歩かない旅人

牛乳を毎日飲む人よりも、牛乳を毎日配達している人の方が健康である。

 この無関心さが一番怖い。   (3)

2013-02-23 11:26:26 | 月刊雑誌。週刊雑誌を読んで
 今、日本の首相が訪米しています。今回の安倍首相に対しての注目点は、日米関係の修復ですが、それとともに厄介な問題を孕んでいます。オバマ大統領の宿願ともいえるTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)という長ったらしい、内容もあいまいな条約を日本が加入するかどうかにかかっています。安倍首相はまだ結論を出していませんが、アメリカの顔を立てて、一応は結ばざるを得ないでしょう。
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 しかし昔のように、一方的にアメリカの言いなりにはならないでしょう。とは言っても、まだ日本は完全に独り立ちしているわけではありません。先ず軍隊がありません。軍隊というのは戦える力とか制約がやたらと多い今の憲法では本当の軍隊とは言えないでしょう。その力を補っているのがアメリカの軍隊ですから、日本の意見もそれに逆らうには、日本が独自で自前の軍隊を持っていなければ一人前の国とはみなされるはずがありません。
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 アメリカとは同じ価値観を持った国として、今一番関係を良好にして行かなくてはいけない事ですが、アメリカにとっても日本は、必要な仲間であるはずです。安倍首相もそこのところをはっきり認識してアメリカと対応してもらいたいと思います。メディアの安倍叩きは、今はまだ目立っていませんが、隙を見つけたら、情け容赦なく襲ってくるでしょう。
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 それでは昨日からの続きを、書き残します。この問題は知らされていない部分とか、女性週刊誌の悪意に満ちた単なるスキャンダルな記事が幅を利かせていましたが、日本国家の根幹をなす問題だと再確認しておきますと私は思っています。
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 《 雑誌 『WiLL』 2008年 6月号より 》
 [ 総力特集 小和田一族と皇室 ]
 【 皇太子様への御忠言 第二弾! 】   三回目
         評論家       西尾 幹二
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 ≫人間と神との連続≪
 それなら日本ではどうだろう。信仰の対象となっている存在のヒトは天皇だけではない。全国いたる処で、地方の豪族や武士の長、大名の始祖がカミとして神社に祀られているのは皆知る通りである。そして神社のカミはみなどこかで日本神話の神々の世界につながっている。これは昔の迷信とも限らない。
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 現代のわれわれ衆愚も死ねばホトケになると信じているが、こんな信仰は世界の他の仏教国に例がなく、死者を等しなみにカミとする日本の神道の宗教観が仏教と習合したことの現れであって、すぐれて日本的な宗教現象というほかないだろう。であるなら、高天が原の天照大神はマリア崇拝のように、瓊瓊杵尊の天孫降臨はイエスの復活のように、ヨーロッパ流の神学的根拠づけをめぐらして信仰されているのであろうか。
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 そんなことはまったくない。日本の神話は荒唐無稽な作り話だとみんな思っている。神話であって歴史ではないと学校でも必死に区別することを第一義としている。しかしこれこそが天皇の存立の基盤を危うくしている根本問題である。『続日本記』の劈頭を飾る文武元年(697年)における文武天皇の即位宣命に記されている通り、古代において天皇の民に対する権力や正当性を根拠づけたもの、すなわち王権の根拠は、『古事記』に記された天孫降臨に外ならない。(水林彪『王権のコスモロギー』弘文堂参照)
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 天皇は中国皇帝を意識してつけられた名称だから、以下中国の王権の根拠と比較してみよう。中国にも神話はあるが、ある段階で王権の根拠とすることを止めた。紀元前17世紀の殷の時代に最高神として、「上帝」が崇拝されていた。これは神話の世界である。しかし紀元前十一世紀の西周の時代になって、
 「上帝」崇拝は継承されたものの、西周の王は、「上帝」の天上からの命令、いわゆる、「天命」を受けて天下を統一する、「天子」であるとみなされるようになった。これは決定的な転換点である。しかもこの、「天」の概念が曲者である。
