歩かない旅人

牛乳を毎日飲む人よりも、牛乳を毎日配達している人の方が健康である。

 皇室の危機は日本の危機でもある。 (2)

2013-02-28 10:19:16 | 月刊雑誌。週刊雑誌を読んで

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 今日の新聞の雑誌広告に、早速、山折哲雄氏の、〔皇太子退位論〕に対する反応が出始めています。『週刊文春』と、『週刊新潮』の両誌ですが、『文春が「皇太子(退位論)にご友人が怒りのもう反論。(辞められるなら、とっくにやめている!)』という記事です。『新潮』のほうは、「(皇太子さまが明かした、帝王教育の現場に、《秋篠宮殿下》の同席、皇太子退位論の折も折」という記事が載っています。
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 私たちは、様々な情報を通してしかわかりませんが、まるで昔の時代劇のようなお家騒動じみた品の無い騒動にはなって貰いたくないと思っていますが、いまのメディアにとっては格好の興味を持った、単なる話題ぐらいにしか思えているのではないでしょうか。こうなったら芸能界のスキャンダル記事と同じレベルになって終いそうです。
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 日本にとっては皇室という存在は特別なものでなければならないと思っています、一般の常識では諮れない特有の存在です。日本が日本であるための、根本が此処にあると思っていますから、隔絶した存在だと思っているのです。今日も昨日の続きを勝手にこっちの都合で抜粋して載せています。佐藤あさ子氏の、『雅子さまと愛子様はどうなるのか?』(草思社)よりの引用もだいぶ入っています。
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 佐藤氏は元、月刊誌、週刊誌、女性誌で皇室記事の取材や執筆をしていた、フリーライターだそうですが、西尾幹二氏は良書として推薦しています。西尾氏の論文は長編ですのでだいぶ割愛していますが、今日は三章を飛ばして、四章から入って行こうと思います。あくまでも、その輪郭が分かるように考えて書き写していこうと思います。
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 《 雑誌 『 歴史通 』 2012年 5月号より抜粋 》
 [ 総力特集 皇室の危機 ]
 【 「雅子妃問題」 の核心 】    二回目
         評論家      西尾 幹二
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 ( 四 ) 気儘勝手
 2008年十月の学習院初等科の運動会を皇太子殿下は大分県での公務があって観に行けず、妃殿下が公務を欠席して観戦した。大分県の公務は身障者スポーツ大会への臨席で、本来ならご夫妻で出向くところ、例によって彼女は欠席し、殿下の単身出張になった。雅子妃に賛否両論が巻き起こったのは当然である。佐藤あさ子さんのこの点での分析と感想は面白い。
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 わが子の小学校一年生の運動会は何としても見たいという母親のその時の気持ちは理解できる。しかし、理解はできても、仕事より子供を優先できるかどうかはまた別の話である。われわれ現代社会で働く母親にしても、仕事と行事のダブルブッキングが起こった時には、代理でもうまく見つからない限り、仕方なく仕事の方を取って、個人の欲望を犠牲にしているケースが多い。
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 代理がうまく見つかったとしても、同じことを繰り返せば信用を失い、肩身が狭くなり、暮らしづらくなる。そういう葛藤の中で日々生きているのが我々普通の庶民である。一般社会には一般社会の掟があり何でも自由に好き勝手に生きているわけではない。しかるに雅子妃は公務を休み、堂々と運動会にやって来て、一般の父母席で観戦していた。
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 決められている来賓席のテントにははいらない。間もなくその席に実妹の池田礼子さんがやって来て、一緒にリラックスして、楽しそうに過ごしていた。二人の席に気を使っているのは東宮女官だった。池田さんを始め、次々と訪れる妃殿下のお客様を、そのたびに東宮女官は校門まで迎に行き、席まで案内していた。
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 その後、著者は、小和田家と皇太子ご一家の親密な交流を叙述している。正田家とは異なる小和田家の、「皇室利用」のあからさまな事例が紹介される。妃殿下は皇族方とはできるだけ交流を避け、天皇陛下皇后陛下に会うのをさえ避けているというのに、なんという自由で、気儘勝手な行動であろう。そしてそれを許し、支えているのは小和田氏の元部下である、野村東宮大夫(当時)の采配であり、「雅子さまシフト」であった。
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 そしてまたよく知られる主治医の影響力である。ご病気であるということで全てが許されている。東宮職医師団の見解の特徴は、たいてい、「妃殿下のご快復はずいぶん進んでおりますが、なお体調に波がおありで」と、どっちつかずなあいまいな文言が入る。さらに、「ライフワークにつながる可能性のある御活動を見つけられることにも力を注いでいただきたい」、「私的外出や運動を可能な範囲で行っていただくよう」と、高級レストランの食べ歩きや愛子さまとのゴージャスな御静養を正当化するような表現が多く見受けられる。
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 以上の叙述と思想から浮かび上がってくるのは、一般社会からも皇族社会からも完全にフリーな、どちらにもコミットしていない真空地帯、稀に見る楽園のような、地上に滅多に存在しない、「自由」の実験劇場の舞台を浮遊するように、幻のように生きている不可解な存在である。佐藤さんが働く女性の立場で、仕事と子供の行事のはざまに立つ自分の、「生活」を例に引いている比較はまことに適切である。
