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koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行,其之拾参:有楽町で会いましょう・・・

2014年01月22日 21時50分56秒 | 旅行,および「鉄」

新薬師寺金堂の本尊,薬師如来像と十二神将像に暫し見入る・・・。
特に十二神将で,最も有名且つ最も激しい造形の伐折羅(バサラ)大将像に,完全にやられる・・・。
何という美しさ,何という激しさ,そして何という造形・・・。
これが,1,300年近い時空を経て,二十一世紀に齎されたこと自体が奇跡であり,一期一会の邂逅である・・・。
本来は,薬師如来を守護する役割の神将故に,厳しく激しい表情をしているのだろう。
他の十一体も,極めて魅力的な造形をしているので,ぜひ,新薬師寺のwebサイトを見て,味わっていただきたい。
残念ながら,写真に収めることは不可能故に・・・。
十二神将であるから,干支に因んで12の方位を守護していることになるのだが,この12という数字の妙は,和洋東西を問わない。
時刻の十二進法と干支,黄道十二星座とか,偶然の符合なのだろうか・・・。


前後するが,こぢんまりとした境内へのアプローチも素晴らしい。

放生のある庭園も,小規模ながら美しい造形だ。



パンフレットを見て知ったのだが,何と織田有楽斎によるものだという。
織田有楽斎(1547-1622)-俗名は長益。
信長の弟である。
尾張時代,母(土田御前)に担がれて,逆に信長によって斬られた勘十郎信行とか,丹波柏原藩主となった三十郎信包(老犬斎。「江」にも出てきた),伊勢長島一向一揆によって小木江城を攻撃されて討死した彦四郎信興等よりも下の弟になる。
本能寺の際は,二条城に居たが,首尾良く脱出して,安土や岐阜に走ったという。
秀吉政権下では,甥に当たる織田信雄に仕え,小牧・長久手の戦いでは,秀吉軍と戦った。信雄改易後は,秀吉の御伽衆となり,関ヶ原では東軍に参加。
その功によって,大和に3万2千石の大名となる。
おそらく,江戸初期のこの時期に庭園を造ったのたろう・・・。
長らく淀君の庇護者として,大坂城内に在ったが,夏の陣の前に大坂を退去し,今度も東軍となる。
武将としての働きは,然程伝わっていないが(関ヶ原では,石田勢や宇喜多勢とかなり激しくやり合っているようだ),やはりこの有楽斎を語る上で最重要なのは,利休十哲の1人という茶人としての評価だろう。
当時,第一級の文化人であったことは疑いない。
そして,東京に今尚名を残す有楽町は,この有楽斎が語源となっている。
現在の数寄屋橋付近に屋敷があったという。
大阪にも有楽町があったが,地番変更で消滅の憂き目にあったそうだ・・・。


名残を残して,新薬師寺を辞す。
先程の大通りより2本南の路地を歩いて,破石町のバス停へ戻る。
この日の白眉は,新薬師寺の伐折羅大将もだが,何と言ってもこの街並みであろう。

格子の美しい家並みが続く沿道は,昭和にトリップしたような印象で,歩いていて飽きない。
何よりも,人通りが殆ど無く,何とも閑寂な雰囲気を醸し出しているのが良い。
ちょい南のなら町も良かったし,街中の小西さくら通りとかも,昭和を感じさせる街並みが私のツボだった・・・。


待つ間もなく来たバスに乗る。

歩いても良かったのだが,何せ乗り放題フリーパスという強い味方があるので,使わないという手は無い。
いよいよ,春日大社から東大寺大仏殿に至る,奈良の鉄板ルートが始まる。
奈良に来たら,絶対ここと決めているコースで,何度来ても飽きない。
そうした意味では,万人に勧められるコースでもある。
春日大社の長い参道から,次回は始まることになろう・・・。


關西紀行,其之拾弐:南都六宗・・・

2014年01月21日 22時27分32秒 | 旅行,および「鉄」

近鉄駅前バスプールから,バス乗車。
2つの鉄道駅となら町の南側を回る環状ルートが2つあり,奈良公園へは時計回りを,JR駅や三条通方面は,反時計回りが便利ということになる。


街の規模も大きくなく(否,長安を参考にした平城京自体は,とんでもなく大規模な都市だったが),人も京都ほど多くないので,とにかく快適な旅が楽しめるのが奈良だ。
興福寺と国立博,県庁を見ながら東大寺前を右折して,降車した破石町のバス停は,閑静な街並みの中だった。
そこからは,市松模様の歩道を街路樹の中,北へ向かう。
車通りも多くなく,観光客の姿もなく,静かな街歩きを堪能しつつ,新薬師寺を目指した。志賀直哉の旧宅を左に見てすく,春日大社の森が左手に迫る。
そこを右折して,やや急な坂を上ると,新薬師寺はすぐだった。


斜め向かいに,不空院なる寺があり,なかなか味わいのある構えだった。
南門から入る。
新と名が付く以上,西の京にある薬師寺よりは新しいのは確かなようで,薬師寺が白鳳時代の建立と伝わるのに対して,こちらは奈良時代のものだ。
官立の寺院であるのは確からしいが,一体いつ誰が建てたのかは,史料がないという。
一説では,光明皇后が,夫の聖武帝の病気平癒のために,天平19(747)年に建立したと言われるらしいし,逆に聖武帝が,皇后の眼病平癒のために天平17年に・・・という説もあるらしい。
2年の違いなど,別にどうでもよいことで,何よりも素晴らしいのは,金堂が当時のものであることだ。

天平の甍を伝えるのは,何も東大寺だけではないのである。
こちらは,修築を経てはいるものの,当時の姿のままというのが,何とも素晴らしいではないか・・・。
1,200年以上の昔,我等の先人たちは,このようなものを後世に残してくれた。
それを見て,誰も知らない天平の昔を偲ぶことができるのである。
こんな有難いことはない・・・。


またしても余計なことだが,我が家の菩提寺は浄土宗である。
京都の知恩院が総本山で,開祖は法然上人である。
鎌倉仏教の魁でもあるだろう。
小学生の頃,法然-浄土宗,親鸞-浄土真宗(一向宗,戦国時代に本願寺を中心に大流行),栄西-臨済(禅)宗(鎌倉幕府により庇護),道元-曹洞(禅)宗,日蓮-日蓮宗(法華宗),一遍(時宗。踊り念仏)・・・といった具合に,暗記したものだった。
では,それ以前の宗派は・・・となると,平安初期の天台宗(最澄-伝教大師)と真言宗(空海-弘法大師)となるわけだが,ではそれ以前の奈良期はどうだったのか・・・ということになる。
東大寺や興福寺は,宗派に属するのか・・・ということになる。
言ってしまうと,奈良時代には南都六宗(ろくしゅう,りくしゅう)なる宗派があった。
否,南都という言葉自体が,平安京から見た奈良を示す言葉故に,平安時代になってからの呼称であるようだが・・・。
因みに,この南都六宗は,高校時代に受験対策として暗記した(出なかったが)。

法相宗(道昭629-700,白鳳時代の人だ)-興福寺,薬師寺
倶舎宗(道昭629-700) -東大寺,興福寺
三論宗(慧灌,恵灌とも。生没年未詳の高句麗の僧。625年来日。住元興寺)-東大寺南院
成実宗(道蔵,経歴未詳)-元興寺,大安寺
華厳宗(良弁689-774,石山寺建立に関わった)-東大寺
律宗(鑑真688-763)-唐招提寺

といった具合である。
開祖と寺がダブっていたりすることから,どうやら宗門対立するような宗派ではなく,互いに学問を深めていくような学派的な要素が強かったと思われる。
南都六宗の対義語が,平安二宗なのだそうだ・・・。


そう言えば,室町時代の京都五山とか鎌倉五山とかも必至で暗記したものだった。
結局入試に出た記憶がないので,どうでもよいことを覚えたことになるのであるが,たまには,こうして役に立つこともあるわけだ・・・。
でもって,我が街に「仙台五山」というのもあるのは驚いた。
勿論,藩祖公の入封以降のことだから,江戸期ということになるのだが,藩祖公は,故地である米沢から禅寺をこちらに移した。
そして,五山のある地は,市街地北部の丘陵地帯の麓なので,京都宜しく北山と命名された。
私の入学した中学校は,その仙台五山・北山五山の近くで,我が家はさらに北西に上ったところにある・・・。


閑話休題。
どうも,こうして脱線して,余計なことを話したがるのが悪癖・・・と言うより病気である。
天平の甍を伝える新薬師寺金堂前で,老夫婦にシャッターを押してくれと頼まれた。
一眼を持って歩いていると,昔からこのように声をかけられる。
残念ながら,老若問わぬカップルが多く,おねいさんに声をかけられたことが殆ど無いのが癪ではあるが(爆),今はこうして家族連れ故に,さらに安心して声をかけられるということか・・・。
でもって,バックアップをかねて,必ず2回以上シャッターを押す。
特に,枚数を気にしないで撮影ができるデジカメなら尚更である。
人の使っているデジカメを手にすると,ついつい設定(画質やピクセル数等)を知りたくなるが,それこそ大きなお世話様となるので,頼まれたとき以外は絶対しないが・・・。
只,コンデジで6メガピクセルで撮影したら,HDDがパンクするだろう・・・。
私は,せいぜい2メガである・・・。


・・・ということで,新薬師寺の金堂に入る前で終わってしまいました。
続きは,いつ・・・??


