風通庵-直言

ヨモヤマ話

むかし貧乏、いま貧困

2009-03-19 10:22:07 | Weblog
 ――――貧困なんていうと、何となく偉くなったような気がするーーーー、どこかの落語家がマクラニにでも使いそうだが、いまは貧乏とか貧乏人とかいう言葉をトンと聞かなくなった。その代わりに耳にするのが「貧困」である。かの河上肇が名著「貧乏物語」で「貧乏は、国の大病ーーーー」といったのも大正時代である。貧乏は国の病、それも大病なら、貧困は何だろうか。いま言われている貧困は企業の大病、いわば流行病である。したがってその流行病が治癒、回復すると貧困はなくなる。だから、貧乏なる言葉ので表現する国の大病とは本質的に違うのである。


 働けど働けどわが暮らし楽にならずーーーこそ本当の貧乏で、いまワーキングプアーなんて情緒的なことを言ってはいるが、かかる本当の貧乏の実態を知る人がいま生存しているだろうか。わが小学校時代はもうすでに学校に行かない子供はいなかったが、雨が降ると傘がなくて学校を休む子、冬でも夏同様の身なりで震えていた子、教科書も帳面も鉛筆も持たずに来る子、そんな貧乏人の子供が何人かはいた。どうにか6年終わると男は大阪の商屋へ丁稚奉公いわゆるぼんさんに行ったり、女は子守か、年齢によっては女中に、と。いくら働いても食うに食えない時代だから、親にとっては口減らしである。
 社会の構造自体がそうで、農家の長男は親の後を継ぐが、次・三男以下になるとどこかへ働きに出る。住む家もなく、奉公先の軒下に雨露をしのぐ程度の囲いの中での居住まいが、せいぜい。農家と一口の言っても自作農もあるにはあってもほとんどが村に一、二軒の地主の土地を借りての小作人で、年貢を払うと当時の子沢山の家庭では満足に食うに食えない、そんな時代であった。
 われわれが知る貧乏社会の実態は、そんな時代の残り火であった。
 家庭から、あるいは社会からのはみ出し的な存在の次・三男も、大正時代以降あたりから、ぼつぼつ企業社会の到来で、そこそこに安定した生活が約束されるようになってくる。そして、そこらあたりから、社会の主従関係が逆転していくのである。
 古い歌にある「空にゃ今日うもアドバルーン さぞかし会社で今頃は おー忙しいと思うたら アーそれなのに それなのに、ね」に見るサラリーマン、会社員という新興勢力である。このサラリーマン時代の到来で、家の跡取りの長男がいまだ封建社会の枠組みから抜けないのとは違って、まさに近代社会の最先端を歩むに至った。農家が真の農家として、地主から解放されたのは戦後の農地解放からである。
 そして、貧乏社会よさようなら、貧困社会よ今日は、と、いまはそんな時代。

 
 産業構造の変化で、農業社会は大きく後退し、企業社会が主流になっている現在、企業の盛衰がそこに働く人々の生活そのものになってきている。いまはその衰の時代としての貧困である。
 かかる貧困という一時的な社会現象は政局にこそなっても、これを主たる政策目標に掲げる政党は存在しない。盛の傾向になると存在理由がなくなるからである。 

泥棒が集まっての防犯対策とはーーー?

2009-03-17 10:25:40 | Weblog
 泥棒が集まって防犯対策を練るに等しいもの。それが政治家の政治資金問題の論議。どっかに穴を作っておかないと、あまりにも完璧を期すると仕事にならない。だから一から万事政治家自身の良識の問題で、オノレ個人のこと。だが、なにがしかの政治資金を得なければ政治家としての仕事が出来ないし、もとより議員に立候補も出来ないらしい。だからといってそんな事情に理解を示す国民がいるだろうか。なにしろ金が欲しい。盗んできてでも金が欲しいーーーと、そんな極端なことを当事者から聞いたことがある。
 当初ーーーといってもいつのころからとは指示できないが、恐らく戦後の米ソの対立という世界情勢を背景としてか、いまの自民党の前身からの生い立ち、いわば与党の成り立ちが、民主政治のあり方を企業側・資本の側から主導してきた。これは野党すなわち社会党や共産党が労組や零細業者を背景に施策を講じてきたのと対照的で、いまもって両者の支持層にその残照が残っている。がしかし、世界情勢は大きく変化しているのだが。
 そこで、ことの良し悪しは別にして、野党第一党の民主党が、国民の生活が第一との看板を掲げていることは、歴史的に見ても労組とか零細業者、農民等を対象にした野党の本流であるといえる。ところが、口ではそういっても、金が欲しいのは与党野党に関係なく政治家に共通で、自民党のように企業とかかわりのない政治家の政治資金の捻出方法はいかにあるのかと、マスクの代表がやはり裏側では自民党時代の因縁を引きずって悪びれもなく複雑な裏表関係を構築していた。そんな事情が計らずも明らかになった。
 サモアリナン!
なんのための野党か? 気の毒なのは若手の先鋭議員たち。


