽の世界」入間田宣男・大石直正編 東京大学出版会UP選書
「蝦夷の末裔」-前九年・後三年の役の実像 高橋崇著 中公新書1041
「奥州藤原氏五代」大矢邦宣著 河出書房新社刊
「炎立つ」壱・北の埋み火,弐・燃える北天,参・空への炎,四・冥き稲妻 高橋克彦著 講談社文庫
マンガ「奥州平泉藤原4代」①清衡-夢の在り処 まんが・ささきあつし 監修。大石直正  草土文化刊
「奥州藤原の郷」江刺市刊


黄金楽土-其之壱拾参

2008年12月18日 22時04分53秒 | 歴史

      13.後三年役終結


清衡・家衡兄弟を分裂させれば,当然得をするのは義家である。
願わくは共倒れになれば一挙両得だが,取り敢えずは一方を潰しておかねばなるまい。
清衡と組んだ義家は,沼柵(現秋田県横手市雄物川町)に籠もる家衡を攻める。おそらく,応徳3(1086)年の暮れと思われるが,雄物川と文字通り沼沢に囲まれた沼柵を清衡も義家も攻め倦んだ。
加えて,折からの風雪により,寄せ手は大打撃を受けた。
義家が意識朦朧としていた,という記録が残っているから,流感にでも罹ったのだろうか・・・。
馬肉を食って急場を凌いだのも,この時のことである。
他の清原一族は,どちらに味方したのだろうか。
義家が攻め倦んだということは,おそらくかなりの数の軍勢が家衡に付いていたということだろうか。
義家の大義名分は,奥六郡分割という政策への反抗-つまり中央への反乱ということだろうが,出羽は本来清原氏の本拠地である。
故に苦戦したのだろうし,奥六郡の分割統治を快く思わない者が少なからず居たと予想されよう。
その後やむなく,清衡と義家は陸奥に戻る。
軍勢を立て直して再び出羽攻め・・・となるのだが,その間に家衡と叔父の武衡は,沼柵以上の要害とされる金沢柵に移ることになる。 


清衡と義家が金沢柵に攻め寄せたのは,翌寛治元年(1087年)9月のことという。
半年以上を準備に費やしての出陣だったが,果たして如何ほどの兵が集まったのか疑問である。
義家の陸奥守としての任期は来年で終わる。
父頼義の時と同様,かなりの焦りが義家にあったことだろう。
義家弟新羅三郎義光が,朝廷の許可を得ず官を投げ打って兄の元に馳せ参じた,という故事はこの時である。
よく義経の黄瀬川参陣と合わせて語られるエピソードである。
それによって義家軍は勇躍敵を討った,とされるが,実はそんな甘いものではなかったらしい。
金沢柵はさすがに堅固で,いくら攻めかけてもなかなか落ちない。
どうも,頼義といい義家といい源氏の名将と讃えられてきたこの父子は,伝承とは裏腹に合戦は得意ではないように思われてならない・・・。
ただ,有名な雁行の陣の故事もこの時だが,興味深いことに義家軍の部将に,三浦介為次と鎌倉権五郎景正の名を見ることができる。
三浦氏は,その名の通り三浦半島を本拠に栄えた平姓の一族だし,鎌倉氏は同様の平姓だが,子孫は大庭・梶原といった諸氏を輩出した。
つまりもっと下った源平争乱の時代,頼朝軍の中核を成した板東の武士たちが,既に源氏の家人となっているのだ。
鎌倉権五郎が目を矢で射られた際に,三浦介が顔に足をかけて矢を抜こうとして怒った,というのもこの時であろう・・・。
義家が総大将で義光が副将,おそらく清衡は参謀格だったのだろうか・・・。
何となく父経清の安倍氏での位置づけを思わせる。


