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koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行-其之拾「大和縦断・・・」

2015年01月19日 22時21分40秒 | 旅行,および「鉄」

近年は聖徳太子の存在すら疑われているし,蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳も教科書に記載か無かったり,私が仁徳天皇陵と習った堺市百舌鳥古墳群は,大仙古墳と明記される(というか,御陵は宮内庁が管轄のせいか,正確さに欠けるという指摘なのかどうか,○△天皇陵とは明記されないようになったようだ)。
つまり,古代史-それも大和朝廷の統一と3~4世紀頃の巨大化した古墳の時代を経て,飛鳥に政権があったと思われる6世紀末から7世紀までの時代は,古代律令制国家の骨子が形成された重要な時代であるはずだが,分かっていないことも多く,今なお謎が多い時代ということもできる。
しかし,我が国が海外に認められて,初めて国家の体を成したのは,やはりこの飛鳥に政権があった時代と思う。
故に,飛鳥は我が国発祥の地と断じても良いと思う。


しかし,歴史の時代区分は,ここ30年ぐらいで大きく変化したと思う。
青森の三内丸山遺跡発掘以降,教科書から縄文時代の文言が消え,大和時代とか飛鳥時代という区分もなく,古墳時代で一括されるようだ。
あんな面白い出来事が連発した南北朝時代も小学校では学習せず,楠木正成は勿論,後醍醐天皇や足利尊氏も登場しない(戦前戦中の皇国史観への反動なのか・・・。だとしたら,とんだ勘違いだ)。
通史も習わないので,何だかなぁ・・・という感じだ・・・。
やはり大和朝廷の巨大古墳の時代~飛鳥に朝廷があった時代~平城京に都が有った時代・・・という分け方が至って自然な気がするが・・・。


いずれにしても,我が国が興った地を見せておくことも無意味ではあるまい・・・ということで,飛鳥行きを敢行した。
個人的には,4度目である。
最初は学生時代の実習で飛鳥資料館を見た時(石舞台はバス車窓から),次いで職場の旅行で高松塚古墳記念館と石舞台を見たとき,そして20年前に奈良出張の帰途,自力で自転車を漕いで,飛鳥板葺宮と甘樫の丘に行った時だ。
残念ながらこれらの記憶は殆ど無く(当時の飛鳥資料館が,えらく近代的に見えたことぐらい・・・),ほぼ初めて行くに等しいと言え,予備知識も殆ど無く,自転車は子どもに酷なので,バスで回ろうと考えていたくらいである。
前夜,JR奈良駅に隣接するホテルで,3時間ほど疲れのためにのびてしまい,ようやく深夜にかけて電車の時刻などを確認したのだが,完全に行き当たりばったりであった。
勿論,1人で行くならそれで良いのだが,家族で・・・となるとそうも行かず,とにかく飛鳥駅から循環バスで高松塚古墳と石舞台へ行くことにした。 
そのための乗り放題切符を飛鳥駅前の飛鳥総合案内所で求めようと考えた。
飛鳥の入り口は,橿原神宮駅と飛鳥駅だが,史跡や古墳等の見学物件は圧倒的に飛鳥駅からの方が多いと踏んでのことであった。
そして,それが以前と同じく大きな過ちであり,咄嗟の判断が明暗を分け,瓢箪から駒が出ることにもなるのだが・・・。
ま,それについては,おいおい語っていくことになるだろう・・・。

7時台に朝食を終えた筈が,部屋で旅装を整えてぼうっとしているうちに9時近くになってしまったので,急いでホテルを出る。
高架の下をくぐり,JR奈良駅の2階にすぐ出られるので,JR利用者には極めて便利なホテルだ。
但し,近鉄駅には1キロちょっと有るので,朝は気力と体力があるうちに三条通経由で歩くことにした。
普段,煎餅布団を畳の上に敷いて寝ている身としては,どうもベッドというものは寝づらく,熟睡感が無い。
眠い目をこすりつつ,奈良の繁華街の1つである三条通を東へ向かう。
この道は,興福寺の南にある猿沢の池の北岸を通り,春日大社の参道となることは前述の通りである。
面白い通りだ。

全国チェーンの居酒屋があったり,奈良漬けの老舗があったり,ファーストフードが庇を連ねていたり,藤田観光グループのホテルが2軒あったりして飽きさせない。
そして,沿線には開化天皇陵や浄教寺なる古刹があったりもする。

開化天皇陵は,バス通りからも近いが,当然見ることはできない。

応神-仁徳帝以前の天皇であり(日本武尊よりも前),完全に伝承の域だが,地図で見ると前方後円墳のようだ。
安らぎの道と呼ばれる繁華街を左折-つまり北へ曲がる。

適度な賑わいが心地よい。
かつて学生時代,この道沿いにある(三条通との交差点より南)旅館に泊まり,近所に飲みに出掛けたが,それがこの辺りだったのだろう・・・。
全く記憶がないのが残念なのだが・・・。


そこから近鉄奈良駅はすぐだった。
そして,とにかく居た電車(難波行き急行8000系)に飛び乗ったのだが,基本的に近鉄奈良線は難波行きが殆どであり,京都行きは極小で,橿原神宮前行きや吉野行きは無いと踏んだ。
つまり大和西大寺で乗り換えとなるわけである。
広大な平城宮跡を横切って着いた大和西大寺で橿原神宮行きに乗り換える。
この路線は,6年前に西ノ京から薬師寺を見て大和郡山でJRに乗り換えて法隆寺に行く際に乗り,4年前には同じく西ノ京から唐招提寺へ行き,一駅あるいて尼ヶ辻から奈良へ戻る際に乗って以来である。
この辺りから,大和盆地特有の溜め池が見え始める。
地図を見ると,大和郡山駅の南側は,溜め池がもの凄く多い。
金魚の町ならではである。
郡山城の石垣と櫓をちらりと見たとき,上の子に
「大和郡山城主を2人挙げよ」
と聞いてみた。
羽柴秀長と増田長盛と出れば良かったのだが,
「筒井順慶」
と来おった。
確かにそうだが,水野勝成とか言えば,よく知ってるなとなったのに・・・。


・・・ということで,飛鳥はおろか大和盆地縦断の途中で終わってしまいました。
次回は,飛鳥に着くとは思いますが,果たして書けるかどうか・・・。


關西紀行-其之九「二月堂残照・・・」

2015年01月18日 22時13分09秒 | 旅行,および「鉄」

若草山に思いを残して北に道をとると,すぐに手向山八幡宮だ。
昨年,菅原道真の歌碑と神社の由来については述べたが,朱塗りの社殿は春日大社同様雅やかな雰囲気を醸し出しており,参拝自由なのも実に有難い。
高校2年の時,修学旅行でここに来て,菅公所縁という説明を聞いて,私をはじめとして
お参りを済ませてから,お守りや御朱印帳を見る。
多くの者が合格祈願のお守りを買い,更には翌年後輩に同じものを貰ったことも述べた。あれから30年以上経つのに,確か全く同じものを売っていたというのも嬉しい話だが,来年受験の上の子に買わなかったのは,験を担いで・・・という訳でもないのだが・・・(歯切れ悪し・・・)。
北西の鳥居を出ると,東大寺三月堂が目の前にあり,いよいよ二月堂へのハイライトが始まるという訳であるが,斜めから鳥居越しに写真を撮るのが何とも気に入った構図となっている。
試しに鳥居の正面からも撮ってみたものの,レヴェル(水平)を出すことで構図の安定感はあるが,何か物足りない・・・。
多分,ここに来たのは8回目と思われるが,今から向かう二月堂と共に,やはり外すことのできない鉄板ルートだ・・・。


そして,いよいよ二月堂へ登る(昨年のものはこちら参照)。

奈良公園を巡る旅のハイライトはやはりここだ。
奈良を訪れるたびに連れてこられる相方も,この二月堂でいつも癒されるのは何故だろう・・・と言っていた。
今回は南側の石段を登り,回廊に辿り着く。

折しも陽は西の生駒山系に沈む直前で,淡い残照が大和平野を照らしていた。
ここでの夕陽は圧巻・・・と何かで読んだ記憶があるが,確かにその通りだと思う。


聖武帝や光明皇后,或いは吉備真備に弓削道鏡もここから落ちる陽を見たのだろうか・・・。
幾度となく一眼のシャッターを切る。
沈み行く夕陽には,何とも言えぬ哀切さと強引にこちらの気持ちを引きつける求心力がある・・・。
万葉人の心を思い,あまり詳しくない古代史への追想をしつつ,大いに気持ちを残したまま二月堂を後にした・・・。
西の空が夕陽に照り映えているにもかかわらず,雨が落ちてきた。
迂闊なことに,折りたたみ傘はメインザックに入れたまま,ホテルに置いてきたので,少し早足で二月堂を後にして,情緒満点の石畳の道を下る。

早めにバスに乗りたかったので,大仏殿や南大門の方へは行かず,とにかくバス通りに出ようと正倉院の方へ急いだ。
4年前と同じルートである。
そして,今小路バス停の屋根の下に入ったときに,雨が本降りになった。
夕焼けが見えたから俄雨とは思ったが,実にラッキーだった。
ついでにバス停そばの祇園八坂社にお参りすることもできたし・・・。 


・・・ということで,短いですがこの日はこれで終了です。
まもなく来たバスに乗ってJR駅前で降り,夕食をとったあと,徒歩3分のホテルに戻りました。
さすがにほっとしたのか,そのままベッドに倒れ込み,飲まずに2~3時間伸びていました。
11時頃に入浴し(何と大浴場がある),ベッドに入ったものの眠れず,悶々としたまま朝を迎えてしまいました・・・。
次の日は,ほぼ未知に近い飛鳥へ向かいますが,律令制以前の古代史も全くの範疇外なので,果たしてまともに書けるかどうか・・・。


關西紀行-其之八「春日大社から若草山へ・・・」

2015年01月17日 21時37分50秒 | 旅行,および「鉄」

春日大社の表参道が,奈良市内で最も賑やかな通りである三条通であることを,今地図を見て,改めて知った。
興福寺東の猿沢の池からJR駅まで歩いたことがあるが,国立博物館の東側から一の鳥居にかけては未踏なので,次回は敢えてバスではなく徒歩で訪れたいと思った。
春日大社-勿論我が町にもある春日神社の総本社であり,藤原氏の神社としても知られている。
伝承によると,和銅3(710)年に平城京遷都と同時に大宝律令編者として知られる藤原不比等(鎌足の子)が氏神である鹿島神を御蓋山(みかさやま=三笠山=春日山)に勧請したのが始めとされているようだが,社伝では,768(神護景雲2)年に藤原永手が鹿島の武甕槌命,香取の経津主命,そして枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せて祀ったのが最初という。
御祭神が複数というのが,如何にも日本的だと思うのは私だけだろうか。
考えてみたら,キリスト教も回教も一神教であり,天主という点では同一神だと思う。
それに対し,我が国はまさに八百万(やおよろず)の国である。
そういう意味では,かつて某首相の神の国発言はある意味正しいと言っても良いかもしれない。
左翼がぼろくそ言っていたが,我が国の信仰は,確かに森羅万象八百万の神々が対象である・・・。
そうした点では,ゼウスを頂点としながらも光陽神アポローンや海神ポセイドン等,オリュンポス十二神で構成された古代ギリシャと共通項があるのかも知れない・・・。


