前述の通り,観光客の大半は大仏殿奈良公園前で下りるのだが,春日大社から若草山に抜ける予定だったので,敢えて次なる春日大社表参道で下車した。
でもって,本日のハイライトとも言うべき,新たな発見はその瞬間唐突に始まった。
否,唐突に・・・というのは,過去3回このバス路線を通ってきた私としては,あまりにも認識不足だった。
バスを下りて奈良公園に一歩踏み込もうとしたとたん,思わず瞠目した。
春日大社の方角とは反対の南東方向に目を向けると,びっしりと芝の植えられた小高い台地が南北に広がっている。
北は春日大社の表参道から南に緩やかな丘陵が続き,丘のピークから先は見えない。
おそらく次なるバス停である破石付近,昨年訪れた新薬師寺や20年前に訪れた白毫寺へと続く道の手前まで続いていると予想された。
咄嗟に,高校時代に習った和歌を思い出す。
春日野の とぶひの野守 いでてみよ 今いくかありて 若菜つみてん(古今集,読人不知)
(春日野の飛火野の野守よ,野に出て見てくれ。あとどれぐらいで,若菜を摘む春になるのだろうか・・・。訳:koshi・・・笑)
勿論,諳んじていたわけではなく,断片的に覚えていたのをwebで確かめただけなのだが,何故に記憶していたかというと,純和風で典雅なのはよいとしても,個人的には平安期の貴族趣味がもろに出て,ちまちました感は否めない古今集の中にあって,珍しく太陽と土の香りのする万葉調の雰囲気が気に入っていたからである。
そして平城の昔,狼煙台が置かれていたことから,飛火野と呼ばれていた地はかくの如く広大であったか・・・と,思った。
で,その夜,ホテルでネットを繰ると,春日大社南郊のその地こそ,上記の歌に詠まれた飛火野であったことを確認したのだった。
したがって,この時点ではここが飛火野とは思っていなかったことになる。
翌々日の午後,それを知ってから再びここを訪れたので,まあ良かったのだけど・・・。
緩やかな丘のピークに木が1本2本・・・。
その近くでは鹿がのどかに草を噛(は)む・・・。
こうした広大で茫洋たる風景は,見事に私の思い描くところの万葉時代のイメージと見事にシンクロする。
奈良の魅力を挙げればきりがないが,1つはこうした大陸の風気を感じさせる広大さ,そして,上述の万葉集に詠われたような太陽と土,そして水の香りではないかと思う。
この風景を若き日の阿倍仲麻呂も目にしていて,望郷の念を募らせたまま,無念にも異境に果てたのだろうし,聖武天皇や吉備真備も目にしたことだろう・・・。
以前,奈良と京都のどちらが好きか・・・と聞かれたら,一も二もなく国風の「京都」と答えたであろうし,京都で一番好きなのはどこかと聞かれたら,間違い無く「東山界隈」,しかも既述の通り,八坂神社から高台寺門前を経て,産寧坂から清水坂へ,清水寺へと登る道・・・と答えたのであるが,6年前の同時期に初めて家族で訪れた際,あまりの人の多さに辟易して以来,以前ほどお熱ではなくなってきたことも事実である。
そして,その京都に比して人出は圧倒的に少なく(東大寺大仏殿以東のみ。興福寺も西の京の薬師寺も清水坂の比ではない),寺域も大陸風で圧倒的に広い奈良がお気に入りとなってきた。
丁度20年前に出張で訪れて以来の奈良市内宿泊を決めた背景には,間違い無くこうした私自身の心境というか指向の変化が有ったことは間違い無い・・・。
雄大にして悠然たる飛火野の風景の中に,いつまでも身を置いていたかったのだが,他の家族がそれを許す筈もなく,早く次行こう・・・と何度となく急かされて,そう急ぐなよ,奈良に都があった1,300年前を偲べよ・・・と言っても理解される筈もなく,広大な飛火野(と思われた)地に思いを残して,芝の上を数十メートル先の春日大社の参道へと向かった。
以前は,かつて歌舞伎(「舟弁慶」だった)を見た近代的な新公会堂の脇から入っていたのだが,去年と今年はこの正規ルートとも言うべき表参道の入り口から入ることになる・・・。
・・・ということで,今日はワープロで2ページ弱で終了です。
この日のピークは2度有りまして,次回その2度目のピークについて述べることができると良いのですが・・・。
いずれにしても,この日の新たな収穫は,古代万葉時代からおそらく変わらぬであろう飛火野の雄大な風景の中に身を置いたことに他なりません。
これだけでも奈良に来た甲斐があったというものです・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます