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koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

加越紀行-其之伍:手取川の戦い・・・

2014年04月27日 21時58分31秒 | 旅行,および「鉄」

北陸線の昼行は,多分82年の3月以来だろう。
思ったより混んでなかったので,進行方向右側,つまり山側に席を取る。
福井城趾より,白山の銀嶺が見事に見えたので,それを期待する。
その白山の秀麗な山容を堪能できたのは,芦原温泉を過ぎてからだろうか・・・。

夢中でシャッターを切ったのだが,所詮は車窓を通しての撮影だけに,仕上がりは期待できなかった・・・。
芦原温泉にしても加賀温泉にしても,駅前に温泉街が・・・と思いがちだが,残念ながら温泉街は遠い。
芦原温泉は,えちぜん鉄道のあわら湯のまち駅が最寄りだし,加賀温泉を構成する芭蕉も泊まった山代温泉も,その奥の山中温泉も,駅のずっと南に位置している。
因みに,芭蕉が山代温泉で詠んだのは,

ひとつやに遊女も寝たり萩と月

という,何とも艶な句だが,ひとつやは,一つ家と一つ夜とひと艶の掛詞だろうか・・・。芭蕉は,同行の門人曽良と共に遊んだのか・・・などと,余計なことを考えてしまった・・・。
そして加越国境の海岸近く,大聖寺川の河口近く,北潟湖畔にあったのが,加賀一向一揆の拠点の1つだった吉崎御坊である。
このあたりは,「信長の野望」をプレイしたことがある方なら,ぴんと来る筈だ・・・。


昨年降り立った小松空港を過ぎたところで渡るのが,例の手取川だ。
信長を嫌う者(そして上杉贔屓)にとっては,聖地のようなところだろう。
天正5年秋,柴田勝家を総大将とする織田軍を,上杉謙信が鎧袖一触,ぼこぼこにしたという伝承がある。
織田と上杉,唯一の直接戦闘であるが(厳密に述べると違う),織田軍随一の戦闘能力を誇る柴田勝家が,簡単に敗れたことから,織田軍の弱さと,それとは比べものにならない上杉軍の神がかったような強さが,まことしやかに語られるのだが,実はこの戦い自体の信憑性も問われているらしい。
織田軍の加賀出兵の理由は,能登の七尾城の救援にあったとされる。
能登の守護は畠山氏であるが,実権を掌握していたのは重臣の長続連であった。
それに対して,宿敵武田信玄亡き後は,版図拡大を目指していた上杉謙信が,能登に侵攻してくる。
七尾城は堅城であり,さすがの上杉軍も攻めあぐねたが,城内の屎尿処理がうまくいかず,不衛生極まりない状況になったことで,畠山家の当主である春王丸までが病死するという事態となった。
そこで,長続連は嫡子である連龍を安土に派遣し,信長に援軍を請いた。
信長としても,上杉軍の能登侵攻は座して見ているわけにもいかず,北陸方面の司令官である柴田勝家に1万8千のを付けて先発させる。
秀吉が信長の命令に背いて出陣しなかったというのは,この時のことである。
しかし,その援軍が到着する直前,遊佐続光,温井景隆といった上杉派が謀反。
続連をはじめとする長一族を皆殺しにした結果,七尾城は落城に至った。
それを知らない柴田軍は手取川を渡河。
謙信は能登を出て松任城へ入り,渡河を終えた背水の陣の柴田軍へ襲いかかる。
直前に七尾城落城の報が入り,撤退命令を出したところに上杉軍が襲来。
渡河と雨によって鉄砲が使えず,織田軍は1000余の戦死者を出して敗走。
さらには手取川で大量の溺死者を出したとも言われる。
北陸方面軍には,勝家の他に,利家や成政等の主立った武将たちが居たはずだが,だれも戦死していないことからも,この戦いの真偽が疑われたという。
只,この後,上杉軍の来攻を信じた松永久秀の再離反等もあったので,両軍の軍事衝突(というより一方的な追撃戦)は有ったのだろう・・・。
では,上杉軍は何故加賀を経て,越前まで追撃しなかったのか。
多分,兵站の問題と,背後の越後の問題もあったのだろう。
謙信は,北陸道諸国と上信北部を,がっちりと掌握していたような印象があるが,実は国人勢力が分散する北陸にあって,結構彼等の離反に悩まされてはた様子がある。
つまり,領国経営は完全な一枚岩ではなかったのである。
でもって,翌年3月に20万とも30万ともいうべき兵力をもって(春日山にそんなに集まる筈ないから,多くても5万だろう),いよいよ上洛して信長を討とうとした矢先に斃れた・・・ということになるのだが,近年は,関東侵攻の為だったという説が強いようだ。ま,上杉贔屓としては,信長をやっつけるため・・・と思いたいだろうが,謙信の関心は,管領として関東にあったことは間違いない・・・。


・・・ということを考えながら,加賀の主邑である尾山御坊・・・ではなく,金沢に到着。下車するのは,何と平成3年以来23年ぶりとなる。
その時は夜行待ちで(臨時の急行「能登」),駅前の書店に寄っただけだったので,街を歩くのは初めてとなる。
日没までの時間,街歩きをして,せめて藩祖である前田利家を祀る尾山神社だけでも見よう・・・と,40数分乗ったサンダーバードを後にする・・・。


加越紀行-其之四「鬼柴田・・・」

2014年04月23日 21時56分28秒 | 旅行,および「鉄」

北の庄城趾は,福井城趾の300m程南に位置する。
いずれも,駅から至近なので,歩いて行くにはもってこいの場所だ。
但し,どうやら北の庄城趾をこの位置とすることは,未だ未確定というか,学術的に認められている訳ではないようだ。
というのは,元々有った柴田神社を北の庄城趾としたので,もしかすると現在の福井城趾が北の庄城趾である可能性もあるらしい。
但し,それは私のような素人にとってはどうでも良い話であり,要は史跡を通して,どれぐらい過去に感情移入が可能か・・・という方が問題だと思う。


「日本史」を著した16世紀ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスによると,城郭も城下の町も,大層立派なものであったとある。
フロイスが訪れたのは,本能寺の変の前年である天正9(1581)年であるから,柴田勝家時代であり,さらには後に秀吉が小早川孝景に当てた書状には,九層の天守という文言があったという。
安土城を見ている勝家であるから,壮麗な天守閣を建てたとしても,一向に不思議ではあるまい。
周知の通り,北の庄城は,賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家が天守に火を放ち,後妻の於市の方と共に自害して果てたので,往時を偲ぶものは皆無であるが,20年程前の発掘調査で,石垣の一部と思われる遺構が見つかったらしい。
柴田神社は,近代的で立派な建物だったが,隣に九層の天守閣の模型があった。


そして,「お市の泉」なる井戸と共に,真新しいお市の方の像と浅井三姉妹の像もあった。

私が夏に視聴を断念した大河ドラマの時期に立ったのは見え見えである・・・。
それに対して,かなり以前から有った勝家像は,剛毅な表情が織田軍団随一の戦闘能力を持つ男の面影をよく伝えている・・・。


全盛期-つまり天正10年当時の織田軍団には,方面別司令官が5人居たと思われる。

北陸方面:対上杉景勝-柴田修理亮勝家(与力:前田利家,佐々成政,不破光治,金森長近)
山陽方面:対毛利輝元-羽柴筑前守秀吉(与力:黒田孝高,山内一豊)
山陰方面:対毛利輝元・波多野義治-明智日向守光秀(与力:長岡藤孝,筒井順慶)
関東方面:対北条氏政・上杉景勝-滝川左近将監一益(与力:河尻秀隆,森長可,毛利長秀)
四国方面:対長曽我部元親-丹羽五郎左衛門尉長秀(与力:三好康長,蜂屋頼隆)

であるが,勝家はまさに織田軍団筆頭の将であり,難敵上杉要員として北陸方面を一手に担当していたことからも,信長の信任の厚さが伺えるというものだ・・・。
勝家もよく応え,一世紀近くにわたって,一向一揆の国人たちが蟠踞した加賀を平定したり,上杉謙信死後は能登も攻略。
並々ならぬ能力を持っていたことは,疑いない。
鬼柴田の異名を取る程の豪傑であり,過去に演じた俳優は,宍戸錠とか勝野洋,松平健,大地康夫,近藤芳正等,ごつい人たちが多いが,三谷幸喜の「清洲会議」では,役所広司だそうだ・・・。


