この度、2021年度劇団蒲団座卒業公演『サマータイムマシン・ブルース』にて、演出を務めましたなおきと申します。
ご来場くださいました皆様、このような状況下でも会場まで足を運んで頂き、私たち4回生が蒲団座として創る最後の作品を観て頂き、本当にありがとうございました。
これから先も、次世代の蒲団座員が創り出す、私たちに負けず劣らず演劇に対して情熱を持つ後輩たちが創り出す作品を、観て頂けますと幸いです。
改めまして、ご来場くださいました皆様、本当にありがとうございました。
さて、少し雑談をしようと思います。
学生演劇の演出はどこまで厳しく、どこまで踏み込んでするべきなのか。
この公演の稽古が始まってから3ヶ月間、いや、この公演の戯曲を決める段階からずっと考えていたのですが、未だ答えは出ないままです。
僕は他の学生劇団の方が、どのような演出をするのかを知りません。蒲団座の先輩に演出をつけて頂いた事もなく、同回生の演出で役者として出た時は、ワイワイと創っていたという記憶しかありません。
僕が演出をするにあたって参考にしたのは、以前、演技のワークショップにて、プロの方に演技指導をつけて頂いた時の体験や、本での知識になります。本は、平田オリザ氏の『演劇入門』や、フランク・ハウザー氏とラッセル・ライシ氏による『演出についての覚え書き』(シカ・マッケンジー訳)を読みました。「プロ」の演出家のノウハウをお借りして、演出方法を考えておりました。
そもそも、僕の考える演出は、役者を先導していくものではありません。「役者の演じたいことを、引き出す。役者の持っている役への、シーンへのイメージを見える形にする。」というのが僕の考えです。あくまでも、役者を「支える」という認識です。
オーディションでの役決めは演出がしますが、役者は演出のものではありません。「役者は演出のコマ」という考えをお持ちの方もいると思います。では、逆に聞きますが、演出が頭で想像しているものと「全く同じもの」を体現できますか。はっきり言って無理です。違う環境で育ってきた人間同士が、少しの言葉を介しただけで全く同じイメージを共有することは出来ないでしょう。話し合いの中でこの「ずれ」を正していかなければ、一つの作品を創り上げることは困難です。
矢印は双方向であるべきです。平田オリザ氏の本には、「役者は考えるコマであれ」というワードが書かれています。良い言葉です。自分で考え動き、そして、演出の注文に答える。字で表すと単純ですが、凄く難しいことだと思います。
プロはこれでいいでしょう。役者も、自分のすべき事は分かっているはずです。
でも、学生演劇は中々こうはいきません。プロはそれが仕事なので、十分に時間を費やすことができます。でも、学生演劇は仕事ではありません。学生の本業は学問。そして、生活費を稼ぐためにアルバイトをしている人も多いでしょう。演劇に時間を費やしたくても費やせないという人も多いはず。
それでも、バイトの時間をずらして、プライベートの時間を削って、出来うる限りのことをしようと、良い作品にしようと努力しています。その熱量に差があるのも仕方ないことです。
あくまでも、「部活」。演劇部に何を求めているのかは人によって違うでしょう。別に、クオリティを重視しなくてもいいと言いたいのではありません。ほかの部と掛け持ちしている人、学校に来るのに2時間もかかってしまう人、学費を払うためにバイトを強いられる人など、色んな人がいます。その中でも、良い作品にしようと各々努力しています。その人がどんな人間なのか、その人の抱える社会的、経済的、家庭的背景を知らずに、偉そうにものを言うのは違うと思います。
だから、話し合いが必要なのです。お互いの意見を通そうとすれば衝突も起こるでしょう。でも、そうしないと本当に分かり合うことは出来ないでしょう。
他人の演技を否定するのは簡単です。演出の求めているものと違えば怒ればいいでしょう。
けれど、演出は相手の表現しようとしている事を理解しようとしなければいけません。そして、それが上手く表現出来ているのか、もし出来ていないのならその演技を観てどういう印象を受けるのか、そして、求めている表現に近づくためにはどのようなアプローチをすれば良いのかを論理的に説明するべきでしょう。
演劇においても学問においても、良いアドバイスは、「思考の余白がある」アドバイスだと思います。極力答えをこちらから提示したくありません。台本を読む過程で、実際に立って演技をする過程で、役者自身が出会ってくれた時、演出として本当に嬉しく思います。
