風通庵-直言

ヨモヤマ話

民主党政権になって二大政党制か?

2009-08-29 19:27:33 | Weblog
 民主党が政権与党になると、これでわが国も二大政党制の国になったといえるか。アメリカは共和党と民主党で、オバマ大統領は民主党の大統領である。8月29日の産経新聞が伝える「09衆議院選海外の目」の記事中、シンガポール紙ストレーツ・タイムスは、民主党議員には自民党出身者が多く、両党の政策は似ているーーーーと、外国の目にも狂いがない。真の二大政党制なら、自民党に対抗して社民党や共産党が連立にしろ制権党となってこそ言えることである。自民党に代わって民主党が政権をとっても、元々は一つのもの、その一つのものが、政治思想の違いから分離したものではなくて、丁稚が親方に反旗を翻して本家から独立して出来たものに、新人が本来なら本家へ行きたいし、本家に憧れてはいるが、人事が硬直化している現状から、次善の策としての民主党で我慢。その我慢が現状である。だから、本来の野党・左傾政党が政権与党になったのとは異なって、マニフェストが歌い文句だが本家が表通りを歩けば、分家が裏通りを歩いて、そこがさも表通りのごとくに言い触らし、錯覚を起こさせる。そんなことの連続である。だから、真の国家像が見えてこないというのも、そんなところに原因がある。本来の野党・社民党や共産党は、わが国では育たない。世界経済の趨勢からしてそうである。ソ連の崩壊に学べ!
 ところで、先に引用したシンガポール紙ストレーツ・タイムズの記事中気になる表現がある。「一政党が50年以上支配してきた国で政権交代が起きれば、失政は権力喪失につながることを政治家に気づかせるだろう」と。ここで言う「失政は権力喪失につながる」とは、民主党が再び野党になって自民党政権が復活するという意味か。それとも、日本の国そのものが権力を失うという意味か。ちょっとイミシンである。
 ついでに、中国青年報は「民主党の強さの秘密は無党派層の心をしっかりとつかんでいるからだが、それは前回の総選挙で自民党に大勝をもたらした原因でもある」と。自民党から民主党に原因が移転しただけ。ブレはない。
 
 だから、民主党政権は、アンチ自民党政権である。民主党という党自体英語で言うと「中道左派」(ウォール・ストリート・ジャーナル)らしい。民主党政権の期間中は自民党の議員は鍼灸院でお灸でもすえてもらって治療すればいい。
 エライご苦労なことやノウ。

刺客ーーー次の選挙で破客

2009-08-28 13:44:31 | Weblog
 民主党の勢いが止まらないらしい。300~350議席も、と。---それはよかったな。もうすぐ実現するであろう鳩山内閣の手腕を見せてもらおう。素人ながらも想像するに、先ず組閣が最初の仕事であろうが、その後は、何が何にやら、船頭のわめき声ばかりで船を山にしてしまって、持ちも下げもならんようになること請け合い。何しろ、何をやるにも一からで、予算の組み替えというが、歳入のあてもなく歳出ばかりが声高で、まず最初に音をあげるのが、年金博士の長妻厚生労働大臣。7万円は何時からかとすぐ声が出る。続いて小中学生の親達から、子供手当の一人月2万6千円は何時からか。わが家は二人で5万2千円もらえるし、いま妊娠中で出産時には、出産一時金の55万円ももらえる。「うちら、これをあてにして投票したんやで、ウソつかんといて」と。こういう手合いばかりをあてにして立候補者して当選したからには、以後いかなる言い訳が成り立つか。