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 その後、儒教が盛んになって神話は否定された。周知のとおり、孔子は怪力乱神を嫌った。そして長い時間とともに、「天」の概念はイスラエルの神のように抽象的な超越絶対神に少しづつ似てきた。「上帝」と人間との間は切断された。君主は天上の、「上帝」に連なることによってではなく、「天命」思想によって、祭礼儀礼を以て、自己の正当性を証明することが可能になったのである。
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 中国では神話は王権の根拠とはならなくなった。しかし日本の天皇は神話とつながり続けている。伊勢神宮を見るがいい。我々日本人は中国や西洋のように人間と隔絶した抽象的な神の世界を持ったこともないし、それをよく知らない。日本におけるカミの観念は、中国の、「天」の概念と異なり、人間と神との連続を前提としている。王権はその正当化の根拠を神話の中に持つ。
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 中国は目まぐるしい王朝交代の歴史であり、易姓革命(姓を易(か)える)の繰り返しであったが、日本の天皇には最初から現代まで、「姓」がない。天皇制度は一貫性、連続性を特色としている。しかもその地位は天照大神の子孫によって受け継がれるもので、血統世襲が重んじられ、必ずしも徳治主義によっていない。
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 天皇は徳が高いにこしたことはないが、道徳とか人格とかいった人間尺度の問題から解放することがむしろ本来の在り方であるとされる。なにしろ血統が神格の根拠なのである。それを最初に理論的に唱えたのは幕末の後期水戸学のパイオニア、藤田幽谷の、『正名論』(しょうめいろん)であった。これに対し中国の天命思想は可能性としては出自や身分によらず、誰でもが天子になり得るということを示してさえいる。
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 実際には武力によって、新王朝が始められるのが普通だったが、「徳」のある君主のみが天上の、「上帝」から命を下されて、天使となる資格を得る。「上帝」はキリスト教の神と同じような超越的絶対神だが、不思議なことにこれを祭り祈祷できるのは、西洋と違って一人天子のみなのである。天子すなわち皇帝だけが、神と対話できる。しかし彼自身は神ではない。
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 中国の皇帝は日本の天皇のように、信仰の対象にはならない。西洋の国王と同じように神格を持たない。西洋では教会という神の世界が民衆の前に開かれ、宗教は国王とは別のもう一つの勢力をなしているが、中国では天上の世界と交流できるのは皇帝だけであって、皇帝は自分の上に、いかなる宗教権力も許さない。それでいて彼自身が宗教権力になることはない。
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 彼は無制約なまでの絶対的な政治権力そのものである。西洋。中国、日本と三者における宗教と政治の権力関係は互いに複雑に相反し合っている。私は話をいたずらに難しくしようとしているのではなく、日本の天皇がいかに世界に類例のないユニークな宗教的かつ政治的な存在である化を言いたいのである。
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 そしてそのことだけを言いたいのではなく、天孫降臨神話の他に王権の根拠をもたない基盤の弱さゆえに、古代から今日にいたるまで天皇家の存立と維持がほとんど薄氷を踏むきわどさであったことを知るためにも、西洋と中国と日本の対比は欠かすことができない要点だと考えているのである。
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 ≫冷静さと慈愛の二面≪
 ブラッセルを中心に毎年行われているユーロバリアという文化と芸術の祭典が平成元年(1989年)に日本をテーマに取り上げた。私はブラッセルとリスボンの二つのシンポジウムに参加した。ペルギー王家と関係の深い天皇家が約百人の私たち関係者を招いてくださった。天皇皇后両陛下、そして皇太子殿下に私はそのレセプションの席上で初めてご拝謁を賜った。
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 天皇陛下はまことにゆっくりしたご口調の、しかしよどみのないお言葉遣いで、暢びやかな声音で、かなりながいご挨拶をなさった。型どうりの無内容なお話ではない。そのまま活字に起こせば立派な文体のご文章になるに相違ない。しかも即興である。如何にお慣れになっているとはいえ、容易なことではあるまい。