局面が動いたのは,またしても登場の吉彦秀武によってである。
秀武は,義家と清衡に兵糧攻めを説いた。
金沢柵を厚囲し,糧食の尽きるのを待つ-というと如何にも簡単そうだが,義家には前年,沼柵での失敗例がある。
つまり,柵内の糧食が尽きる前に冬将軍が到来,となれば又しても撤退・敗戦である。
しかし,同年11月14日,金沢柵は落ちる。
柵に火を放ち,全員が逃げ出してきたが,義家はすべてを容赦なく斬った。
家衡は変装して逃げようとしたところを捕らえられた。
清衡は助命を願っただろうか・・・。
それとも妻子の仇,ということで,瞬殺したのだろうか・・・。
この兄弟の母である安倍貞任の妹は存生中と思われる。
結果的に家衡は斬られるのであるが,このあたりの清衡の心中はいかばかりだったのだろう・・・。


かくして後三年の戦いは,家衡の最期をもって終わりを告げる。
義家の盛名いよいよ高く,その月のうちに顛末を朝廷に奏上したと思われるが,周知の通り義家に下されたのは,「私戦」ということで論功行賞はおろか陸奥守解任というまさに青天の霹靂であった・・・。
そして只一人,安倍氏と清原氏という奥羽の支配者の血を引く者が嫡宗として残された。父方の姓に改めた藤原清衡その人である・・・。


                             (続く)


黄金楽土-其之壱拾弐

2008年12月17日 21時23分40秒 | 歴史

         12.兄弟相克 


それにしても,儚いというか,呆気ないというか,真衡の生年を示す資料がないので,正確な年齢は分からないが,おそらく30代の壮年期であろう。
そうした時期に頓死とは,穏やかではない。
当然のことながら暗殺が考えられると云うことで,一番疑わしいのは何と言っても陸奥に野心を持つ義家であろう。
真衡を誅し,その養子であり妹婿の海道小太郎成衡を後継ぎに据えると,自分が清原氏を動かすことが出来るというものだ。
しかし,その後成衡は全く歴史から姿を消す。
おそらく,義家から利用価値無し,ということで,引導を渡されたからと思われるが,妻である義家の妹ともどもどうなったのか皆目分からない。
・・・ということは,清衡・家衡に肩入れすることにしたということだろうか・・・。
現に,真衡没後,清衡と家衡は義家に降伏する。
清原一族を一気に屠る絶好の機会だったが,義家はそれをせず,奥六郡の分割統治を,この兄弟に命じる。
兄清衡が肥沃な南三郡(胆沢,江刺,和賀)を領し,弟家衡は北三郡(岩手,稗貫,紫波)を領することになったのだが,当然のことながら家衡は不満であった。
生産力の高い南三郡に対し,北のそれは自然条件が厳しい。
やがてこの異父兄弟がぶつかることを,義家は意図的に煽ったのだろうか・・・。
そして,兄清衡を悉く贔屓したのは,何故だったのだろう。
周知の通り,義家父頼義は,清衡の父経清の仇である。
にも関わらず,その後も義家は清衡の肩を持つのである。
一説には,義家は清衡父経清を武人として尊敬していたので,息子の清衡に味方した,とも言われるが,義家はもっと現実的な男だ。
そんな情に流されるような男ではない。
逆に考えれば,清衡が義家を利用したという見方もできようが,果たしてどうなのだろう・・・。
家衡としても,義家に対して不満を訴えたであろうが,おそらく梨の礫だったことだろう。我慢の限界を感じたのか,家衡は突如として清衡舘を襲撃するという暴挙に出る。
応徳3(1086)年のことというから,最初の戦から3年が経過していた。
事前に察知していたのか,運良く外出中だったからか,清衡は物陰に身を潜めて難を逃れたが,清衡の妻子は哀れなことに犠牲になった。
父親が異なるとはいえ,兄の妻子を手に掛けるなど,尋常ならざる状況である。
家衡は,短期間のうちに清衡をそこまで憎むようになっていたのだろうか・・・。
或いは,誰かが清衡のことを讒訴したのだろうか・・・。
・・・とすると,そうしたことをして実を取るのは誰が有力だろう・・・。


後三年の役前半は,真衡vs清衡・家衡の争い,そして後半は家衡vs清衡+義家となっていく。
父頼義が10年以上かけても果たし得なかった陸奥の地が,義家のすぐ目前まで迫っていた・・・。
後半戦の行方や如何に・・・。


                            (続く)