アドリブも、役へのアプローチの過程で出てくるひとつの工夫でしょう。稽古で積極的に入れていけば良いと思います。面白いかどうか、観客の目線でフィードバックすることが出来ます。本番で急にアドリブを追加するのは、あまりオススメできません。
少しのつもりが、書きすぎてしまいました。あと、1000字くらいで終わりたい。
一つの作品を創る上で、相手のことを「信じる」ことは、とても大切なことです。それと同時に、難しいし、勇気がいることです。
本を読んで知識をつけると、演出をしていると、少し自分が高尚な人間になれた気がします。なんでも自分でやった方が良くなると思ってしまうこともあります。でも、一人で出来ることには限りがあります。
そろそろまとめます。
僕は学生演劇が好きです。それと同時に嫌いです。
また公演をしたいと考える自分もいれば、もうしたくないと考える自分もいます。
僕は同期の事が大嫌いで大好きです。
別にこれらの言葉の意味を分かって欲しいとは思いませんし、上手く伝えられる自身もありません。
ただ、演劇をしていると、こんなアンビバレントな感情を持つことが多々あります。まるで、悲劇と喜劇が表裏一体のように、人間の世界で良いとされている事が魔女の世界では良くない事であるように(これは意味違うけど)。
要するに、見方を変えれば良い点も悪い点も出てくるということです。
演劇を通して出会った友達は、普通の友達とは違う、何だか特別なものを感じます。僕自身、普段は見せない一面まで見せていますし、かなり心を許しているのかなと思います。
長々と書いてきましたが、僕は大学に入って、演劇部に入部し、多くの時間を演劇に費やしてきたことは本当に幸せだったと確信しております。大学生活最後の春休み、あまり遊べませんでしたし、卒業旅行も行けませんでした。それでも、残念と感じたことは一度もありません。大好きな部員と、大好きな演劇をしてきたのだから、幸せですよ。大学生活最後まで青春できました。
高校時代の学園祭で演劇に出会い、大学では演劇部に入ろうと決意。
大学で演劇部に入り、演劇の楽しさを知りました。そして、物足りなさを感じました。
そんな僕は、大学を卒業しても演劇を続けます。
演劇の楽しさを実感させてくれた同期の部員には本当に感謝しています。
時に人の心を失い、心穏やかに四年間過ごしてこれたわけではありませんが、そんな僕と一緒に演劇を作ってくれた同期に、そして、最後までついてきてくれた後輩に心より敬意と愛をこめて。
ありがとうございました!
ご来場くださいました皆様、このような状況下でも会場まで足を運んで頂き、私たち4回生が蒲団座として創る最後の作品を観て頂き、本当にありがとうございました。
これから先も、次世代の蒲団座員が創り出す、私たちに負けず劣らず演劇に対して情熱を持つ後輩たちが創り出す作品を、観て頂けますと幸いです。
改めまして、ご来場くださいました皆様、本当にありがとうございました。
さて、少し雑談をしようと思います。
学生演劇の演出はどこまで厳しく、どこまで踏み込んでするべきなのか。
この公演の稽古が始まってから3ヶ月間、いや、この公演の戯曲を決める段階からずっと考えていたのですが、未だ答えは出ないままです。
僕は他の学生劇団の方が、どのような演出をするのかを知りません。蒲団座の先輩に演出をつけて頂いた事もなく、同回生の演出で役者として出た時は、ワイワイと創っていたという記憶しかありません。
僕が演出をするにあたって参考にしたのは、以前、演技のワークショップにて、プロの方に演技指導をつけて頂いた時の体験や、本での知識になります。本は、平田オリザ氏の『演劇入門』や、フランク・ハウザー氏とラッセル・ライシ氏による『演出についての覚え書き』(シカ・マッケンジー訳)を読みました。「プロ」の演出家のノウハウをお借りして、演出方法を考えておりました。
そもそも、僕の考える演出は、役者を先導していくものではありません。「役者の演じたいことを、引き出す。役者の持っている役への、シーンへのイメージを見える形にする。」というのが僕の考えです。あくまでも、役者を「支える」という認識です。
オーディションでの役決めは演出がしますが、役者は演出のものではありません。「役者は演出のコマ」という考えをお持ちの方もいると思います。では、逆に聞きますが、演出が頭で想像しているものと「全く同じもの」を体現できますか。はっきり言って無理です。違う環境で育ってきた人間同士が、少しの言葉を介しただけで全く同じイメージを共有することは出来ないでしょう。話し合いの中でこの「ずれ」を正していかなければ、一つの作品を創り上げることは困難です。
矢印は双方向であるべきです。平田オリザ氏の本には、「役者は考えるコマであれ」というワードが書かれています。良い言葉です。自分で考え動き、そして、演出の注文に答える。字で表すと単純ですが、凄く難しいことだと思います。