關西紀行,其之拾弐:南都六宗・・・

2014年01月21日 22時27分32秒 | 旅行,および「鉄」

近鉄駅前バスプールから,バス乗車。
2つの鉄道駅となら町の南側を回る環状ルートが2つあり,奈良公園へは時計回りを,JR駅や三条通方面は,反時計回りが便利ということになる。


街の規模も大きくなく(否,長安を参考にした平城京自体は,とんでもなく大規模な都市だったが),人も京都ほど多くないので,とにかく快適な旅が楽しめるのが奈良だ。
興福寺と国立博,県庁を見ながら東大寺前を右折して,降車した破石町のバス停は,閑静な街並みの中だった。
そこからは,市松模様の歩道を街路樹の中,北へ向かう。
車通りも多くなく,観光客の姿もなく,静かな街歩きを堪能しつつ,新薬師寺を目指した。志賀直哉の旧宅を左に見てすく,春日大社の森が左手に迫る。
そこを右折して,やや急な坂を上ると,新薬師寺はすぐだった。


斜め向かいに,不空院なる寺があり,なかなか味わいのある構えだった。
南門から入る。
新と名が付く以上,西の京にある薬師寺よりは新しいのは確かなようで,薬師寺が白鳳時代の建立と伝わるのに対して,こちらは奈良時代のものだ。
官立の寺院であるのは確からしいが,一体いつ誰が建てたのかは,史料がないという。
一説では,光明皇后が,夫の聖武帝の病気平癒のために,天平19(747)年に建立したと言われるらしいし,逆に聖武帝が,皇后の眼病平癒のために天平17年に・・・という説もあるらしい。
2年の違いなど,別にどうでもよいことで,何よりも素晴らしいのは,金堂が当時のものであることだ。

天平の甍を伝えるのは,何も東大寺だけではないのである。
こちらは,修築を経てはいるものの,当時の姿のままというのが,何とも素晴らしいではないか・・・。
1,200年以上の昔,我等の先人たちは,このようなものを後世に残してくれた。
それを見て,誰も知らない天平の昔を偲ぶことができるのである。
こんな有難いことはない・・・。


またしても余計なことだが,我が家の菩提寺は浄土宗である。
京都の知恩院が総本山で,開祖は法然上人である。
鎌倉仏教の魁でもあるだろう。
小学生の頃,法然-浄土宗,親鸞-浄土真宗(一向宗,戦国時代に本願寺を中心に大流行),栄西-臨済(禅)宗(鎌倉幕府により庇護),道元-曹洞(禅)宗,日蓮-日蓮宗(法華宗),一遍(時宗。踊り念仏)・・・といった具合に,暗記したものだった。
では,それ以前の宗派は・・・となると,平安初期の天台宗(最澄-伝教大師)と真言宗(空海-弘法大師)となるわけだが,ではそれ以前の奈良期はどうだったのか・・・ということになる。
東大寺や興福寺は,宗派に属するのか・・・ということになる。
言ってしまうと,奈良時代には南都六宗(ろくしゅう,りくしゅう)なる宗派があった。
否,南都という言葉自体が,平安京から見た奈良を示す言葉故に,平安時代になってからの呼称であるようだが・・・。
因みに,この南都六宗は,高校時代に受験対策として暗記した(出なかったが)。

法相宗(道昭629-700,白鳳時代の人だ)-興福寺,薬師寺
倶舎宗(道昭629-700) -東大寺,興福寺
三論宗(慧灌,恵灌とも。生没年未詳の高句麗の僧。625年来日。住元興寺)-東大寺南院
成実宗(道蔵,経歴未詳)-元興寺,大安寺
華厳宗(良弁689-774,石山寺建立に関わった)-東大寺
律宗(鑑真688-763)-唐招提寺

といった具合である。
開祖と寺がダブっていたりすることから,どうやら宗門対立するような宗派ではなく,互いに学問を深めていくような学派的な要素が強かったと思われる。
南都六宗の対義語が,平安二宗なのだそうだ・・・。


そう言えば,室町時代の京都五山とか鎌倉五山とかも必至で暗記したものだった。
結局入試に出た記憶がないので,どうでもよいことを覚えたことになるのであるが,たまには,こうして役に立つこともあるわけだ・・・。
でもって,我が街に「仙台五山」というのもあるのは驚いた。
勿論,藩祖公の入封以降のことだから,江戸期ということになるのだが,藩祖公は,故地である米沢から禅寺をこちらに移した。
そして,五山のある地は,市街地北部の丘陵地帯の麓なので,京都宜しく北山と命名された。
私の入学した中学校は,その仙台五山・北山五山の近くで,我が家はさらに北西に上ったところにある・・・。


閑話休題。
どうも,こうして脱線して,余計なことを話したがるのが悪癖・・・と言うより病気である。
天平の甍を伝える新薬師寺金堂前で,老夫婦にシャッターを押してくれと頼まれた。
一眼を持って歩いていると,昔からこのように声をかけられる。
残念ながら,老若問わぬカップルが多く,おねいさんに声をかけられたことが殆ど無いのが癪ではあるが(爆),今はこうして家族連れ故に,さらに安心して声をかけられるということか・・・。
でもって,バックアップをかねて,必ず2回以上シャッターを押す。
特に,枚数を気にしないで撮影ができるデジカメなら尚更である。
人の使っているデジカメを手にすると,ついつい設定(画質やピクセル数等)を知りたくなるが,それこそ大きなお世話様となるので,頼まれたとき以外は絶対しないが・・・。
只,コンデジで6メガピクセルで撮影したら,HDDがパンクするだろう・・・。
私は,せいぜい2メガである・・・。


・・・ということで,新薬師寺の金堂に入る前で終わってしまいました。
続きは,いつ・・・??


關西紀行,其之拾壱:南都への路・・・

2014年01月20日 22時43分29秒 | 旅行,および「鉄」

伏見の地図を見て,気付いたことがある。
とにかく,町名が面白い。
私のような輩には,堪らない。
例えば,銀座とか両替町,瀬戸物町,風呂屋町,納屋町,塩屋町・・・といった職人町・商人町の町名が,今も残っているというのが1つ(本町とか中央・・・とか,つまらん町名に改変されていないのが嬉しい)。
そして,以下のような町名である。
桃山町永井久太郎(堀久太郎と関係があるのか?),桃山長岡越中東町(長岡忠興は越中守だつたのか?),桃山町三河(家康の屋敷跡?),桃山町島津,桃山福島太夫南町,桃山町毛利長門西町,桃山筑前台町,桃山町金森出雲(金森長近は飛騨守だった),桃山羽柴長吉中町(秀吉の初名は高吉だったが),片桐町(且元の屋敷跡か?),桃山町松平筑前(秀吉は,筑前守を濫発した),桃山町本多上野(忠純のことか),桃山町伊賀(忍者町か?),桃山町根来(鉄砲衆の町?),桃山町鍋島,そして桃山町治部少丸(三成の城内屋敷跡?),桃山町正宗(刀工町か?),桃山町井伊掃部東町(井伊直政に敬意を表してか?),桃山町水野左近東町(徳川譜代衆の姓が多いのは,江戸期からか?)・・・といった具合である。
これだけ武将の名の付いた町を持つ町も無いだろう・・・。


伏見城の周辺には,桓武帝と明治帝の陵墓もある。
桓武帝は柏原陵,明治帝は桃山御陵と呼ばれているようだ。
平安,明治という新しい世を導いたそれぞれの天皇が,秀吉の夢の又夢の近くに眠っているというのは,何を示すのだろう・・・。
因みに,酒所伏見の代表的銘柄は,個人的には月桂冠だと思う。
私を日本酒党(正確には冷酒党)にした罪な酒だ・・・。
あれ(と地元の「蔵王」)の 300ml瓶を飲んだことが,そもそもの間違い,ではなく始まりであった・・・。
灘と並んで伏見は,全国区である銘柄を数多く輩出してきたが,黄桜,松竹梅,英勲などは,最もメジャーな存在であろう。
黄桜と松竹梅は,私もよく飲む(と言っても,2Lの紙パックか300ml瓶だが・・・)。


宇治川を渡る頃には,すっかり周囲は住宅地と化していた。
完全に京都ののベッドタウンだろうが,大阪にも十分通える圏内だろう。
宇治を訪れたのは,一昨年の暮れであったが,平等院の門前は瀟洒な門前町が形成され,程良い賑わいが,ちょいとばかり魅力的であった。
宇治茶のペットボトルの自販機が林立していたが,今まで飲んだどのお茶よりも美味に感じられた。
嵯峨嵐山と共に,宇治は大宮人の別荘地であったようで,多くの歌に詠まれた。

朝ぼらけ 宇治の川霧たへだへに あらはれわたる 瀬々の網代木
                                          (権中納言定頼~「千載集」)

わがいほは 都の巽鹿ぞ棲む よをうじやまと 人はいふなり 
                                                        (喜撰法師~「古今集」)

と,咄嗟に百人一首の2首が思い出された。
水量豊かな川と,緑なす山という組み合わせは,日本人ならではの美意識が躍如としていると思う。
古来,豊かな自然と共存共生してきたからこそ,こうした美意識が自然と備わってきたのだろう・・・。


木津川を渡ると(近鉄は渡らないが),いよいよ大和路だ。
尤も,最初の停車駅である高の原は,完全に新興住宅地のど真ん中の駅故に,情緒は無い。
むしろ地図を見て,前方後円墳と溜池が散在する地形を読んでいた方が,楽しいと思う。
そして大和西大寺駅。
奈良線と京都線,橿原線の分岐点である近鉄の要衝であるが,ここを起点に西大寺(東大寺の対象の位置にある寺)と秋篠寺(東洋のミューズと呼ばれた妓芸天が最高)を見て,西の京に向かった3年前は,充実した旅程であった。
一昨年は,ここをベースに平城宮跡を見て,市内へ向かった。
で,今回は乗り換えもなく,近鉄奈良へ一直線だが,この西大寺駅は,駅ビルの食料品売り場が充実していたことを付記しておこう。
さらに,電車の展望デッキも有った。
只の乗り換え地点とするには,惜しい駅である。
但し,平城宮跡を経て,奈良駅へのバスの便は良くないが・・・。


あまりに広大な平城宮跡(の一部)を横切る。
夜にライトアップされる朱雀門が見え,奥に,法隆寺金堂をモチーフにしたという大極殿も分かった。
一昨年は,ここを歩き回って,家族の顰蹙を買ったものだった。
そう考えると,西大寺-秋篠寺-唐招提寺-国立博物館-奈良公園・・・と歩いた3年前の旅程は,確かに充実していた。