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 このあと大広間で、各自が自由に、ばらばらに御三方の前に歩み出て、雑話を交わすことが許された。御三方は広間の三か所にご随意に立たれたので、私は順番が来てたま玉皇后陛下の前に歩み出た。各自は何を仕事にしているかを問われるままに答えていた。私はニーチェ哲学と一言言ったが、場に相応しくないと気付き、先年、中軽井沢の駅頭でご一家をお見受けした話に転じた。
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 「軽井沢はどちらですか?」、「追分です」、「あら、野草摘みに私もよくいきましたのよ。浅間がきれいですね」、「最近は木が高くなって、追分宿から山が見えにくくなりました」・・・私は話題が見つかってホッと安心した。陛下は当然、覚えておられないだろう。私のすぐ横で天皇陛下がお話になっておられたが、私に順番が回ってくる時間はもうなかった。
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 中軽井沢の駅のホームを天皇ご一家と私の家族がずっと歩行を共にしたのは本当に偶然だった。まだ新幹線のできる前で、同じ車両に乗り合わせた。天皇皇后両陛下、秋篠宮殿下、紀宮内親王のご四人がお歩きになる丁度その所へ私共が車輛を降りた。皇太子殿下はご留学中の頃であったと思う。格別の警備も警護もなかった。あったかもしれないが、気がつかないほどにご一家は自由に一般市民に立ち混じっておられた。
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 私は天皇陛下の斜め横二メートルほどの位置で後についていった。階段の下に四、五人の女子高生が黄色い声を挙げて固まって座るような姿勢で待ち構えていた。まるで人気タレントに対するような騒ぎだった。と、そのとき、急に陛下は身を屈めて、一人一人に握手をなさった。皇后陛下は少し後からやはりやや腰をかがめ、やさしい静かな笑顔を投げかけていた。
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 すべては自然な仕草だった。無理をしている風は少しもなかった。全国いたるところで似たような光景が繰り返されて来たろうし、これからもそうだろう。まるで一枚の絵巻を見ているような、流れる様な微笑ましい情景であった。天皇ご一家は日ごろ国民にこんな風に接しておられるのだな、と想像のつく暖かさ、そして一定の距離の、冷静さと慈愛の二面を、たまたま私も自分の経験した出来事で知ったのだった。
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 ある人が天皇のお顔を見ると目が潰れる、といったことがある。まだそんなことを言う人が残っているが、さすがに今は少ない。しかし明治初年の頃には天皇ご巡幸に際し、人々は家の前にしめ縄を飾り、御酒や餅などを供え柏手(かしわで)してお迎えしたそうだ。鎮守の祭礼と似ていて天皇は神だった。
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 天皇崩御の後の一年間は、「諒闇」と言って、種々の娯楽や建設事業が歌舞音曲は停止され各新聞が一年間重い黒枠で囲まれたことも今は知る人も少ないだろう。これに比べ戦後のご皇室は守るものの何もない奪われ虐げられた悲運のスタートだった。GHQから旧宮家が皇籍を剥奪され、皇室財産の大半を没収されたのは周知の悲劇だが、何と言っても、「神話」の否定が大きい。
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 キリスト教とはカミ概念が異なるのだから、完全な見当はずれの処置であって、ここにGHQが手を入れたのは戦略的で、天皇制度を潰そうとする攻撃的意図は今にしてありありと手に取るようにわかる。
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 別な観点から見れば、日本はインディアンの仲間ぐらいにしか考えていない欧米人が圧倒的に多かったということでしょう。しかも戦争したらやたらに強く、知能指数も想像を超えていたと言うことでしょう。何で日本はこんなに強く賢く慎ましやかなのに、戦争が強いのか、その根源を断とうとしたことはありありです。
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 明日に続きますが、何で憲法改正をしなければならないか、日本を弱く小さくするための戦勝国の行き過ぎた制裁だったのに死守するなどと騒ぐ社民党の福島瑞穂なる東大出の弁護士が何故騒ぐか、その了見が分かりませんというより、日本人かどうかさえ分かりません。