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 人間は何かに縛られていなければ決してまともに生きられない。天皇陛下皇后陛下には生活があり、佐藤さんはじめ働く一般庶民にも生活があるが、雅子妃には、「生活」がない。無限の自由の只中にあって、それゆえに自由を失っている。ご病気の正体はこれである。
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 「裸の王様」という言葉があるが、ご自分はまったく気づいていないものの、外交官のライフスタイルを失ったという嘆きやボヤキが思うに唯一の生き甲斐となり、夫への怨みや脅迫となり、与えられた花園の中を好き勝手に踏み歩く権利意識になっているものと思われる。医師はライフワークにつながる活躍をしなさいと勧めているが、学歴も高く才能もあるといわれて久しいのにほとんどめぼしい活動もなく、子供の付添い登校にひどくこだわって顰蹙を買ったのも理由は非常にはっきりしている。
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 「生活」のないところにどんなライフワークも生まれようがないからである。生活とは何か。それは不自由への自覚に始まる。何かをするためには何かを失う。自分のやりたい自由な活動をするためには、人は誰でも金を稼ぎ、食物を買い、住み家を手に入れる。皇族はそこから解放されているというものの、他方、皇族に特有の縛りがあり、掟がある。
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 祭祀は天皇の義務であり、課題であり、拘束であるが、しかしそこに折り合いがあり、喜悦があり、自由がある。祭祀は天皇の権利ですらある。妃殿下に皇族として生きる覚悟が生じたときにはじめて彼女の、「生活」が開始する。あるいは、ご離婚あそばされ、一般民間人になられたなら、そこでも「生活」が始まることは間違いない。
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 その中間はない。あれかこれかの二つに一つで、選択への決断だけが彼女に自由を与える。それがどうしてもお分かりにならないでいる。そのために現代社会では起こり得ない次のような奇怪な絵図が展開されている。今上陛下は皇太子時代に学習院初等科に通うに祭し、幼い時だけ浜尾実侍従長がお一人でお供をしたそうである。穏やかで平和な情景が目に浮かぶ。
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 雅子妃の愛子さま付添い登校について、佐藤さんの語る、「『皇室が存続するかどうか』という皇室が直面している問題と決して無関係ではないと思う」は、必ずしも大げさな表現ではない。
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 雅子さまは、愛子さまの付添い登校を二つの文書で、「唯一の手段」と強調している。「そうしなければ通学できなかった」ということを訴えかけているようだ。「過保護ではないか」、「雅子さまが愛子さまと離れられないにではないか」というマスコミ報道を自ら否定したかったのだろう。しかし、「唯一の手段」だったとしても皇太子妃である雅子さまが毎日、学校に付き添う様子は“異様”の一言でしか言い表せない。
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 学習院初等科の校門前では、雅子さまと愛子さまを乗せた車が姿を見せる数分前から、東宮侍従が深々と頭を垂れて待ち受けていた。雅子さまと愛子さまの車がやってくる間、お辞儀を続け、お二人が降りられると、東宮侍従はいったん頭を上げる。そして、校門に向かって歩きはじめると、再度頭を下げ、校門をくぐると頭を上げる。校門の中に入ると、今度は愛子さまの学校の校長先生である三浦芳雄科長がお辞儀をしながら出迎えるのだ。
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 雅子さまと愛子さまが登校されるたびに繰り返されるこの“儀式”は決して多くの子供たちが集う学校という、「子供の世界」にあるべき光景ではなかった。愛子さまが学校という子供の世界になじみ、普通に通えるようになるために、雅子さまのとった、「唯一の方法」とは、子供の世界に“大人の事情”を持ち込むことも意味していたのである。
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 その“大人の事情”を最も強烈に見せつけたのが、「山中湖への校外学習」だ。警視庁、神奈川県警、山梨県警の多くの警察官を動員し、10台の車列で愛子さまを追走する雅子さま。そのものものしい車列は、尋常ではなかった。
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 山中湖校外学習の件では、記者会見の席でついに、「異様な母子」、「税金泥棒」の声が上がって、東宮職を狼狽させたのだが、すでに十分に報道されているのでここでは繰り返さない。もう終わったことと言うかもしれないが、つい先頃まで毎日のように学習院初等科の校門前で行われた上記に見る珍妙な儀式は、封建時代の悪大名の門前を思わせる、たしかに“異様”の一言でしか言い表せない光景である。
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 こんな出来事がわれわれの現代社会に立ち現われていたことはまことに嘆かわしいし、恥ずかしい。環境と条件が人に完璧な自由を与えると途方もないことが起きるには北朝鮮の金王朝に限らない。その中心に立つ人が決して自由ではなく、不幸な自閉と猜疑に苦しむのも、歴史のどこにでも起こり得た話かもしれない。
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 今日は、第四章だけを抜粋しました。山中湖校外学習の騒ぎは私は、知りませんでした、聞いていたとしても忘れるくらいな小さな扱いだったのか、それさえ記憶にありません。日本のメディアは、たしかにおかしな状態です。無国籍集団がこの日本に充満しています。
 