感慨に浸る間もなく,あっという間に電車は地下に潜ると,奈良駅に滑り込む。
京都-奈良は近い。
いよいよ,南都の町歩きが始まる。
今回の最大の目当ては,何と言っても十二神将像で有名な新薬師寺。
その奥の白毫寺には,一度訪れたことがあったが,新薬師寺だけは未見であった。
それが故に,期待も膨らむ・・・。
バスプールに家族を待たせ,バスの案内所へ単身走って,子ども用のフリー切符を買う。
250円。
京都同様3回乗れば元を取る・・・。
それにしても人が少ない。
どこに行っても人だらけの京都とは大違いだ。
それが故に,関西への旅行では必ず奈良を訪れることにしている。
京都が純和風の平安千年の都を今に伝えるのに対して,奈良は遣唐使によって齎された大陸の風気を伝える。
どちらが・・・と,言われれば返答に窮するが,近鉄奈良駅から東の奈良公園方面を見て,若草山の頂が確認された瞬間,改めて異郷に来たことを思った。
新幹線を降り,烏丸口から京都タワーに代表される京都駅前を見て,平安の都の空気を感じたのと同種の感慨が,湧き起こっていた・・・。


關西紀行,其之拾:伏見桃山大暴走録・・・

2014年01月18日 21時27分10秒 | 旅行,および「鉄」

外泊する度に思うのだが,どうもベッドというのは寝づらい。
普段,煎餅布団に寝ているせいか,どうも落ち着かず,眠りも必然的に浅くなる。

前の晩は,疲れて酒も程々にして(コンビニで,見たことない発泡リキュールを買い,2本空けた),お昼前に床に就いたのだが,何と4時半に目を覚ましてしまい,西日本の遅い夜明けまで悶々とする羽目になった・・・。


でもって,さっさと朝食を済ませて,今日の日程・・・と,行きたいのだが,いかんせん家族連れのつらさで,食事にたっぷり1時間かかる。
ま,さすがに老舗のホテルだけ有って,バイキングとはいえ,どれも美味であった。
私は,基本的に和食党なので,ご飯と味噌汁,梅干しにお新香(京名物の柴漬けとか),焼き魚が理想的なのだが,ホテルに泊まったときは,自家製のパンも食すことにしている。

また,目の前で直接焼いてくれるオムレツも,すこぶる美味であった。
ベーコンとウインナも,発色剤もろの毒々しい色ではなく,実に美味であり,ここぞとばかりサラダも食したので,完全に満腹となった。
勿論,食後の珈琲も喫した。


・・・でもって,部屋に戻ってからもうだうだしていたので,出発が大幅に遅れて9時半を回ってしまった。
八条口までの無料シャトルバスが15分置きに出ているのだが,大勢並んでいたので(定員は25名)京都駅まで歩くことにした。
ホテル前の堀川通りの歩道橋を渡り,オムロン本社(かつては立石電気と言った電卓で名を成した会社)の横から,油小路通りに出る。
僅か歩くと,道祖神を祭った道祖神社というものを発見した。


「奥の細道」の冒頭にもあるように,道祖神は旅の神である。
よって,お参りをしていく。
信州安曇野の道祖神が有名であるが,この京都の道祖神社もこことか,こちらで結構語られているようである。
隣は,明王院なる不動堂があり,祭られた不動明王に拝することができる。

こうした思わぬ発見があるのも,京都ならではである。


京都バスの案内所で,奈良までのフリー切符を求める。
一昨年,近鉄駅で買ったのは同じ内容で2,000円だった筈だが,1,600円のものもあることを知り,当然こちらにした(最終日に知ったのだが,近鉄だと1,330円のもあるらしい)。ま,近鉄を奈良まで往復して,市内バスは乗り放題。
京都の地下鉄も同様なので,完全に元は取れる。
但し,子供用は無かったので,近鉄往復は手出しにして,奈良でバス切符(乗り放題250円)を求めるようアドバイスされた。
至って親切である。
でもって,バスプールを見て驚いた。
停留所前に人が溢れている。
清水寺方面への発着所と分かったので,東山方面は,近寄らないことにした・・・。


烏丸口から近鉄駅まで,京都駅を横断。

発車間際の急行(運良く奈良行き。大和西大寺での乗り換えは不要)に飛び乗る。
阪急と違って,残念ながらロングシート。
JR奈良線より安いから,良しとしたが・・・。


実は,JR奈良線にしても,この近鉄京都線にしても,沿線の印象は良くない。
京都を出ると,すぐに東寺(教王護国寺)の五重塔が見えるのは良いが,鴨川を渡って,竹田~伏見といった界隈の風景も,特に感興は湧かなかったのが残念だ。
勿論,車窓を楽しめるような車両で無いことも大きいと思うが・・・。
伏見は酒所で有名でもあるし,何と言っても,秀吉の隠居城の伏見桃山城で有名であるが,全く関係のない場所に立つらしい,現代の伏見桃山城にも興味は湧かない。
ま,そう言っても,大阪城や名古屋城も同様・・・となってしまうが・・・。
この伏見城であるが,どうやら秀吉時代に2つあったらしい。
1つめは指月山に築城されたもので,文禄6(1596)年の地震で倒壊した。
朝鮮出兵中の石田三成の讒訴により(といっても,三成からすれば,当然のこととなるようだが)勘気を蒙って,謹慎中だった加藤清正がいち早く秀吉の元へ駆けつけ,勘気を解かれたという所謂「地震加藤」の話があったのは,その時である。
そして二代目の伏見城は,木幡山に建てられた。
関ヶ原の前哨戦で,東軍の鳥居元忠勢が,西軍の大軍を相手に孤軍奮闘して,玉砕したのがこの二代目伏見城である。
西軍4万に対して,東軍は1,800というから,本当だとしたら鳥居元忠以下の兵たちが,如何に奮戦したかが知れよう。
ま,寄せ集めである西軍の士気が上がらなかったということも伝わるが,最後は甲賀勢の内通によって城は落ちる。
元忠を討ったのは,紀州雑賀の住人である鈴木孫一郎重朝(1561-1623)だったと言われる。
つまり,鉄砲傭兵集団である雑賀衆の頭目である。
雑賀衆の頭目は,代々孫一(孫市)を世襲していたと言われるが,大坂石山戦争で信長を狙撃したりして,散々織田勢を苦しめたという孫市は一体誰のことなのか,今なお謎である。
上記重朝の兄である重秀(1541-86?)がそれとも言われるし,重秀の子が重朝という説も有るそうだし,重秀・重朝が兄弟だとすると,その父の重意(佐太夫)も孫一を名乗ったし,重兼(1504-89?)という武士も居た(重兼が長男??)。
私が若い頃填った司馬良太郎著「尻啖え孫市」の主人公は,一体重秀なのか,重朝なのか,重兼なのか,全く謎である。
年代的には,重秀が相応しいような気はするが・・・。
この重朝,天正13(1585)年の秀吉による紀州征伐後は秀吉に臣従したらしい。
てもって,関ヶ原後は浪人して伊達家に仕えた後,水戸徳川家に仕えて,子孫は家老となって,雑賀姓に戻したというから面白い。
紀州雑賀の孫市の末裔は,東日本に残ったのである・・・。


・・・ということで,京都から伏見までしか進みませんでした。
またしても暴走モードです。
このまま,奈良に着けるのでしょうか・・・??


關西紀行,其之九:大宮人の夢の跡・・・

2014年01月14日 21時38分55秒 | 旅行,および「鉄」

用を足して,龍安寺を後にする。
この後,どうしようか思案したが,取り敢えず復興なった嵐山へ行くことにした。
4年ぶりに足跡を印すと共に,今後の為にも及ばずながら消費して・・・と思ったからだ。
夕食は,四条河原町で・・・と,決めていたので,バスのフリー乗車券の元は取ったし,嵐電北野線初乗りも良いか・・・ということになった。
等持院駅か龍安寺駅か,いずれかを目指すことになったが,等持院の西側を歩いているうちに,成り行きで等持院駅になった。
実に惜しいことに,完乗にあと一駅ということになってしまったが,やむを得ない。
四条大宮-嵐山間は,高校の修学旅行で乗っていたので,北野線を1区間乗り残したのは痛いが・・・。


周囲は,上品なコンクリート造りの瀟洒な建物が建ち並ぶ。
西園寺公望が創始者である関西の名門,立命館大学である。

上記修学旅行の際,多分龍安寺と金閣を見た後,ガイドさんから紹介されたことを思い出した。
「ぜひ京都の名門と言われる大学で,学生生活を過ごすのも宜しいのではないでしょうか」と言われ,国文学とか哲学,史学や地理といった人文科学系の学科だったら,京都で青春時代を過ごすなんて,何と理想的な・・・と思ったものだった。
残念ながら,学力不足で翌々年の受験には失敗してしまい(勿論立命館は受けていない),2年半の後に地元で進学することになってしまったが・・・。
故に,高校生の息子に,
「県外の私立は(経済的に)無理だと言ったが,ここと同志社だったら金出してやるぞ」
と,言ってしまった。
ま,私同様,その心配は無いに等しいが・・・。
因みに,立命館大の卒業生で私が真っ先に頭に浮かぶのは,元ヤクルトの古田敦也である・・・。
立命館大のキャンパスを過ぎると,等持院西町になる。
等持院駅はすぐだったが,近辺は何とも昭和を感じさせる街並みとなったことが,妙に嬉しかった。

特に,現在は営業している様子はなかったが,等持院駅北側角のたばこ屋が,何とも言えぬ昭和の情緒を醸し出していた。
但し,消防法や建築基準法に触れないか心配ではあるが・・・。


等持院駅にて,電車を待つ。
北山とはいえ街中なので,便は良いようで,幾らも待たずに上下線とも来た。

いや,こうした私鉄の単行は本当に良い。

京都市電が無くなって37年経つが(仙台市電の翌年だった),古都に似合うのは,やはり1両のみの電車だ・・・。

さして混んでも居ないし,帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅まで6駅,古都の情趣は,こうしたところでも味わうことができるのである。
帷子ノ辻で,嵐山線に乗り換える。
帷子にしても辻にしても,何とも京都らしい駅名だが,勿論謂われがある。
今回は割愛するが(暴走どころでは済まなくなる),宜しからぬ内容とだけは伝えておこう・・・。
嵐山本線に乗り換えると,5つめが終点の嵐山駅だ。
この嵐山駅が何とも素晴らしかった。


こちらの嵐電(京福電鉄)のトップページをご覧いただければ分かるのだが,キモノフォレストと呼ばれる光林が,ホームで降車客を出迎える。
何とも雅やかな心憎い演出である。