黄金楽土-其之壱拾壱

2008年12月16日 20時53分22秒 | 歴史

            11.後三年役


叔父と甥の関係にある吉彦秀武と清原真衡の内紛は,思わぬ広がりを見せる。
秀武の態度に怒った真衡は兵を起こし出羽を攻めんとするが,秀武は清衡・真衡兄弟に使者を送り,真衡の背後を襲うよう指示する。
すぐに清衡たちが呼応したところをみると,やはりこの兄弟たちにはお互いを快く思わぬ溝が存在したと云うことだろう。
清衡・家衡たちは,南下し真衡が居たと思われる白鳥村を焼く。
この時期の清衡が住んでいたのは,おそらく父経清も住んだと思われる豊田舘(奥州市江刺区)と思われるが,白鳥柵のある白鳥村(奥州市前沢区)は,南に20km程の地点だろうか・・・。
しかし,このことを察知した真衡は出羽への途次,突然引き返す。
おそらく須川温泉から小安温泉へと抜ける栗駒山越えの予定だったと思われるが,それを知った清衡・家衡は軍を返した。


そうしているうちに大異変が出来する。
何と,源氏の長となった源義家が陸奥守に就任。
偶然にしてはできすぎている-というか,義家が書いたシナリオに沿って話が動いているような気がする。
それに,義家は真衡の後継となった海道小太郎成衡の義兄なのである。
陸奥守補任を狙って,前もって布石を打っておくことは,義家にとって造作のないことに違いない。
これを知った真衡は,もはや合戦どころではない。
出羽を打ち捨てるようにして国府多賀城へ赴き,三日三晩にわたって義家を接待した。
これを三日厨というらしい。
義家というバックボーンを得た真衡は,勇躍出羽へ向かう。
その隙を,再び清衡と家衡が突くが,今度は義家の手勢が真衡に味方したため,清衡等は窮地に陥る。
しかし,ここでまたいへんが起こる。
出羽へ出兵中の真衡が,俄に病を得て卒去したというのだ。
あまりに出来すぎていると思うのは,私だけではあるまい。
この事件をきっかけに,後三年の役は後半戦へ向かう。
清衡・家衡兄弟はどうなるのだろう。
そして,再び奥州に介入した源氏の思惑は・・・。
次回,急展開とともに,一気に終わりまで行くことが出来るだろうか・・・。
伝豊田舘跡

                  (続く)


黄金楽土-其之拾

2008年12月15日 21時25分57秒 | 歴史

     10.後三年前夜


前九年の戦いから20年。
その間に,清原氏は武則-武貞-真衡と,急速に世代交代が進んだ。
武則は鎮守府将軍任官直後に没し,武貞も短命だったと思われる。
武貞長子真衡が家督を継ぎ,やがて後三年の合戦が始まるまでの間,清衡とその母がどのような思いで日々を過ごしたかは想像するしかないが,非業の最期を遂げた父経清のことを忘れることはなく,臥薪嘗胆を誓ったものであったことだろう。
母は清原の人となり,清衡も決して目立たず,波風立てぬように暮らしていたのだろう。
安倍氏の往事を知る人々にとっても,昔日の栄光は次第に過去のものとして,風化していくように思われたかも知れない。


歴史の歯車が動き出したのは,永保3(1083)年のことである。
既に清衡は26歳の青年になっていた。
異父弟の家衡は7つ下の19。
異母兄の当主真衡は30~35ぐらいだろうか。
その真衡には子がいなかったので,海道小太郎成衡という者を養子に迎えていた(つまり,この時点で清衡と家衡の相続権は無くなった)。
海道とは変わった姓だが,現在の福島県浜通地方にあった岩城,楢葉,磐前,菊多各郡を総称して海道四郡と呼んだので,おそらくその地に根を張った平氏の一族と思われる。
また,成衡の妻は源頼義娘にして義家弟であった。
父は,常陸の豪族である多気氏というから,これまた平姓である。
つまり真衡は,常磐地方の豪族から養子と嫁を貰ったことになり,しかも源氏にも平氏にも関係する者との縁組みが成立したことになる。
奥州を固める上で,順当な布石と言えよう。