古色蒼然たる石灯籠が並ぶ参道は圧巻だと思う。

無宗教・無信仰を標榜する私を筆頭とする誰もが,その荘厳な宗教的雰囲気に圧倒されるのではないかと思う。
寺社巡りの魅力の1つは,氏神などの縁起や歴史的沿革もさながら,こうした宗教的荘厳さを味わうことにあると思う。
高校時代,修学旅行の行き先は関西と北海道の二箇所からの選択となっていて,東日本から一歩も出たことのなかった私は,一もニもなく関西に決めたのだが,よく友人から
「寺ばかり見て面白いのか」
とか,
「寺より湖の方が絶対良い」
とか言われたものである。
ま,当時は京都と奈良は日本人として是非見ておくべき(鎌倉は,同年春に訪れた),と思っていたので迷わなかった訳だが,この思いは今も変わらない。
そして,今も寺域やご神域は心が落ち着くので,自らその環境に身を置く機会が増えている。
そうした意味でも,確かに寺社とはパワースポットであるのかも知れない。
人知やテクノロジーを超えた超自然的なものの存在を是とするか非とするかは,人によるだろうしTPOにもよると思うが,信仰や信心の有無と宗教的荘厳さの魅力は背中合わせなのかも知れない・・・。


確か3年前に訪れた際,春日大社の社殿は工事中であり,残念な思いをしたものだが(これは6年前の銀閣,3年前の石山寺多宝塔も同様),今回は朱塗りで鮮やかな色彩の社殿を堪能することができた・・・。

前後するが,本殿のずっと下にある手水(ちょうず)は,竜吐水ではなく何と鹿であることが春日大社らしい。

鹿吐水(ろくどすい)とは言わないだろうけど・・・。


そして,次なる目的地である若草山へ向かう際に,境内に勧請された水口神社から川の流れる谷へ下りるのであるが,この辺りの風景も気に入っている。
学生時代,講義の1つとして関西の博物館や寺社を巡った際に,この辺りで友達と楽しくだべった記憶が今でも鮮明に残っており,懐かしいと同時に地図を見て歩く習慣の無かったことを大いに悔いた。
今でこそ,携帯があるので未知の地は地図を見ながら訪れることができるのであるが,かつては二万五千分の一の地形図や土地利用図を地図店に買いに行くのも楽しみの1つであり,飽くことなくそれを眺めて地形までも頭に入れたものだった。
旅行ガイドブックの地図には無い精細さがお気に入りで,当時買った地図の8割は,今も本棚の一郭に残っている・・・。
水口神社の下には茅葺きの古民家が・・・と思ったら,水口茶屋なる茶店兼土産物屋だった。
谷へ下りて,両側に古くからの旅館や土産物屋が軒を連ねる石段を登ると,若草山の麓に出る。

勿論,冬季は入山できないのだが,なだらかな斜面には芝が生い茂る。
良い季節になったら,文字通り若草が萌え出ずることだろう。


小学校5年の時,日本の歴史図鑑(小学館刊)なるものを買ってもらった。
カラー写真など殆ど無く,全編が挿絵で構成されたものだったが,それが滅法楽しく夏休み中食い入るように読んだ。
言うなれば,それが私のこうした無駄な知識の源となっているのであるが,奈良時代の項に2ページ見開きで当時の若草山の様子が載っていた。
全面萌葱色の芝の上に大陸風の服装の親子が楽しげに遊び,御神鹿も一緒に描かれていたと記憶している。
何とも大らかなその雰囲気が,私のこの時代へのイメージを固着させるに至ったことは言うまでもない。
近年,こうした奈良の寺社を好むようになった背景というか源流は,この2ページに亘る絵であったことは間違い無い・・・。
天平の昔と平城の都を偲ぶポイントは幾つもあるだろうが,私にとってはやはりこの若草山麓がその1つである。


この若草山麓の風景もなかなか良いと思う。
山麓には大和鍛冶の老舗が2軒と,土産物屋や旅館が建ち並び,ちょっとした門前町の情緒を醸成しているのであるが,その大和鍛冶の2軒(菊一文字包永と三條小鍛治宗近)については昨年述べた。
今気付いたが,謡曲「小鍛治」にも詠われた後者は,京都ではなく奈良の三條通りにあったということなのだろう・・・。


・・・ということで,今日も2ページ強書き殴りました。
この手の文章なら幾らでも書けそうです(迷惑!!)。
あと1回で,この日が終わるかどうか・・・。


關西紀行-其之七「春日野の とぶひの野守 いでてみよ・・・」

2015年01月16日 22時27分26秒 | 旅行,および「鉄」
前述の通り,観光客の大半は大仏殿奈良公園前で下りるのだが,春日大社から若草山に抜ける予定だったので,敢えて次なる春日大社表参道で下車した。
でもって,本日のハイライトとも言うべき,新たな発見はその瞬間唐突に始まった。
否,唐突に・・・というのは,過去3回このバス路線を通ってきた私としては,あまりにも認識不足だった。
バスを下りて奈良公園に一歩踏み込もうとしたとたん,思わず瞠目した。

春日大社の方角とは反対の南東方向に目を向けると,びっしりと芝の植えられた小高い台地が南北に広がっている。
北は春日大社の表参道から南に緩やかな丘陵が続き,丘のピークから先は見えない。
おそらく次なるバス停である破石付近,昨年訪れた新薬師寺や20年前に訪れた白毫寺へと続く道の手前まで続いていると予想された。
咄嗟に,高校時代に習った和歌を思い出す。
 
春日野の とぶひの野守 いでてみよ 今いくかありて 若菜つみてん(古今集,読人不知)
(春日野の飛火野の野守よ,野に出て見てくれ。あとどれぐらいで,若菜を摘む春になるのだろうか・・・。訳:koshi・・・笑)

勿論,諳んじていたわけではなく,断片的に覚えていたのをwebで確かめただけなのだが,何故に記憶していたかというと,純和風で典雅なのはよいとしても,個人的には平安期の貴族趣味がもろに出て,ちまちました感は否めない古今集の中にあって,珍しく太陽と土の香りのする万葉調の雰囲気が気に入っていたからである。
そして平城の昔,狼煙台が置かれていたことから,飛火野と呼ばれていた地はかくの如く広大であったか・・・と,思った。
で,その夜,ホテルでネットを繰ると,春日大社南郊のその地こそ,上記の歌に詠まれた飛火野であったことを確認したのだった。
したがって,この時点ではここが飛火野とは思っていなかったことになる。
翌々日の午後,それを知ってから再びここを訪れたので,まあ良かったのだけど・・・。
 
 
緩やかな丘のピークに木が1本2本・・・。
その近くでは鹿がのどかに草を噛(は)む・・・。
こうした広大で茫洋たる風景は,見事に私の思い描くところの万葉時代のイメージと見事にシンクロする。
奈良の魅力を挙げればきりがないが,1つはこうした大陸の風気を感じさせる広大さ,そして,上述の万葉集に詠われたような太陽と土,そして水の香りではないかと思う。
この風景を若き日の阿倍仲麻呂も目にしていて,望郷の念を募らせたまま,無念にも異境に果てたのだろうし,聖武天皇や吉備真備も目にしたことだろう・・・。
以前,奈良と京都のどちらが好きか・・・と聞かれたら,一も二もなく国風の「京都」と答えたであろうし,京都で一番好きなのはどこかと聞かれたら,間違い無く「東山界隈」,しかも既述の通り,八坂神社から高台寺門前を経て,産寧坂から清水坂へ,清水寺へと登る道・・・と答えたのであるが,6年前の同時期に初めて家族で訪れた際,あまりの人の多さに辟易して以来,以前ほどお熱ではなくなってきたことも事実である。
そして,その京都に比して人出は圧倒的に少なく(東大寺大仏殿以東のみ。興福寺も西の京の薬師寺も清水坂の比ではない),寺域も大陸風で圧倒的に広い奈良がお気に入りとなってきた。
丁度20年前に出張で訪れて以来の奈良市内宿泊を決めた背景には,間違い無くこうした私自身の心境というか指向の変化が有ったことは間違い無い・・・。
雄大にして悠然たる飛火野の風景の中に,いつまでも身を置いていたかったのだが,他の家族がそれを許す筈もなく,早く次行こう・・・と何度となく急かされて,そう急ぐなよ,奈良に都があった1,300年前を偲べよ・・・と言っても理解される筈もなく,広大な飛火野(と思われた)地に思いを残して,芝の上を数十メートル先の春日大社の参道へと向かった。
以前は,かつて歌舞伎(「舟弁慶」だった)を見た近代的な新公会堂の脇から入っていたのだが,去年と今年はこの正規ルートとも言うべき表参道の入り口から入ることになる・・・。
 
 
 
・・・ということで,今日はワープロで2ページ弱で終了です。
この日のピークは2度有りまして,次回その2度目のピークについて述べることができると良いのですが・・・。
いずれにしても,この日の新たな収穫は,古代万葉時代からおそらく変わらぬであろう飛火野の雄大な風景の中に身を置いたことに他なりません。
これだけでも奈良に来た甲斐があったというものです・・・。

關西紀行-其之六「關西ホテルミシュラン・・・??」

2015年01月15日 21時30分42秒 | 旅行,および「鉄」

前後するが,大和西大寺駅では過去2回下車した(ホームで乗り換えただけではなく,改札を出た)。
4年前(震災の直前)は,そのまま歩いて西大寺へ行き,駅前へ戻ってバスで秋篠寺へ行った。
3年前は(震災のあった年の暮れ),歩いて平城宮跡を訪れた。
いずれもその後奈良公園を訪れたのだが,充実した旅程だった。
大和西大寺駅は,近鉄の要衝だけに駅舎の規模も大きく,駅ビルの飲食店も充実していて,トレインビューの展望コーナーまで有った。
上記寺院や史跡のベースとしては勿論,単なる乗り継ぎ点に留まらない魅力がある駅だと思う。
東洋のミューズと呼ばれるアルカイックな魅力を湛えた有名な秋篠寺の伎芸天を見に行った帰りには,ぜひ駅ビルを冷やかしてみることをお勧めしたい。


近鉄で奈良に向かったのは良いが,1つだけ誤算に気付いたのは,ほんの数日前だった。宿はホテル日航奈良を押さえたので,最寄り駅はJR奈良駅になる。
運賃が安くて電車の本数も多い近鉄が良いのは既述の通りであるが,この2つの駅はバス停1つが間にあり,歩くにはちょい時間がかかり(私の足だと10数分だが),バスで行くには近すぎる。
この点で,少々誤算であった。
但し,3回乗れば元の取れる1日乗車券を買えば,短距離でも抵抗なく乗ることができる。でもって,近鉄奈良駅を出て,真っ先に行ったことは,駅の向かいにある奈良交通バスの切符売り場で,1日乗車券を買ったことだった。
ついでに,明日行く予定の飛鳥の1日乗車券について訪ねてみた。
窓口に居たのは,私より多少若いとおぼしき女性だったが,ここでは買えないことや発売場所を丁寧に教えてくれた。
さらに少し待つように言われたのでそのようにしたのだが,何と飛鳥のバス時刻表(亀バスと言うらしい-亀石からとった)のwebページをプリントアウトしてくれた。
近鉄といい京阪といい,この奈良交通といい,とにかく親切である。
関西だからかどうか分からんが,有難いし何よりも嬉しい心遣いである。
実は何日か前に自宅でそのサイトを見て,携帯webで見るから・・と思ってプリントアウトしなかったのであるが,こうした心遣いには本当に感謝の気持ちでいっぱいである。


JR駅方面の循環バスの乗り場を探して,待つ間もなく来たバスに乗る。
JR駅との間にあるバス停は,油阪船橋商店街の1つのみ。
向かって左手(南)に開化天皇陵があるのだが,ビルの陰で見えない。
有難いことに,JR駅前に停車するだけではなく,駅前のバスプールに入ってくれた。
朝から疲労を抱えているこちらとしては,実に助かった。
JRの高架 の下をくぐると,ホテルはすぐだった。
実は,このホテルの第一印象は良くなかった。
6年前,初めて家族で奈良に行った際に駅前から見たら,ホテルというより大きな病院のような印象だった。
京都駅八条口に程近い新都ホテルの本館が,団地ともおが住んでいるようなアパートに見えたのと同種だろう。
いずれにしても言えることは,見かけではなく実際に入ってみると,中は小綺麗だったということであり,どちらも満足できるホテルだったということだ(都ホテルは,別館のサウスウイングが南欧のリゾート風で良かった)。
今まで京都と奈良で泊まったホテルは,上記の他にホテルモントレ京都ホテル近鉄京都駅,そしてリーガロイヤルホテル京都だが,いずれも快適であった。
唯一,大阪駅の上にあるホテルグランヴィア大阪も悪くはなかったが(2009年当時で,ブラウン管式のTVだった),上記に比べると個人的には??という感じだった。
勿論,特筆すべき事ではないし,食事も良かったのだけれど・・・。


チェックインを済ませると,何と部屋に入ることができるというので,一度旅装を解いて,有線LANによるPCの接続を確認し(私の故地の某ビジネスホテルでは繋がらず,翌朝になってWifiが生き,無線LANのみ繋がった),ベッドに倒れ込むこともなく(やったら絶対時間を無駄にする),すぐに出立した。
県内随一の高層建築にして大型ホテルだが,内装もシックで品が良く,駅東側から見た外観の印象とは大いに異なる。
一昨年秋に泊まったという先輩の口コミでは,良いホテルで朝食のパンが美味だった・・・ということだったし,チョイスは正解だったと言える。


再びバスに乗り,先程の逆ルートをとる。
近鉄駅前で外人の観光客が乗り(英仏独中韓以外の言葉だった)満員となったが,予想通り大仏殿奈良公園前で殆どが下りた。
春日大社から若草山~手向山八幡宮~東大寺二月堂という奈良の鉄板コースは,やはり外せない。
去年は新薬師寺を訪れ,十二神将像の表情と造形に酔ったのだが,今回はかつて1人で訪れたことのある白毫寺を20年ぶりで再訪したくなった。
但し,バスの便は極めて良くない。
昨年訪れた新薬師寺のさらに奥(東)になるので,循環バスの路線から歩くという手もあるのだが,家族では厳しい(1人だつたら絶対にやった)。
したがって,今日のところはおとなしく奈良公園鉄板コースのみに留め,新規開拓は明日の飛鳥周遊にしようと決めた。


位置的に又しても前後するが,近鉄駅前から東の風景が堪らなく好きである。
バス通り(かつての二条通?)は,奈良県庁と向かいの興福寺を控えて緩い登り坂であり,それが緩いRを右に描いていくのだが,その先には若草山の芝が西日に照り映えて見える。
特に昨年訪れた時は,夕刻京都に戻るときに見た景色が最高だった。
今日は,それよりも時間帯が早いのと,天気は薄日が差し込む程度だったので,芝が輝きを見せるというほどではなかったが,それでも私の心を旅情と愉悦で満たすには十分だった。
バスの切符を買うために急いで道路を横断する際に,コンデジで撮影したのみだったので,昨年のように一眼で撮らなかったことを悔いることとなった・・・。
 


・・・ということで,ワープロ2ページを超えてしまいました。
歴史根多での暴走はしなかったものの,余計なことをだらだらと述べてしまったきらいはき否めません・・・。
ま,1行分の知識で3~5行書くことを特技としている私なので,またかよ・・・と呆れつつ看過していただけると有難いです。
果たして,明日は書けるのでしょうか・・・??


關西紀行-其之伍「南都への道」・・・

2015年01月12日 19時54分54秒 | 旅行,および「鉄」

京都駅の烏丸口(ガメラが破壊したホテルグランヴィア京都の真下)を出ると,駅前のバスプール,京都タワー,そし烏丸通りと駅前の賑わいに,京都の空気をたっぷり感じることができるのだが,今回の目的は洛中ではなく南都だ。
故に北の烏丸口ではなく,南の八条口近くの近鉄乗り場付近で食事をとることにした。
新幹線ホームの真下なのですぐに着くし,近鉄名店街「みやこみち」が便利だ。
但し毎度のことながら,人の多さに閉口する。
京都は何度も行きたくなるし,私如きが百万の駄弁を労しても語り尽くせぬ無尽蔵の魅力を湛えているところだが,如何せんこの人の多さには毎度毎度ため息が出る。
以前から,洛中で最も好きな界隈として,八坂神社から円山公園へ抜けて,大谷祖廟をかすめて八坂の塔の下を通り,高台寺の前から産寧坂へ抜け,松原通から清水坂へ登り清水寺へ至る東山の道が挙げられるが,実はかれこれ6年程行っていない。
理由は唯1つ,上述の通りとにかく人が多いからだ。
特に高台寺界隈は閑静な寺町という雰囲気だったのに,いつの間にやら寧々の道なるものもできており,人力車があちこちに止まり,京都らしからぬ小洒落た店も軒を連ね,かつての情緒は失われつつあった。
同様のことが嵐山界隈にも言えるが,昨年訪れた際はそこまで人出は多くなかったと思う。ま,夕刻だったということもあろうが・・・。


近鉄名店街「みやこみち」はお勧めだ。
手軽に食事を取ることができる店が並んでいるし,京土産もたいがい揃う。
また,地場産品も豊富で,安い土産を数多く買うには便利であることこの上ない。
迷った挙げ句,お昼前に食事を済ませて,3年前に宿泊したホテル近鉄京都駅の前を懐かしく思いながら通過する。
トレインビューの,良いホテルだった。
何よりもアクセスの良さが絶妙であることは言うまでもないし,同じステーションホテルである上述グランヴィアに比べても安い。
そして当時は,開業二ヶ月も経たないうちに泊まったので,ぴかぴかだった。
ま,朝食のビュッフェのメニュー等に注文は付いたが・・・。


京都から奈良へ向かうには,やはり近鉄が便利でリーズナブルだと思う。
特に,日帰り往復+市内バス乗り放題で1,380円は破格値だ。
唯今回は,奈良市内に宿泊するので,かつての京都をベースにした南都行きのような訳にはいかず,3日間で3,000円ちょいで往復+吉野までと市内バス乗り放題・・・というのを検討した。
で,一体何処で買うのか田舎者としては全く分からず,JRでいうみどりの窓口に相当する切符売り場へ並んだ。
多分定期券購入で並んだ人の後に付いたので,およそ場違いな感は否めなかったが,窓口の若い職員は,懇切丁寧に教えてくれた。
3日間奈良にいて,飛鳥に行くとしても現地のバスは含まれておらず,元が取れない可能性が高いということだったので,通常の切符を都度買って十分という結論に達したのだが,さすが過当競争が激しい關西の私鉄である。
昨年の京阪山科駅の職員もそうだったのだが,とにかく一様に親切である。
間違った場所に並んだら,きつい声で咎めてくるJR東京駅の女性職員とは大違いである。また,最終日にJR奈良線の車内で老眼鏡を拾ったので,ホームでかっちりとしたコートに身を包み,パイロットケースを持って歩いていた車掌とおぼしき職員に届けたら,
「ありがとうございます」
と,無機的なひと声が帰ってきただけだった。
何処で拾ったとか,一切聞かず(こっちから心配で言ったくらいだ)面倒な範疇外の仕事が増えた・・・と言わんばかりの態度がありありと分かり,残念な思いをした・・・。
故に,京阪と近鉄は親切。
今回もその思いを強くした・・・。


京都-奈良間は,近鉄が便利。
その考えは今も変わらないが,やはり私鉄に比してJRの料金が高いことが問題だろう。
200円近く違うと,つい近鉄の急行に走ってしまう。
但し,今回は直行便ではなく,大和西大寺で乗り換えることになったのだが・・・。
近鉄のネックは,奈良直通便の少なさと所要時間,そして旅情には程遠いロングシートだろう。
500円出せば,ゆったりとほぼ貸し切り状態の特急に・・・という手もあるが(かつて2度乗った),今回は奈良からの帰途に敢えてJR奈良線のみやこ路快速(下りは大和路快速)を利用した。
東海道本線の新快速に使用した221系なので,転換式クロスシートで4人での旅行には最適だし,ゆっくりビールを飲むこともできた。
近鉄特急利用よりは,300円程安くなる・・・。
ま,どっちを利用するかはTPOに応じて・・・ということだろう・・・。