 野党のいう企業献金の全廃は政策上は理解できるが、与党のそれは結局は眉唾もので、泥棒が集まっての防犯対策に等しい。そんな論議の様相を呈している。企業と政治家個人との結びつきを絶つなんて元々出来ないことだ。結局はマスクの代表の編み出した迂回献金のトリック。下手な法律を作ることは罪を作ることに等しい。そんな法律はいらない。廃止しなさい。
 わが国もアメリカなんかのような個人献金の制度化を提唱する向きもあるが、アメリカの場合は、企業自体の在り方が違っていて、昔よく言われた「わが社においてはーーーー」はわが国の社長連中の口癖であったが、アメリカでは「あなたの会社はーーーー」といって、株主を主体にものをいうとかーーー。従って、株主も自ら出資した企業の業績アップのためには個人で政治家に献金するが、わが国の場合は企業の当然の支出として扱われる。政治資金だけでなく他のいかなる資金でも、個人での金銭の支出はない。そんな風土が定着している。
 わが国は、個人より企業、組織主体の社会である。
 
 
 企業献金を全廃して、すべて個人献金にした場合どうなるか。もとより個人で政治家に献金するような奇特な心掛けの人がいるだろうか。献金とか寄付とかは、例えば「あしなが基金」「ユニセフの基金」「赤十字」「結核予防会」などだあるが、それは目的がはっきりしていて趣旨の賛同したからである。ところがだーーー政治家の場合、自分の支持する政治家に献金した場合でも、その政治家の所属する党の方針が、自分の支持する政治家の政策と異なって、例えば「外国人にも参政権を与える」とか「ジェンダーを進める」とか、そんな場合どうするか。ちょっと答えが出ない。金は出すが、見返りは求めない。そんな奇特な個人はもとより企業もあろうか。ドブに捨てるような無駄なことするな! 
 これがオチだ。

結局は、お粗末の一席になるのではーーーー?

2009-03-12 09:07:10 | Weblog
 あー、あの時に、いっそ思い切って、代表を辞任させておいたら、こうまでも惨めな姿にはならなかったものをーーー、何らやましいことはない、いずれ分かってもらえる時が来るとの楽観的な代表の言葉を信じたばかりにーーー期待したばかりにーーー結局はお粗末の一席に終わってしまったとの嘆き節がもうすぐ聞こえてきそうな、そんないまの時期である。


 言うてみれば、よくよく政権与党に縁がない。それもその筈であれだけ寄せ集めればさてとなればいかなる政策がまとまるか。想像に難くない。あの、非自民とか、新生党とか新進党とか言って社会党をそのつど除外しての統一会派作りで、村山氏が「そんなだまし討ち的なことをするなら政権与党から下りる」といわれて少数与党になったことがいまもって思い出されるが、それに似て非なるものがいまの国民新党の亀井氏の発言である。社民党も同じ運命ではないか。必要なのは多数派を占めるための支持票だけーーー。
 本人は政治資金収支報告書の記載という事務的な過ち以外にいまもって認めないし、認めようとはしない。その発言とは裏腹に事情聴取の範囲もドンドン広がり、報道が先を越していくが、当事者はそれにもめげず進退先延ばしとか続投とか、善意にしか解釈しないで、結束ばかりを強調するが、いかに欲目に見ても、その包囲網は日々狭くなりつつある。結局は、衆議院選挙の寸前になって全容解明、ことの実態が明らかになて、本人及び党も含めて再起不能に陥るのではないか。にも拘らずいまだに「これまでだったら修正ですんだ話ーーー云々」と、ポイントをぼかしたり、司法との癒着とかで官房副長官をマスコミの余力を買って追及したり、果ては国策捜査とかなんとか、昔の共産党の弾圧を思い出させるような言葉を吐いたりして、本命から衆目をそらせようとしている。要するに墓穴を深く大きくしているとしか言い様がない。
 壊し屋の最後のあがき、国まで壊すかも。いままでの国政の混乱や、外交上の手おくれなどすべての原因はそこにあった。要するに混ぜっ返しただけのお粗末の一席である。本人の素性、過去のあゆみ、いまの素振り、これらを取り交ぜて、すでに報道されている通りの帰結が待っている。それを認めない、認めたくないのは本人と本人を支持する民主党だけである。


 二大政党とか言うけれど、結局は自民党のはみ出し者、自民党に後ろ足で砂かけて出てはみたものの造っては壊しの連続で再起が期せず、党の若手が運営を誤った民主党の再建に力を貸してやっとこさ初期の目標に達しかけたに見えた折も折の予期しないアクシデントである。再建に力を貸したその力たるや、本家自民党の悪弊をそのまま持ち込んだだけのこと。自民党の古い体質そのもの。あるいは師と仰ぐ田中角栄がロッキード事件で自民党から無所属で立候補し、150万票かの過去最高の得票で当選したあの夢を描いているのかも。金丸信は佐川急便汚職で議員辞職したが貰った額が億でも、20万円の罰金でジ・エンド。
 ところで、報道陣がどう書こうと、世間が何と言おうと、このまましらを切って押し通して次の衆議院選挙に出て当選して、これで選挙民の支持を得た、これで禊は終わったと、手前かったな解釈で図々しくものさばる魂胆であろう。これには師と仰ぐ田中角栄の前例があるから、こんなことが頭にあるかも。だがそれは、それは時代錯誤というもの。