ホームのみならず,嵐山駅門前も同様に美しい。
単行の電車に乗ったことも収穫だったが,嵐電嵐山駅の見事さが,もしかすると嵐電最大の収穫だったかも知れない・・・。


かつての若かった(何せ16歳だった)私もここに足跡を印し,野郎5人と嵯峨野の寺巡りをした。
修学旅行の実質的最終日,自主研修でのことである。
旅慣れたやつが1人居て,イニシアティブを取って決めた旅程だが,京都が初めての私は,旅行社から渡された地図を見て,付いていくのが精一杯だった。
大河内山荘近くの竹林を抜け,小倉の池から落柿舎を経て,嵯峨駅に至る呆気ない行程で,天竜寺も妓王寺も見ないというコースで,実にもったいない感があったが(鉄分が強い輩が多く,梅小路蒸気機関車館でC62を見た-スワローマークは後付け),その反省を受けて,再び私がここに戻って嵯峨の巡りを敢行したのは,そこから3年半の後だった・・・。天龍寺に始まり,二尊院,妓王寺,滝口寺,化野念仏寺,直指庵,大覚寺(大沢池),広沢池という強行軍だったが,フットワークの軽い1人なればこそできた技だろう・・・。


天龍寺を見せたかったが,時間的に4時半近かったので諦めて,渡月橋を渡る。

人混みは嫌いだが,嵐山の賑わいを見ると,その活気が妙に嬉しい。
9月に大堰川が氾濫し,この辺りは皆冠水した筈だが,あっという間に復興した。
一週間後には,観光客を受け入れていたというから,関西人のポジティブな考え方には脱帽の思いだ。
大堰川の川面に,河畔の集落の灯が映え,何とも言えぬ風情だ。
三条大橋から見る先斗町や木屋町方面の賑わいも京都らしいが,初めて見る夕刻の渡月橋と大堰川,そして嵐山の灯も格別であった・・・。
一昨年訪れた宇治もそうだったが,嵯峨嵐山も又大宮人たちの別荘地であった。

法成寺入道前関白太政大臣(藤原道長)が,大堰川に舟を浮かべて,管弦を楽しんだのは,栄華物語だったか大鏡だったか・・・。
確か「大井川の舟遊び」(原文のママ)という題名で,高校の古文の教科書に載っていた。


ひととせ,入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに,作文の舟・管弦の舟・和歌の舟と分かたせ給ひて,その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに,この大納言の参り給へるを,入道殿,
「かの大納言、いづれの舟にか乗らるべき。」
とのたまはすれば,
「和歌の舟に乗り侍らむ。」
とのたまひて,よみ給へるぞかし。
小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき申し受け給へるかひありて,あそばしたりな。(「大鏡」より三舟の才)


というのもあり,悲しいことに,入試問題で解いた・・・。
日はとっぷりと暮れた刻限,大堰川,否,渡月橋より下流だから桂川の瀬音を耳に,一路阪急の嵐山駅を目指す。
周囲は,私には全く縁の無かった高級な温泉旅荘と高級マンション。
そして,関西で一番おしゃれな私鉄と言われる阪急電車。

桂で乗り換えて,四条河原町に向かう阪急の車両は,クロスシートの立派なものだった・・・。


(よいやく第1日目が終了。この後は,四条河原町で飲んで食事をしてホテルに帰りました。何を食したかは,いずれ紹介したいと思います・・・。)


關西紀行,其之八:侘び寂びは何処・・・

2014年01月13日 20時49分36秒 | 旅行,および「鉄」

御室仁和寺からバスに乗り,御室,塔の下町と経て,次が竜安寺前となる。
前回述べたように,前に訪れたのは高校の修学旅行なので,とんでもない年数が経っている。
あの時(何せ16歳だ・・・)は,9月下旬の残暑厳しき折だったが,朝の冷え込みというか日較差がえらく大きく,布団を剥いで寝て風邪を引いた記憶がある。
龍安寺(バス停は竜安寺だが,ここからはWebページに従って,龍安寺と表記を統一する)を訪れたのは,朝いちだったせいか,凛とした冷気が寺域に漲り,幻想的な白砂の織りなす光景が,たいそう気に入った。
大勢で訪れた筈だが,珍しく大騒ぎする者も居なかったのか,静かに見ることができた。その後,金閣-西芳寺-銀閣というルートだったが(どうも金閣-龍安寺だったような),苔がところどころ剥げかかっていた西芳寺より,朝の凛然たる空気が張り詰めた龍安寺の砲が気に入ったものだった・・・。


でもって,江戸中期建立という,慎ましいただすまいの山門をくぐる。

当時の記憶は全く無い。
地味だが味わいのある参道の右は,鏡容池なる池である。
水鳥が遊び,名の通り鏡のような水面を見ながら,石庭のある庫裏をを目指す。
椿の花びらが似合いそうな石段の脇は,龍安寺垣と呼ばれる割竹の組み合わせが,菱形を形成して,節度だった美しさを見せる。

良い寺だ-改めて,そう思った。
庫裏へ上がる際に靴を脱ぐと,石庭はすぐだった。
人は極めて多い。
皆,しゃがんで極力低い位置で石庭を味わっている。

「・・・・・」
前回見たのは朝,今回は午後。
そうした時間帯による空気の違いはあるだろう。
さらに,毎朝形づくられるという白砂の模様は,以前は真っ白く感じられたものだが,今回はどうも灰色がかっている・・・というか,黄色っぽいというか・・・,人が多いこともあって,どうも以前感じだ凛然たる空気感は極めて希薄だった・・・。
唯,決定的に違うのは,ここ2~3日,関西地方は記録的な寒波に見舞われたようで,その名残か,雪が少しあった。
それがまた,独特の情趣を醸し出しているのは間違いなかった。
深呼吸を繰り返して,気を静めつつ,シャッターを切る。
画像であれば,喧噪とは無縁か・・・と思った。


臨済宗妙心寺派大雪山龍安寺の開山は,15世紀半ばに遡る。
創建したのは,室町幕府の管領職にあった細川勝元。
応仁の乱の東軍の総大将として有名な人物である。
細川氏は,勿論足利氏の一門だが,斯波氏と畠山氏(いずれも足利氏族)と共に,三管領と並び称された(高校の日本史で暗記した)。
室町幕府には,他に四職(ししき)と呼ばれた侍所(警察と税務署を併せたような役職)の長官(所司)を交代で務めた諸族があった。
一色,京極,山名,赤松諸氏がそれである。
一色は,三河出自の足利一門,京極は宇多天皇の後裔たる近江源氏の佐々木氏族(婆娑羅大名と呼ばれた佐々木導誉の子孫),山名は,何と足利氏のライバルとも言うべき新田氏族(南北朝時代に,足利氏に付いた新田氏族もあったということか),そして赤松は,尊氏に仕えた円心入道則村が播磨の土豪から身を起こして守護職になったが,一応村上天皇の子孫ということになっている。
因みに,美濃の守護職だった土岐氏を入れて,五職と呼ぶこともあるらしい。
土岐氏は,大江山の酒呑童子退治で勇名を馳せた源頼光を先祖とする清和源氏(摂津源氏)であり,明智光秀もこの一族と言われる。
・・・とまたしても,余計なことを述べてしまったが,細川氏は多分勝元と,嫡子の政元の時代が全盛だったのではないだろうか。
なればこそ,このような大寺を勧請することができたのであろうし,応仁の乱においても,東軍の大将として,西軍の山名持豊(宗全)に対抗し得たのだろう。
その後は,幕府権力のさらなる弱体化を招き,16世紀に入ると,将軍か京を追われるという未曾有の事態が出来したりするのである・・・。
勝手に思うに,この15世紀後半の東山文化に代表される時代は,やはり臨済禅に基づく所謂わびさびの文化が,武士を中心に興ったのだろう。
なればこそ,少しばかり時代を後にする銀閣(正しくは慈照寺)同様,素朴で華やかさはないが,凛とした空気感が漂う庭園に,私が惹かれるのかもしれない・・・。
いずれにしても,室町幕府の取った守護領国制は,鎌倉幕府の模倣でしか無く,中央集権とは程遠いものとなり,各地に所謂戦国大名の跋扈を生んだが,その反面,民間では惣村の発展を齎した。
農業技術の飛躍的な発展も,この時代ならではだし,今なお伝承される昔話の数々を収めた「御伽草紙」の編集,そして能楽の茶の湯の体系化と興隆は,このわびさびの美学と完全に融合したものだろう。
中央政府が力を失うと,逞しい民衆が力を奮うものなのである。
果たして,現代はどうなのか・・・。


・・・といった思いで,鏡容池の対岸を戻る。
何度シャッターを押したことだろう。


龍安寺は,石庭こそかつての凍結したイメージのせいか,十分に楽しめなかったが,この鏡容池を中心とした庭園の美しさこそ,価値があると思った。


突然,尾籠な話題で申し訳ないが,冬場の遠出の際に,大きな問題となるのがトイレである。
特に,底冷えする季節故に,トイレの有無は死活問題であり,乗り物の中には無い故に,トイレを見つけたら即入るのが鉄則である。
ましてや,子連れだと尚更だ。
龍安寺の山門を出た東側に,茶店とトイレがあり,ベンチもあったので,小用を足した後,休憩にした。
抹茶でも点てれば良いのだろうが,紙コップ式の珈琲の自販機があったので,ついついそちらに走った。
最近,コンビニの挽き立ての珈琲に填っていたのだが,この旅行中は残念ながらコンビニ珈琲を喫することは無かった。
コンビニに行くのは,宿へ戻る途中の専ら夜であり,酒と酒肴とおやつを買うことは有っても,煎れ立ての珈琲を買う機会は得なかった。


・・・ということで,今日もワープロ2ページを費やして,龍安寺だけで終わってしまった。
勿論,この日の旅程は,まだ続く・・・。


關西紀行,其之七:門跡寺

2014年01月11日 23時01分22秒 | 旅行,および「鉄」

堀川今出川でバスを降り,乗り換える。
堀川通りを只ひたすら北上するだけだったのだが,今出川通りから北野天満宮の前を通り,一条通から,足利三代の木像がある等持院の前を通り,嵐電(旧名京福電鉄)を渡ると,衣笠山の麓のきぬかけの路へ出る。
本日の最初の目的地である仁和寺は,そのきぬかけの道沿いに有った。