鬼柴田,瓶割り柴田,権六に敬意を表して,柴田神社に詣でて,北の庄城趾を後にする。城跡北から福井城までの通りは,「歴史の道」と呼ばれているらしい。
福井鉄道の駅前までの元町商店街にはアーケードが掛かり,天井からは越前所縁の武将たちの垂れ幕が掲げられていた。

勿論,筆頭は柴田勝家と結城秀康だが,新田義貞と朝倉義景が一緒というのも,何だかなぁ・・・という気がした・・・。


15時47分,特急料金を奮発して,特急サンダーバード(683系4000番台)に乗車。

越前に別れを告げ,加賀へ向かう。
4時間に満たぬ滞在時間であったが,今回の滞在は身が詰まっていた・・・。


加越紀行-其之三:2人の天下人の名を持つ男・・・

2014年04月20日 23時09分12秒 | 旅行,および「鉄」

福井駅前迄従兄弟に送ってもらい,丁度良しとばかりに,福井城趾(現福井県庁)へ向かう。

半年前は,かすっただけで見られなかった場所なので(何せお堀のすぐ南に宿を取っていた故),1人という絶好のフットワークを生かして,開花直前の桜並木の中を登城する。
立派な石垣だ。
さすが御親藩,越前32万石の城である。
城跡が県庁というのは,福島市と同様だが,城の規模は比べものにならない。
しかし,明治政府も廃城にしたのは良いが,後世において,観光物件や史跡として城が活用されるなどとは全く思わなかったのだろう。

お堀の彼方向こうに,白銀に輝く山容を見せているのは,名峰白山だ。


廓に入ると,白い騎馬像が目に入る。

越前藩祖であり,家康の二男である結城秀康公(1574-1607)だ。
家康二男ということは,家康の正室築山殿と共に武田勝頼への内通を疑われて自害した長子信康(信長と家康から一字を拝命)の次の正嫡ということになるのだが,どうも家康はこの二男を嫌ったらしい。
勿論正室の子でないということで家督の権利はなかったと思われるが,どうやらその出生に原因があったとされる。
母である於万の方(長勝院)は,浜松城下の神職の娘で,上記築山殿の奥女中として奉公している際に,家康のお手がついたという。
一説には,双子だったとも(今一人の兄弟は,永見貞愛という),生まれたときの容貌がギギなる魚に似ていたので,於義丸とか義伊丸という幼名だったとも言われる。
当時,双子は畜生ハラと言われて,忌み嫌われていたらしい。
山岡荘八の「徳川家康」では,築山殿が怒って於万の方を竹で滅多打ちにして,それを救った本多作左衛門重次によって匿われたと記憶している。
ようやく父との対面がかなったのは3歳の時で,不憫に思った兄信康の計らいだったという。
この秀康,どうやら相当な武将だったらしい。
初陣は小牧長久手の戦いらしいが,その後秀吉の人質として出される。
秀吉は,10歳を越えたばかりのこの少年の資質を見抜き,養子とした。
秀康という諱は,秀吉と家康という2人の天下人の名を一字ずつ拝命したものであり,何とも豪華な名乗りである。
その後,九州征伐や朝鮮出兵で手柄を立てるが,秀吉に実子が生まれたことにより,小早川秀秋や宇喜多秀家等の他の養子と共に,相続権を失う。
そして,北関東の名族結城氏の名跡を継ぐことになるのである。
結城氏は,発祥を平安時代まで遡る藤姓の名家で,鎌倉幕府草創期に頼朝に従って功があり,下野の名族として(発祥の地は下総結城だが),南北長期は南朝方(結城宗広が有名)で戦い,その後は世に言う結城合戦で衰退した。
その名跡を継いだ後,石田三成が失脚して居城である佐和山城へ蟄居した際に(翌年挙兵して,関ヶ原の役が起きる),その身柄を送り届ける任に就く。
三成は,この若者の爽やかな人柄と資質を認め,佩刀を授けたという(石田正宗)。
翌年の上杉征伐に従軍中に三成が挙兵した訳だが,その際父に従っての西上は認められず,対上杉の備えとして,北関東に留め置かれ,その任を全うした。
関ヶ原後,その功により越前北の庄67万石の大大名となる。
これは,親藩大名としては,破格の待遇だった。
戦後は,城下町の整備に当たったり,伏見城代を務めたりしたのだが,父母に先立って慶長12(1607)年に卒する。
享年34。
死因は,唐瘡(梅毒)だったともいう。
後嗣は,長男の忠直だが,大坂の役で奮戦するも認められず,次第に行状がおかしくなり,将軍秀忠の命で蟄居。
越前藩は,弟の忠昌が継ぐこととなった・・・。


・・・という経緯で,越前藩の成立となったのだが,藩祖として,郷土の英雄として,今尚福井市民に愛されているというのは,全くをもって慶賀に堪えない。
因みに,私は,柴田勝家が築城したとされる北の庄城が福井城となったと長いこと思ってきたが,別の場所に有ることを前々回の初の福井行きで知った。
そして,せっかくなので,今回はそちらも訪れてみようと思い立ったのである・・・。

           (多分,続きます・・・)


加越紀行-其之弐:越前藤島灯明寺畷・・・

2014年04月17日 21時44分06秒 | 旅行,および「鉄」

敦賀-越前国嶺南地方の中心都市にして,北国街道,西近江街道,鯖街道(若狭湾の鯖を京へ運んだ),丹後街道等が通る交通の要衝として,気比神宮の門前町として古くから栄えた。
金ヶ崎城は,市街地の北方の山城である。
築城の歴史は古く,治承・寿永の内乱期に,木曾義仲の侵攻に際し,平通盛(清盛弟教盛長子)が築いたと言われる。
しかし,金ヶ崎城が歴史の表舞台に登場するのは,何と言っても南北朝の内乱勃発期である建武3(1336)年から翌年にかけての,金ヶ崎城攻防戦である。

後醍醐天皇を比叡山に動座して,京都市中に九州からの足利軍を誘い込んで挟撃するという楠木正成の提案が,動座を嫌った公家たちによって退けられ,勝ち目のない兵庫での迎撃戦に敗れた南朝方は,頼みの綱である楠木正成兄弟を失い,結果的に比叡山に動座。
幾度となく京都市中へ攻め込むものの,名和長年や千種忠顕といった武将(千種は公家か)を失い,遂に足利方との和睦を飲む。
その際,新田義貞に一軍を託し,北陸での勢力挽回を期す。
新田軍は,途中寒波と雪に悩まされながら(南方からの河野軍は全滅したとも),金ヶ崎城に入った。
そこへ,斯波高経や高師泰を将とする足利方の大軍が来襲。
兵糧攻めにあった義貞は,弟脇谷義助と共に城を脱出。
やがて,足利軍の総攻撃により,義貞長子の義顕と尊良親王(後醍醐帝皇子)は自害。
恒良親王は,足利方に捕らえられて,後に毒殺されたという。
南朝悲史の始まりと共に,新田義貞の無念は,越前に籠もっていると言えよう・・・。
新田義貞に関しては,いずれまとまった稿を起こして語ってみたいのだが,越前とは切っても切れない人物となった・・・。


敦賀(以前ここで食した蕎麦は,麺が真っ黒で美味だった)を出ると,かつて日本一の長さを誇った(現在は,青函トンネル)北陸トンネルに入る(かつて,火災事故があった)。
昼寝と読書する以外何も出来ない。
携帯は圏外だし・・・。
そして,武生・鯖江と停車するうちに,天気が良くなっていった。
西から低気圧が迫る中,東へ向かっているのだから当然なのだが・・・。
所々に桜の開花が見られ,北陸路は完全に春が訪れたようだ。
当然のことながら,東北よりはるかに早い。


鯖江と言えば,楽天の外野手である牧田である。
鯖江高校出身とは珍しい(福井商とか敦賀気比が有名なだけに)。
昨年の,日本シリーズ最終戦での駄目押し本塁打は,実に効果的であった。
何と言っても強肩だし,足も有る。
課題と言われたバッティングも,年間通して使えば二桁本塁打は期待できる。
使ってなんぼの選手なので,今年は何としてもレギュラーに定着して貰いたいものだ・・・。
オリックスから移籍した後藤がレフトに入っているようだが・・・(外野も出来るとは知らなかった。二塁手じゃなかったのか・・・)。


・・・などと思っているうちに,最初の目的地である福井に到着。
左に足羽山を見つつ,足羽川を渡る。
かつて訪れたときは,川幅一杯に張ったロープに鯉幟が泳ぎ,圧巻だった・・・。
仙台を出て6時間弱。
あっという間だった・・・。


福井では,3時間半という滞在時間だったが,路線バスと徒歩で伯母の家へ行って焼香し,従兄弟に連れられて,グループホームに入った伯母を見舞い,福井駅前まで送ってもらった後,観光もするという中身の詰まった時を過ごした。
そして,福井で有名な歴史上の人物は少なくないが,上述した新田義貞の墓所である新田塚の前を通過したことが,何とも感慨深かった(芦原街道沿いにあった)。
金ヶ崎落城後,義貞は見事に南朝勢力を立て直し,越前一国を席巻する勢いだったのだが,藤島城攻略戦の最中,少人数での移動中に敵と遭遇。
泥田に足を取られて落馬したところを,額に矢を受けて自害という気の毒な最期だった。
元弘3(1333)年,本拠地である上野国新田郡の生品明神での旗揚げと,分倍河原の戦いで鎌倉幕府軍を破り,あっという間に鎌倉を攻略。
故地を出て5年,後醍醐帝に忠節を尽くした中世の騎士の最期は,あまりに悲しい・・・。


新田義貞の先祖は,八幡太郎義家の子である源義国まで遡る。
義国長子義重は,上州新田郡を領して新田氏を名乗り,次子義康は渡良瀬川を挟んだ対岸の下野国足利荘を領して,足利氏を称した。
つまり,新田氏こそ源氏の嫡系と言っても良いだろう。
義康は,保元の乱にも従軍していたが,乱後程なく若くして亡くなったらしい。
平氏政権下では,新田郡の主たる新田氏の勢力が,足利氏を凌いでいたといえる。
それが逆転したのが,頼朝の挙兵であった。
義重には,源氏の摘系としての矜持があったのだろう。
頼朝何する者ぞ・・・という気概は持っていたはずだ(確か義重の娘が,平治の戦い後に命を落とした頼朝の異母兄である鎌倉悪源太義平に嫁いでいた)。
結果的には,頼朝に従うことになったのだが,素早く頼朝麾下に馳せ参じ,北条氏の姻戚にもなった足利義兼(義康嫡子)との差は明白となり,鎌倉期を通じて御家人としての新田氏と足利氏の差は埋められないほど大きくなってしまった。
義貞が同年代である尊氏(高氏)に敵愾心を持ったのは,当然だったのだろう・・・。
新田氏が上野の一豪族だった頃,足利氏は幕府の要職を務め,三河国の守護となっていた(この時分かれたのが,吉良,細川,今川,仁木・・・といった各氏であったことは,以前述べた)。
尤も,新田氏ものうのうとしていた訳ではなく,上州一円に留まらず,隣接する越後の魚沼地方にも勢力を拡充させていた。
山名,里見,大井田,鳥山・・・といった各諸族は,上州から越後にかけて根を張り,やがて訪れた義貞の挙兵・鎌倉幕府討伐の原動力となり,やがては南北朝の争乱と共に,全国へ散っていった。
四国や九州,そして奥州にも新田氏の一族は残ったのである・・・。
このあたりは,いずれ大いに語ってみたいところなのだが,いずれにしても故地を出て5年,尊氏への対抗心と言われようが,南朝のために忠を尽くした義貞の生涯に対して,限りない哀惜が覚えられてならない・・・。
それにしても,戦前と戦後でこれほど評価が分かれた武将も少ないだろう。
南朝悲史を皇国史観とした戦前の世代にとって,尊氏は極悪人で,義貞は忠義の勇将と語られていたと,昭和一桁生まれの母に聞いた記憶がある。
司馬遼太郎は,秀吉の金ヶ崎殿軍のくだりで,義貞に対して,恐ろしく戦の下手な武将と書いていたが,あっという間に鎌倉を攻略したその非凡な用兵(騎馬による平原戦を得意とする)は,やはり勇将であったと思う。
ま,世の足利贔屓は,鎌倉攻略の新田軍には,鎌倉を脱した栄寿王(尊氏-当時は高氏長子。後の二代将軍義詮)が居たから・・・と言うのだが,凡将に鎌倉攻略は無理である。


・・・ということで,ここまで画像無しの大暴走です・・・。
次は,福井市内観光ですが,これは暴走するかどうか・・・。


加越紀行-其之壱:北近江暴走之記・・・

2014年04月16日 21時39分04秒 | 旅行,および「鉄」

年度末の慌ただしい時期に行ってきただけに,バタバタしていた印象は拭えないし,帰京後,高熱を発して年度頭から倒れたり,それから随分日が経ったりしたので,どの程度のものが書けるか,自信は全く無いのですが,旅の印象を記録するという行為は,決して無駄とは思われないので,取り敢えず書いてみようかと思います。
とは言え,私の書く文章ですから,あらたぬ方向に暴走したり,つまらない寄り道をしたりすることは必至ですし,たった2日の旅程に,一体どれぐらいのページを費やすのかも,皆目見当が付きません。
ま,私が書く文章なので,また,しょうもないひと書いてやがんな・・・と,看過していただければ宜しいかと思います・・・。
そして,今回の旅行は,旅行とは言えない内容の部分が大きかったことと,逆に貴重な1人の時間が,久々にたっぷり有ったことが,今までにない体験でした・・・。
東北新幹線と東海道新幹線の印象は,以前と重複するので,省きたいと思います。
東北新幹線に1人で乗ったのは,昨年2月の東京出張以来で,下りの東海道新幹線に1人で乗ったのは,何と独身最後の年となった95年3月の丹後・但馬紀行か,その前年10月の奈良出張(300系ひかりに乗って,得した気分だった)以来と思われます・・・。
東北新幹線はE5系,東海道はN700系でした。
折からの好天で(翌日は,見事に予報が当たって崩れた),富士山がよく見えたことと,名古屋停車後,織田信成が名誉城主という清洲城を確認したことを,付記しておきます・・・。


米原駅のホームに降り立ったのは,多分初めてだと思う。
平成3年GWに,4月に逝った母方の伯父に線香をあげる為に,北陸線を北上した(完乗成る)時は,名古屋でL特急の「しらざき」だか「北越」に乗り換えたので・・・。
今回は,一族を代表して,2月に急逝した従兄弟に香華を手向けるのが,最大の目的である。
前回は,83歳の母を91歳の伯母に会わせるのが目的で,体力を考慮して小松まで飛行機を押さえたのだが,今回は私1人というフットワークが軽い立場での北陸行故に,不経済を承知で,JRを選択し,宿は敢えて福井ではなく,金沢に押さえた。


だいたい,のぞみ以外の東海道新幹線に乗ること自体貴重なのだが,米原で名古屋始発の特急しらさぎに数分でトランジット出来るというのは,大きなメリットとなった。
仙台を6時過ぎに立って,正午前には福井に着いているのだから,乗り継ぎがうまくいったということだろう。
ひかりからしらさぎに,相当数が乗り換えたが,何とか座ることが出来たのは幸運だった。既に,朝から新幹線車内で宜しくやっていたので,多少気持ちよくなっていたし,1人で空間を占拠していた訳ではなかったので(米原でビールを買う時間は無かった),自粛したが(隣に座っていたビジネスマン風の兄ちゃんは,ビールを飲んでいた),やはり飲みたくなった・・・。


北陸線を北上する際,前回も思ったのだが,東側に望める伊吹山の東斜面が削られていることが気にかかる。
ほぼ山頂まで,車で行くことが出来るようだが,日本史上,多分男として最高の人生を送ったであろうと思われる佐々木(京極)導誉(高氏)の館は,一体どこにあったのだろう・・・。
西日本から発達した低気圧が近づいているため,湖東~湖北平野は,どんよりとした曇天だ。
米原を出て,秀吉が築城して一時山内一豊が城主だった長浜が近づくと,琵琶湖の湖面が見えてくるのだが,少々冴えない・・・。
やはり,琵琶湖には好天が似合う・・・。
長浜の次の駅は虎姫だが(勿論,特急は止まらない),その東側が所謂浅井郷であり,郵便局や市役所支所,運動公園にその名を残す。
虎姫駅の直前に渡るのが姉川であるが,浅井氏三代が拠った小谷城は,次の河毛駅の東方のになる。
その小谷城に対して,秀吉が築いた前哨基地が横山城であり,同盟軍である越前朝倉氏との連携を断つ形となった。
秀吉は,その功によって,北近江の大名となり,当時今浜と言った長浜に築城するに至る。浅井氏は,正親町三条家(嵯峨氏)の氏族で,本姓を藤原氏としたようで,以前述べた宇多天皇の子孫である近江源氏(佐々木源氏)の支流ではなかったと思われる。
また,福岡の大名となった黒田氏は,長浜市木之本町黒田の発祥とされる。
北陸線の木之本駅から,余呉湖へ行く途中あたりと思われる。
そして,この付近一帯は,天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いの主戦場となる。
北近江から越前の国境である狭隘部なので,雪解けを待って南下する柴田勝家軍と,北上する羽柴秀吉軍が衝突するのも必然だったのだろう・・・。
さらにその14年前の元亀元(1570)年,朝倉氏征伐を目指した織田軍が通過したのは,北国街道だったか,西近江街道だったのか・・・。
浅井長政の造反によって退路を断たれるまでは,織田軍は破竹の勢いで敦賀平野を席巻。
金ヶ崎城を瞬く間に落とし,木ノ芽峠を越えて,朝倉氏の本拠地である一乗谷を目指した途端の造反劇であった。
信長の凄いところは,それまでの戦果を,惜しげもなく投げ出して,身1つで逃げたことだろう。
未練たらしく踏みとどまっていては,危険が増大することを誰よりも察知していたからこそ,できた芸当であろう。
しかし,敦賀平野に取り残された織田軍団と,同盟軍である徳川家康軍は堪らなかった。
秀吉が殿軍をして,奇跡とも言うべき退却戦を指揮したのは,この時のことだ。
多分,家康も光秀も勝家も居たことだろう・・・。