その成衡の婚礼の場で事件が起こった。
前九年の戦いで功があった清原一族の長老(妻が武則娘なので真衡叔父)である吉彦(きみこ)秀武が祝物として朱塗りの盤に,この地方特産の砂金を堆く盛って地面に跪いていた。ところが,屋敷内の真衡は護持僧の奈良法師との囲碁に夢中で,秀武に気付かない。
或いは,日頃から口うるさい長老をからかうつもりだったのかもしれないが,秀武はキレた。
頭上に捧げ持った朱の盤を砂金ごと投げ出すと,家臣を引き連れて出羽へ帰ってしまった。目出度い婚礼の席が,おそらく真衡の怒号が響く散々なものとなったことだろう。
怒った真衡は,秀武討伐を目論んで兵を起こす。
世に云う後三年の役は,ここに始まった・・・。

                         (続く)


黄金楽土-其之九

2008年12月14日 20時17分06秒 | 歴史

        9.前九年の役始末


康平5年9月17日。
奥六郡に覇を唱えた安倍氏は厨川柵に滅び,経清も逝った。
安倍氏が目指した奥六郡の独立は頓挫した。
経清には,貞任妹との間に一子があった(作中では清丸となっていた)。
安倍氏の血を引くその子の運命は・・・。

永承6(1051)年3月の鬼切部の戦い(藤原登任+秋田城介重成vs安倍頼良)に始まり,康平5(1062)年の厨川柵陥落に終わる12年戦争を前九年の役と呼ぶ。
そもそも安倍氏の奥六郡支配に対する中央からの圧力が始まりであり,それに源氏の利権・覇権が絡んで,最終的には出羽の清原氏が安倍氏を圧したことになる。
我々は中学校以降の歴史の学習で,
「奥州で蝦夷と呼ばれた人々の長である安倍氏が反乱を起こし,朝廷の命を受けた源頼義・義家父子が鎮圧した。」
といった具合に習ってきているが,今思うと,とんでもないことである。
だいたい源氏は,何もしていない(挑発して黄海の合戦で敗れただけだ)。
実際に主力として安倍氏を斃したのは,既述の通り清原武則であり,断じて頼義父子の手柄ではない。


厨川柵陥落に際し,貞任は討死,重任と経清は刑死となったが,宗任,正任,良照等,その他の安倍氏一族は,出羽へ落ち延びた後,投降したところを捕らえられて,伊予から筑前へ流された。
苛烈を極めた厨川柵落城の後なので,さぞや極刑に・・・と思うところだが,貞任父子と経清を誅してしまえば危険無し,と踏んだのか,或いは戦後処理・領国経営を考えて大きいところを見せて人心収攬を図ったのだろうか・・・。


しかし,頼義の思い通りに事は運ばなかった。
朝廷は,奥州に源氏の勢力が扶植されるのを警戒し,頼義を何と伊予守に任じた。
故に,安倍一族の伊予配流も納得がいく。
嫡子の義家は奥州隣国の出羽守に,そして奥州は清原武則が鎮守府将軍として治めることになる。
中央の人間以外が鎮守府将軍となったのは,初の例となる。
頼義の目算は完全に外れた,というより,安倍氏を討ったのが源氏ではなく清原氏であることを朝廷は見抜いていたということだろう。


奥州は清原氏の治めるところとなったのだが,貞任の妹である経清室は何と武則長子武貞に再嫁した。
ついつい平治の乱後の常盤御前を思わせるが,理由は幾つか考えられる。
まず,彼女が美女であったことは間違いなかろう。
さらに,注目すべき事実としては,経清の忘れ形見ごと武貞の元へ行ったことである。
武貞には既に真衡という長子がいたが,経清の子は清衡と名乗り次子となる。
やがて異父弟の家衡が生まれる。
奥六郡を支配する上で,安倍氏の血縁の者が居た方が何かと好都合と考えたのだろう。
また,以前安倍頼時が,仁土呂志の安倍富忠を討とうとした際に,武則兄の光則が参加していた。
また,宗任を筆頭とする生き残った安倍一族が清原光則を頼ったことからも,安倍氏と清原氏には以前から興隆があったであろうことがうかがえる。
尤も,光則が弟武則を頼義の元に遣わしたのは,自身の老齢と安倍氏との関係が弟より濃かったからではないだろうか。
それによって,清原氏の主流は武則に移り,光頼の子は後の後三年の役に際して,義家に討たれたともいう・・・。