まずは,その堂々たる二王門が目を引く。

平安様式の,見事な造形だ。
それをくぐると,広大な寺域への長いエントランスだ。
五重塔の姿も美しい。

慶長年間に建立された皇居紫宸殿を移築したという国宝の金堂も,重厚なただずまいだ。


敢えて,駅やホテルから遠い北山の仁和寺を選んだ理由は,ある1人の人物に対する関心からだった。
皇太后宮亮平経正(?~1184)。
平清盛の弟である経盛(1124-1185)の長男である。
「平家物語」における後半の主役は,富士川や倶利伽羅谷の戦いの総大将であった維盛だったり,都落ち後は実質的な総指揮官だった知盛だったり,平氏一門随一の豪傑である能登守教経だったりすると思うが,この経正は,薩摩守忠度と並ぶ風流の徒として描かれる。
仁和寺は,光孝~宇多天皇によって創建された真言宗の大寺であるが,代々皇族が門跡を務め,朝廷の庇護を受けてきた。
経正は,一門の中でも琵琶の名手として知られ,幼少期を仁和寺で過ごし,仁和寺五世門跡覚性法親王より銘器青山を下賜されたと言われ,歌人としては,忠度同様,千載集の編者である皇太后宮大夫俊成との親交もあったという。
北陸へ木曾義仲軍との戦いに赴く際に,戦勝祈願のため竹生島に詣でたエピソードは「竹生島詣」として知られ,一門都落ちの際は,仁和寺へ立ち寄り,覚性法親王に青山を返したことも「平家」の他,「源平盛衰記」でも語られている(尤も,覚性法親王は,それより15年程前に没しているので,第六世の守覚法親王に返したのでは,と思われる)。
叔父に当たる忠度が,俊成のもとへ訪れたことと被る。
そして,さらに言うなら,この風流将軍とも言うべき2人は,いずれも一ノ谷の戦いで,散っているのである。


気の毒なことに,経盛の子はいずれも一ノ谷で討ち死にしている(らしい)。
長男の皇太后宮亮経正,弟の若狭守経俊,無官太夫敦盛の3人である。
経正は,武蔵国の住人である川越重房の手勢に討たれ,経俊は,従兄弟の尾張守清貞・
淡路守清貞と共に敵陣に突入して討死,敦盛は,熊谷次郎直実に討たれた。
父である経盛は,翌年一門と共に壇ノ浦で入水して果てるが,子の殆どを失ったその心中は,察するに余りある・・・。
私は,今まで経盛の長子が経正で,次子が経俊,そして三男が敦盛と思ってきた。
ところが,確かに経正は長子であったが,経俊との間には経兼,広盛という男子がおり(彼等のことは全く分からない),経俊と敦盛の間にも,経光なる男子が居たらしい。
おそらく,彼等も一ノ谷か,翌年の壇ノ浦で散ったのだろう・・・。


広大な仁和寺を満喫し,バスできぬかけの路を東に向かう。

次の目的地である竜安寺までバス停は3つしかなく,歩いてもそれまでなのだが,せっかくフリー乗車券が有るので,来たバスに乗った。
これで3回乗ったので,完全に元を取ったことになる。
それにしても,きぬかけの路とは,何とも風流な呼称だが,この名称が制定されたのは平成3年というから,随分と新しい。
一般公募だったというが,他の候補は,「みやびのみち」,「つれづれのみち」,「やすらぎのみち」,「古都のみち」・・・というから,やはりどう考えても一番相応しい名称だったと言っても良いだろう。
因みに,1963(昭和38)年に開通したというから,京都でも新しい部類だろう。
当初は,単に観光道路と呼ばれていたそうだ。


竜安寺前で下車。
バスは満員に近かったが,殆どが金閣へ行くのだろう。
金閣は修学旅行で見たし,5年前にも見せている(銀閣と同時に見せて比較させようと目論んだが,銀閣が工事中で,目論見は果たせなかった)。
ま,私としては,1回見れば十分だ。
逆に銀閣は,何度行っても素晴らしい。
門前町の賑わいも悪くないし(丹波黒のきんつばが美味),何よりも東山山塊を借景にしたような庭が良い。
疎水沿いの哲学の道を経て,永観堂から鹿ヶ谷通りを抜けての南禅寺へのアプローチも,程良い散歩が楽しめる・・・。


・・・ということで,これも高校の修学旅行以来の竜安寺へ。
遙か過去の印象とどう違うのか,変わらないのか・・・。


關西紀行,其之六:東西対立は世の常・・・??

2014年01月09日 21時34分52秒 | 旅行,および「鉄」

京都駅烏丸口の地下街ポルタで昼食にする。
一昨年食したラーメン熊五郎の隣の杵屋なるうどん店である。
下の子がうどんを食したいというので,決めた。
何と大盛り無料。
1.5玉食べて満腹。
何か見覚えが・・・と思ったら,3年前にも入った店だった。
丁度正午近かったせいか,我々が出る頃には行列ができていた。
程良くコシのあるうどんが美味であったことは言うまでもない。


そこから,塩小路通りをに少し歩いて,堀川通りとの交差点に,今回の宿を決めた。
今まで泊まったのは,すべて平成になってからできた新しいホテルばかりだったが,今回は,1960年代後半の築。
しかし,実に小綺麗で快適な空間だった。
ま,4人部屋ということと値段に釣られたのだが,15分おき八条口までシャトルバスが走っているし,歩いても駅から10分かからないし,食事も良かったし,何よりもクルーが皆親切だったし,正解だったようだ・・・。


ホテルに荷物を預け,最寄りのバス停である七条堀川へ。
ホテルのおねいさんからは,駅のバスプールへ行くよう進められたが,少しでも時間を短縮できるなら・・・と,西本願寺近くのバス停へ行き,隣の円頓山興正寺なる寺を見学。
今知ったのだが,元々は本願寺の脇門跡だったそうで,後に独立したという。

堂々たる桃山様式の山門が,江戸初期のものであることを感じさせる。
勿論,本願寺同様浄土真宗だが,寺域は大層広い。

隣の西本願寺の寺域は,とんでもなく広いのだが・・・。
5年前,金閣を目指して,今回同様堀川通りを北上するバスに乗った際,先ず目に飛び込んできたのは,この西本願寺であった。
ロハで見学できるというのも,魅力である。
3年前,雨に降られて,駅から歩ける範囲・・・ということで,東西本願寺を梯子したことがあったが,一度は見ておくべきだろう・・・。


ところで,何故に東西本願寺に分かれているのか。
これこそ,江戸幕府のとった高等戦術である。
とにかく,信長を散々苦しめただけではなく,家康など地元三河の一向一揆には,命を失う寸前だったという(その中に本多正信が居たらしいが)。
何せ,欣求浄土(あの世こそ憧れ)厭離穢土(穢れたこの世は嫌い)と,死ぬことを恐れないのが,一向宗徒(浄土真宗本願寺門徒)である。
こういう連中を相手にしたら,それこそ命が幾つあっても足りない・・・。
信長は,大坂石山立ち退きを和睦の条件としたが,本願寺十一世の顕如は,一向宗徒の多い紀州雑賀へ退隠。
その際に,石山退去を頑なに拒否した長男教如を義絶する。
顕如を支持する穏健派と,教如を戴く強硬派に分かれたことが,東西本願寺分立の端緒だった。
秀吉の世となってから,顕如は貝塚本願寺を経て,大坂天満へ移り,さらに現在の七条堀川の地に寺域を移す
文禄2(1592)年に顕如が入寂すると,義絶を解かれた教如が本願寺を継いだが,顕如室の如春尼(教如実母)は,顕如の意志ということで三男の准如を後継にすべく秀吉に直訴。
秀吉は,その命を教如に伝え,教如も一旦従う意志を示したが,周囲の強硬派が秀吉に異議を申し立てる。
それによって,秀吉の怒りを買った教如は,本願寺の一隅へ追いやられることとなった。秀吉没後,かねてより家康に接近していた教如に,六条烏丸の地が与えられる。
これが東本願寺(真宗大谷派)の誕生である。
東西本願寺の対立と分立を巧みに利用した幕府により,かつての政治的影響力は全く無くなったとも考えられ,以後二派に分かれたまま現在に至るという訳である。


しかし,この教如という僧は,かなりの硬骨漢というか,相当骨のある男だったようだ。
石山本願寺が,和議とは言え信長に屈した形で大坂を退去する際も徹底抗戦を標榜し,雑賀衆の庇護の元,紀州に潜伏したり,秀吉時代に隠遁させられても布教活動を展開したり,最後は別の本願寺を建てることに成功したり・・・と,なかなかドラマティックな人生である。
家康が教如に理解を示したのは,東西本願寺の分立対立による共倒れを企図して・・・という私が上述した高等戦術とも言えるが,結果的に両本願寺とも400年を経て現代に至るわけだから,結果的に良かったのでは・・・という考え方もあるだろう・・・。


・・・と思っているうちにバスが来た・・・。
市内均一区間のフリー乗車券は500円。
一回220円だから3回乗れば元が取れる。
但し,大原や鞍馬といった遠隔地は勿論,嵯峨・嵐山エリアも圏外となる。
結果的に,この日3便に乗ったので,元は取ったのであるが・・・。


・・・ということで,本願寺で止まってしまった・・・。
余計なことをついつい書いてしまうのが,悪い癖なのだが,治りそうもない。
次回は,洛中紀行が書けるのだろうか・・・。


關西紀行,其之伍:安土往還之記・・・

2014年01月08日 21時01分38秒 | 旅行,および「鉄」

かつて不破の関があった江濃国境の狭隘部を抜けると米原だ。
北陸線と東海道線,新幹線が分岐する交通の要衝だが,市域の西半分は伊吹山麓になるため,降雪も多いようだ。
ところが,彦根,豊里,能登川・・・といった琵琶湖東岸の地域を通過していき,愛知川(えちがわ)を渡ると,雪がだんだん無くなっていく。
安土・近江八幡という,いずれも16世紀後半に建造され,数年で廃城となった織田氏・豊臣氏の城跡付近まで来たときは,完全に雪は消えていた・・・。