近鉄8000系,橿原神宮前行きで京都を後にする。

元旦に訪れた東寺(教王護国寺)を探したが分からず,昼食後の眠気もあって大和西大寺の手前の高の原あたりまで完全に意識朦朧で,昨年に伏見桃山通過時に思った城下町の町名や日本酒についても全く考えずにほぼ爆睡。
乗り鉄の友人には勿体ないと言われるのだが,5回目だし悪いけど景色として見るべきものがない・・・と判断したので,京阪との乗換駅である丹波橋付近で,
「何で明治天皇陵は,伏見なんだ・・・。先帝(昭和天皇)は多摩御陵なのに・・・」
などと思った程度だった。
大和西大寺で橿原神宮行きを乗り捨て,同じホームに居た奈良行きに乗り換える。
3年そうだったように,転換式クロスシートの車両を期待したのだが,残念ながら同じ8000系だった・・・。
その3年前に行った広大な平城宮跡を横断し,再現された朱雀門に平城の昔を偲ぶ。
1年ぶりの南都は好天のようだ・・・。


關西紀行-其之四「湖東にて暴走之記」・・・

2015年01月11日 22時23分20秒 | 旅行,および「鉄」

朦朧としているうちに岐阜羽島(政治駅だな)を通過し,関ヶ原山中へと突入する。
名にし負う豪雪地帯で,かつて2度ほど徐行運転に遭い,京都到着が30分以上遅れるという事態に陥ったことがあったが,今回はそれも無くうっすらと積もった雪景色の中を西に進んだ。
いつものことながら,ぼうっとしているうちに湖北平野に下り,米原を通過。
3月末にここで下車して北陸線に乗り換えたことが,遙か昔のようで懐かしい。
湖北平野から琵琶湖東岸を南下するうちに雪が消え,美田が広がる(勿論冬枯れだが)湖南平野への道中は,歴史への追想が次々に去来する。


思えば,古来近江は常に政争の舞台となった。
古くは壬申の乱に於いて,大海人皇子(天武天皇)は大津京(近江京)の弘文天皇(即位したとなったのは,明治期だったような・・・)を攻めた。
下って源平の争乱期には,京を守る木曾義仲軍は,大津市南部の勢多橋を防衛ラインにしたし,その38年後の承久の乱に於いても,後鳥羽上皇軍は同様だった。
戦国期というか,織豊政権期には,観音寺城攻防戦(織田信長vs六角承偵),姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉),横山城攻防戦(羽柴秀吉vs浅井長政),信長による叡山焼き討ち,そして関ヶ原の局地戦とも言うべき大津城攻防戦(京極高次vs毛利元康・小早川秀包・立花宗茂)・・・と,思いつくだけでもこれだけある。
東国から西上する際に必ず通るのが近江故に,天下人は必ず近江を欲したし,信長が安土に,そして信長の被官時代の秀吉が長浜に,石田三成が佐和山に居城したのも納得がいく(秀吉と三成は所領だつたからだろうが・・・)。
また,大坂冬の陣に於いて,軍師の真田幸村が立てた作戦は,瀬田の唐橋にて第一防衛戦を引いて時間を稼ぎ,次いで南ががら空きなので守りにくい京都に東軍を誘引して叩くというものだった。
尤も,これは父昌幸が紀州九度山に蟄居してから考えついた策を伝授したものだそうで,昌幸はその臨終の際に幸村にそれを授けたらしい。
そして,軍略家として名を成した(二度に亘って上田城で徳川軍を撃破した)自分ならともかく,当時は父に隠れて無名の幸村がこの作戦を提案しても,諸将に認められないだろう・・・と危惧した。
そして,実際その通りになるのだが,もしこの作戦が遂行されれば,大坂城はあのようなことにはならなかったかもしれない。
この発案を却下したのは,大野修理だったか淀君だったか忘れたが,東軍が大坂に至るまでに疲弊したのは間違い無いし,幸村は得意の草の者(忍者)を使って,奈良街道での家康襲撃まで考えていたというから,歴史の必然は家康に味方したということか・・・。


・・・そんなことを考えているうちに,偶然佐和山城跡を発見した。
近江鉄道と北国街道(R8)と交差した直後だったと思う。
今まで全く気付かなかった。
彦根の市街地の真東に当たり,中腹に佐和山城跡の表示があったので気付いた。
上記の通り,石田三成の居城であり,関ヶ原の掃討戦として,三成の父正継や兄信澄,妻の皎月院の父宇多頼忠・弟の同頼重らが,裏切り者の汚名をそそがんとした小早川秀秋を中心とした東軍に対して,奮戦虚しく自害して落城。
女性たちは,裏の谷に身を投げた・・・という悲話も伝わる。
参議院議員の石田昌宏(公示は石田まさひろ,自民党)は,この信澄の子孫という・・・。関ヶ原の後,この地に封じられたのは,徳川四天王の1人井伊直政であった。
直政は佐和山城を廃し,湖岸に広大な水城とも言うべき大掛かりな築城を行う。
これが現存する彦根城である。
その子孫に,大老井伊直弼が居たのは周知の通りだ。


そして,いつも湖東平野を南下する際に,信長が築城した安土山と,羽柴秀次が築城した近江八幡城を探すのだが,今回は携帯の地図を開きながら,何とか見当を付けた。
そして,俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)による百足退治の伝説で知られる近江富士三上山が,すり鉢を伏せたような形で現れ,野洲川を渡って旧東海道(R1)と合流すると,湖南平野となる。
因みに,この秀郷の子孫は,全国各地に広がって繁栄した。
今でも藤の付く苗字の家は,この俵藤太秀郷(藤原秀郷)の子孫と言っても良いと思う。
佐藤(野州佐野の藤原),加藤(加賀の藤原),近藤(近江),遠藤(遠江),斎藤(太政官制の斎宮頭から。厳密には秀郷室の祖父,鎮守府将軍利仁-芥川龍之介の「芋がゆ」に登場-の子孫と言うべきか。加藤氏も同様)・・・といった具合である。
また,近江出身の氏族として最も有名なのは,何と言っても宇多源氏(近江源氏,佐々木源氏とも)の佐々木氏の一族だろう。
それについては,昨年述べたので,それを引用したい。


宇多天皇の末裔が,佐々木氏を名乗り,鎌倉期以降は,各地に広がった。
元々は,南近江の蒲生郡の出自らしいが,何と言っても,保元平治の乱を戦い抜いた佐々木源三秀義の功が大きいと思う。
宇治川の先陣争いをした佐々木四郎高綱の父と言えば,ああそうか・・・という方もおられよう・・・。
この秀義,平治の乱の後,どうやら東国に逃れ,舅である相模の渋谷重国の元に在ったらしい。
頼朝の挙兵に際し,太郎定綱,次郎広高,三郎盛綱,四郎高綱の四兄弟を遣わしており,自身は,平氏方の大庭景親(保元平治の戦いでは,義朝に付いた)に義理立てした舅の手前,五男の義清とともに相模に留まり,後に改めて頼朝に臣従した。
源平の戦いに功があった四兄弟は,それぞれ官位を得たが,承久の乱においては,京に近いことからか,後鳥羽上皇方に一族の多くが荷担し,それによって各地の守護職を失い,近江の宗家が残ることとなる。
秀義-定綱-信綱と続くわけだが,信綱の子である泰綱と氏信がそれぞれ六角氏と京極氏を興すことになる。
六角氏は,京の六角堂から発祥だろうし,京極氏の発祥については,以前述べた。
京の極み-即ち,京洛の外れ・・・といった意味であろう。
この系統からは,多分男として最高の人生を送ったと思われる佐々木(京極)高氏(導誉)が出た。
そして,箱根竹ノ下の戦いで,足利方に寝返った導誉は,幕府の要職を務め,京極氏は繁栄する。
また,秀義五男の義清は,承久の乱の功によって,出雲・隠岐の守護となり,子孫は同地に栄えた。
後世の長州藩士前原一誠(萩の乱の首謀者)や乃木希典は,その子孫と言われる。
松江市内に乃木駅があるが,多分このあたりが発祥の地なのだろう・・・。
ついでに述べれば,後に山陰の覇者となる尼子氏も近江源氏であり,黒田氏もそうではないかと言われた・・・。


・・・ということで,余計なことを考えているうちに,あっという間に大津市内が見え,一瞬琵琶湖が見えたと思ったら,あっという間に瀬田川を渡り,音羽山の真下をくぐって京の東の玄関とも言うべき山科盆地へと滑り込む。
一瞬ではあるが,湖都大津を遠望する瀬田付近のループは,割と味気ない新幹線の車窓でも白眉であると思う。
謎に包まれた近江京(大津京)以来,幾度となく血生臭い歴史の渦に苛まれた大津の街であるが,湖を控えたその風光は底抜けに明るい。
それが故に,こうして近江路に惹かれる訳だし,旅情を感じることにもなるのだが・・・。
そして,東海道線が眼下に見えた・・・と思った直後に鴨川を渡る。
1年ぶりの上洛は,こうして成った・・・。

 

今日も画像無しで終了・・・というかやはり大暴走。
もう止まりません。
明日は南都に辿り着けるでしょうか・・・。


關西紀行-其之参「東海・中京暴走の記」・・・

2015年01月10日 22時36分29秒 | 旅行,および「鉄」
昨日は飲んで帰宅したので,予想通り書くことができずに轟沈してしまいました。
今日の分は,今のところ濃厚根多が無いので,すんなり行くと思われますが,いつ何時暴走が始まるか,全く見当が付きません・・・。
取り敢えず,早いところ東海道中を終えて,奈良街道に入らないと・・・。
 
 
湯河原温泉を一瞥して,熱海温泉をその1.5倍程かすめて,新丹那トンネルに入ると,新幹線の車窓は,当然のことながら全く何も見えなくなる。
トンネルを出ると三島~沼津という文豪井上靖所縁の地となるし,南には伊豆半島が伸びているのだが,眠気と酔いで完全に意識がもうろうとしていた。
どうせ富士山見えないし,車窓の風景も冴えないので,富士川を渡河した段階で目をつぶり,意識を失う・・・。
静岡を過ぎて安倍川を渡るときも気がついたが,大井川と天竜川は,全く気がつかなかった。
目が覚めたのは,その天竜川を渡った直後だと思う。
天気もかなり回復してきたので,浜名湖でも愛でるか・・・と思ったからでもある。
一瞬川か・・・と思うと,眼下にすぐ東海道線の弁天島駅が見えて,次の瞬間視界が開けて湖面がはっきり分かる。
そして競艇場が見えると,すぐに東海道線新居町駅が見えて,一瞬のうちに浜名湖は,背後に飛んでいく・・・。
古代の人々は,琵琶湖を近い海-近江(おうみ)とし,この浜名湖を遠い海-遠江(とおとうみ)とした。
遠い海の東は駿河であり,さらに東には殆どの者が見知らぬ東国が広がっていた訳である
から,当時(7世紀後半?)の人々の地理感は,せいぜいこの辺りまでであったと想像される。
現在の静岡市郊外で草薙の剣を手に入れ,走水の海(東京湾)を渡った日本武尊の話が載っている「古事記」が書かれたのは,もっと後の8世紀のことだ・・・。
草薙の剣・・・と言えば,静岡市郊外に草薙球場(正しくは,静岡県草薙総合運動場硬式野球場)があって,巨人戦が行われたり,パリーグの東西対抗戦が行われたりしたと記憶しているが,戦前に沢村栄治がベーブ・ルースを三振に仕留めたのもこの球場である。
因みに,我が楽天イーグルスは,必ずオープン戦を1試合,ここで行ってきた。
今年は,どういう日程なのか分からないが・・・。
 