 落下傘か、刺客か、小沢から指名されて、私も捨てたもんじゃないわ、と思いあがって立候補して当選して、いい気になって「何かあったら言ってきてよ」と、翌日から政治家然とした口ぶりに。だがしかし、だ、刺客の第1期生が小泉チルドレンなら、第二期生が小沢チルドレン。だから、必要なのはその時の頭数だけ、頭さえあればそれで事足れり。知名度を利用して立候補して当選しても、個人としての主張が認められないと、すぐ辞任した何人かがいる。ウラを見てきてすぐ辞めるのが一番賢いやり方である。いまさらのことはないが、個人名を上げると、元NHKの宮田輝、高橋敬三にしても、参議院トップ当選したとは言え、それだけのこと。いつの間にか静かに消えていった。名前が利用されただけで、本人にとっては番節を汚したことになる。横山ノックも、辞めとけばいいものを、蛇足に魔がさしての恥ずかしい辞め方で番節を汚した。西川きよしも名前が一人歩きして空前の得票数ではあったが、彼は漫才師、中卒者。並みいる代議士の先生は東大から中央官庁と学歴職歴とも最高。「いくら頑張っても、限界がある」と、本業に戻った西川きよしは賢い。他にもアナウンサーで当選はしたものの、自らの限界と党からのご用済みの見極めがつかず、あちこちの政党を変わっての立候補で落選して、恥だけかいて、もはや影もない。
 
 こんな事情を目の当たりにしながらも、刺客に選ばれて当選して、次の選挙では破客、不用品扱い。分かっていながらも、おだてに乗るアホは後を絶たない。これも人間の「業」か。

負けて悔しい花一匁---甲子園の夏は終わった

2009-08-24 10:01:04 | Weblog
 暑い甲子園の夏は終わった。甲子園の土を踏むことが、優勝する以上に難しいようだ。だから第一戦で負けたとしても、よくぞここまでと振り返って、長い目で見て悔いはなかろう。負けて悔いがないなんて、チョット達観しすぎかな。
 いつの頃であったか、負けてぼろぼろになって泣く球児に、当時の正力松太郎氏が、「負けて悔しいなら、しっかり練習して負けなきゃいいんだ。世の中、泣くくらい悔しいことはいくらでもあるよ。」と、言っていた。
 さすがに正力氏、理路整然として言葉に無駄がない。明解ーーー。しかし、放言としては、である。

 いくら負けないつもりで練習しても、甲子園出場校全校が優勝することはない。優勝校は一校である。だからその一校を除いて他は全て負け組である。そうであるから、美しい負け方、敗戦の美学というものがあってもよかろう。
 「涙が枯れそうだった。試合後の花巻東の菊池雄星選手は、すべての言葉が涙にまみれた。」と、準優勝戦で中京大中京に、11対1の大差で敗退した花巻東の菊池雄星選手のインタビューの模様を読売新聞は伝える。
 「インタビューで泣き続けたのだ。目指した日本一を逃がしたことが、その理由ではない。『仲間が信じてくれたのに、最後までマウンドに入れなくてーーー』」と続くが、---悔いが残るからと甲子園の土をもって帰らなかった。この気持ちを察してかほとんどの選手も行動を共にした、と。こんなところに「敗北の美学」が生まれ、スポーツ選手としての菊池雄星君は、偉大な芸術の創造主でもある。見ている者に、ドラマ以上の感動を与えたのではないか。





 
 