 道路を含めての建設業は、表向きはともかく談合でしか成り立たないし、従って政治家の口利きが物いう業種。一口に口利きといってもイロイロで、お役人くらい政治家に弱い職業はないとか。なにも政治家に直接声をかけてもらうとか、頼んでもらうとか、そんな幼稚なことではなくて、有力政治家、いや有力でなくても、政治家の名前を出しただけで顔色が変わるという。直接その政治家と知り合い関係がなくても同期の桜とか、同窓とか、それがけでも顔色が変わるという。その効果たるや口利き同然で、本人が口利きしなくても口利きしたと同然の効果、という。だから口利きしたかしないか、業者と本人との認識の違いがそんなところから出てくる、ようだ。
 ある評論家が「僕は政治家になるほどバカじゃない」といっていた。傍目には痛くもない腹探られて、レベルの低い人間に頭を下げ、国会では分かりきったことをいまさららしく追及され、ほとほといや気がさしているのではと思いきや、何代にもわたっての政治家、息子や娘にあんな思いをさせたくないと思うのが人情と思いきや、どうしてどうして、国政に携わるとの美名、最高の職業らしい。常日頃、議員に抑圧を感じている公務員も、行く行くは、なろうものならワレもなりたや議員という名の職業に、そして公務員を頭ごなしにこき使ってやりたい、というのが本音のようだ。そこが国民には理解出来ないところだ。


 結局は、お粗末の一席に終わってしまうぞ。

二つの地裁判決に快哉

2009-03-03 11:24:31 | Weblog
 わが高校時代の教師は偉かった。いいことを言った。未だ日教組の毒の回らない時代であったとは言え、半世紀以上も前のわが高校時代の社会科の授業で受けた日本国憲法のはなし。事あるごとに思い出す。
 日本国憲法が施行されて間もなくの頃であったが、戦争の放棄の規定で、将来日本に敵が攻めてきたら、わが国は憲法で戦争を放棄しており軍隊もありません、これこの通りと憲法の条文を見せて帰ってもらうのかと、冗談交じりに話していたし、自分の人権を尊重してほしかったら他人の人権も尊重しろということになるが、自分の人権と他人の人権が違ったら、そんな時はどうする? 勝手にしろ! かなァと、基本的人権を揶揄していた。


 信教の自由ーーー。自分に信教の自由があれば、相手にも信教の自由ががあり、信教がないのも自由で、それはあくまでも現在の日本国憲法の下での信教の自由である。
 「親族の同意なく合祀され、故人を敬愛する気持ちを侵害された」として靖国神社を相手に、合祀者名簿からの取消しを求めた訴訟で大阪地裁は請求を棄却した。(21,2,26、読売新聞)異議なし。当然の判決。88年の最高裁判決にある「他人の宗教上の行為に対する不快の感情を法的に救済する権利とすれば、逆に相手の信教の自由を妨げる」ことの以上でも以下でもない。他人の信教の自由を妨げて自分の信教の自由を貫くことの無理。
 また、現在の信教の自由の思想で、戦時体制下での戦死者の靖国神社への合祀の取り消しを求めることの無理。いまの制度で過去を断罪できるか?
 戦時中、赤紙で召集されて行く兵士の家族は、近隣住民の「このたびは、陛下のお召しにあずかり,まことにおめでとうございます」との挨拶に、涙もそぞろに「ありがとうございます」と返礼。この悲しいおめでとうにも、万が一戦死すれば靖国神社へ祀られるという名誉から、ささやかながらも慰められたようだ。歌にある「神と祀られ、モッタイナサレーー」たことに、いま訴訟で言う「合祀の不快感、嫌悪感」どころか、「名誉」であったことを認識するべきだ。


 「思想・良心の自由」も同じことで、自分に思想・良心の自由があれば他人にも思想・良心の自由がある。入学式や卒業式で君が代斉唱時に起立を拒否した教師が「思想・良心の自由を侵害された」との訴訟で、広島地裁が請求を棄却した。当然である。この判決は明確である。「起立は儀礼的行為であり、特定の精神的活動を強制するものではない」と。その通り。異議なし。
 君が代、日の丸によって思想・良心の自由が侵害されたとかが日教組の根本原理のようだが、逆に、君が代、日の丸を拒否する行為で自分の思想・良心の自由が侵害されたということもあり得る。教師も一人の人間として「思想・良心の自由」はあっても、それは自分の思想であって当然生徒に強要する自由はない。ましてや入学式や教え子の晴れの卒業式を教師自らが汚し、教師の心ない行為が卒業生には生涯の悪夢になる。
 判決が言うように、君が代斉唱時に起立することは「礼儀」で、それ以上でも以下でもない。そんな礼儀知らずで常識をわきまえなくても教師は務まるとなれば、こんないい商売はない。


 それとなくいまの時代を暗示したような事柄を高校生のわれわれに教えてくれたわが高校時代の教師は偉かった。仰げば尊し、いまなお尊敬の念止まない。