高校の新科目に「公共」の導入を、自民党の文部科学部会が文科相に提言した。教科内容は、労働、結婚、家族、消費生活、納税、政治参加等々が上がっている。
総論的には賛成である。賛成、さんせい、サンセイ。
新聞情報で見る限り、デイベート、体験学習等も課題になっているようだ。戦後教育の第一期生を任ずるわれわれ時代は、教師自身も手探りで、教科にもよるが、例えば授業の前半は生徒が分担して発表し、後半はその評価を交えて教師の指導と、こんな授業もあった。また、ここで言う「デイベート」、いわゆる討論であるが、社会科の授業で、二手に分かれて特定のテーマで討論し、後に教師の判定がある。
学校の年中行事としての討論会、弁論大会等もあった。現在それらがどうなっているかは知らないが、結局は、高校が予備校化して大学進学指導が重要視されるか、でなければスポーツかで、硬直化(?)しているのではないか。
序に言うと、高校段階での商業科、工科等の実業過程はいらない。実学として、むしろ専門学校に任せるべきだ。何年か前に、各種学校から正規の学校に格上げされた専門学校だが、いまだ十分に機能していない。高校が義務教育化している現状から、卒業後の進路として、大学か専門学校か。その受け皿としての一方の専門学校が、修学年限、教科内容等のある程度の統一が必要である。いまや介護、医療に偏っている感がある。
新しい教科としての「公共」だが、内容的には「私」に対する「公」、私の対極としての公を統一的に幅広く学ばせるのが目的か、いやしかし、いま見る項目からは、結婚、家族、労働そして消費生活、納税、政治等々の関連から判断すると、「私」の対局ではなくて「私」を含む「公」までの全過程のようだ。順不同だが。
そこで、それなら「命」は入らないか。最近、あまりにも「命」「生命」が軽んじられている。親が子、赤ん坊を殺し、子が親を殺して平然としている。親族同士が殺し合う。そんなことが新聞紙上では日常茶飯事である。あまりにも命が軽く扱われていないか。しかも、驚くことに、死が怖くないのか、恐怖心がない。そんな恐るべき風潮である。
高校の新しい教科「公共」の内容に「命」「生命」が馴染むかどうか。「命」を基点にして「家族」へ、と、こんなことでどうだろう。さて!
総論的には賛成である。賛成、さんせい、サンセイ。
新聞情報で見る限り、デイベート、体験学習等も課題になっているようだ。戦後教育の第一期生を任ずるわれわれ時代は、教師自身も手探りで、教科にもよるが、例えば授業の前半は生徒が分担して発表し、後半はその評価を交えて教師の指導と、こんな授業もあった。また、ここで言う「デイベート」、いわゆる討論であるが、社会科の授業で、二手に分かれて特定のテーマで討論し、後に教師の判定がある。
学校の年中行事としての討論会、弁論大会等もあった。現在それらがどうなっているかは知らないが、結局は、高校が予備校化して大学進学指導が重要視されるか、でなければスポーツかで、硬直化(?)しているのではないか。
序に言うと、高校段階での商業科、工科等の実業過程はいらない。実学として、むしろ専門学校に任せるべきだ。何年か前に、各種学校から正規の学校に格上げされた専門学校だが、いまだ十分に機能していない。高校が義務教育化している現状から、卒業後の進路として、大学か専門学校か。その受け皿としての一方の専門学校が、修学年限、教科内容等のある程度の統一が必要である。いまや介護、医療に偏っている感がある。
新しい教科としての「公共」だが、内容的には「私」に対する「公」、私の対極としての公を統一的に幅広く学ばせるのが目的か、いやしかし、いま見る項目からは、結婚、家族、労働そして消費生活、納税、政治等々の関連から判断すると、「私」の対局ではなくて「私」を含む「公」までの全過程のようだ。順不同だが。
そこで、それなら「命」は入らないか。最近、あまりにも「命」「生命」が軽んじられている。親が子、赤ん坊を殺し、子が親を殺して平然としている。親族同士が殺し合う。そんなことが新聞紙上では日常茶飯事である。あまりにも命が軽く扱われていないか。しかも、驚くことに、死が怖くないのか、恐怖心がない。そんな恐るべき風潮である。
高校の新しい教科「公共」の内容に「命」「生命」が馴染むかどうか。「命」を基点にして「家族」へ、と、こんなことでどうだろう。さて!