越前最初の停車駅は,その敦賀である。
敦賀駅北方の海岸近くに聳えるのが,上記金ヶ崎城である。
この金ヶ崎城にも,上記秀吉の殿戦以外にも,何とも言えない悲史があることを述べようかと思うのだが,既にしてワープロ2ページを軽く越えた・・・。
よって,次回に述べようかと思う・・・。


交通科学博物館・・・

2014年03月06日 21時20分59秒 | 旅行,および「鉄」

その時は,突然訪れた。
2011年の暮れ,恒例(?)の関西行でのことだ。
大阪環状線から,地下鉄中央線に乗り換えて,天保山にある海遊館を目指すべく,弁天町駅に降り立ったときだった。
何の変哲もない駅前通を歩いていたら,青い看板が目に入った。
「交通科学博物館」
のロゴと,キハ80型特急型気動車の側面図が,いきなり目に飛び込んできた。
さらには,緑と橙の所謂湘南カラーに彩られたクハ86型直流型電車が,フェンス越しに鎮座しているのも見えた。
弁天町駅前に,交通科学博物館が有ったことを,迂闊にも失念していた。
1時間だけ寄らせて・・・と,他の3人を説得して,中に入る。
詳細はこちらだが,とにかく70年代から鉄分の多かった私にとっては,お宝の山のような場所であった・・・。
家族の顰蹙を尻目に,目を輝かせて展示に見入ったことは言うまでもない。
独式の箱形DLのDD54とか,世界初のロケット式戦闘機であるMe163コメートのエンジンとか,7100型蒸気機関車(義経号)とか,とにかく展示が凄かった。
高校生の頃に,念願かなってようやく行った旧鉄道博物館(秋葉原)がいまいちに感じられただけに,この交通科学博物館の充実ぶりがオールドファンとしては,実に嬉しかった・・・。


その交通科学博物館が,何と来月6日で閉館だという。
そう言えば,先日上洛した際,梅小路蒸気機関車館が拡充されて,大規模な交通博物館となって,京都水族館等を含む一大都市型公園となることを聞いた。
その時に,閉館となることも聞いた気がする・・・。
いずれにしても,残念な限りだが,これでまた京都へ行く理由ができた・・・。
追補になるが,あとは画像に語ってもらおう・・・。


↑200系の模型はどうでも良いが,サボの多さが◎。乗ったことあるのは,最上段の4つと,白鳥,出雲のみ。

↑戦前製造のD51のコクピット。アナログの粋だ・・・。

↑ナシ20系か?青客車は,旧客の中でも新しい部類と思う。

↑マロネフ59型か?だとすると,1938年製。

↑私が子どもの頃の駅舎内は,こんな感じだった。・・・。


關西紀行,其之廿参:最終章・・・

2014年02月04日 21時34分13秒 | 旅行,および「鉄」

寺巡りだけだと飽きるだろう・・・ということで,最終日は宿から程近い京都水族館に行くことに。
大阪の海遊館も良かったが,この京都水族館は,臨海ではないものとしては,国内最大規模を誇り,何と一昨年開館したばかり。
真新しい施設で,何とも気持ちの良い建物だった。
地元鴨川の生態系から,南海の生き物の展示,そしてダイナミックな海豚のショーもあって,結構楽しめた。



笑ったのは,サンショウウオの着ぐるみが居たことで,何とさんちゃんとおーちゃんとかいう名前も付いていた。

完全に脱力系のぬるキャラとでも言うべきだろうか・・・。
ぜひ画像をご覧いただきたい。


午後は,ホテルのシャトルバスで八条口まで行き,近鉄を一駅乗って東寺(教王護国寺)へ。
さすが伝統の勅願寺,規模もでかいし初詣客も多く,見応えがあった。

ま,さすがにこの時間帯になると,疲労と旅行も今日で終わり・・・という寂寥感もあって,モチベーションが上がらなくなったのは事実だった。
ま,最後にゆっくりお土産を買うことが出来たし,京風ラーメン(典型ではないが)を食すことも出来たので,良いことにしたい。
約一ヶ月に及ぶエントリも,ほぼ終了。
あとは拾遺集ともいうべき続編を残すのみだが,やはり何度行ってもまた行きたくなるところである。
鴨川を渡って,洛中に別れを告げる時,もっともっと滞在したかった・・・という悔恨と焦燥が去来したのはいつものことだが,それは充実した旅程の裏返しと思いたい。
次に行くことが出来るか否か,全く分からないが,幾つになっても見聞を広げる旅は必要であることを痛感する。
海外も良いが,やはり国内でもまだまだ行っていないところ,行きたいところは数多い。
これからも,いろいろな旅を模索していきたいものである・・・。


關西紀行,其之廿弐:三井晩鐘・・・

2014年02月03日 21時10分04秒 | 旅行,および「鉄」

坂本から,再び京阪に乗る。
今からどうするか思案する。
選択肢は幾つかあった。
このまま,石山寺に行くとか,浜大津で降りて湖畔を歩くとか,京都に戻って早めの夕食にするとか,いろいろと考えられたが,下の子の
「三井寺に行きたい」
というひと言で決まった。
一度行ったところに,時を置かずして・・・という問題はあったが,せっかく行きたいということだったので,決定した。


今度の車両は,何と先程乗ったケーブルカーと同じデザインで,赤の「福号」と黒の「縁号」だった。
二両編成の色違いなので,混合編成に見えるのがご愛敬だ。


三井寺は,2年ぶりなので,記憶も鮮明で,堂々たる風格の総門も,味わい深い三重塔も相変わらずだった。
夕刻近いせいか人もまばらで,今夜からの二年参りに備え,準備に余念無し・・・というところだった。
拝観料はかからないし,これだけの大寺をゆっくりと見ることが出来るのだから,申し分ない。
和歌山にある紀三井寺は,門前をスルーしてしまったので,見てみたいものだ・・・と思いつつ,20数年が過ぎたが・・・。


その後は,浜大津まで行って,せっかくなので湖都の情緒を味わおうと目論んだ。
丁度,琵琶湖汽船の外輪船であるミシガン号が着岸していた。
今から,トワイライトクルーズなのか知らないが,船内外の照明が点いていたので,ちょっとした情趣が感じられ,ついついシャッターを切った。


琵琶湖クルーズは結構な値段だが天気が良ければ乗ってみたいと思う。
芦ノ湖の遊覧船(名前は・・・サスケハナだったか・・・って,それはペリー所縁の下田だったか・・・)には乗ったことがあったが,あれも混まなくて良かった。
とは言え,中で缶ビール飲んだだけだったが・・・。


暮れなずむ大津の浜には,太古から変わらないさざ波が心地よい響きをもたらす。
大津京も,壬申の乱も,粟津の松原での木曽最後も,明智秀満の湖水渡りも,大津城攻防戦も,すべて湖水は見てきたのだろう・・・。
西には,つい先刻まで居た叡山が聳え,遙か湖水を経ての湖東平野には,俵藤太秀郷の百足退治で知られる近江富士三上山が,擂り鉢を伏せたような山容を見せる。
一度,近江八景を全部回ろうか・・・と思ったことがあったが,車が無いと無理であることを悟って断念した。
因みに,近江八景とは,以下の通りである。