昔は博打、今は麻薬が芸人の資質かも

2009-08-21 10:14:37 | Weblog
 酒井法子とは何屋はん? 私事ながら知らなかった。もう一人の押何とか学も、何する人か? 自慢じゃないが知らなかった。共通項は覚せい剤の麻薬屋はんであった。時代が違うから、何が何してどうなろうと、それがどうした? 程度のことで、人間には趣味も関心もない、元々が知らない名前だから。同じころ、山城新伍と大原麗子が死んだ。こちらは同じ時代の人気スターで、映画やテレビでよく見て知っている。大原麗子は孤独死、死後何日か後に発見され、山城新伍は老人ホームで独りひっそり死んだという。こんなニュースを聞くと、昔、古川ロッパが得意気に歌っていた「お殿様でも家来でも、お風呂に入るときは、みな裸----」を、つい思い出した。ちょっと古すぎるかな。
 古すぎるついでに、芸人と博打はつきものとか、そんなことを聞いた記憶がある。芸人なんて言い方をすると、今をときめくタレント、鼻たれントは気を悪くするかも。しかしこれはあの手の人たちに対する総括語であると理解せよ。
 何の職業にも資質がある。どうも性に合わないというなら資質がないことになる。芸人のくせに博打もしたことがないんか、なんて言うと、博打くらいしないと芸人の風上にも置けん,と言うことになる。こんなことで自慢する芸人こそ、芸人の風上にも置けないのではないか。やはりレベルの低い売れない芸人のような---。
 あの世界は、芸と人気と収入がアンバランスのような。だから、博打で気を紛らわせるのかも。この博打をいま風に麻薬に置き換えたらどうなるか。タレントのくせに麻薬もやったことがないのか。何しろ不安定な仕事の世界だけに、なにか気を紛らわせるものがーーーーということになるのではないか。密かにやる麻薬が,自信を高めるのではないか。密かに,そーっと、頭のてっぺんから足先まで、バスト、ウェスト、ヒップと己のサイズのすべてから、年齢はもとよリ出生の秘密から、嘘かまことか知るすべもないが、何から何まで開けっ放し、職業とは言え開けっ放しである。だからこその秘密の麻薬ではちょっとさみしい。
 タレントといえども今日ビは高学歴、エリート職業歴の人も多い。過去の例からも、そんな人からは麻薬容疑者の例を知らない。容姿、声、いずれも優れて人気度が高くても、やはり一皮むけば教養の程度の低い、雑魚か廃棄物人間の類で、脳のない、麻薬以外に手にするものがない、そんな手合いでは? そんな手合いに何がノリピーじゃ? あれはノリパーじゃ!
 タレントの外の看板が離婚なら、うちらの看板が麻薬である。

くせ球・変化球が勝負球になる北ノ将軍サマ

2009-08-20 10:06:05 | Weblog
 北ノ将軍サマは偉いなァ。東郷平八郎元帥とどっちが偉い? さあー 知らん。

 北ノ将軍サマは国際社会と直接接することがないサカイに、なんなりとし放題、言い放題や。国連の制裁決議なんか、園児相手の託児所のお約束程度か、あーそうか,言うたら終いゃ。自分とこのことやのに、六ヵ国協議はもうない,出ェヘンやって。自分とこの悪,責任でも全部相手に振り向ける天才でんなァ。何一つ企んでも、無駄がない。アメリカ人の女の記者を因縁つけて捕まえといて、それを餌食にアメリカの元大統領を呼び寄せてーーーこれ変化球でんねん、アウトサイドのーーー。こんなところやっぱり人権の国の弱み言うもんですわ。おめおめと出かけて行って、オノレが直球投げる代わりに、元大統領のクリキントンーーーいや、クリントンさんに下駄預けよった。下駄預かったクリントンさんもクリントンさんですわ。将軍サマと写真まで写して。造成やない、本物や、言いとうおまんのや。
 そんなこんなの噂で舌の根も乾かんうちに、韓国の現代とか言う企業の女会長が、北との共同事業がとん挫して、北に留置される従業員を取り戻すとかの名目で、いや、これも、将軍サマの策略で、だれでも捕まえておいたらいつか何かの役に立つ、そんなことかが役に立ったんですわ。女の会長さんは経営が実は赤字でどうにもならんサカイにって、おめおめ出かけて行きよった。出かけて行って、将軍サマのくせ球を受けてきよりましたんや。そやサカイに、北を制裁したつもりが、南の方が先に音を上げてしまいましたやろ。民主主義は弱いでんナ。逆制裁でっしゃろか、これ。
 こんなところからでも、北ノ将軍サマは東郷元帥より偉いんと違いまっか? へてから、また、将軍サマと写真うつして、造成でない証拠に、帰りの駄賃にまた下駄預かってきて、いや、今度は、南の大統領さんに。
 そんなことなら、国連での制裁決議は一体どないなりまんねん? 北は現に国連から制裁されとる言うことを、国の中では知らせてないから誰も知らん。そんな折も折、アメリカの元大統領が来た、現代の会長が来た、さすがは将軍サマ、世界から尊敬されとる偉いわが将軍サマ,サマ、サマーーー。自分の都合のええこと、功績ばかりを知らせて、うまいこと利用されとる。
 そんなくせ球・変化球を勝負球に仕立てたのが、なんと将軍サマの悪運の強さ、金大中氏の死や。北ノ将軍サマにとってはここんとこええことずくめ。天の恵みか。それなら、国連の北の制裁はどないなりまんねん? 
 日本も政治の季節、政権選択の選挙真っ最中で、民主党政権にでもなったら、将軍サマには天の恵みに拍車がかかる。朝献外交が始まるぞ。
 クリントンさんが金正日氏はだいぶ回復して顔色も良いと、下駄に色付けての宣伝。
 

               

「拉致」なる言葉を教えてくれた人---金大中氏

2009-08-19 10:29:15 | Weblog
 韓国の元野党大統領候補金大中氏が、滞在中の東京のホテルから「ら致」されたとのニュースで、いまだ「ら致」なる言葉もその意味も知らなかったので、どんなええことしたのか、されたのか、分からなかった。ところが、間もなく「あー、そうか」と。そして当用漢字か常用漢字か、どちらにもなかった「拉」が間もなく当てられた。「拉致」である。
 あの金大中さん、拉致の状況を日本語で話していたが、日本人と変わらないほどうまい。いつであったか、もたつく通訳に業を煮やしたか、ワダシが日本語で言いましょうか。その方が早いです、時間のロスです、と。そんな一場面をテレビで見た。
 あの当時、73年当時、朝鮮半島の状況がいまとだいぶ違う。北の脅威を楯に、強権、独裁政権として恐れられていた朴正熙大統領に対し、民主的で自由な気風の金大中氏は大統領選挙で朴正熙氏に僅差で敗れた同情もあってか、わが国でもファンが多かった。こんな金大中氏が国外での運動に脅威を感じた政権側が、東京のホテルから「拉致」した。この拉致したとされる張本人が、韓国のKCIA(韓国版のCIA)であるとされた。
 当時の韓国は、国民の5人に3人までがKCIAとされ、親兄弟同士でも密告しあって、暗い社会であった。それほどまでに北の不穏分子が南に侵入し、政権の転覆を狙っていたとされた。金大中氏もそんな協力者としてマークされていたようだ。この問題、ことの成行きはともかくとして、わが国内で、韓国人が韓国人を拉致したとしても、わが国の主権侵害になるとして韓国に抗議したようだが、結局は田中角栄当時の首相がわが国と韓国との関係と、政権与党同士の話し合いでの政治的決着。これを問題視する向きもあったが、その後どうなったか、沙汰やみか。
 どうやらアチラの半島の国々は、南と言わず北と言わず、拉致が得意か、南北共通のお国芸か、その当時からか、その前後の頃か、挨拶もなく裏から表から昼日中大きなツラして入ってきて、好き放題に連れ出して、拉致したのが北朝鮮。主権の侵害もクソもあったものか。
 以後、「拉致」が常用語になった。その草分けが金大中氏。
 

やはり気になる「戦前真っ暗」のウソ

2009-08-17 10:10:57 | Weblog
 戦前ってそんなに真っ暗であったかな、チョット疑問である。雑誌WILL7月号別冊「歴史通」特集「戦前真っ暗」のウソーー、執筆者は、なにしろ一般に言われるほど戦前という社会が真っ暗ではなかった。その証拠にかくかくシカジカと、言うところであろう。戦前が暗かったというのは、思想の自由を認めなかった、例えば共産党は非合法化で、疑わしき者は特高刑事に尾行されたとか、赤い表紙の本をもっているだけでも疑われたとか、そんな偏向した思想の持主の特殊な思考が影響していないか。戦後の思想で戦前の社会を斬るという以前に、この問題がある。


 いかなる風の吹きまわしか。今頃になって戦前の小林多喜二の「蟹工船」がベストセラーになったが、彼の小林多喜二も左翼作家として日々弾圧され、獄中死した。トッキュウこと徳田球一と妻・龍は人生の大半を獄中で過ごした。こんな人の立場からはなるほど暗い戦前であったろう。かかる弾圧ばかりが強調されて、自ら戦前を暗くしているのではないか。
 思想面だけでなく、文学、演劇から美術の世界に至るまで、自由が認められなかったのは事実としても、やはりこの時期に培った気迫が戦後に至って一気に噴き出し、思想の自由、表現に自由のもとに開花した。それが現在に繋がっている。
 だから、敢えて、自ら進んで暗い道を歩んで暗い生活をしなければ、なにも戦前が暗かったとは言えない。