琵琶湖の舟運と,水利の良さから美田が広がる近江平野を,信長はのどから手が出るほど欲しかったのだろう。
将軍義昭を奉じての永禄4(1568)年の上洛戦の時,南近江を支配していた六角氏を鎧袖一触放逐し,妹婿である北近江の浅井長政を討つには,それ以降数年を要した。
岐阜と京を結ぶ中間地点の近江こそ,信長にとって重要であったことは間違い有るまい。なればこそ,高速艇で琵琶湖を突っ切り,京まで1日で行くことのできる安土に築城したのだろう。
目の上のたんこぶとも言うべき浅井・朝倉を屠り,本願寺宗徒も鎮静化し,ようやく畿内平定が終わった信長にとって,思い通りの城を建造したのだろう。
岐阜も清洲も,自分が造った城ではなかった故・・・。


しかし,安土城自体の命運も,長くはなかった。
信長横死から程ない,天正10(1582)年6月,謎の失火によって,天守閣が焼け落ちるのである。
これについては諸説がある。
①光秀の城代だった明智秀満が退去する際に焼いた。
②信長二男の信雄が焼いた。
③野武士や夜盗が入り込んで焼いた。
④落雷によって焼けた。
・・・といった具合である。
①は,湖水渡りをして坂本城に入り,自刃する前に,光秀所有の名刀や茶器などを包囲軍の堀秀政に渡しているところからも,安土城を焼くとは考えにくい。
完全に,光秀一族に対する濡れ衣だろう。
⑤は,父に似ず暗愚な信雄が,敵に利用されるのを避ける目的で焼いたということで,ルイス・フロイス著作にも記述があるらしい。
だとすれば,直接焼いたのではなく,明智軍を燻り出そうと,浄化に放った火が類焼したのではと思われる。
信雄にとっても,不本意な言われ方だろう。
そう考えると,本能寺の変~山の戦いの混乱期に夜盗が進入した③は,信憑性がありそうだし,④も考えられなくはないが,どうだろう・・・。
 本能寺の変当時,安土城の留守を預かっていたのは,近江出身の蒲生賢秀である。
いち早く信長の妻妾を自身の日野城に逃がして事なきを得た。
子の氏郷ともども,出世の糸口となったことだろう・・・。


因みに,安土山の隣の八幡山の城(八幡山城,近江八幡城)は,安土城が廃城となった後に,豊臣(羽柴)秀次の居城として建てられた。
天正18(1590)年に,秀次が尾張清洲へ移封されると,京極高次が入るも,秀次一族の滅亡と共に,大津城へ転封。
こちらも10年足らずで廃城となったのであった・・・。


野洲川を渡ると,いよいよ湖南だ。
先に述べた京極高次の城下町大津が近づく。
東方には,俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の百足退治で有名な三上山(近江富士)が見え始める。
佐藤さん,斎藤さん,伊藤さん,遠藤さん,加藤さん等,藤のつく名字の方々の先祖であるので,これらの氏(うじ)の方々は,覚えておくと良いだろう・・・。
私は違うが・・・。


大津市内に入り,瀬田川を渡る直前の一瞬,琵琶湖が見える。
新幹線から大きく見えるのは,ここだけではないかと思われるのだが,湖水の南岸にある,この大津の町の風光は底抜けに明るい。
古来,政争に絡む相次ぐ合戦の血生臭い舞台となった地域ではあるのだが,湖を控えているせいか,そうしたことを一瞬たりとも感じさせない。
一昨年,三井寺(園城寺)から,膳所まで湖岸をまったりと歩いたことがあったが,琵琶湖には好天が似合う・・・。


大津を過ぎると,新幹線は音羽山の山頂の直下を通る。
その音羽山トンネルを抜けると,京の東口とも言うべき山科盆地だ。
先日,私の好きな「餃子の王将」チェーンの社長が射殺されたところでもある。
理不尽極まりない暴力に対して,憤りを感じると同時に,何としても京都では,王将で食事してやろうと思ったのだが・・・。
瞬く間に山科盆地を通過し,上に斎場のある今熊野の山をくぐると,三十三間堂のある蓮華王院と後白河法皇陵の南に出て,鴨川を渡る。
2年ぶりの上洛,平安千年の古都の空気が,充溢していた・・・。


・・・ということで,丁度ワープロ2ページ分キーを叩いたことにより,念願の上洛となつたところで,今日は終了。
午後は,いよいよ洛中紀行と相成る・・・。


關西紀行,其之四:天下分け目の大暴走・・・

2014年01月07日 21時12分02秒 | 旅行,および「鉄」

遠州から参州へ。
静岡から愛知に入る。
豊橋が,吉田と呼ばれていたことは,前回述べた。
その豊橋を出ると,東海道新幹線は一気に三河湾に近づき,その後遠ざかって北西に進路を取る。
三河湾沿岸の西浦温泉には,一度行ってみたいと思っていた。
幡豆,西尾,形原,御油(御津)と,松平氏所縁の地名が散在する。
以前,鈴鹿サーキットへの紀行文で述べたことがあったが,旧郡名てせいうところの幡豆郡から額田郡にかけては,15世紀以降松平氏の一大根拠地であった。
徳川家では,伝説的な系図を作り,上州新田源氏の末裔であると称したが(このあたりの徳阿弥の伝説とか,読んでいるとなかなか面白い),氏祖を新田氏の祖である義重の四男得川(徳川・世良田)四郎義季に遡るとした。
義季は,上州新田郡徳川郷に住して,徳川四郎を名乗ったわけだが,現在も太田市南部,利根川に程近いところに,徳川町が存在し,隣の世良田には東照宮も有り,一帯は歴史公園となっているようだ。
賀茂神社の神官だったというのが,現代の定説のようだが,伝説であろうと無かろうと,我々素人がいろいろと考えるのは自由であり,真相の究明は,偉い学者先生に任せておけば良いと思う・・・。
因みに,鎌倉時代,三河の守護は,足利氏だった。
細川(額田郡細川郷-岡崎市細川町),吉良(幡豆郡吉良荘-西尾市。名鉄吉良駅がある)今川(幡豆郡今川荘-西尾市今川町)といった諸族を輩出した。
だから,家康は,足利氏のライバルたる新田氏を名乗ったのでは・・・とは,以前も述べた・・・。
忠臣蔵で有名な吉良氏の出自は三河の足利源氏であり,今川氏よりも家格が上の摘系であったとも言える。


などと思っているうちに,新横浜の後唯一の停車駅である名古屋駅に滑り込む。
かつては,新幹線からナゴヤ球場が見えた記憶があるが,最近は進行方向右側に座ることが多いせいか,面倒で確認しなくなった。
97年にナゴヤドームが完成して,二軍の本拠地となったようだが,ホームプレート後方の地面に書かれたDragonsのロゴは,今も有るのだろうか・・・。
20数年前は,必ず巨人戦になると,小松・鈴木孝・牛島の三本柱を当ててくるのが,兎ファンとしては,何とも小憎らしかったものだ・・・。
81年,江川と小松の150km応酬も,ここだったと記憶している(同年の宇野ヘディング事件は,後楽園)。
私の周囲には,何故か中日ファンが多く(殆ど男),次いでヤクルトファン(専ら女性)が多かったが,今もファンを続けているのだろうか・・・。


名古屋を出てすぐの,清洲城を確かめるのを忘れた。
名誉城主は,織田信成だったと記憶している。
尤も,信長~信雄~福島正則時代の清洲城は,五条川を挟んだ対岸であり,今の清洲城は全くの観光城ということだろう。
全く関係ない伏見桃山城よりは,まだましか・・・。


その後は,輪中地帯を進む。
木曽川,長良川,揖斐川の順に,濃尾平野の三大河川渡るが,昭和51(1976)年には,堤防が決壊して大変だったことを思い出した。
この辺りは,旧美濃国安八郡。
信長に仕えた光秀が,初めて領地をもらったところ・・・と,記憶している。
朝倉家で捨て扶持同様の石高だった光秀も,信長の太っ腹に驚いたことだろう・・・。
三河~尾張~美濃,そして近江も,歴史の表舞台だっただけに,この手の根多は多い・・・。
例えば,美濃は天下取りの地と呼ばれる。
関ヶ原の役は,その象徴であるが,私の知りうる限り,関ヶ原以前も2度の大いくさが行われている。
1つは,所謂壬申の乱である。
大海人皇子(天武天皇)は,飛鳥から伊勢を経由して美濃へ逃れ,不破の関を封鎖することで,東国の軍勢を押さえることに成功し,一気に畿内に攻め上った。
もう1つは,延元3(1338 北朝だと建武5)年の青野ヶ原の戦いである。
奥州の軍勢を中核とする北畠顕家軍が,足利軍を散々に破った。
尤も,大海人皇子は勝利した後,飛鳥浄御原宮で天武帝となるのだが,北畠顕家は,伊勢~和泉と転戦して,遂には泉州石津で戦死する。
南朝悲史の1つであるが,何と顕家は僅か21歳であった・・・。


その古代から関所のあった不破郡に入ると,急に雪が深くなる。

関ヶ原とは,不破の関から来た地名であろうが,狭隘部だからか,吹きだまりのようになって,降雪があるのだろうか・・・。
毎年新幹線はここで徐行するので,京都到着がえらく遅くなる。
仕方のないことではあるが・・・。
県境の伊吹山は,当然のことながら冠雪している。
南北朝時代から室町時代初期,伊吹山に館を構えたのは,佐々木(京極)導誉(高氏)であった。
南北朝の動乱と,足利家内部の紛争である観応の擾乱を巧みに生き残り,多分男として最高の人生を送ったと思われる人物である。
箱根竹ノ下の戦いでは,あっさりと新田軍を見切って,足利軍に味方するなど,節操のない生き方をしたと思われがちだが,導誉には有り余る教養があったと言われる。
当時流行った立花などは,導誉が始まりと言われているらしいし,幕府内でも一目置かれる存在であったことは間違いない。
そのような彼を,人々は婆娑羅(ばさら)大名と呼んだ。
黒田官兵衛のことで書いたが,中世以降近江を支配したのは,宇多天皇を祖とする佐々木氏であった(宇多源氏・近江源氏)。
導誉の京極氏も,そして16世紀に南近江を支配して信長軍に攻撃された六角氏もこの佐々木氏が祖である。
因みに,京極とは,京の端を表す。
京都市街西部に西京極運動公園があり,かつて阪急がよく試合を行った西京極球場は,その一郭だが,今もこうして名を残している訳だ・・・。