石山秋月(いしやまのしゅうげつ)-石山寺
勢多(瀬田)夕照(せたのゆうしょう)-瀬田の唐橋
粟津晴嵐(あわづのせいらん)-粟津の松原
矢橋帰帆(やばせのきはん)-矢橋の港
三井晩鐘(みいのばんしょう)-三井寺
唐崎夜雨(からさきのやう)-唐崎神社
堅田落雁(かただのらくがん)-堅田の満月寺浮御堂
比良暮雪(ひらのぼせつ)-雪化粧の比良山系


漢字とは良くできたもので,こうして読んだだけで,情景まで脳裏に浮かぶ。
三井寺の晩鐘は,何時に鳴るか分からないが,こうしているうちに聞こえたら最高では・・・と,思った。
学生時代,最終の5コマ目の講義が5時20分まであったが,5時になると川向かいにある愛宕神社の晩鐘が響いたものだった。
ま,味わいが・・・というより,あと20分で終わりだ・・・という気持ちが強かったのは,当然だが・・・。


そんなことを思っている間,大津港マリーナと琵琶湖汽船の旅客ターミナル近隣の浜には,全く人影がなかった。

琵琶湖の写真を撮るには,光線が暗すぎたが,静かに湖都の黄昏を迎えるには,程良い環境であった。
今日も1日が,そして2013年が終わる・・・。
そんなことを思いながら,浜大津駅に向かい,幾度となく背後の琵琶湖と叡山を振り返った・・・。
今宵も大噴水がお出迎え
お正月ですなぁ・・・
(いよいよ,第3日が終了。翌日の京都水族館と東寺を残すのみとなりました。果たして完結するのでしょうか・・・。そろそろかったるくなってきたのですが・・・)


關西紀行,其之廿:門前町坂本

2014年01月31日 21時50分26秒 | 旅行,および「鉄」

京阪の坂本駅から,ケーブル坂本駅までは1km足らず。
その短い区間に,比叡山延暦寺の門前町たる坂本の魅力がぎっしり詰まっていた。

通りの両隣は,石垣の上に築地塀という寺が軒を並べる。



三井寺の門前町も良かったが,こちらは道の幅も寺院の広さも大きい。
それが,ケーブルまで続くと言っても良いだろう。
光秀をはじめとする明智一族の墓所は,さらに北方に離れた西教寺にある。
私が歩いたのは,日吉神社の参道に当たる道で,風致地区となっているらしい。
坂本に城下町が築かれたのは,廃城となるまでの浅野長政時代と思われるが,城から離れたこのあたりは,むしろ平安初期から延暦寺の門前町として開けていたのかも知れない。


途中,穴太(あのう)衆による石組みなるものがあった。


石工の職人集団とも言うべきなのか,延暦寺の開山以来戦国期の築城時代まで,彼等の技術は各地で重宝されたらしい。
その上には,遮那王大杉なる大木があった。

遮那王とは,牛若丸に次ぐ義経の幼名だが,鞍馬山から叡山を越えたことがあったのだろうか・・・。
それとも,金売り吉次と共に平泉を目指す際に,ここを通ったのだろうか・・・。
元服したのは,江州鏡の宿と記憶しているが,それは東海道線篠原駅近く,R8(中山道)沿いだから,どうなのだろう・・・。


堂々たる門構えの霊山院なる寺を見てから,ケーブルの駅はすぐだった。


隣は,甲子園によく出てきた比叡山高校。

どう見ても昭和30年代築と思われるケーブルの駅舎には,珍しいことにパンの自販機があった。

切符がまた奮っていて,硬券ではないものの,どう見ても60年代からのものでは・・・と思われる。
ぺらぺらなのが残念だが・・・。

運行間隔は30分毎なので,10数分待っただろうか。
木の柵で出来た改札を通ると,赤く塗装された福号と名付けられた階段状のケーブルカーが居た。

ロープウェイは,蔵王や箱根で乗ったことがあるが,本格的なケーブルカーは初めてである。
今は廃墟と化したであろう田沢湖スイス村で,ドアの無い(多分朽ちた)ケーブルカーに,数10m乗ったことはあったが,今回は全国最長の2kmという本物である。
車内は,ほぼ満席。
当たり前だが,車内は最下部に席を取った方が,眺望が効く。
次第に下界が開け,琵琶湖の大パノラマに目を奪われるが,一瞬のことなので,ゆっくり楽しむわけにはいかない。                                            
車両は随分新しいようだが,93年製とのことだ。


耳に気圧の変化を感じると,比叡山駅だ。

駅舎を出ると,数cmの積雪。
関西で,否西日本で見る初めての雪である。
周囲から,
「さすがにここまで来ると,雪が凄いね」
という声が聞こえたが,北日本の者にとっては,この程度は,積雪のうちには入らないことは言うまでもない。
それでも,さすがは9世紀開山の霊山である。
凛と張り詰めた冷気は,山岳密教の本場に相応しい。
すぐ傍の展望台で,琵琶湖の眺望を存分に味わうことが出来たのは良いのだが,冬の割に湿気が多かったせいか,下界が霞んだ感じに見えたのが残念である。



ま,画像は加工してあるが・・・。


・・・ということで,今日はここまで。
次回は,延暦寺となる。
それにしても,最大の収穫は,やはり坂本の街であった。
再び訪れたいものである。


關西紀行,其之拾九:おけいはんは美しい・・・

2014年01月30日 22時37分22秒 | 旅行,および「鉄」

京阪電鉄石山坂本線の終点は,比叡山下の坂本。
言わずと知れた明智光秀築城による湖畔の城があった街である。
元亀2(1571)年,信長は比叡山焼き討ちを敢行。
その後,光秀が北陸道や若狭方面への要地である坂本を拝領したのは,やはり絶対的な信頼あってのことと思う。
坂本城跡はR161と湖西線の中間に位置し,京阪の駅からは遠いので,今回見送ったが,複合天守のある立派な城であったことが,ルイス・フロイスの「日本史」に掲載されたらしい。
湖畔に築城したのは,勿論舟運の為だろうし,後に築城された大津城や膳所城の魁であったとも言われる。
山の敗戦の後,安土城から引き上げてきた明智秀満(琵琶湖の湖水渡りが有名であることは,一昨年述べた)は,秀吉軍に包囲されると,天守に火を放ち,光秀の妻子を手にかけて自害。
築城後10年と少しで落城となった。
その後は,浅野長政などが城主となったようだが,長政が大津城を新たに築いたことで廃城となる。
城跡は,石垣の一部を残すだけのようだが,光秀の銅像があり,ここでは名君として慕われているのだろう。
京都の福知山も同様であると聞いた記憶がある。
そう言えば,中学時代歴史に詳しい友人から,
「琵琶湖の西側は,比叡山を焼き討ちにした信長の評判はもの凄く悪いんだぞ」
と,聞いたことがあった。
そいつは上杉謙信が好きで,信長を嫌っていたので(謙信が死ぬ前の挙兵で,20万もの兵力が集まったので,謙信が死ななかったら信長は謙信に滅ぼされていたと公言していた。ま,謙信の関心は関東なので,信長を討つ出兵では無いと私は思う),多分そんなことを言ったと思われるが,実際のところどうなのだろう。
勿論,叡山では信長は極悪人なのだろうが・・・。
元亀から天正初年にかけての信長は,確かに苦しい時期だっただろう。
足利義昭を奉じて上洛は果たしたものの,畿内平定には三好党や石山本願寺が激しい抵抗をし,元亀元年の姉川の戦いで,浅井・朝倉軍を破ったものの,息の根を止めるには至らず,将軍義昭の手引きによる反織田同盟による包囲もあり,まさに四面楚歌だった。
その難局を乗り切るべく,岐阜と京の間を荒れ狂ったように往復し,都度敵を蹴散らしていったのだろう。
叡山は,南北朝時代もそうであったように,京を狙う戦力の拠点となる。
故に,見逃せない存在だったのだろう。
尤も,本願寺とは異なり,この時代は多くの堂塔が既に失われ,かつて白河院を嘆かせたような勢力は保持していなかったとも思われるが,先ずは近くの弱そうなところから潰していくという考えだったのだろうか・・・。
延暦寺の根本中堂にあり,伝教大師による開山以来の「永遠の灯火」が唯一絶えたのが,御法難とも言うべき信長による焼き討ちは,是とするか否定するか,分かれることだろう・・・。
信長は,極めて苛烈な男故に,伊勢長島の一向一揆も老若男女を問わず皆殺しにしたことは知られているが,それ以前に叡山でも同様のことをしたことになる。
尤も,かつての戦闘というものは,多分にそうした部分があり,例えば大坂夏の陣屏風など,逃げ惑う民衆の姿が描かれているし,偽首(手柄の帳尻合わせに,非戦闘員を殺害して首を獲る)も多かったという。
勿論,残虐極まりない行為であるが,信長だけがそのようなことをやったという訳ではないだろう。
そう言えば,かつての大河ドラマ「国盗り物語」では,堕落した僧ばかりではなく,高僧学識も多いので,焼き討ちなどもってのほかと,信長に諫言した光秀が怒りを買って信長に殴り倒される場面があった。
でもって,焼き討ちの最中に,知り合いの高僧に助けを求められるも,何もできず・・・という設定だった。
原作を読んだのはその後だったが,当時の武将としては珍しく,光秀のように教養があり,典礼にも明るい文化人が,叡山焼き討ちに対して煩悶したのは事実ではなかったろうか。
組織に竿すことなく堪え忍んだ結果が本能寺だとしたら,歴史とは何と非情であることだろう・・・。