 
遠州から参州へ入り,かつて吉田といった豊橋を過ぎると,三河湾がぐっと近くなる。
この辺りは,中世において鎌倉期は足利氏が守護を務めたので,その氏族が多く輩出した。現在も地名を残す吉良(忠臣蔵のあの人の一族)を筆頭に,細川(岡崎市),今川(西尾市),仁木(岡崎市)といった具合である。
そして,室町時代には,西三河の丘陵地帯より松平氏が興った。
やがて岡崎城を本拠として,三河湾沿いの幡豆郡に進出し,戦国大名として成長していく訳だが,周知の通り尾張の織田氏,そして駿河から遠江の今川氏に挟まれ,苦しい思いをし,ようやく桶狭間の戦いの後に父祖以来の岡崎城を手にしたのが松平元康-即ち,徳川家康である。
家康が源氏を称したのはこの時期からと思われる。
しかも,足利氏ではなく先祖を同一とする(源義家の次子義国)新田氏を称した。
義国の長子義重は,上野国(現群馬県)の渡良瀬川と利根川の間の広大な笠懸野を開墾し,郡名である新田荘司を称したが,その弟義季(よしすえ)は徳川郷(現太田市徳川町)を領し得河四郎を称した。
その子孫に連なる伝説的な系図を家康は作り上げたのである。
あくまでも私考に過ぎないが,西三河は足利氏の基盤であったが故に,家康は敢えてライバルたる新田氏を称したのではないかと思われる・・・。
 
 
・・・そんなあらぬ事を思っているうちに,久々の,そして新横浜と共に京都までの数少ない停車駅である名古屋へ滑り込む。
ここ数年の名古屋駅前は,トヨタの本社ビルができて,これまでにない活気を示しているという。
そういえば,ここ数年のうちに,中京工業地帯の工業生産額が,京浜工業地帯のそれを圧倒的に上回るという事態も起きている。
3年前,鈴鹿サーキットへ向かう際に,名古屋湾沿いをバスで走る機会を得たが,灰色の無機的な工業地帯が延々と続いていた。
もはや東京に一極集中の時代は終わりを告げた・・・ということだろうか・・・。
 
 
名古屋でようやく天気が回復し,日が差し始めた。
そうした中で,昨年3月にも確認した清洲城の天守を見つけたが(名誉城主は織田信成くんだそうだ),五条川を挟んで北側の清洲公園が本来の城趾となる(地図上の表記は,清洲古城跡)。
現在の天守は,当時を想像した模擬天守であり,位置も異なっている。
東海道線と新幹線によって分断されたということも有るだろうが,こういうのって果たしてどうなのか,極めて疑問である。
京都の桃山城も,秀吉とは何の関係もない観光城だし,せっかくの信長の出世城をもっと正しく再現できなかったものだろうか・・・。
ま,名古屋城だって戦後のRC造りだろうけど,我が県の白石城のように当時の姿を克明に再現という意図で,工法も当時に倣ったという例もあるのだから・・・。
 
 
尾張から美濃へ向かう際に,濃尾平野の3河川(木曽川,長良川,揖斐川)を渡るのだが,ぼうっと見ていた。
長良川を遡ると,金華山頂の岐阜城のすぐ下に至り,沿岸は長良川温泉となっていた筈だが,岐阜の街自体,20代の頃からすっかりご無沙汰である。
斎藤道三や信長所縁の常在寺や山裾の伊奈波明神なんて,良い雰囲気であったことが思い出される。
私のような男にとって(謎),岐阜と言えばJR駅の南側一帯が有名なのだが,入ったことは勿論,行ったことすら無い・・・。
ま,先程ストリートビューで見ては来たのだが・・・(笑)。
 
 
 
・・・と,怪しげな内容となったところで,根多が無かったにもかかわらず,またしても画像なしで暴走しちゃいました・・・。
殆ど病気の域ですね・・・。
ようやく岐阜で,明日は関ヶ原を抜けて江州へと向かうことになります・・・。
関ヶ原で大暴走・・・とはならないことを断言しますが,果たして如何なることになるでしょう・・・。

關西紀行-其之弐「石橋山古戦録」・・・

2015年01月08日 22時39分00秒 | 旅行,および「鉄」
昨日は,予想通り暴走してしまいました・・・(滝汗)。
でもって,早いところ關西まで辿り着きたいのですが,今日も根多が控えております(迷惑!!)。
なので,果たして如何なることになるのか,全く見当が付きません。
もし,またしても暴走するようでしたら,しょーもねーなーと,広い心で看過していただけると有難いです・・・。
 
 
小田原駅を過ぎると,信玄も謙信も攻め倦んだ小田原城を掠め,新幹線は石橋山山中に突入する。
治承4(1180)年8月の石橋山合戦の地だ。
伊豆国韮山郷に挙兵した頼朝軍は,国府の三島を押さえ,相模へ東進するが,大庭三郎景親の率いる大軍と,東伊豆から北上する伊東入道祐親軍に挟撃される形となり,一敗地に塗れた。
はっきり言って,この沿線は新幹線より東海道線の方が圧倒的に景色が良く,真鶴岬までの絶景を楽しむことができるし,西湘バイパスからR35なんか絶景と思うのだが,新幹線ではそれもままならない。
したがって,後は自分勝手な追想と感情移入しかない・・・。
 
 
小田原を過ぎて,最初に渡るのが早川であるが,この地で逝った若者について,歴史は多くを語らない・・・。
上述の石橋山合戦の時のことだ。
彼の名は,北条三郎宗時。
鎌倉幕府初代執権北条三郎時政は彼の父であり,第二代執権江間小四郎義時は彼の弟,そして頼朝夫人政子は彼の妹にあたる。
 
 
そもそも頼朝軍にとって,石橋山の誤算は降り続く雨にあった。
酒匂川が氾濫し,大軍を擁した相模の三浦一族が東岸に足止めを喰ったからである。
敗色が濃厚になった頃,頼朝は腹心の一人とも言うべき宗時を呼び,三浦への伝令を命ずる。
石橋山を下り,早川口へ向かった宗時だが,運の悪いことに平氏方の伊豆東部の豪族伊東祐親軍と遭遇してしまう。
壮絶な斬り合いの果てに宗時主従は全滅する。
まだ十代の少年である弟に将来を託して・・。
 
 
頼朝の挙兵は,高倉宮以仁王の綸旨を掲げたものだが,焚きつけたのは伊豆・相模を中心とする板東の武者たちだ。
土肥次郎実平,狩野介茂光(石橋山で自害),三浦介義澄,加藤次郎景廉,佐々木太郎宗綱を頭とする佐々木四兄弟(末弟の四郎高綱が宇治川の先陣争いで有名)等々,保元・平治の戦いにも参戦した古強者(敵対した大庭景親は,平治の戦いでは,頼朝父義朝に従っていた・兄の大庭平太景能は頼朝に与力した)から若い世代までが,世捨て人同然の頼朝に板東の独立と,知行国制の廃止を勧めたであろうことは想像に難くない。
その中でも,頼朝の義兄とも言うべき宗時は,平治の合戦を知らない第二世代を代表する存在だったと考えられる・・・。
その嫡男を失った北条時政の苦衷は,察するにあまりある・・・。
 
 
・・・などということを,寝ぼけ眼で考えていた・・・。
周知の通り,頼朝は石橋山山中に難を逃れ,真鶴岬から小舟を駆って相模湾を横切り,安房まで逃げ延び,やがて再起に成功して大軍と共に鎌倉に入って兵士と戦う体制を整えるのであるが,それを案内したのは,現在の東海道本線湯河原駅周辺を本拠地とした土肥次郎実平であったことは間違い無かろう。
石橋山山中は,何と言っても地の利のある実平にとって庭のようなものだったことだろう。そして,その実平の後を継いだ小太郎遠平は,早川荘に住したことから早川小太郎を称し,その子孫は代々小早川氏を名乗った(早川小太郎の子だから小早川・・・ということなのだろう・・・)。
安芸国沼田(ぬた)荘,竹原荘を領有して,戦国期に毛利氏に併呑された小早川氏の先祖は,平治合戦以来の歴戦の武者,土肥実平だったのである・・・。
そして,さらに余計なことを言うと,小早川氏を併呑した毛利氏は,実平と同じく鎌倉幕府創設期の官僚(政所別当)だった大江広元の四男である季光から起こった。
季光が,相模国愛甲郡毛利(もり)荘(現厚木市)を父から相伝したことから,子孫は毛利氏を称し,安芸国吉田荘(現安芸高田市)を領有し(地頭職か?)戦国時代へ至る。
厚木市の地図を繙いてみると,厚木市立毛利台小学校,南毛利小学校,森の里小学校・中学校,森の里団地,毛利台団地等に,その面影をかすかに見て取ることができる。
その北東に,毛利青果店なるものがあるが,関係があるのかもしれない・・・。
中国地方の戦国大名は,関東がルーツだった。
これもまた歴史の妙というか,守護領国制の生んだ必然といえるのだろうか・・・。
大江氏の先祖は,平城天皇まで遡ると言われる。
百人一首にも歌が有る大江匡房もその系統である。
板東の御家人が他国へ分布した例は,我が県でも千葉氏(平姓)の一族である国分氏や,伊沢氏(藤姓)を祖とする留守氏等が挙げられる。
調べてみると幾らでも出て来る・・・。
 
 
・・・と,書いたところで,ほぼワープロ2ページを超えました。
予想通り,否予想以上の暴走です。
おまけに,神奈川県西部から一歩も西上していないし,画像も無いという・・・。
一体完結するのか・・・というか,上洛できるのでしょうか・・・。
・・・ということで,明日続きを書くことができると良いのですが・・・。
 