 と、言うようなことはチョット横へ置いておいて本筋に戻すと、WILLの執筆者は、雑誌の趣旨に従って、戦前が暗くなかったことを前提に筆を進めたようで、その点の認識は共通するものの、やはり当時の住んでいる世界が違うとこうも違うのかと、ただその一点では認識の度合いが異なる。
 戦前という時代は、今ほど交通が盛んでなかったから、自らの居住地のごく狭い周辺だけが世界で、都会にも大都会と地方都市とでは生活の様式が異なり、地方でも都市部に近いか遠いかで異なった。特に農家は自給自足で、他と交流がない。一生バスにも汽車にも乗ったことがない。そんな人は珍しくなかった。いま格差というが戦前は職業により、生活、住んでいる場所により、永久に変わることのない格差の中にいた。従って、WILLの執筆者は当時の最高の生活圏での生活者であったような気がする。
 わが輩のごとき四国の貧農の小せがれとは生まれも育ちも違う。いや、チョット違い過ぎる。念のために言うが、終戦の8月15日の天皇陛下の玉音放送当時、わが村ではラジオのある家が指折り数えるほどしかなかった。幸いわが家にはラジオがあったから、周辺の住民がわが家へ集まった記憶がある。もう一つ、念のために言うと、ブルースの女王・淡谷のり子が、戦前、ズロースの女王と間違われたとの逸話があるが、神楽坂はん子の「芸者ワルツ」を、芸者ワルクチ、と。戦後の時代にもこれであるから、時間と空間の差がいかに大きいか。
 だから、一概に戦前の社会はこうであったといわれても、それはその人の体験した戦前の社会、とい言わなければならない。要するに、一般庶民が、国民が、日々生活していく上で、暗いとか明るいとかで社会を見ること自体が、やはり時代を見る目がブレている。戦前はみんなが一つの目的に従って突き進んでいった。従って生活に張り合いがあったし、覇気があった。いまのほうがよほど暗い。そう認識するべし。

間もなくお目見えはファーストレディかワーストレディか

2009-08-16 12:17:19 | Weblog
 政権を取ったら首相になると手ぐすね引いて、身代りに、タレント上がりかモデル上がりか知らないが、あーあ、あの顔で、あの年で、主は不在とかで北海道まで狩りだして------いや、嫁はんのこと、鳩山ポっポはあの女が趣味か、あの嫁はんが。どう見ても、あれはクロウト女の顔つき目つき。白髪のかつら被って、色目使って、作り笑いして。北海道の有権者はあれでコロリかッ? うかつに握手でもしようものなら手が腐るぞ。
 あれでファーストレディー面して国際会議にでも出ようものなら、日本の恥。世界の笑い者。ファーストレディどころかワーストレディになること請け合い。

軍隊生活を語らなかった父とは

2009-08-16 07:55:15 | Weblog
 戦時下、召集令状、俗に言う「赤紙」は、世間が寝静まった深夜、役場の吏員がトントンと戸を叩いて○○さんに召集が来ましたと言って届けられた。その赤紙に出征する日時と場所が記されていた。だから家族もそこまでは知っていたが、いつの時期にどの方面の戦地へ送られたかは知らない。それが何ヶ月も後に、偶然届いた手紙に、ビルマ派遣軍○○部隊××隊とか、北支派遣軍○○××隊とかをみて愕然とするのであった。運悪く、輸送中の洋上で船が撃沈され、初めての手紙が戦死の公報であったという悲報もあった。そして初めて知るジャバ、ニューギンニャ、フイリッピンと、なんともぎこちない。何しろ秘密、秘密である。何事も軍の秘密に属する。元より家族にも秘密である。まじめな人ほど上官の命令には忠実である。そしてスパイ、スパイ、スパイで、この戦争は負けるかも----などと言うことがその筋のえらいさんの耳にでも入ると「お前はアメリカのスパイか」の一言。
 