・・・そんなことを思いながら,好天の中,坂本駅で下車する。
湖都古都おおつ・1day切符を改札で見せて,坂本ケーブルまで歩くか,バスに乗るか・・・などと思った時,
「山科から乗られた方ですか?」
と,改札の駅員さんに聞かれた。
そうだが,何か・・・と訪ねると,
パンフレットを渡してくださいと頼まれたという。
つまり,比叡山に行くのに坂本で降りると言ったからだろう。
もしかすると,渡しそびれたのかもしれないが(一昨年買った時は,何もなかった),親切なことである。
山科駅の駅員さんも親切だったが,さすが京阪である。
西武系なのが個人的には気に入らないが(笑),このあたりは,敢えて身内に職員が居るから言うが,JR東京駅の女性職員には見習って欲しいものだ。
で,さらにスピードくじが渡されたので,引いてみたら何と4人中2人分が当たった。
商品は,何と「おけいはん」のカレンダー。
おけいはんとは,京阪のキャンギャルおねいさんのことで(今の方は何代目なのだろう?),歴代美形揃いであるらしい(笑)。
大事にリュックにしまい込み,未だに開封していないが,いずれ紹介したいと思う・・・。


駅の斜め向かいに閉じている観光案内所があった。
石垣の上に築地塀。

そして,彼方に見える大鳥居を見た瞬間,心は決まった。
ここは,バスなど使わず歩くのが正しい・・・と。
この日のハイライトは,この瞬間から始まった。


關西紀行,其之拾八:おでんde電車・・・

2014年01月28日 20時54分52秒 | 旅行,および「鉄」

近江路は,権力抗争の表舞台となったことは,壬申の乱や幾度に渡る瀬田川攻防戦,関ヶ原の役での大津城攻防戦等で分かる。
江戸期には,近江商人の発祥地として名が知れたが(近江兄弟社なんて,その衣鉢を見事に継いでいると思うのだが・・・),近江は古来,多くの武士団を輩出してきたと言えるかも知れない。


有名なのは,何と言っても北近江を中心に,勢力を扶植してきた近江源氏(宇多源氏,佐々木源氏)だろう。
宇多天皇の末裔が,佐々木氏を名乗り,鎌倉期以降は,各地に広がった。
元々は,南近江の蒲生郡の出自らしいが,何と言っても,保元平治の乱を戦い抜いた佐々木源三秀義の功が大きいと思う。
宇治川の先陣争いをした佐々木四郎高綱の父と言えば,ああそうか・・・という方もおられよう・・・。
この秀義,平治の乱の後,どうやら東国に逃れ,舅である相模の渋谷重国の元に在ったらしい。
頼朝の挙兵に際し,太郎定綱,次郎広高,三郎盛綱,四郎高綱の四兄弟を遣わしており,自身は,平氏方の大庭景親(保元平治の戦いでは,義朝に付いた)に義理立てした舅の手前,五男の義清とともに相模に留まり,後に改めて頼朝に臣従した。
源平の戦いに功があった四兄弟は,それぞれ官位を得たが,承久の乱においては,京に近いことからか,後鳥羽上皇方に一族の多くが荷担し,それによって各地の守護職を失い,近江の宗家が残ることとなる。
秀義-定綱-信綱と続くわけだが,信綱の子である泰綱と氏信がそれぞれ六角氏と京極氏を興すことになる。
六角氏は,京の六角堂から発祥だろうし,京極氏の発祥については,以前述べた。
京の極み-即ち,京洛の外れ・・・といった意味であろう。
この系統からは,多分男として最高の人生を送ったと思われる佐々木(京極)高氏(導誉)が出た。
そして,箱根竹ノ下の戦いで,足利方に寝返った導誉は,幕府の要職を務め,京極氏は繁栄する。
また,秀義五男の義清は,承久の乱の功によって,出雲・隠岐の守護となり,子孫は同地に栄えた。
後世の長州藩士前原一誠(萩の乱の首謀者)や乃木希典は,その子孫と言われる。
松江市内に乃木駅があるが,多分このあたりが発祥の地なのだろう・・・。
ついでに述べれば,後に山陰の覇者となる尼子氏も近江源氏であり,黒田氏もそうではないかと言われた・・・。


一方,琵琶湖西岸の三井寺(園城寺)に祭られた新羅明神にて,元服をしたのが新羅三郎と呼ばれた源義光である(八幡太郎義家弟)。
この系統も,各地に栄えた。
武田,佐竹・・・と,大大名だし,小笠原,三好,平賀等,氏族は幾らでも出てくる。
その新羅三郎義光の曾孫に,山本冠者義経なる人物が居た。
治承4(1180)年の以仁王挙兵に際して,この山本義経は,三井寺に籠もったり,京都襲撃を企てたり,美濃源氏(土岐氏だろう)と協力して,強大な平氏軍と戦ったり・・・と,縦横の活躍を見せる。
「2人の義経」なる永井路子の小説があったが,そのうちの1人は,この山本義経であった。


・・・そんなことを思いつつ,未乗区間である近江神宮より北へ向かう。
京阪の電車のバリエーションは面白い。
前回は,「ガンダムエイジ号」や「けいおん号」,「源氏物語号」などを見たが,今回はまた違っていた。
あとは,画像で紹介するしかないか・・・。
最新だろう滋賀県警号
おねいさんは何方?
おでんde電車
・・・ということで,電車紹介で終わってしまった・・・。


關西紀行,其之拾七:幻の大津京・・・

2014年01月27日 22時09分30秒 | 旅行,および「鉄」

さすがにホテル暮らしも,3日目ともなると,慣れよりも疲労の色が濃い。
前にも書いたが,家では和室に煎餅布団を敷いて寝ているので,どうにもベッドというのは,慣れないというか,寝付けない。
あとは,トイレと風呂が一緒という西洋人の感覚には付いていけない。
便器だけは,和式より洋式に慣れてしまったが,どうもあのユニットバスというのは駄目だ・・・。


・・・ということで,ホテルの優雅な朝食の後(後で紹介します),最低限の荷物 (ガイドブックとカメラ)の持って,京都駅へ向かう。

ホテル前で,面白いものを発見。
昨日より,さらに近道を見つけた。

撮り鉄になった後,非常に無駄なのだが,山科までの1区間,JRに乗る。
本日の目的地は比叡山故に,山科で京阪に乗り換え,終点の坂本まで行き,そこからケーブルカーで・・・というパターンである。
できれば,出町柳から叡山電鉄に乗り,八瀬からケーブルに乗り換えて,比叡山を横断して,坂本に降りるというルートが望ましかったのだが,専用切符が12月頭までしか売っておらず,一昨年も利用した京阪乗り放題の「湖都古都おおつ1dayチケット」を京阪山科駅で買う。
何せ500円だし,坂本ケーブルが20%引きという。
京阪の駅員さんは,どこも親切だった印象があるのだが,今回の山科駅のおにいさんも至極丁寧で,やはり比叡山に行くなら,このルートが一番経済的であることを教えてくれた。


京阪に乗るなら,先頭車両(京津線は)と決めている。

何せ,ロングシートではなく,1人掛けまで有る。
この時間帯は混まないので,乗り換えの浜大津まで,逢坂山の麓をまったりと乗ることができる。
JRの3つ(新幹線・東海道本線・湖西線)が,トンネルであっという間に大津へ抜けていくのに対して,京阪は旧東海道に沿って谷合を通っていく。
平安の昔,今昔物語にあるように,逢坂山に住む蝉丸法師の元へ,秘曲「龍泉啄木」の伝授を願って,通い詰めたという源博雅(陰陽師に出ていた伊藤くん)も,ここを通ったのだろうか・・・。


これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂(あふさか)の関      蝉丸


百人一首だと,分かれつつ→分かれては,となっているのだが・・・。
関蝉丸神社が,かろうじて往時を偲ぶ唯一のものとなっているようだ・・・。

私が京阪を気に入っている理由の1つとして,上栄町を出てから,浜大津までの数百メートルが,国道161号線(西近江路)上の路面電車となるからだ。
なかなか見られない光景である。
海外では,トラムとかいって,エコロジーな乗り物として,路面電車やトロリーバス(スイスのルツェルンで見た)が注目されているが,こうした「鉄」とモータリゼーションの共存こそ,近未来の都市交通の在り方の1つ示唆を示しているような気がする・・・。


浜大津で待つ間もなく,坂本行きにトランジット。
一昨年三井寺に行って以来だが,2つ目の皇子山駅で,JR湖西線とクロスする。
但し,駅は別で,あちらは大津京駅と,ご大層な名を付けている。
因みに,かつて私が学生時代に湖西線完乗を果たした際,ここで降りたのだが,当時は西大津駅と言った。
皇子山の皇子とは,多分弘文天皇-大友皇子のことだろうが,その陵は,大津市役所の後ろに有るようだ。
壬申の乱の悲史と共に,幻と言われて久しい大津京(近江京)の様子も,次第に明らかになっていくのだろうか・・・。
因みに,父の天智帝の陵墓は,何と京都市内にある。
かつて,京阪(現在の京都市地下鉄東西線)の御陵駅北方にあるのが,それである。
自力で上洛した学生時代,山科から京阪に乗って蹴上で降りて,南禅寺と青蓮院・知恩院と見たのが,2度目の京都旅行の始まりだったが,以来何度上洛を果たしたことだろう・・・。


近江路は,歴史散策の道でもある。
上記壬申の乱に始まり,弁慶所縁の三井寺にしても,紫式部が源氏物語を書いたとされる石山寺にしてもそうだし,源平時代は,琵琶湖畔の粟津や瀬田で,西上した鎌倉軍と京都防衛の木曾義仲軍という戦場にもなった(三井寺の僧兵vs平氏軍というのも有りか)。
そうした意味でも,私にとって感情移入が激しく,大和路や洛中以上に暴走しそうな場所でもある。
只,こうして書いているうちに,またしても1,600字のワープロ2ページ近くなっているので(風邪も酷いし),ここで止めるが,今後暴走しないという保証は皆無である。
この手の文章なら幾らでも書ける・・・というか,迷惑至極なのだが,しょーもねーこと書いてやがんな・・・と,広い心で看過していただきたい・・・。
そんな自己満足に付き合ってられるか・・・と思われたそこの貴方,しっかりと最後まで付き合ってくださって,ありがとうございます・・・。


關西紀行,其之拾六:天平の甍,平城の光・・・

2014年01月25日 22時33分51秒 | 旅行,および「鉄」

私はこの境域のどの一角も好きである。
とくに一カ所をあげよといわれれば,二月堂あたりほどいい界隈はない。
立ちどまってながめるというより,そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。
東域の傾斜に建てられた二月堂は,懸崖造りの桁や柱に支えられつつ,西方の天に向かって大きく開口している。
西風を啖い天日没のあかね雲を見,夜は西天の星を見つめている。
二月堂へは,西の方からやってきて,大湯屋や食堂(じきどう)のずっしりした建物のそばを通り,若狭井のそばを経,二月堂を左に見つつ,三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり,やがて谷へ降りてゆくという道がすばらしい。
      (司馬遼太郎著「街道をゆく」奈良・近江散歩より引用,朝日文庫刊)

                               
私のような凡百の者が,如何なる美辞麗句を尽くしたとしても,この素晴らしい建造物について語ることは,不可能だと思う。、
それが故に,端的にその良さを示している文面を,引用させていただいた。
大和を訪れたこの日,私は上着のポケットに,この文庫本を忍ばせておいた。
特に理由は無い。
只,それが一番相応しいことと,勝手に思ったからである・・・。


今回は,手向山八幡宮から,その上にある不動堂に登って詣でたので,東大寺二月堂には,少し降りていくようなアプローチとなった。

5年前に訪れて以来(多分,修学旅行でも,その後の関西紀行でも行っている筈だが),私はこの二月堂のただずまいと,眺望が大のお気に入りとなった。

大和盆地を一望できるのが,先ず素晴らしい。
大仏殿の甍の向こうには,彼方の生駒~志貴の山系の麓まで,広大な大和盆地が広がる。

まさに,やまとはくにのまほろば・・・といった風情である。

久々に日の高いうちに訪れたのだが,今まで訪れた夕刻には,次第に点る灯が増えていくという独特の情緒を味わうことができた。

若草山の頂からも,きっとこのように大和盆地を俯瞰することができようが,その風情は天平の昔から変わらないと思う。
以前も幾度となく述べたが,遣唐使として不本意ながら異郷に果てた阿倍仲麻呂(698-770)や井真成(いのまなり699-734)といった人々の脳裏を終生過ぎったのは,きっとこの美しい平城の都の風物だったのではないだろうか・・・。
遠く異郷にある者にとって,国とは,政治機構とか組織といったことを超えて,土や風の臭いとか木々の緑や葉擦れ・・・といった自然の織りなす現象こそ先ず第一に手折られるべきことなのではないだろうか・・・。

天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも         阿倍仲麻呂

皮肉なことに,これは天平勝宝4(852)年,帰国の途に就き,故郷を偲んで詠んだ句とされる。
周知の通り,暴風雨による難破により,帰国は果たせなかった訳だが,遣唐使船の生還率は30%程度という話を聞いたことがあり,まさに決死行であったと言えよう・・・。
玄宗皇帝にに仕え,安史の乱を経て高位に上り(安南-ヴェトナムの総督も務めた),異郷に没した仲麻呂の無念は,如何ばかりだったであろう・・・。                       
真成は,仲麻呂の1つ年下と想像されている。
というのは,平成16年に西安で,当時の墓誌が見つかり,日本からの留学生で官吏の井真成が35歳で亡くなった・・・というものだったらしい。
非常に勉強家で,官吏としても優秀だったと記されていたという。
どうやら,仲麻呂と同時期に入唐だったと思われ(吉備真備とも一緒ということか),それ以外のことは,皆目分からないというのが現状のようだ・・・。
まだ10代だった若き日の彼等も,ここに立ったのであろうか。
東大寺の成立が,740年代とすると,彼等は二月堂には登らなかっただろう。
但し,三笠山や若草山からの大和盆地の俯瞰はしていたと思いたい・・・。


この二月堂の創建は,やはり天平年間だったと思われるが,何と二度の戦火から奇跡的に逃れたらしい(1180年,平重衡の南都征伐と,1567年の三好党と松永久秀による戦い)。しかし,江戸時代初期に,お水取りの最中に失火して全焼。
現在の建物は,その後に造られたものとのことだ。
因みに,二月堂という呼称は,上記お水取りが旧暦2月に行われたことから,起こったらしい。
若草山の山焼きも含めて,一度見てみたいものだ・・・。


毎度のことながら,後ろ髪を引かれる思いで,二月堂を後にする。

降りる回廊がまた素晴らしいし,正倉院や大仏殿に至るまでの道筋の雰囲気も素晴らしい。

そして,一気に人が増える大仏殿前を経て(必ずトイレに入るのだが),南大門に至る。
天竺様と言われる鎌倉初期の傑作であるが,左右の金剛力士像を見る。

さすがに,上の子も運慶と快慶の作と知っていた。
この素朴な力強さこそ,鎌倉の武家文化の象徴なのであろう。
私なんか,ついつい昭和54(1979)年の大河ドラマである「草燃える」のタイトルバックを思い出してしまうのだが・・・。


東大寺を後に,東大寺大仏殿・国立博物館バス停までの間に,森鴎外の旧居の門を見つけた。

晩年の鴎外は,国立博物館の館長を務めたという。
その官舎の門が残されていた。
本日3本目のバスで,切符の元を取る。
まだ日は落ちていなかったが,疲れたので京都に戻って夕食を摂ることにする。
勿体ない話だが,家族連れの辛さでもある・・・。
往路同様近鉄急行で帰途に就いたのだが,京阪三条に行きたかったので,丹波橋で京阪に乗り換えた。
夕食については後述したいが,京阪三条からの地下鉄の運賃は,嬉しいことにフリー切符に含まれていた。