關西紀行-其之壱「乗り鉄」・・・

2015年01月07日 20時50分23秒 | 旅行,および「鉄」

大和は国のまほろば・・・。
「古事記」にある大和武尊の言葉である。
東征の帰途,伊吹山で病を得た日本武尊は,大和を前にした鈴鹿峠で力尽き,その魂魄は白鳥に身を変え,西へ,大和の方角へと飛び去ったという。
その大和を訪れるのは,昨年以来通算10回目となるわけだが(高校の修学旅行が最初で,職場の旅行と出張も含む),泊まるとなると,丁度20年前に出張で訪れて以来となる。
特に,我が国の古代律令制国家が始まった地を見せておきたい・・・という意図での計画であったが,その目的は十分果たせた反面,大和朝廷の中央支配から聖徳太子と蘇我氏の時代を経て,古代律令制国家の成立という我が国の一大エポックに対して,私以外がなかなか関心を高めてくれなかったという残念な面も残ってしまった・・・。
ま,これも毎度のことではあるのだが・・・。
・・・ということで,帰郷後一週間を経た本日より,記録を留めておきたいと思い,こうしてキーを叩いている。
昨年同時期の關西行をまとめた文章は,完全に私の意識が暴走し,客観性が犠牲となった結果,紀行文とは大きく乖離したものが残ってしまったが,今回は果たしてどうなるだろう・・・。
・・・というより,果たして続けることができるのだろうか・・・。
最近,若くないせいかとにかく持続力や集中力が著しく減退し,物事が長続きしなくなる傾向にある故・・・。
ま,とにかく始めてみよう・・・。


今年もあと3日という12月29日(月),朝4時半に起きて,慌ただしく朝食を済ませ,5時41分発というローカル線の始発(交流型電車E721系)に乗る。
勿論夜は明けていないし,雪もちらついていた。
ここ一週間で,数回も列車の運休や遅れが出るというローカル線だけに,メール登録しているアラート情報が気になったが,この日に限ってそれが無かったのは幸運であった。
何せ動物(熊や猿,羚羊)で止まり,落ち葉で止まり,雪で停電し(8時間缶詰),強風で止まるという極めて脆弱な路線だけに,ひやひやもんだった・・・。
6系車内
敢えて始発を外して,新しいE5系新幹線への乗り換えは20分程の余裕があったので,ビールとハイボール,さらに酒肴を買い(早朝から酒買って飲んでるのは私だけだった),連結されている最新のE6系(所謂赤いこまち)の車内を見て,E5系最後尾のグランクラスを見学しているとき,小さな問題が起こった。

写真を撮るなと言われ,外から見るように年配の乗務員に言われたので,そそくさとだれも居ないグランクラスを後にした。
ま,私のような庶民にとって,最上級のグランクラスなど夢のまた夢なのでもっと見たかったが致し方ない・・・。



仙台を定刻に発車。
あっという間に仙台平野を縦断し,蔵王も見えぬまま雪の白石盆地を抜け,信夫盆地へ入る。
福島は,辺り一面の雪である。
時折吹雪くようで吾妻は見えず,安達ヶ原に入っても安達太良は見えず,安積盆地も雪だった。
福島県南部から栃木県に入ると,雪は止んだが当然那須の連山は見えない。
天気が良いと,宇都宮が近づくにつれて日光連山が見えるし,去年なんか小山の手前から富士山が(反対側の車窓からは,逆行の筑波山が)見えたのだが・・・。
こんな天気の悪い上京は,一体いつ以来だろう・・・。
このやまびこは,いつも宇都宮から混み出す。
所謂通勤新幹線というやつだろうが,今回は帰省客で満員になったと考えられる。
大宮が近づくにつれ,周囲の風景は田園の中に散財する近郊型住宅地から,無機的なビル街へと変わっていくのであるが,それも悪くないと思う。
私のような典型的な東北人にとって,都会に来たと思える瞬間であり,初めて東北本線を南下した中学校の修学旅行(東北新幹線開通以前)以来,何となく心ときめくものを感じてきた。
そういえば,かつて在来線を南下した際は,電車の電源が切り替わる黒磯駅で,115系等の直流型電車を見たときは,都会に来たことを痛感したものだった。
濃緑色と橙のツートンカラーの所謂湘南カラーの直流型電車は,私にとって都会の象徴であった・・・。
大宮では,子どもにかのロケットビルを探させた。
遠目にもよく見えるので,すぐ分かる。
中には,居酒屋とカラオケ屋が有るらしいが,湾曲した壁に置く家具を置くのが大変だろう・・・。
ロッテの浦和球場が見えると,すぐに荒川を渡り上京となる。
西の方に高島平の巨大団地群が見えたと思うと,すぐに山の手方向は上野や谷中から続く丘陵地帯となる。
対する東側が所謂下町となり,隅田川畔の浅草辺りがその端となるのだろう・・・。
桜の名所である飛鳥山を過ぎ,谷中から続く墓園や寺域を見て,鶯谷駅を通過すると,新幹線は地下へと滑り込んでいく。
考えてみたら,82年の開業時,東北新幹線は大宮-盛岡間のみであった。
東京-大宮間は,新幹線リレー号と称して,前年から伊東線で特急踊り子号として使用されていた185系電車を転用して使っていた。
上野まで延伸するのに3年を要し,東京駅まで開通したのは,そこからさらに6年後のことだったと記憶している。
次代の徒花とも言うべき新幹線リレー号は,9年でその役目を終えた。
九州新幹線のリレーつばめ(博多-新八代間。私の好きな787系)が,7年もの命脈を保ったのと似ている。


東京駅では約20分で,N700系のぞみにトランジット。
この辺りから,前夜の睡眠不足が露呈し始め,酒を飲む気力すら無くなってきた。
何せ,旅行の準備をして,子どもを寝かしつけた後,一杯やりながら全日本フィギュア女子FSを見てしまったので,睡眠時間は3時間半。
朝っぱらから飲ったヱビスビールと角ハイボールの酔いもあって,曇天で山稜しか確認できない丹沢や足柄を遠目に見つつ,完全に意識が朦朧としてきた・・・。


・・・ということで,今回も初回から大暴走です。
關西行の筈なのに,まだ神奈川県までしか至っておりません。
天気が悪い東北新幹線と,半分寝ていた東海道新幹線なので,一切カットして京都到着から始めようと思ったのですが,書いているうちについつい鉄根多に走ってしまい,一体いつ關西に入るのか,全く見当がつきません・・・。
さらに次回は,東海道沿線根多が有るし・・・。
果たして明日はどうなるのでしょう・・・。
それより,早くmixiと顔本に画像をうpしないと・・・。

 


加越紀行-其之壱拾「食と鉄」・・・

2014年05月20日 21時36分39秒 | 旅行,および「鉄」

半年ぶりで北陸に行ってきましたが,1人だったせいか,正直言って,特別美味しいものを食したりはしませんでした。
10月に母を連れて行った北陸行の方が,余程美味しいものや地場のものを食したり飲んだりしました。(こちらこちら)
ただ,今回は一人で歩いたので,絶対複数だったら食さなかったであろうものも食してきました。
そのあたりを,簡単に紹介したいと思います。


北陸,特に福井が蕎麦処だということは,上記リンクにて紹介しましたが,初めて北陸に足跡を印した学生の頃,駅のホームの立ち食い蕎麦がやたり美味しかった記憶があります。
勿論,麺はオートメーション化された工場で作られたものだったでしょうが,金沢の白山蕎麦,福井の今庄蕎麦,そして名前は忘れましたが真っ黒い麺が特徴である敦賀の蕎麦・・・と,実に印象的でした。
故に,小腹が空いた3時台,福井を発つ前に今庄蕎麦を食してみたところ,空きっ腹にしみ通る美味しさでした。

実は,駅で蕎麦を食する際は(最近は滅多にないのですが),以前から掛け蕎麦と決めています。
経済的な理由(爆)の他に,薬味だけだと本来の蕎麦の味が分かるから・・・という勝手に理由も付けました。
そうした意味でも,削り節と葱のみの今庄蕎麦は,十分美味だったと言えるでしょう・・・。


金沢は,グルメな街でもあります。
じぶ煮が最大の名物でしょうが,高そうなのでパス(笑)。
じぶ-治部だろうから,ついつい治部少輔だった石田三成を思い出しますが,勿論関係がある筈もなく,秀吉の兵糧奉行を務めた岡部治部右衛門が朝鮮から伝えたということで,この名が付いたとも,じぶじぶと食材を煮たことから付いたとも言われます。
ま,多分私には今後も縁のない料理でしょう・・・。
で,金沢と言えば,何と言っても昨日述べたハントンライスですが,残念ながらこれも食べ損ねてしまいました。
個人的には,デミグラソースを使ったオムライスだのハヤシライスはツボなので,ぜひ食してみたかったです・・・。
食べられる店が限られているようで,昨日紹介した店の他だと,駅ビルにもメニューに入っている店があるにはありましたが,1,400円と高かったので諦めました。
所詮はB級グルメであるから,1,000円以上出すのは邪道であると,勝手ながら思います。
でもって,それ以外のB級グルメだと,やはりカレーでしょう。
とは言え,私はゴーゴーカレー(ご当地出身のゴジラ松井の背番号に因んだらしい)と,チャンピオンカレーしか知りません。
・・・ということで,チャンピオンカレー(正しくは,カレーのチャンピオンか)
を食してきたことは,前に書きました。

結論から言うと◎でした。 
多分店によっても,或いは食すタイミングによっても微妙に味が違うでしょうが,とにかく煮込んであってとろみも十分で,今まで食したカレーでは(と書く程食してませんが)ベストかも知れません・・・。
ファーストフードと侮ってはいけません・・・。
翌日の昼に,駅ビルで食した黒いカレー(これはこれで悪くはなかったですが)よりも,余程こくがあって美味でした・・・。

最後に紹介するのは,金沢百万石ビールです。

帰途,長駆越後湯沢まで乗った特急「はくたか」(white wing)に乗る際に,思い出深い地となった北の都との別れに,ヱビスのロング缶でも奮発しようと目論んだところ,Kioskで見つけて側買いでした。
私が買ったのはペールエールでしたが,コシヒカリエールとダークエールも買うべきだったと後悔。
微妙な苦みと麦の香りが絶妙でした。
通販でも買えるようなので,求めてみようかと思います。
一夜の夢を紡いだ北の都との別れに相応しい1本となったことは,言うまでもありません・・・。


・・・ということで,最後に私の紀行文の恒例ともいうべき「鉄」について,画像を2枚貼って締めたいと思います。
金沢から乗った「はくたか」は,681系0番台,

隣のホームにいた「サンダーバード」は,683系0番台でした。

こうした初物に乗るというのも,乗り鉄及び撮り鉄の血が滾ります・・・(謎)
そして,車体に描かれたロゴも格好良いので,紹介させていただきます。 
 
 


加越紀行-其之九「長町武家屋敷跡」・・・

2014年05月19日 21時42分51秒 | 旅行,および「鉄」

金沢随一の繁華街である香林坊に戻ってきた。
だいぶ腹が減ってきたが,金沢名物であるハントンライスを食するには,片町まで戻らなくてはならず,時間的に厳しくなるので,断念する。
こちらの店がそうだが,街中の小規模なビストロという風情なので,食指が動く店である・・・。