プロはこれでいいでしょう。役者も、自分のすべき事は分かっているはずです。
でも、学生演劇は中々こうはいきません。プロはそれが仕事なので、十分に時間を費やすことができます。でも、学生演劇は仕事ではありません。学生の本業は学問。そして、生活費を稼ぐためにアルバイトをしている人も多いでしょう。演劇に時間を費やしたくても費やせないという人も多いはず。
それでも、バイトの時間をずらして、プライベートの時間を削って、出来うる限りのことをしようと、良い作品にしようと努力しています。その熱量に差があるのも仕方ないことです。
あくまでも、「部活」。演劇部に何を求めているのかは人によって違うでしょう。別に、クオリティを重視しなくてもいいと言いたいのではありません。ほかの部と掛け持ちしている人、学校に来るのに2時間もかかってしまう人、学費を払うためにバイトを強いられる人など、色んな人がいます。その中でも、良い作品にしようと各々努力しています。その人がどんな人間なのか、その人の抱える社会的、経済的、家庭的背景を知らずに、偉そうにものを言うのは違うと思います。
だから、話し合いが必要なのです。お互いの意見を通そうとすれば衝突も起こるでしょう。でも、そうしないと本当に分かり合うことは出来ないでしょう。
他人の演技を否定するのは簡単です。演出の求めているものと違えば怒ればいいでしょう。
けれど、演出は相手の表現しようとしている事を理解しようとしなければいけません。そして、それが上手く表現出来ているのか、もし出来ていないのならその演技を観てどういう印象を受けるのか、そして、求めている表現に近づくためにはどのようなアプローチをすれば良いのかを論理的に説明するべきでしょう。
演劇においても学問においても、良いアドバイスは、「思考の余白がある」アドバイスだと思います。極力答えをこちらから提示したくありません。台本を読む過程で、実際に立って演技をする過程で、役者自身が出会ってくれた時、演出として本当に嬉しく思います。
アドリブも、役へのアプローチの過程で出てくるひとつの工夫でしょう。稽古で積極的に入れていけば良いと思います。面白いかどうか、観客の目線でフィードバックすることが出来ます。本番で急にアドリブを追加するのは、あまりオススメできません。
少しのつもりが、書きすぎてしまいました。あと、1000字くらいで終わりたい。
一つの作品を創る上で、相手のことを「信じる」ことは、とても大切なことです。それと同時に、難しいし、勇気がいることです。
本を読んで知識をつけると、演出をしていると、少し自分が高尚な人間になれた気がします。なんでも自分でやった方が良くなると思ってしまうこともあります。でも、一人で出来ることには限りがあります。
そろそろまとめます。
僕は学生演劇が好きです。それと同時に嫌いです。
また公演をしたいと考える自分もいれば、もうしたくないと考える自分もいます。
僕は同期の事が大嫌いで大好きです。
別にこれらの言葉の意味を分かって欲しいとは思いませんし、上手く伝えられる自身もありません。
ただ、演劇をしていると、こんなアンビバレントな感情を持つことが多々あります。まるで、悲劇と喜劇が表裏一体のように、人間の世界で良いとされている事が魔女の世界では良くない事であるように(これは意味違うけど)。
要するに、見方を変えれば良い点も悪い点も出てくるということです。
演劇を通して出会った友達は、普通の友達とは違う、何だか特別なものを感じます。僕自身、普段は見せない一面まで見せていますし、かなり心を許しているのかなと思います。
長々と書いてきましたが、僕は大学に入って、演劇部に入部し、多くの時間を演劇に費やしてきたことは本当に幸せだったと確信しております。大学生活最後の春休み、あまり遊べませんでしたし、卒業旅行も行けませんでした。それでも、残念と感じたことは一度もありません。大好きな部員と、大好きな演劇をしてきたのだから、幸せですよ。大学生活最後まで青春できました。
高校時代の学園祭で演劇に出会い、大学では演劇部に入ろうと決意。
大学で演劇部に入り、演劇の楽しさを知りました。そして、物足りなさを感じました。
そんな僕は、大学を卒業しても演劇を続けます。
演劇の楽しさを実感させてくれた同期の部員には本当に感謝しています。
時に人の心を失い、心穏やかに四年間過ごしてこれたわけではありませんが、そんな僕と一緒に演劇を作ってくれた同期に、そして、最後までついてきてくれた後輩に心より敬意と愛をこめて。
ありがとうございました!