・・・ということで,清原武貞室となった経清未亡人は衣川の屋敷で暮らすことになる。
3人の子たちの関係,そして次なる源氏の介入が新たな時代を導くことになる・・・。


黄金楽土-其之八

2008年12月13日 23時39分35秒 | 歴史

          8.厨川に散る


一気に書くつもりでいたのだが,2日空けてしまった。
・・・というのも,実は頼時が斃れ,頼義が吹雪の平原で惨敗を喫した黄海の戦いがあった天喜5(1157)年から康平5(1062)年まで,一体何があったのか浅学な私に皆目分からなかったからである。


2日間,家に有るだけの文献を漁り,ネットを駆使してみたが,結局何も無かった,というか,戦線が膠着し,束の間の平和が訪れたというべきなのかもしれない。
安倍氏としては,積極的に奥六郡から打って出て(既に奥六郡の南隣である磐井郡には,河崎柵という橋頭堡は築いていたが),栗原郡・新田郡(宮城県栗原市・登米市)を積極的に冒し,国府多賀城のある宮城郡へ押し出したりはしなかった(小競り合いはあっただろうが)。
これは,仮に頼義を斃したとしても,中央からの収奪者は必ずやってくるので,無駄に兵力を浪費せず,国力を充実させようとしたからかもしれない。


また,頼義としても,動くに動けない状況であったろう。
黄海の戦いは,頼時亡き後も安倍氏の士気は一向に衰えなかったことを示すと共に,源氏にとっては屈辱以外の何者でも無い惨敗となった。
齢70に近い頼義としても,よもや人生の終盤でこのような思いをするとは思わなかっただろう。
多分朝廷に奏上して,自己弁護と正当化,そして援兵をよこさぬ朝廷への責任転嫁をさかんに行ったのは間違いあるまい。
源氏の長としての矜恃が,からくも頼義を支えたのだろうか・・・。


いずれにしても,その後数年の奥州は,安倍氏の独立国の様相を呈し,頼義も幾度か再起を賭けて戦ったであろうが,安倍氏の優勢は変わらなかった。
その安倍氏の参謀格だったのが,経清であろう。
経清の命により,官物を徴納させたのである。
この時代を描いた軍記物のはしりともいうべき「陸奥話記」には,経清が「白符を用うべし」と命じたとある。
つまり,従来の官符たる赤符に替えて,経清が出した私符(白符)を-つまり,朝廷に徴税すべきものを,経清の命にて安倍氏が横取りした,と源氏の功績を伝えることが主たる「陸奥話記」は語る。
承平の乱における平将門を思わせる内容である。
将門は,官衙の鍵を奪い,板東の独立を図ったが,安倍氏もまた奥六郡の独立を図ったと言うべきだろう・・・。


局面が動いたのは,康平5年の7月以降である。
中央からの援兵も当てにならず,陸奥守としての任期も切れ(中央から高階経重が後継として赴任してきたが,すぐに追い返され,頼義が重任した。多分後継者に嫌がらせをして,諦めさせたのだろう),行き場の無くなった頼義のとった策は,出羽の俘囚の長である清原氏への援兵以来である。
臣従の例をとって,とあるが,頼義としてはこのまま帰京したりしたら,源氏の威勢は地に落ちるだけである。
なりふり構わず,清原を頼ったというべきだろう。
頼義が出した条件がどのようなものであったか,今となっては知るよしもないのだが,それは戦後処理から推し量るより他はあるまい・・・。
いずれにしてもこの年7月,出羽の清原氏が頼義の依頼によって動いた(当主光頼弟武則が兵を出した)。
清原・源氏両軍が合流したのは,栗原郡の営岡(たむろおか,たむろがおか)だったという。
これは,征夷大将軍坂上田村麻呂の故事にあやかったものらしい。
頼義軍は約2,000,清原軍はその数倍の軍勢だったという。
陣立てその他に二週間を費やした後,両軍は進発し,8月17日に安倍氏の前哨基地ともいうべき小松柵を攻め落とす。
頼義にとっては,初勝利である。
次いで9月5~6日は,衣川関に於いて両軍が激突。
貞任の善戦虚しく陥落。
頼義長子八幡太郎義家が,敗走する貞任に向けて,
「衣のたてはほころびにけり」
と詠ずると,貞任は,
「年を経し糸の乱れの激しさに」
と上の句を詠んで応えたという有名な故事が伝わるのは,この時のことである。