 
 

 皇室の危機は日本の危機でもある。 (1)

2013-02-27 11:11:25 | 月刊雑誌。週刊雑誌を読んで

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 今日の産経新聞の記事の中に、次のような湯浅博の『世界読本』 と言うコラム欄で日本の首相のメッセージが、かなり世界に影響を与えたという記事が載っています。湯浅氏によると、この数年、欧米紙が“昇り龍”のチャイナを伝えることはあっても、日本を報じることはめっきり少なくなっていた。と述べています。
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 ところが、安倍晋三氏が登場して以来、連日、アベノミクスや尖閣情勢を取り上げない日がないくらいだ、と述べ、もっとも安倍政権が誕生したさいには、首相は、「タカ派」で、「軍国主義」だから、彼を選んだ日本と言う国は、「右傾化」の鬼が住んでいるようなイメージで、欧米紙は書いていたそうです。どちらかと言うと、リベラルと言うか反日的なスタンスの、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムスがその主流です。
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 ところが、安倍首相の訪米では、ワシントン・ポスト紙の社説などが、一転してチャイナに厳しく、日本に好意的な論評が目立ち始めたということを言っています。英紙のファイナンシャル・タイムズは、安倍政権のデフレ対策は成果を挙げつつあり、チャイナとのいさかいも民族感情に訴えることなく、かつ毅然と対処したと、好評のようです。
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 アメリカにおける安倍首相の演説を、ニコニコ動画を通してほぼ全部を見、聴きましたが、実に自信に満ちてユーモアがある、素晴らしい演説でした。内容も素晴らしいものでした。なぜ日本のメディアはこれを伝えないのでしょうか。伝えると誰かが都合悪いのでしょうか。しかもNHKのBS1が韓国の大統領就任式を80分生放送したそうです。しかも副音声は朝鮮語で流したと言います。
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 この国はメディアから腐ってきていますが、BSは韓国でも見ることができるそうです、しかも無料です。そして日本の安倍政権に対しては冷たい態度を取り続けています。こんな局に視聴料を払う気にはなりません。即刻支払いをしないようにしようと考えていますが、安倍首相の言葉は世界に向けられたメッセージだったのだと思います。
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 昨日で西尾幹二氏の長論文を終わったのですが、去年、通読はしていないのですが、雑誌『歴史通』 2012年版の5月号に西尾幹二氏が、さらに長い論文18ページにわたって皇室問題を書かれています。全文を載せるのは重複する部分もありますので、抜粋で、しばらくまた書き写して見るつもりです。
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 《 雑誌 『歴史通』 2012年 5月号より 》
 