そして何よりも,帰途に就く際,万感の思いでふりさけ見た若草山の斜面に西日が照り映えていたことが,印象的だった・・・。

             (ようやく2日目終了・・・)


關西紀行,其之拾伍:紅葉の錦,神のまにまに・・・

2014年01月24日 21時28分58秒 | 旅行,および「鉄」

若草山の北側にあるのが,手向山八幡宮である。


途中一刀彫りの店があり,見事な民芸品を見ることができる。
私は買わないでしまったが,大和鍛冶の刃物同様,良い南都土産となることだろう・・・。
実は,この手向山八幡であるが,高校の修学旅行で来たことがある。
ここは,受験に御利益が・・・と解説され,皆挙って合格祈願のお守りを買った。
さらに翌年,修学旅行帰りの後輩から,同じお守りを貰った。
以来,この手向山八幡宮は,私の青春の妄念が宿る場所となった。
何故,受験に御利益があるのか,当時の私は知る由もなかったが,同級生に故事に詳しい奴が居て,
「ここは菅公(菅原道真)所縁の地だ」
と,教えてくれた。
「それって,太宰府天満宮とか,京都の北野天満宮じゃないのか」
と,その程度の知識しかない私が聞いたところ,
「此の度は 幣もとりあへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに という歌が,百人一首にあるんだよ」
と,教えられた。

確かに,その通りであるが,私が百人一首を覚えたのは,もっと後のことだった。
調べてみると,東大寺の建立の際に宇佐八幡から勧請されたらしい。

現在の位置に移ったのは,北条時頼による再建の時らしい。
つまり奈良時代に建立され,源平の兵火を経て,鎌倉中期に再興されたと言うべきだろうか・・・。

朱塗りの社殿は,雅楽が似合いそうな雰囲気で,古都奈良に相応しい面持ちだ。
幾度となく訪れてきたが,今回が一番ゆっくりと参拝できたと思う。


因みに,かつて調べたところ,私の母方の姓は,菅原流だそうだ(家康の母の実家と同姓)。
家紋も同じ梅鉢紋で,加賀の前田家と同じである。
だからどうなんだ・・・と言われればそれまでだが,若い頃我が家のルーツを調べようとして,結局分からず終いだったので,母方と,母方の母方まで調べるに至った。
母方の母方の姓は加藤。
藤原北家魚名流。
佐藤,斎藤,遠藤等,藤の付く姓と同様であるが,本拠地は庄内藩の支藩があった庄内松山(当時は中山)。
加藤清正の子,忠広が熊本を改易されて,配流された地である。
ということは,私には加藤清正の血が・・・と,一瞬色めき立ったが,この忠広の子孫は,現在でも庄内地方の中心地である酒田市(私の故地だ)に住んでおり,加藤姓ではない。
だから,私の解釈は,完全な眉唾だったという訳である。
以来,「信長の野望」をプレイするときは,前田利家と加藤清正は贔屓の武将となってしまった。
いずれも戦闘能力が高いので,重宝した。


・・・ということで,しょうもない話題を止めて,話を菅公に戻すと,これからの季節にCMが目立つ「カンコー学生服」というのがある。
これは「菅公」から採ったということだ。
学問をするのに着用する学ランに,菅公の名を冠したというのは,理屈としては理解できる。
因みに,学ランで思い出したが,90年代にはF1学ラン(グランプリ学ラン)なるものが売っていた。
プロスト(確か最高級品),ピケ(野性的で女好きになるのか?),ベルガー(頭が薄くなって,助平になるとか),パトレーゼ(おっさんくさいぜ)なる銘柄があったと記憶している(因みにセナは無かった。私の好きなマンセルは有ったかどうか・・・。有れば,ピケを着た奴と喧嘩になるとか・・・)。


・・・と,またまた暴走。
とにかく,一体何を書いたのか,主旨が一貫しないのが,私の文章であり,本論から逸れまくるのも,殆ど不治の病である・・・(猛省・・・)。


でもって,この日のピークは,この後に訪れるのであった・・・というか,南都の旅のハイライトは,常にここであった。
そこまで書きたいという意欲は有るのだが,一体どのようなことになるのか,皆目見当が付かないので,今日はいつもより少し短いが,ここで終わりにする。
明日は一体どうなるのか,皆目見当が付かないが・・・。


關西紀行,其之拾四:奈良の春日野青芝に,腰を下ろせば・・・

2014年01月23日 22時52分12秒 | 旅行,および「鉄」

今更だが,奈良が好きである。
勿論,京都も良い。
どちらが好きか,と聞かれると,返事に窮するが,奈良の寺社巡りや街歩きをしている最中は,奈良が好きである。
前回も述べたが,京都に比べて人が少ないというのが先ず第一だ。
奈良公園一帯は,さすがに観光客が多いが,今回の新薬師寺や,4年前に訪れた元興寺など,ちょっと離れると人は多くない。
西の京の大寺2つ,薬師寺と唐招提寺にしても,嵐山や清水坂程人はいない・・・。
そして,その大寺に代表されるように,大陸の風気が感じられる(と言っても,中国に行ったことは無いのだが・・・)のも,何ともゆったりした感じで,心地よい。
特に,奈良を訪れた際には,必ず行くという鉄板コースは,今回で5回目,個人的には7回目か8回目,否,修学旅行を入れると9回目となるが,とにかく飽きない。
南都の魅力が凝縮されたコースだと思うし,勿論想像でしか知らない平城の昔に,思いを馳せることもできる。


春日大社の長い参道を,黒豆を踏みながら歩くのも亦楽しいし,前回工事中だった朱塗りの社殿を眺めるのも良し。
寄ってくる御神鹿戯れるも良し。
但し,下手に寺社のパンフレットなどを手に持っていたり,ポケットから出していたりすると,噛み千切られて,食べられてしまうが・・・。

因みに,前日に出達する際,新調した靴を履いた。
かなりリスキーとは思ったが,今の靴は優秀で,ぴったりと足にフィットして,靴擦れなんて無縁・・・と思ったが,右の小指の裏に豆ができて,大きな水膨れとなってしまった。でもって,新品の靴で黒豆を踏みつつ歩くのだから,妙な感じだが,別に気にしないとどうってことはない。
臭うわけではないし・・・。


・・・ということで,吉永小百合の「奈良の春日野」が頭の中に明滅した。
ひょんなことで,あの曲を知ったのは,昭和末期のお笑い番組のおかげだが,同時期にリバイバルしかけた「青いゴムゾーリ」(バーブ佐竹)というのもあった・・・(何で草履が片仮名なんだ?)。
どうでもよいが,私の母は,デーブ大久保と聞いて,バーブ佐竹を連想したそうだ・・・(脱力)。


春日大社の面白いところは,参道にとにかく見るべきものが多いことだろう。
神社や祠もいろいろ在るし,鬱蒼と木々が繁る中,人懐こい御神鹿と歩くのは何とも楽しい。

本殿に参詣した後,水谷神社へ下り,飲食店や土産物店が軒を連ねる界隈を登ると,若草山麓へ出る。



オンシーズンは,入山券を買って登るのだが,この季節は入山できない。
3月のお水取りの時は,完全な山焼きが行われるので,それまでは・・・ということか。
山頂まで,なだらかな斜面に下草が生え,何とも言えない雰囲気を醸し出す。

若草山とは言い得て妙である。
良い季節なんかは最高ではないだろうか・・・。
天平の昔,平城の大宮人たちは,きっとここで大和盆地の眺望を楽しみ,時には中食を取ったりしたのではないだろうか・・・。
今も昔も,こうした感覚は変わらないと思う・・・。


若草山の麓には,やはり店が多いが,何とも特徴的なのは,大和鍛冶の老舗が2軒あることだ。



菊一文字包永(手掻兼永)と,謡曲「小鍛治」にも謡われた三條小鍛治宗近である。
ちょい値が張るが,良い大和土産となろう。
尤も,この季節は開店しているかどうか微妙なところだが・・・。
またしてもどうでも良い話だが,伏見城の項で述べた鈴木(雑賀)孫市の差料(脇差だったか?)は,兼永だった・・・と記憶しているが,多分司馬遼太郎の小説でのことだろう・・・。

その若草山の北端に「名勝奈良公園」の碑があり,隣に真新しいトイレができていた。

ここぞとばかり用を足し,子どもも行かせる。
3年前,二月堂で催され,絶景に浸る間もなく,大仏殿入り口近くまで走る羽目になったことからの教訓である。
そして,ここからが鉄板コースのハイライトとなるのである・・・。
             (果たして,続きは書けるのか・・・)