衣川関陥落後の安倍氏は脆かった。
黒沢尻柵,鳥海柵,鶴脛柵,比与鳥柵と立て続けに落ち,9月15日には奥六郡最北の岩手郡の厨川柵まで追い詰められた安倍軍は,最後の抵抗を試みる。
厨川柵は,日高見(北上)川と厨川(古代の雫石川)の合流点にあり,天険の要害であったという。
私など,てっきり現在の盛岡市にある厨川駅の近辺と思っていたが,大違いでもっと南の国道46号線沿線にある盛岡市天昌寺町付近と思われる。
その北に前九年,安倍舘町という,いかにもな町名があるが,これは厨川柵と連城を成す嫗戸柵があったかららしい。
川を外堀として,刃を上向きに底に立てたともいわれる。
当初は,攻め手も散々に悩まされたようだが,やがて清原軍が近隣の民家を破壊してそれを燃やす得意の火攻めに転じた結果,17日に厨川柵は陥落した。
大将である貞任は奮闘の後,倒れたところを戸板に乗せられて頼義の前に運ばれ,そこで息絶えたという。。
嫡子で13歳になる千世童丸と貞任弟重任も斬られた(重任は義家が討ったとも・・・)。
同じく弟の宗任・家任,叔父の良照は後に投降して,西国に配流となる(その子孫が,安倍晋太郎・晋三というから腹が立つ。しかも長州系だし・・・)。
とにかく,源氏と清原氏による安倍氏始末は苛烈を極めた。
柵内の非戦闘員は老若を問わず皆殺し。
妙齢の女は,兵たちに分け与えられたという。


では,経清はどうなったか。
逃げ遅れて捕らえられたとも,投降したとも言われるが,ここではやはり「炎立つ」にあるような頼義に近づくための投降説を採りたい。
頼義は恨み重なる経清に対し,自分に今一度仕えぬか,と度量の大きいところを見せる。
それに対して経清は,
「獣に仕える心は持ち合わせておりません」
と一蹴する(TV版では「豚め!!」と罵っていた)。
怒った頼義は,鈍刀をもって鋸引きの刑にする・・・。


康平5年9月17日。
奥六郡に覇を唱えた安倍氏は厨川柵に滅び,経清も逝った。
安倍氏が目指した奥六郡の独立は頓挫した。
経清には,貞任妹との間に一子があった(作中では清丸となっていた)。
安倍氏の血を引くその子の運命は・・・。


黄金楽土-其之七

2008年12月10日 21時31分08秒 | 歴史

           7.黄海合戦


安倍軍が籠もった河崎の柵は,北上川が一関市内を避けるように蛇行し,北上山系から流れ出る砂鉄川との合流点付近にあったと思われる。
おそらく頼義動くの報を受けて,近くの衣川関や小松柵との連繋で,援軍が有ったと思われ,頼義軍よりは人数で優ったと想像される。
それにしても,国府多賀城を進発した頼義軍が2,000とは少なすぎはしないだろうか。
安倍頼時の死を受けた安倍軍をなめてのことなのか,寡兵での奇襲のつもりなのか,或いは厳寒の11月(旧暦)ということで,徴兵できなかったのか,真相は不明であるが,おそらくそのいずれもが該当するのだろう。