残りの時間を有効に活用すべく,長町武家屋敷群を駅方向に向かって歩くことにした。
金沢には,藩政時代を偲ぶことができる街並みが幾つか残されている。
市街東部,浅野川沿いの主計町茶屋街と対岸のひがし茶屋街,市街西部,犀川を渡ったところにあるにし茶屋街,そして,私が訪れた長町武家屋敷群である。
こうして書いてみると,改めて金沢の名所を舐めただけ・・・というのが分かる。
ぜひ再訪したいものだ・・・。
長町という地名は,同じ城下町である我が街にも存在するが(我が街の方が10数年後か),その由来は,奥州街道沿いに南北に文字通り長く伸びだ街だから,ということなのに対して,金沢の長町の方は,前田家の重臣である長氏(ちょうし)の屋敷があったことがその由来となる。長氏については,少しばかり述べた。
隣国能登の七尾城に籠もって上杉謙信と戦ったものの,城内の裏切りにより落城。
それ以前に,当主である長続連(ちょうつぐつら)を初めとする一族は,遊佐続光(ゆさつぐみつ),温井景隆(ぬくいかげたか)といった上杉派によって皆殺しにされた。
唯一難を逃れたのが,信長のもとに援軍要請に行っていて難を逃れた続連次子連龍(つらたつ)である。連龍は,その後織田軍の武将として能登攻めに参加。
見事に父の仇である遊佐続光を討っている。
その後,七尾城主となった前田利家に仕え,3万3千石を領し,近現代に至る。
明治11(1878)年,東京紀尾井坂にて,大久保利通を暗殺した長連豪(つらひで) や,沖縄戦の参謀長で,米軍に追い詰められて摩文仁の丘(まぶにのおか)で牛島中将と共に自決した長勇は子孫である。
この長氏,本姓-つまり元々の姓は長谷部だったそうで,何らかのきっかけで,長と改めたらしい。
祖を辿ると,平安末期~鎌倉初期の武将である長谷部左衛門尉信連に当たった。
「平家物語」に登場する滝口武者(たきぐちのむさ)である。
滝口武者とは,簡単に言ってしまえば,宮廷を警護する武人のことである。
平将門や高山樗牛の「滝口入道」の主人公である斎藤時頼も,滝口武者であった。
信連が「平家」に登場するのは,治承4(1180)年,後白河法皇の第三皇子である高倉宮以仁王を奉じた源頼政による挙兵の際である。
平氏討伐計画が漏れ,平氏の命を受けた検非違使たちが以仁王捕縛に向かった際に,王を園城寺(三井寺)に逃がした後に単身立ち向かい捕縛される。
引き出された平宗盛の前で詰問されても,決して以仁王の行き先を吐かなかったという。清盛はその勇に感じて,死一等を免じ,信連を能登へ配流した。
やがて,平氏滅亡後に安芸国の検非違使となり,能登の地頭職を得る。
それが長氏の起こりであるが,長谷部という氏(うじ)名からも,大和朝廷の部民(べみん)制度の時代に起こった古姓でもある。
部(べ)・部曲(かきべ)などという用語は,日本史の受験用語として覚えた(そして,そのまま忘れた・・・笑)。


そんなことを考え,長一族に思いを馳せながら,長町へ入る。
雨は勢いを増し,主に傘を持つ左手の肘を濡らし,そこだけが冷たくなってきたが,あまりの風情に息をのんだ。
水路沿いに土塀と石畳の道が続く。
ただそれだけの道だが,紛れもなく藩政時代を偲ぶ第一級の街並みだと思う。
かつて,雨の中を松江とか益田といった山陰の城下町を訪れたことがあり,古い城下町には雨が似合うことを認識したのであるが,今回も又同様だった。
後は,ここで百万遍の駄弁を弄するよりも画像を見ていただれると一目瞭然であるが,これだけのものを長い年月維持していくだけでも大変なのに,当時の面影やイメージを壊すことなく現代に伝えてきた加賀人の心意気に,壮たるものを感じずには居られなかった。


野村家だったか高田家だったか・・・足軽資料館へのアプローチ同資料館の厠。小便器があった・・・。
駅前のもてなしドームに別れを告げる・・・
文化とは,中央だけのものではない。
伝えられた先々でも,その地域固有の良さを加味して,むしろ中央をも凌いでいくものなのかもしれない・・・。
会津国造(くにのみやつこ)時代の鏡(三角縁二神二獣鏡)が,当時の先進地域であった吉備地方で製造されたものより,造形が確かだった・・・という記事を書いたのは,10年以上前だったが,地方にこそ中央の文化が色濃く残るというのは,皮肉なようでいて,実は意外に文化の本質なのかも知れない・・・。


・・・ということで,本編の紀行文は終わりです。
尻切れなのは,竜頭蛇尾な生き方をしてきた私らしいと思ってください・・・(笑)。
近年訪れた地で,再び行ってみたいと強く思った地というのはそうそうありません。
その意味でも,金沢は私にとって忘れ得ぬ街となりました。
1人で出掛けた貴重な旅だったというのも大きいと思います。
フットワークを生かし,とにかく歩きましたし,飲みにも出ました。
一人なればこそ出来たことでしょう・・・。
後は,午後に金沢を出て,北陸線-信越線-北越急行線と乗り継いで越後湯沢まで一気に行き,何と生まれて初めて上越新幹線に乗ったことと,越後頸城平野から魚沼盆地へと抜ける北越急行線(通称ほくほく線)南部は,早春の息吹を満喫した加越路と異なり,3月松でも豪雪地帯であったことを付記しておきましょう。
日本は広い・・・と改めて感じた瞬間でもありました・・・。


・・・ということで,後は拾遺集を書けるかな・・・。
一応続きます・・・ということで・・・。


加越紀行-其之八「兼六園眺望台」・・・

2014年05月08日 22時05分48秒 | 旅行,および「鉄」

瀟洒な洋館の石川四高記念文化交流館を出る。
中央公園を突っ切ると,金沢城趾の登りにかかる。
尾山なる小高い丘を利した平山城だが,雨中の登城は,疲労を溜めた若くない身にとっては,結構難儀だ・・・。
二の丸まで登る。
途中,玉泉院丸庭園が整備中だったり,有名な石川門のみならず,城趾全体が見事に改修・再建が進んでおり,観光立国と史跡保存の両立を目指す姿勢が,痛いほど感じられる。

勿論,現在の城趾が往事のすべてではないが(実際はもっと広い),十二分に広大で,極めて立派と言えよう。
因みに玉泉院(1574-1623)とは,織田信長の娘で,加賀藩二代藩主前田利長(利家長子)の正室のことである。
ここに庭園が造営されたのは三代藩主利常(利家庶子)の代であり,玉泉院の没後だったようだが,その屋敷跡が玉泉院丸となったそうだ。


既述の通り金沢城は,一向宗門徒の本拠地の1つだった尾山御坊跡に築かれたものだが,広大な城域といい,整備された城下町といい,前田氏の治世が存分に発揮されたものと思う。
外様最大の百万石は,伊達ではないということだろう。
その礎を築いた前田利家とは,やはり相当な大物であった・・・。


石川門を横に見ながら城趾を横断すると,すぐ隣が兼六園だ。
水戸の偕楽園を見たのが,何と高校2年の時だから,随分昔となる。
岡山の後楽園は残念ながら未見なので,いずれ行かねばなるまい。
それにしても,見事な庭園だ。
金かけているすら当然という声も有るかも知れないが,これだけのものを維持するための努力と苦労は計り知れないし,高い志が有るからこそ,こうした素晴らしいものを現代に伝えてきたのだろう。
文化とはそういうものだ。

この庭園の素晴らしさは,私如きが百万もの駄弁を弄するよりも,画像を見ていただければ,まさに百聞は一見にしかずとなるのでここで終わりにするが,只一つ,北東に卯辰山を臨む遠望は,この日の白眉ともいうべきものであった・・・。

再び此の地を訪れたい・・・と,思うことのできる希有の場所とも言えよう・・・。


石川県観光物産館まで降りる。
桂坂というのだろうか。

民芸品店や九谷焼の店が庇を連ね,なかなか良い風情だった。
そうそう,兼六園の出口で例によって,男女数名の若者のグループに,シャッターを押してくださいと頼まれた。
どうも一眼を担いで歩いていると,よく声を掛けられる。
昨年末も,奈良の新薬師寺で初老の夫婦に声を掛けられたし,随分前に嵯峨の天龍寺でもカップルに声を掛けられた。
勿論,快く引き受けるのだが,そのうちおねいさん方に声を掛けられたいものだ・・・(をい)。
今まで数えるくらいしかない故に・・・。


肘の辺りをうっかり雨に濡らしてしまったし,疲れてもきたので,物産館前の兼六園下なるバス停から,丁度良く来たバスに乗る。
何と日曜日は,運賃が通常の半額の100円だった。

嬉しくて,香林坊で降車の際に運転手さんに礼を言ったが,素っ気ない反応だったのが少々残念だったが・・・。
ボンネットバスも走っており,出来ればそれにも乗りたかった・・・。


加越紀行-其之七「北の海」・・・

2014年05月07日 22時42分23秒 | 旅行,および「鉄」

遅い時間に夕食に出て,10時過ぎに宿に戻った。
宿は,楽天トラベルで取ったのだが,朝食付きDXシングル4,400円という殆ど破格値だった。

ま,ストリートビューで確かめると,外見はそれなりだったし,寝られればよいので安いに越したことはないのだが,期待せずに行ったら,やはりそれなりだった。
家族で泊まるなら,否若い頃に彼女とでも泊まるのなら,もっともっと高級なところを奮発したであろうが,1人だから十分である。
さらに,交通至便で歓楽街にも近く,金沢城や兼六園も徒歩圏内という場所も良い。
無線LANの接続に少々手間取ったが,無事開通。
食事をして軽く飲んで・・・と思って,北陸随一の歓楽街である片町を一回りしてきた。食したのが,チャンピオンカレーなのだから,全くをもって質素というか私らしいのだが,B級グルメは侮りがたい。
数百円で腹が満ちるのだから,十分満足である。
片町は,我が街の国分町程怪しくない。
ポン引きの兄ちゃんも居ないし,怪しげな構えの店も無い。
せいぜい裏通りで,中国人とおぼしきおばさん,もといおねいさんに声を掛けられたことぐらいだろう・・・。
寝酒用のビールを買って帰って,入浴してトリガーを引いた後,泥のような睡眠に落ちるのに,殆ど時間は掛からなかった・・・。