 [ 総力特集 皇室の危機 ]
 
 【 「雅子妃問題」の核心 】  抜粋  一回目
 
           評論家     西尾 幹二
 
 ●最重要の問題は、雅子妃が一般社会からも皇室からも解放され、何物でもない宇宙人のような自由を享受していることだ。ゆえに、完璧に空虚な存在になり始めている。そのことは愛子様の教育をおかしくし、未来の皇室に不吉な翳りを招き始めている。 (第一章は略します)
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 (二)、帝王教育
 昭和天皇も今上陛下も、幼少の頃から親元を離れて独自の厳しい教育を施された。親子と言えども年に何度も会えないというのが昔の天皇家の帝王教育の仕来りであったことはよく知られている。今上陛下の少年期は半ばから戦後になるので、規模も厳格さもずっと縮小されたとは聞くが、それでも学校の放課後、友達が遊んでいるのをよそに、書道、国史、西洋史、東洋史、国語、漢文、和歌などを名高い学者から個人指導されるのは並大抵ではなかったし、ご徳育も等閑(なおざり)にされなかった。
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 ある人の説明によると、訓育の中には腹を立てないとか、顔を動かしてはいけないとか、早口で喋らないなど感情を抑止する訓練も含まれていたらしい。帝王らしい言葉遣いは、そうして出来上がった自然体に伴っておのずと生まれたものだと思う。私は一度だけすぐ目の前で今上陛下が外国派遣団への即席のご挨拶をしてくださった場面に居合わせる機会を持ったが、ゆっくりとした口調で、淀みなく、速記すればその儘平明な良い文章になるような内容がかなり長い時間口述されるのを拝聴して、感銘を受けた覚えがある。
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 いかにお慣れになっているとはいえ、誰にでも簡単にできることではないのである。前に一度書いたことがあるが、高杉善治、『天皇明仁の昭和史』と言う良書があり、奥日光に集団疎開をしていた学習院初等科六年生の頃の今上陛下のご様子が語られている。それはそれは厳しい環境だった。食べる物がなかった。大豆粕に雑草を混ぜたものが主食だった。雑草とはワラビやアザミの根で、イナゴをつかまえて煮て食べることもあった。
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 あの時代は皆そうだった。近衛師団の参謀長が、「殿下だからと言って米の特配をすることは許さるべきではない。そんなことをすれば皇室に対する国民の感情を悪化させる」と言っていた。昭和天皇も皇居で民衆と同じ配給の食糧に耐えておられた。それなら何でも平等かといえばそうではない。決定的に違う特別の扱いがなされた。
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 奥日光は小さな集落で当時医者がいなかった。生徒に病人が出ても注射を打ってくれる人がいない。獣医の経験のある人にすがった。しかし皇太子殿下には専属の医者が常時ついていた。一般の生徒の健康管理も彼に頼めばよいと思うかもしれないが、それは罷りならぬことだった。皇族のお身体に手を触れる医師は、たとえどんなに必要に迫られても、一般の人を診察することがあってはならなかった。
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 天皇や皇太子がいかに隔絶した存在なのかを示す一例である。さりとて神御一人者であるからと言って、贅沢や快楽において特権は許されなかったし、自らも望まなかった。それが日本の皇室であった。ご尊貴ではあるが、常に国民と共にあるのである。歴史を知るものなら、この特別性は誰もが知っている。世界の他の王朝の例に多い豪華な宮殿、宝物や美術品の極致、贅沢華美な王侯生活とはほとんど無縁な類の特別性である。