 ところで、と、自分の父親がどこでどんな戦いをしていたか、聞いても知らないと言うケースが意外に多い。軍属で満洲に渡ったと聞いていたが、遠くソ連との国境で兵舎などを作っていたと知って胸が詰まった。父親が戦時中は高知の部隊にいたと聞かされていたが、満州とソ連の国境の部隊で長くいたのを知りショックを受けた。
 等々の事例、わが愛読の産経新聞のコラム<産経抄>(09、8、15、)によるが、父親たちの多くが、過去について沈黙------何故か? 軍隊でのつらい生活を忘れたかったのか、戦死した同僚に申し訳ない思いがあったのか、軍隊にいたことすら悪とする戦後の風潮で、語るに語れなかったのかと、尤もらしい、想定の範囲の理由をあげて、是非自虐的な見方を離れて、国のため家族のため戦おうとし、あるいは戦死した父たちのことを堂々と語ってほしい。終戦の日の願いであると。

 
 この産経抄で言う、父のことを語らない世代、恐れながら吾輩もその世代であるが、いまは亡きわが父親、終戦間際の昭和20年の5月頃召集されて、一ヶ月後位に家族との面会があり、その時、規則正しい生活で太り気味、もうすぐ朝鮮へ行くかも、と。で、その言葉の通り間もなく朝鮮から手紙があったが、すぐ終戦で、10月頃除隊。兵隊はすべてが戦争するものでない。では何をしていたか。陣地の構築のための資材の購入係で毎日出歩いての外交。これが兵隊の仕事であった。
 同様に、終戦間際で召集された近所のおっさんは、毎日リヤカーを自転車の後ろに付けて実家の周辺で野菜の買い出し。どちらもタマに当たる余地もなかった。
 斯く斯くシカジカ、国のため家族のため戦時体験を堂々と語って欲しいのが終戦の日の願いと産経抄は言うが、堂々と語ってこれである。チョット誇大妄想ではないか。

戦前を振り返った雑誌の特集二つ

2009-08-15 14:29:47 | Weblog
 戦後64年、昭和20年から数えて今年で64年になる。だから64歳以下の人はすべてが戦後生まれということになる。アッと言う間の64年であったことよ。かく言うブロガーも、もはや数少なくなった戦前、と言うより戦中、戦後の社会をつぶさに生きてきた、実体験者の一人である。

 戦前を振り返った雑誌の特集で、その一つは雑誌WILL7月号別冊<歴史通>の特集「戦前真っ暗」のうそ。5人の執筆者のうち、日下公人氏が記す「軍人も公務員としての序列の中にあったのである。なんでもいまの時代の物差しで計るのは誤りである。まして、誤った常識や通念でその時代を決めつけてはいけない。「戦前真っ暗」史観は、そのもっともたるものだろう。」と。これですべてを言い尽している。もう一つは、正論別冊11<遥かなる昭和>である。座談会”あの戦争”を誇りに思って何が悪いのかの記事中、戸高一成氏の「歴史をいまの視点、価値観だけから見ることの危うさ------(略)その時代を理解するには、当時の状況を可能な限り斟酌しなければならない。その当時の世の中を多面的に理解しないと客観的な判断は下せません。」との発言。また、上坂冬子氏も「あの空気を知らずに、60年余りの経てから「侵略日本」だの「加害者日本」打のと軽々しくキメつける根拠が私にはわからない。」と。これがすべてである。日下公人氏も真っ暗史観そのものが、誤った常識や通念そのものであると指摘しているが、その通りである。特殊な戦後思想で戦前のわが国を断罪する発言や行為は、正しくない。

 国のために一命をささげた戦争の犠牲者を、名誉の戦死と言うことこそ、死者を愚弄している------と------果たしてそうだろうか。それこそいまの物差しで過去を計るの愚の典型である。遺族がそう思う心まで捻じ曲げることはできないから、そう思うのは本人の自由である。自由であるからこそ、他人に影響を及ぼすな!