翌朝,例によって早々と目を覚ます。
残念なことに,危惧していた雨である。
予報が当たってしまった訳だが,かつて松江の街歩きで感じたように,古い城下町には雨が似合う・・・と,勝手に自分を納得させて,簡単な(と言っても,十分な内容・量のビュッヘだった)朝食を済ませた。
このホテルのメリットは,好立地であることは勿論だが,ウェルカムコーヒーが滞在中飲めることだ。
勿論,部屋への持ち込みも可であるから,この日の朝もいただいて来た。
9時近くまで,地図とネットで情報を仕入れつつコースを決める。
尾山御坊,もとい金沢城趾から兼六園を見て香林坊へ戻り,長町武家屋敷群を見て金沢駅へ・・・と,おおよそのルートを決めた。


傘を差してチェックアウトする。
昨晩は,気温20℃程あり,上着無しで歩けたくらいの暖かさだったのだが,今日は然程気温が上がらず,ブルゾンを着込むことにした。
先ずは,香林坊を目指す。
それにしても,この片町から香林坊にかけての賑わいはどうだろう。
十二分に都会であり,垢抜けている。
ある路地に入り込んだら,その瀟洒な雰囲気に圧倒されてしまった。

本当に良い街である。


殿様である前田家以外で,金沢出身の有名人って誰だろう・・・と考える。
金沢四高(現金沢大学)にて青春時代を過ごしたのは,作家である井上靖であるが,生まれは確か旭川で,豊橋に住んだ後で伊豆半島の天城湯ヶ島で少年時代を送ったと記憶している。
昨日,金沢城趾に続く中央公園に,石川四高記念文化交流館なるものを発見していたので,井上靖関連のものが無いかどうか,寄ってみることにした。



考えてみたら,金沢出身の文人代表は何と言っても室生犀星であり,井上靖関連の資料は何処にも無かった。
それよりも何よりも旧制四高と言えば,ボート部の琵琶湖での遭難事故の方が有名であろう。
そらに言えば,漫画家の永井豪は輪島の出身であり,実兄が四高出身とのことで,四高生を描いた永井豪のイラストが有った。


金沢を舞台とした井上靖の「北の海」を読んだのは,高校3年の5月だったと記憶している(高校の図書館で借りた)。
天城湯ヶ島村の土蔵にて,血の繋がらない祖父の後妻と暮らすという特異な環境で育った洪作少年が,その義理の祖母の死と共に三島の親戚の元から沼津中学へ進み(静岡県内で一番難しいと言われた浜松中学は落ちたらしい),やがて高校受験に失敗し(旧制中学では3年次修了より受験資格があり,落ちると4年,5年と進級する),鬱屈とした日々を送っているときに,ある人物の勧めにより,四高の柔道部の練習を経験して・・・という内容だったと記憶している。
その「北の海」の前が,中学時代を描いた「夏草冬濤」であり,小学生時代を描いたのが「しろばんば」である。
一応私は,便宜上それらを自伝的作品三部作と呼んでいて,高校時代からの愛読書の1つとなっていた。
淡々とした描写の中に豊かな情感を盛り込んだ,この作家独特の世界観を味わうことが出来るので,今尚当時買って読んだ文庫本3冊(「北の海」は,学生時代に文庫化されたのを買って再読した)は,数十年を経て我が家の書架に有る。
今回の金沢行を前に,何度目かの再読をすべきだったが,前日までの激務もあって,それも果たせなかったのが実に残念であった・・・。
井上靖の自伝的作品は,この長編三部作の他,何作かの短編と「あすなろ物語」が存在するが,いずれも舞台は天城湯ヶ島であり,金沢を舞台とした作品は有るのかも知れないが,私は読んでいない・・・というか,人間の感情や恋愛の暗部を見据えたような現代作品には食指が動かなかったのが原因であろう・・・。
最近,専らの活字離れもあり,なかなか書に親しむところまではいっていないのもあるが,この自伝的作品三部作は,順を追って何度目かの再読をしてみたいものである・・・。


・・・ということで,なかなか進みません。
男1人の金沢の夜に何があったのか・・・本当にカレーを食しただけなのか・・・と思われる方は,こちらをご覧いただければ,まともな時間帯に帰ったことが分かる筈です・・・(本当か?)
  


加越紀行-其之六「槍の又左」

2014年04月28日 21時49分03秒 | 旅行,および「鉄」

冬物のブルゾンを羽織って,完全な防寒仕様で北陸に来たのだが,気温は20℃あり,はっきり言って,この日は福井でも金沢でも,深夜まで上着は必要なかった。
桜も咲き始めており,東北よりも遙かに暖国であることを改めて認識した。


旅行をするときは,必ずガイドブック(かつては実業之日本社のブルーガイドパック,最近は専らマップルマガジン)を事前に熟読し,現地入りする前にイマジネーションを高めておくのだが,今回は年度末の〆の時期に当たり,前日まで激務をこなしてきただけに,そんな余裕も無く,何の予備知識もなく金沢に来たことになる。
ま,駅の南に金沢城跡があり,その隣が兼六園であること,犀川東岸が片町といって金沢随一の歓楽街であること程度しか,知らなかった。
なので,駅の観光案内所で立派なパンフレットと地図を貰う。
時刻も5時近いし,取り敢えず藩祖である前田利家を祀る尾山神社を見て,投宿することにした。
駅前に宿を求めても良かったのだが,せっかくなので街の空気を味わうために,敢えて片町に宿を取った。
金沢城や兼六園,そして市内随一の繁華街である香林坊にも徒歩圏内というのも大きい。


駅舎を出る。
巨大な「もてなしドーム」が目を引く。
何でも雨傘がモチーフなのだそうだが,これだけでも金沢が北陸随一の都市であることを象徴している。
駅前通を南下する。
香林坊や片町まで,バスの便は極めて良いが,街の空気を吸うために敢えて歩く。
それにしても,何と近代的で明るい街並みであることか・・・。

駅前から,R157との分岐点である武蔵が辻までは,巨大なマンションやホテルが建ち並ぶが,東京や大阪のような大都市特有の圧迫感はないし,人も多くはない。
適度に近代的だし,一歩入ると後述するような江戸時代の街並みが程度良く保存されている。
それが何とも魅力的で,私はすっかりこの街が気に入ってしまった・・・。
今まで途中下車(一度は白山蕎麦を食しただけ,今一度は夜行待ちで本を買っただけ)だけというのが,実に勿体なく感じられた。


金沢の街としての起源は,中世の加賀一向一揆の時代に遡る。
当時,現在の城跡に当たる尾山御坊がそのむ中心であり,門前町として発祥したと言われる。
金が出たので,金を洗う沢というのが語源だそうだ(我が街にも,金洗沢なる地名があった)。
周知の通り,一向一揆を駆逐したのは織田軍であり,北陸方面の司令官だった柴田勝家の姻戚にして与力の一人であった佐久間盛政によって尾山御坊は落とされ(天正8年),盛政はこの地に,尾山城を築いた。
そして,賤ヶ岳の戦いによって,勝家と盛政が滅んだ後は,やはり勝家の与力にして,秀吉の盟友でもあった前田利家が封じられる。
城下町としての基礎は,この利家の時代に築かれたと言える。 


前田利家(1538-99)については,以前家系絡みで述べたことがあった。
利家があと数年存命だったら,関ヶ原も江戸幕府もすんなりいったかどうか・・・と言われるぐらいの大物だ。
家紋は梅鉢紋-菅原氏である。
どうでも良いことなのだが,私の母方の家紋が梅鉢で,姓も家康の母の実家と同じで,菅原姓ということで,何となく親しみを感じてきた武将である。
尾張国海東郡荒子(現名古屋市中川区荒子)の生まれで,幼名犬千代(近世前田家では,代々世襲された),字(あざな)は孫四郎,及び又左衛門であるから四男である。
幼少時から信長に仕え,荒小姓の1人として武芸を磨く。
多分,悪童だった信長と一緒に,あちこちを駆け回り,悪さをしたのであろう。
やがて,信長の親衛隊とも言うべき赤母衣衆として,数々の戦功を立てる。
特に,槍の名手であったことから,「槍の又左」の異名を取り,織田軍きっての武辺者であったとも言える。
勿論,単なる一騎駆けの武功を争うだけの男ではなく,北陸方面郡では柴田勝家麾下のNo.1とも言うべき存在で,戦の駆け引きも抜群だったらしい。
特に,北陸時代の僚友であった佐々成政との末盛城を巡る戦いでは,見事に成政軍を撃破。
同時期の小牧・長久手の戦いでは,秀吉軍が敗れているので,この一勝の価値は大きい。
前後するが,秀吉とは岐阜時代に屋敷が隣同士で,奥方同士も仲が良く,家族ぐるみの付き合いをしていたという。
これが,後に賤ヶ岳の戦いの際の分水嶺となった。
既述の通り,利家は北陸方面軍の勝家麾下である。
しかし,秀吉とも仲がよいことは,勝家も知っていた。
利家は,兵5,000率いて賤ヶ岳へ出陣するが,突如として兵を引き,居城である越前府中城(武生市-今は越前市か)に籠もってしまう。
そこへ,賤ヶ岳で敗れて北の庄へ向かう勝家が立ち寄り,これまでの労をねぎらって,湯漬けを所望したという。
勝家とも秀吉とも親しい利家であるから,賤ヶ岳での去就については,さぞ悩んだことだろうが,家を守るために秀吉に付いた。
このことを悪く言う者が殆ど居ないのは,やはり利家が天晴れな武者であり,誠実な人格者として知られていたからであろう・・・。
現代の金沢が,このように近代的で洗練されつつも,城下町の面影を色濃く残して発展したのは,やはり利家の力が大きいと思う。
やはり,たいした人物である。


その利家を祀る尾山神社は,武蔵の辻から続く商店街から少し西に入ったところにあった。

観光客もちらほら見られたが,夕刻のせいかその数もまばらで,ゆっくりと境内を見て回ることが出来た。


西洋風の神門が目を引くが,勿論明治期のものだ。
回遊式の庭園もあり,これらが無料で見られるというのも嬉しい。

そして,利家の騎馬像(赤母衣衆時代の姿)と,奥方であった於松の方(芳春院)の像もあった。


よもや・・・と思って見ると,やはり11年前の大河ドラマに際して建てられたものだった。
ま,北の庄城跡のお市の方と三姉妹の像よりは,遙かに周囲に馴染んでいたのだが・・・。


・・・ということで,宵闇が迫ってきたので,宿へ向かう。

金沢の町歩きのBGMは,渡辺俊幸作曲による「利家とまつ」のテーマが相応しい・・・。
思えば,渡辺俊幸の父は渡辺宙夫(代表作は,やはり「ガンダム」か),その父は渡辺浦人(私は,交響詩「野人」しか知らんが)と,三代にわたる作曲家の家系あった・・・。