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 国民が苦しい時には一緒に苦しみ、外国への亡命などゆめ考えられない国民共同体の中心であり続ける特別性である。国民は実にわがままであり、自由気儘である。皇室は普通の人の生きる世界ではなく、不自由である。ノブレス・オブリージュという言葉があり、西欧の貴族も王侯もご尊貴であるがゆえに一般人よりも高い義務を背負うべきだという観念が存在するが、日本の皇族はそれらの求められる程度が並はずれて大きい。
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 一般人とは違うこの不自由は皇族にとっては自明の前提であろうが、一般人から皇室にいきなり入った者には違和感があり、苦痛を伴うのは十分に想像がつく。皇后陛下が、「一度でいいから古本屋で立ち読みしたい」と仰せになったと伝え聞くが、皇室生活は古本屋にふらりと入れる自由を間違いなく奪っていると思う。皇后陛下はそれに耐え、慣れて、御自分の世界を切り拓いて新境地に達した。
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 皇太子妃殿下はいまだその域に達していない。「適応障害」といわれて九年目になる。一般人の自由を奪われたことが病気の原因であることは間違いない。個室という環境にある限り病気は治らないと医師も証言している。であるなら道は二つに一つしかない。皇室を離れて、一般人の自由を再び手に入れるか、それとも皇室の掟に従うことを覚悟して、わが身に自由は存在しないことを大悟徹底するか、の二つに一つである。
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 ところが実際にはそのどちらでもない迷路にはまりだしている。今皇室問題に独特の混乱を招いているのは女性宮家創設うんぬんのテーマではない。男系か女系かの皇統問題も重要ではあるが、緊急のテーマではない。最重要の問題は、雅子妃が皇室に一般人の自由を持ち込み始めていることである。そしてそれを次第に拡大し、傍目にも異常に見えるようになったのは、単に皇室の掟に従わないだけでなく、一般社会人も当然生活する上で日常の様々な掟に縛られているのであるが、彼女はそこからも解放され、自由であり、天皇に学び皇后に従い、皇室の歴史における
 自分の立つ位置を定めるという義務をも怠っているので、一般社会からも皇室からも解放され、ついに何物でもない宇宙人のような完璧に自由であるがゆえに、完璧に空虚な存在になり始めていることである。
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 そしてそのことを愛子様の教育をおかしくし、未来の皇室に不吉な翳りを招き始めている。この事を具体的にわかり易く誰にでも読める言葉で平明に説いているすぐれた皇室ウォッチングの書が刊行された。佐藤あさ子、『雅子さまと愛子さまはどうなるのか?』(草思社)がそれである。偶然に手にし、大変に学ぶ処が多い良書であると思った。
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 私が想像していたより、この皇室問題は根が深く、多くの問題提起がなされていたのですが、それほど気にもしないで、過ごしてきたことに驚いています。多くのメディアが無関心を装い、我々庶民もその一部の選ばれた映像だけ見せられてその場面からだけしか知ることがありません。皇室自体が日本を代表する精神的拠り所ですから、これを破壊することはある時期、共産主義の大きなシンボル的悪の対象物でした
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 しかし共産主義の国が、人類の最終的、人類の求める政治形態でないことは、よくよく分かってきたと思いますが、まだその影を意識してか無意識か追っている連中がいることも確かです。しばらくこの問題に絞って書いていきたいと思います。明日は、佐藤あさ子氏の著書の紹介です。