・・・ということで,関ヶ原を越えて近江に入ったところでストップ・・・。
やはり暴走は止まらない・・・。


關西紀行,其之参:夜のお菓子,うなぎパイ・・・

2014年01月06日 21時31分44秒 | 旅行,および「鉄」

昨日の大河ドラマのエントリも,完全に暴走モードとなってしまいました。
果たして,今日はどこまで行けるのか,一体上洛はできるのか否か・・・。


小田原を出ると,新幹線はトンネルに入る。
小田原城をかすめて,すぐである。
早川,根府川という箱根山系から流れ出る川を渡るときに,ちらっと地上に出て,進行方向左手に海が垣間見えるのであるが,あとは石橋山の山塊の中だ。
かつて,この早川付近で敢え無く散った1人の若武者について,随分前に稿を起こしたことがあったが,石橋山や箱根権現,そして今から書こうとする湯河原近辺は,源平合戦草創期の史跡の宝庫と言える。
一度湯河原温泉には,行ってみたいと思っていた。
隣県というか隣町の熱海が有名だが,山間の出湯というイメージで,以前から惹かれている。
新幹線が一瞬千歳川を渡る瞬間,0.5秒くらい-つまり瞬く間に,温泉街は後方に吹っ飛んでいく。その直線のトンネルの真上は城山と呼ばれるらしいが,城願寺なる寺があるらしい。
このあたりは,かつて土肥郷と呼ばれた。
日本史に詳しい方なら,頼朝の軍監を勤めた土肥次郎実平(といのじろうさねひら)と,嫡男の弥太郎遠平父子を思い出すことだろう。
頼朝旗揚げ以来の功臣であり,石橋山で大庭景親を中核とする平氏軍に敗れた頼朝の命を救ったのは,地理に明るい実平であったことは想像に難くない。
嫡男の遠平は,早川の荘に住み,小早川を称したが,平氏追討の功によって,安芸国沼田(ぬた)荘の地頭職に任命される。
つまり,戦国時代の小早川氏は,何と関東の出自だったことになる。
尤も,有名な小早川隆景は,毛利元就の三男だったので,安芸の名家である小早川家の名跡を継いだだけであり,血のつながりは無い。
土肥氏は,元々平姓良文流(平将門の叔父の子孫)なのだが,相模一国は,梶原,大庭などの鎌倉一族,三浦半島に蟠踞した三浦一族等,平氏の国だった。
それの殆どが,頼朝に従い,軍団の中核となっていったのだから,皮肉・・・というより,実利優先だった当時の武士の在り方が伺える。
因みに,毛利氏は先祖は,実平と同時代人である大江広元まで遡る。
大江氏は,平城天皇の子孫と記憶しているが,西国の大名の祖が関東に・・・というのも,歴史のロマンだろう。


熱海を過ぎると,新丹那トンネルに入る。
箱根の山を突っ切って,出たところが伊豆の国府がおかれていた三島となる。
三島からは,伊豆箱根鉄道が修善寺温泉まで延び,その先は天城湯ヶ島温泉郷や,天城峠を経て,南伊豆の下田へ至る。
川端康成の「伊豆の踊子」の舞台でもあるが,井上靖の自伝的作品の舞台でもある。
この辺りから,根多が続かなくなりそうだが,窓外には雄大な富士の山容が広がり始める。
東海道沿いに進む旧東名高速だと,蒲原とか由比あたりが,駿河湾を眼下に,見事な眺めを楽しむことができるのだろうが,新幹線だと富士川橋梁あたりからの眺めがピークであろう・・・。
遠くに富士山を望み,茶畑と蜜柑と・・・といった代表的な静岡のイメージは,きっとこのあたりで見ることができるのだろう・・・。
否,川根茶というくらいだから,大井川沿いの藤枝辺りが茶畑が多いのだろう。
以前,藤枝の親戚から送られてきた茎茶は,大層美味であったし・・・。


静岡空港の下をくぐり(勿論気付かず),掛川を通過する。
遠州掛川-関ヶ原の功によって,土佐24万石の国持ち大名となった山内一豊は,ここの殿様だった。
駿府(静岡)の中村一氏,三河吉田(豊橋)の田中吉政,尾張清洲の福島正則と同様に,秀吉は,自分の子飼いともいうべき大名を,東海道沿いに配した。
勿論,江戸の家康の西上を恐れてのことだが,関ヶ原ではそれが全く効力を成さなかったのだから皮肉である・・・と思うのは,現代の我々だからであり,当時東軍に付いた豊臣恩顧の大名たちは,あくまでも豊臣家のために家康に付いたのであり,家康の大義名分も,豊臣家を秀頼を守るために,西軍と戦ったということになる。
だから,豊臣恩顧の大名が裏切った・・・とは,単純に言えないのである・・・。
・・・と思っているうちに,浜松を通過する。


突然視界が,ぱっと明るくなった。
遠州-遠江(とおとうみ)の語源とも言うべき浜名湖を渡る。
湖岸には椰子の木が林立し,ここだけが別世界という感じだ。
それも,競艇場が見えるまでの一瞬だけど・・・。
浜名湖と言えば,何と言っても鰻である。
浜名湖産の鰻は高くて買えないのだが,以前知り合いにもらった浜松土産に,「うなぎパイ」というものがあった。
個別包装の袋に入った10cm程のものだったと記憶しているが,そのキャッチコピーが奮っていた。
何と「夜のお菓子」である(爆)。
鰻の粉が入っているので・・・(以下自粛)・・・と思ったのは,私だけではない筈だが(笑),元々は,出張とかのお土産にうなぎパイを買い,その夜の一家団欒のお茶請けに・・・ということから,付けられたということだ。
浜松を通過するたびに,この蘊蓄をたれたくなるのだが,子連れなのでいつも自粛する・・・。

・・・というところで,今回も又進まなかった・・・(泣)。
浜松でストップである。
次回で一気に上洛・・・と,行ってしまいたいところだが,次回は名古屋から岐阜・滋賀・・・と,これまた・・・。


關西紀行,其之弐:富岳参拾六景・・・

2014年01月04日 21時55分48秒 | 旅行,および「鉄」

新幹線に乗ると即ビール。
これが私のパターンである。
さすがに県外出張の際は自粛したが,家族出てかける際は,朝だろうが昼だろうがビールを買う。
尤も,朝6時に開店したKioskでビールを買ったのは,私だけだったろうが・・・。
ついでに言ってしまえば,かつては新幹線ホームでしか入手できなかった海鞘の燻製が有った。http://jizakewine.com/food/juuziya.htm
最近は売っていないようで残念だが・・・。
でもって,仙台で買ったヱビス(勿論ロング缶)を福島到着迄に1本空けてしまい,2本目のトリスハイボールをちびりちびり飲りながら,日光連山に見入っていた。
宇都宮には,駅のすぐ南に「サンロイヤル」とかいう格安のビジネスホテルが有って,車窓から見えた筈・・・などと思って,進行方向である南側を見やった瞬間驚いた。


何と,富士山が見えている!!
空気が乾燥する冬季は視界が効くので,今まで何度も東北新幹線から富士山を見ているのだが,それはせいぜい利根川を渡って埼玉県に入ってからだったと思う。
宇都宮から富士山が見える,しかも日光連山と同じ視界に見ることができるというのは,初めてである。
多分,栃木県南部の人たちは知っているのだろうが・・・。
トイレに行くついでに,反対側のドアの窓から(客室窓は殆どブラインドが下りているので,景色は確認できない)確認したところ,筑波山も見えた。
勿論,逆光なので,山容を確認しただけだったが・・・。


新幹線の難点の1つは,常に高架の上を走っているので,橋が分からないことだろう。
この日も,酔っていたせいもあって,板東太郎(筑紫次郎-筑後川,四国三郎-吉野川)の異名を取る利根川渡河が分からなかった。
意外にも知られていないと思うが,東北新幹線も東北本線も茨城県を通過するのである。
小山(栃木県)を出ると,古河市(茨城県)に入り,利根川を渡る。
対岸は栗橋(埼玉県久喜市)である。
古河といえば,15世紀末以降,享徳の乱で鎌倉を追われた鎌倉公方(足利尊氏次子基氏の子孫)の足利成氏が,御所を構えた地である。
これ以降,関東の勢力分布は,関東管領の両上杉家(山内,扇谷)や諸大名を巻き込んで,ぐちゃぐちゃの様相を呈していく。
やがて,内紛と小田原の北条氏の伸張によって,古河公方は勢力をそがれていくのであるが,古河という土地は,平安時代末期より栄えた利根川沿いの広大な下河辺荘を背景に,北に小山氏と宇都宮氏,那須氏,西に岩松氏,東に佐竹氏,そして南に千葉氏と武田氏(上総武田氏)と里見氏といった具合に,北関東の諸大名との連携を図る上で,中核となるに相応しい土地だったのだろう・・・。


大宮に着く頃には,秩父の山稜の背後に大きく富士山が見えるようになっていた。
大宮到着直前,県道2号線からロケットビルhttp://air.ap.teacup.com/tau_neu_clock/78.htmlを見るのが慣例となっているが,何のことはない,ロケット型のビルの通称である。
ストリートビューで確かめたら,1階は不動産屋のようで,上の階には居酒屋もあるらしい。
壁が湾曲しているので,家具を置くのが大変では・・・と,いつも勘繰ってしまう。
秋葉原から移設された鉄道博物館は未見なので,いずれ・・・と思いつつ日が過ぎた・・・。


