古代末期の奥州に於いて,安倍氏の存在が極めて大きいことは,手前味噌ながら昨年末の拙エントリで述べたところである。
朝廷による奥州支配が始まったのは,国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)による大和朝廷時代であり,7世紀には越後から出羽にかけての支配が強まり,やがて9世紀初頭には現在の岩手県中部まで朝廷の支配が及んだ(坂上田村麻呂と阿弖流爲はこの時代である)。
そして,安倍氏が俘囚の長として君臨するのは,その後のことである。
その安倍氏の遺跡が公的に断定されたのは今回が初めてとなる。
これは,私のような蝦夷及び俘囚の末裔にとって極めて大きな意味を持つ。
「11世紀の後半,東北地方では2回にわたって戦乱が起こった(前九年の役と後三年の役)後三年の役で源義家は武士を率いてこれをしずめた。このことにより源氏は武士の信望を集めて,大きな勢力をもつようになった。」(「新しい歴史教科書」市販本-扶桑社刊より)
と中学校の歴史教科書には書いてあるが(たまたま手元にあったのが,ひと頃物議を醸した教科書であっただけで,他意はない),一つ間違うと東北地方で蝦夷が政府に対して反乱を起こし,それを源氏が見事に鎮めて勢力を伸ばすに至ったと,とられそうである。
否,少なくても私は蝦夷の末裔であるにもかかわらずそう教わってきたし,時代がもっと新しくなって明治維新の際は,先進的な西日本の軍勢によって旧態然とした東北の諸藩は敗れた,と九州出身という教師に教わった(大きなお世話である)。
中央政府-つまり時の政権が正義であり,地方が反乱軍という論法は,あくまでも中央の人間の見方でしかないと思う。
もしそうならば,それこそ勝てば官軍となってしまう。
11世紀の奥州は,朝廷から認められた俘囚の長として安倍氏の支配が行われ,平和で安定した治世であった筈である。
安倍氏の財源は,何と言ってもこの地方特有の黄金であったと思う。
さらには東北の特産とも言うべき奥州馬も朝貢に使われた筈である。
やがて後三年の役を経て,源氏の勢力扶植を妨げた奥州藤原氏による黄金文化が咲き誇ることになった訳だが,その基盤はまさに安倍氏にあったと言っても差し支えないだろう。
その安倍氏の築いた城柵は,厨川柵や鳥海柵,河崎柵,嫗戸柵等岩手県内に12カ所有ったと言われるが,今まで鳥海柵と言われてきた史跡が安倍氏のものと断定されたのは,安倍氏の東北支配が確定的なものであることの大きな立証物件となると思う。
つまり,中央の支配が及ばぬところで(尤も安倍氏は中央に任命された後の在庁官人のようなものだったろうが)東北を支配した安倍氏の存在は,武士の発祥を語る上でも重要な存在となると思う。
鳥海柵を守備していたのは,安倍頼時の三男である鳥海三郎宗任であったという。
出羽の清原氏の増援によって勢力を盛り返した源氏によって,安倍氏は現在の盛岡市西部に位置する厨川柵に依って最後の一戦を試みるが敗れる。
宗任し降伏し,伊予~筑紫に配流され,現地に没したらしい(その子孫が安倍晋太郎-晋三だというから腹が立つ)。
私にとって,その安倍氏の時代に思いを馳せることのできる場所がまた一つ増えた。
昨日,現地説明会が行われたらしいが,是非立ち会いたかった・・・。
仕方がないので,こちらを見て我慢するか・・・。