頼義軍は,多分現在の岩手県南部の花泉(一関市)方面から侵入し,花泉町日形付近で北上川を渡っものと思われる。
そして合流する黄海川を遡上するように北東へ進み,黄海(岩手県東磐井郡藤沢町黄海)の平原地帯に出たのではないだろうか。
厳寒の北上川渡河は堪えたことだろうし,そこに至るまでの雪中の丘陵越えは否応なく体力を奪ったことだろう。
ようやく渡河が終わり,猛吹雪の中とはいえ黄海の平原地帯へ出た時は,おそらくほっと安堵したことだろう。
ここから,山越えすれば河崎柵はもう目と鼻の先である。
眼下に河崎の柵を望む峠から一気に攻め下りれば,この猛吹雪の中をよもや源氏勢がやってくるとは誰も思うまい・・・。
雪中行軍の甲斐があったというものだ。
多分,誰もがそう思っていたかも知れない。


ところが,その安堵が恐怖に変わった。
黄海平原の四方から,わっと鬨が上がり,甲冑の上に防寒用の毛皮を纏った安倍軍が鶴翼の陣形で突如出現したのである。
歴戦の勇である頼義も,そして類い希なる若き武人と言われた嫡男八幡太郎義家も魂消たことだろう。
軍勢に勝る安倍軍は,四方から矢を射かけ包囲を狭めてくる。
剽悍にして血気盛んな貞任が自ら先陣を務め,源氏軍の中に駆け込んで縦横に突き,斬りまくったことであろう。
弟宗任と,頼義にとっては憎んで余りある藤原経清も居たことだろう。
これには,さすがの頼義も,全滅を覚悟したのではないだろうか・・・。
この時,嫡子義家が生き残った5人の郎党と共に,果敢に安倍軍に斬り込み,血路を開いてようやく戦場を離脱することができ,頼義は文字通り九死に一生を得たのであるが,生涯最大の屈辱とも言うべき敗戦を味わった。


父頼信は,その威光の前に平忠常を戦わずして平伏させた。
それに比して,自分は同じく僻遠の地の土豪に完膚無きまで敗れ,敵の残党狩りを気にしつつ落ち延びていく・・・。
源氏の繁栄を願って奥州まで出向いてこのザマは・・・,と悔やんでも悔やみきれない敗戦だっただろう。
では,どうしてこんな無謀な戦を頼義ともあろう者が仕掛けたのだろうか・・・。
しかも2,000という寡兵で・・・。


やはり,吹雪の中の奇襲ということで,己の作戦を過信したのだろう。
よもや猛吹雪の中の進軍はあるまい,と安倍軍が油断していると思い,作戦が看破されているとは予想もしなかったということではないだろうか。
安倍軍が,頼義が河崎に向かったという情報を事前に知って包囲殲滅戦に持ち込んだのは,おそらく地の利を生かした諜報網があったからと思われるし,何よりも長く頼義に仕え,頼義の作戦や性格を熟知している経清の存在が大きかったのではないだろうか・・・。


ともあれ,黄海の戦いは,またしても安倍軍の完勝に終わった。
この場面は,15年前の大河ドラマ原作,高橋克彦著「炎立つ」では,前半の白眉とも言うべき名場面となっている。
鮮血に染まった黄海の雪原を,残敵掃討に向かう経清主従が疾駆する。
雪に埋もれた敵味方の死骸が合戦の凄惨さを語る中,経清は彷徨する7人の安倍軍の雑兵と遭遇する。
6人は,経清を見て平伏する。
吹雪の中を道に迷ったなら,平伏した後名乗り出て味方との邂逅を喜ぶ筈なのに,7人は平伏したままである。
経清は気付いた。
その中の年長の武者が誰であるかを・・・。
「行くがよい」
ひと言だけ告げて,経清が立ち去ろうとする時,思わず義家と目が合った。
無言で頷き去っていく経清・・・。


「おのれ!!経清,どこまでも儂をこけにしおって!!」
いきりたつ父頼義に,義家は言う。
「経清殿が助けてくださったのです。経清殿が・・・」
再び戦場で相まみれることを誓う義家・・・。
このくだりは,今読んでも,或いは映像を見ても,蝦夷の末裔たる私の胸を熱くして止まない・・・。


                     (続く)