埼京線の浦和駅とロッテ浦和工場・同浦和球場を過ぎると,あっという間に荒川を渡って,上京となる。
赤羽,十条,王子といった馴染みの深い北区の地名が続き,西側は武蔵野らしい段丘となる。
この辺りを境に,西を山の手,東を下町と言ったのでは・・・と思う。
特に,2月に本郷通りを飛鳥山公園から旧古河庭園迄歩いたので,都内でも親しみのある地域となっている。
・・・と,思っているうちに,新幹線はあっという間に地下鉄となる。
上野開業まで3年,東京駅までの延伸に9年もの年月を要した訳だが,地下駅であったことが最大の原因だろう・・・。
上野から,谷中の墓園を経て,上記北区の街まで,そぞろ歩きをしてみたいのだが,それも果たせぬ夢となりつつある・・・。


東京駅でのトランジットは,10数分。
例によってビールを買うには,十二分な時間だが,2年ぶりのN700系は,ブルーのシートを中心としたアコモデーションが明るくて良いと思う。
最新のE6系やE5系と比べるのは,野暮というものだろう・・・。
考えてみたら,0系,100系,200系,300系(初代のぞみ),400系(初代つばさ)と乗り継いできた新幹線だが,遂に500系だけ縁がなかった。
斬新なフォルムとカラーリングだったと思うが・・・。


定刻に東京発。
4時間ちょいで京都に着くのだから,凄い時代だ。
ま,東北から関西に行く場合,主流は飛行機だが,両空港までの所要時間と待ち時間を考えると,1時間も変わらないのではないかと思う。
高いところが嫌いな私であるから,当然飛行機も苦手であり(と言いつつ,内外32便乗っているが・・・),ゆっくり飲んでいける「鉄」が良いと改めて思う。
以前は,東海道線を普通列車で移動したこともあるが(上下線夜行を含めると,6回程有る),さすがに家族連れではそうもいかない・・・。
新横浜を過ぎるまで,冷えたスーパードライ(当然500ml缶)を空ける。
うっすらと冠雪した丹沢の山塊を見ているうちに,小田原駅を通過し,左手に小田原城をかすめる。
昭和末期の20数年前の夏,大垣までの夜行列車に乗ろうと東京駅に向かう途中で集中豪雨に遭い,小田原以西の列車は運休。
仕方なく東海道線の終電で小田原まで行き,箱根登山鉄道の入り口付近で,新聞紙の上で一夜を過ごしたことを思い出した。
あの時は,名古屋まで普通列車を乗り継ぎ,新快速で大阪まで行って,天王寺から阪和線に乗り換えて,そのひのうちに和歌山まで行った。
若かったからこそできた芸当であった・・・。


(今日も,暴走を重ねて,結局小田原までしか行けませんでした。このペースで書き連ねると,一体いつになったら終わるのでしょう・・・。自分でも見当が付きません・・・。)


關西紀行,其之壱:奥州道中膝栗毛・・・

2014年01月03日 23時12分39秒 | 旅行,および「鉄」

帰郷して丸2日,新しい年が明けて3日が経ちました。
年末年始,年をまたいで出掛ける・・・という前例にないことを敢行したせいか,戻ってからの生活に追われています。
昨日など,いただいた年賀状の返事(喪中の挨拶状)の印刷に追われましたし,午後は,実家に顔を出して,お屠蘇に酔ってきました・・・。


でもって,ようやく本年最初のエントリを立ち上げつつあります。
ま,自業自得なのではありますが,疲れが抜けずにいますので,今日は現時点でアルコールは入っておりません。
せっかくなので,久々の遠出の印象などを綴ってみたいと思うのですが,どうもいつも程意欲がわかない・・・というか,テンションが上がりません・・・。
とは言え,こうしたことを記録しておくことの重要性も感じますので,敢えて今夜から踏み切りたいと思います。
いつものような暴走が果たして有るか無いか・・・。


午前4時に起床。
前々日は御用納めで飲んでいたし,前日は遅くまで支度にかかり,お昼過ぎにようやく就寝したので,睡眠不足は否めなかったが,車内で寝ていこうと決めて,最後の旅装の点検にかかる。
戸外は雪。
庭に約10cmの積雪。
関西は最低気温が氷点下1℃,最高は8℃と天気予報を繰って知ったので,ジーンズはしまって,裏フリースのパンツにする。
慌ただしく朝食を平らげ,5時20分に迎えのタクシーで最寄り駅に向かう。
途中,峠を越えるのだが,斜面は完全に凍結+圧雪。
さすがは地元のタクシー。
ラゲッジに荷物を積んだので上りはすいすいで,下りもブレーキングが絶妙で,一切滑らない。
こうしたドラテクは,見習わなくてはならない・・・。
いつもはバスで峠を越えるか,時間と体力があるときは30分かけて峠越えをするのだが,荷物を背負っている上に子連れなので,始発のローカル線をつかまえるときは,前もってタクシーを呼んでおくことにしている。


暁暗には程遠い暗闇の中を,電車は予定通りに到着。
この程度の雪にやられるようでは,北日本では駄目ということだろう・・・。
07年3月,空港へのアクセス線開通と同時に運用が開始されたE721系の4両編成。
ついついトイレに近い2号車に陣取る。
乗車すること十数分で中央駅(仙台)へ。
始発の新幹線をつかまえるには,一番東端のローカル線ホームから,一番西の駅舎3階にある新幹線ホームにダッシュをする必要があるのだが(09年夏,お台場のガンダムを見に行くときなど,息子と2分で走った),今回は敢えて次発を選んだ。
理由は簡単。
那須塩原より先は各駅停車となる,所謂通勤新幹線なのだが(これは始発も同様),E5系を運用していることを,2月の東京出張の際に,前もって編成表を見て知っていたからである。
E2系も悪くないのだが,やはり新型の魅力には抗し難い。
さらには,最新のE6系を併結しているので(こちらを取るべきだった),初めて内部を拝んでやろうと目論んだからである。
30分近く余裕があったので,ビールと酒肴を求めることもできたし(酒買っていたのは私だけだったようだが・・・爆),E6系の内部も見ることができた。
やはり最新は良い。
E5系は,グレー(というかアイボリー?)を基調としたホールド感抜群のバケットシートだが,何とヘッドレストが上下するので,座高の高い私など重宝するし,E2系で難点だったアームレストも,背もたれに収納される。
JR東日本のE2系と,JR西日本のN700系を比較すると,若干遜色があったのだが,今度は逆に,E5系の良さが際立つことになった・・・。




定刻に発車。
暁暗の闇が白み始め,福島県に入ると夜が明ける。
雪は止んだようだが,上空は雲が厚く低く,山形新幹線が合流する辺りから綺麗に見える吾妻連峰も見えず,信夫(しのぶ)盆地(福島市周辺)から安達ヶ原(二本松市付近)へさしかかる頃には日も差し始めたが,安達太良山も裾野しか見えなかった。
信夫~安達と盆地が続き,次は安積。
中心都市は,郡山だ。
こちらも,西の山際に雲が低く垂れ込めている。
須賀川から会津方面(厳密には猪苗代湖南岸の湖南町)に向かう勢至堂峠(会津戦争の際に,西軍が通った)や郡山市内から湖南町に抜ける三森峠(冬期閉鎖だったが,近年整備され,通れるようになったと,郡山出身者から聞いた)は,雪だろうな・・・と思う。
勿論,西の猪苗代や会津は雪だろう・・・。
余計なことだが,学生時代,訳あって郡山市内に一週間ばかり暮らしたことがあったが,駅から西に伸びる「さくら通」を経て,市役所や野球場のある開成山公園に至る道筋が意外に美しく楽しいものだったことを思い出す・・・。


完全に東北に別れを告げ,関東に入ったことを感じるのは,何と言っても黒磯市もとい那須塩原市北部で,那珂川を渡ったときだろう。
この那須連山に源を発し,野州を縦貫して那珂湊市もといひたちなか市で鹿島灘に注ぐ北関東を代表する大河の沿岸は,野趣に富んだ景観が楽しめそうだ。
大関家の城下町だった黒羽(大田原市)や,「奥の細道」にも出てくる名刹雲厳寺があるし,温泉も幾つも湧いている。
馬頭~烏山~茂木と,魅力的な地方都市も存在するし,東方に八溝の連山が見えるのも良い。
いつかR294とR123を南下してみたいと思いつつ幾星霜,未だに果たしていないというのも無念だ・・・。


残念ながら,天気は上々なのに未だ雲が低いので,那須連峰は見えない。
雲が完全に切れたのは,野趣溢れる鬼怒川を渡った宇都宮の手前からだろうか・・・。
那須は見えなかったが,日光連山が綺麗に見え始める。
冠雪した男体山,大真名子山,女峰山が,東方からの朝日を浴びて輝き始める。
そうそう,その前に渡った,塩原温泉の北から流れる箒(ほうき)川の沿岸も,浸食された崖が野趣満点だった。
宇都宮は,市役所や宇都宮タワーが聳える西部の丘陵が目を引く。
餃子を食しに寄っただけの街だが,歩いてみるとてろてろな発見がありそうだ。


そして,この日の東北新幹線最大の驚きは,この後に訪れるのであった・・・。
(・・・ということで,京都に向かっているのに,東北新幹線の半分しか終わりませんでした。悪い癖で,既に暴走しています・・・。果たして完結,否京都にたどり着ける野でしょうか・・・。多分明日に続きます・・・。)


上洛之記弐・・・

2013年12月30日 21時44分09秒 | 旅行,および「鉄」

上洛2日目。
昨日予告したとおり,2年ぶりに奈良に行ってきました。
最大の目的である新薬師寺の本尊である薬師如来像と,十二神将像に,唯々圧倒されました。
何という造形,そして何という美しさ。
憤怒の表情の仏像が醸し出す,えも言えぬアトモスフィア・・・。
1300年もの時空を超越して,我々にもたらすメッセージは,筆致に尽くせぬものがあります・・・。


そして,奈良に来たら必ず行かなくては気が済まない鉄板コース。
春日大社~若草山~手向山八幡宮~東大寺二月堂・・・。
二月堂から大和盆地を俯瞰するたびに思うのは,断腸の思いで異教に果てた仲麻呂や真成の心に常にあったのは,この美しき平城の都への追想だったのでは・・・ということです・・・。
そして,京都は勿論良いのですが,今なお大陸の気風を伝え,太陽と土の香りを今も感じさせる万葉集を想起させる奈良の風物の何と魅力的なことか・・・。
やはり,個人的には,古今集より万葉集です・・・。


さて,明日はどうしよう・・・。