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≫NHK殿 一筆啓誅 ≪
皇学館大学非常勤講師 本間一誠
●閉ざされた言語空間の延命装置
東西の冷戦構造が崩壊した結果、占領政策によって形作られ、戦後の日本人の思考や感性を拘束し続けた牢固たる言語空間に綻びが生じて久しい。今やその言語空間は綻びどころかボロボロになって、その隙間から嫌でも油断のならない苛烈な世界に現実が見えてきた。とりわけ近年の北東アジアの状況は、日本国憲法の前文とそれを前提にした価値観や諸体系がとんでもないまやかしであることを証明している。
このまま非現実的な友愛幻想の中にまどろんで居れば、間違いなく日本は物理的にも精神的にも亡国の淵に突き進むことを、強い危機感を持って予想せざるを得ない。
実際、今の日本は羅針盤を喪失した難破船のようなものだ、現下の日本の殆どの政治家には、与野党を問わず独立国家としての自己決定力を強力に打ち出す経綸も責任感も胆力もない。もう過っての「ごっこの時代」(江藤淳)のように時間は悠長には流れてくれないと云うのに。
今、この一瞬一瞬に日本国の存亡がかかっている。その意味で、正確な事実とそれに基ずく正しい情報を国民に伝えるべきメディアの責任は極めて重大である。
とりわけNHKは、放送法32条を根拠に強制的に受信料をとる「公共放送」有って見れば、民放とは段違いにその報道の在り方と責任の問われ方は重いと云わねばならない。従って同法7条に謳う「公共の福祉のため」の「公共」の内実をNHKがどう捉えているのかも厳しく問われる必要が有ろう。
この稿では公共放送の「公共」とは何かという議論はさておくが、ただ少なくとも昨今流行る「新しい公共」等とは言わせないと云う事だけは冒頭で述べておこう。
既存メディアに対抗する情報手段としてインターネットの普及には端倪すべからざるものがあるが、それでもNHKというブランドは一般庶民の意識の中では、依然として今でも一つの権威である。「紅白歌合戦」の視聴率は昔に比べれば落ちたそうだが、今では例えば「鶴瓶の家族に乾杯」などといった人気番組のイメージから、「NHKならば」という茶の間の意識はまだ根強いものがあるだろう。
そうであれば、この大変な危機の時代にあって、放送第一条(目的)、第三条の2が定めているように、当然その情報には偏りや歪み、ましてや意図的な隠蔽や価値中立を装う小狡い判断停止などがあってはならない。
ところが実際のNHKはそうはなっていない。偏り、歪み、隠蔽、ある種の同調圧力への迎合という傾向はますます悪い方向に向かっているように思える。戦後の言語空間のボロボロになった裂け目から見えてきた現実を、隠蔽して無かった事にし、または変更歪曲して伝えようとする。
最も分かり易い一例をあげれば(これはNHKに限ったことではないが)平成二十二年九月七日に起きた尖閣海域での事件を未だに「衝突事件」という。正しくは「中国の漁船による(悪質な)巡視船破壊事件」または「体当たり事件」というべきなのだ。それを「衝突」といってはどちらに非があるかわからないではないか。
言葉が違えば実態も違うものになる。意図的に事実を曖昧にし、結果として事実を隠蔽する事になる。些細なことのようだが悪質な「体当たり」を「衝突」としか表現できない事実の中に、日本のメディアが未だに閉ざされた言語空間に呪縛されて、今、ありありと眼前に見えるものすらありのままに見ようとしない、見られないと云う以上差がある。その結果、悪意と奸計を持って何者かが仕掛けてくる情報・心理戦の罠に見事に嵌まって国民を欺き、国益を損ずる売国に手を貸すことになっている。
●問題点がぼかされた尖閣報道
九月の事件後、十一月五日に海上保安庁撮影の現場映像が流出してから、NHKは尖閣事件をどのように解説論評してきたか。それは十一月二十四日付き産経新聞「正論」欄における小堀圭一郎東大名誉教授の指摘「(流出のために)事件最大の論点である、中国の国家意思を体して行動した疑いの濃い漁船(むしろ工作船か)による我が国の主権侵害という大問題が、作為的に影を薄められ、乃至は掏り替えが生じている』に尽きる。
十一月以降に私が見たNHKの関連番組を拾えば、十一月十日「時論・公〈検証 映像流出問題〉」、同日「視点・論点〈映像流出情報管理〉」、同十五日「クローズアップ現代〈尖閣映像流出の衝撃〉」、同十八日「時論・公論〈情報流出・管理強化と情報管理〉」などがある。いづれも解説の重点は、国家の情報管理の在り方と国民の知る権利にどう折り合いをつけるかということにあった。
情報の公開、非公開の難しい議論は必要であるにせよ、多くの国民は今回の漁船追突事件から映像流出、さらにはその後の政府の対応に、直感的にただならぬ危うさを感じている。本来NHKが公共放送としての健全なセンサーを持っていれば、これは日本の全国民に覚醒を迫っている一大事件であり、平和ボケを脱するには絶好の機会と捉えなければウソでそこをずばりと解説論評してこそ日本国の公益に資する筈だった。
ところが相手が中国となるととてもそうはいかないらしい。特に真意不明だったのが十一月十五日の「クローズアップ現代」だった。〈“尖閣映像”流出の衝撃〉がテーマであるなら、何よりしの「衝撃」とは、これほどまであからさまに、且つ日常的にわが国の主権と領域が侵犯され、漁民や保安官が非常な危険に曝されつつ仕事をしていた事実そのものでなければならない。
番組では国谷裕子キャスターがゲストに元外交官田中均氏と評論家立花隆氏を招き、国家の危機管理と国民の知る権利、情報の非公開と公開を何処で線引きするかということについてあれこれと考えるのだが、中国による悪質な主権の侵害という重大事は最初からどこかへ飛んでいる。重大なのはあくまで「情報の流出」というスタンスである。
ゲストに対して国谷氏はこのような問いかけをする。「非常に極端なナショナリズムの台頭をうまく調整しながら、より正しい外交的な認識に、国民のコンセンサスをうまく持っていく方法としての情報公開の判断というのもありませんか」
また「今は知る権利の意識も高まっているし、日中関係への配慮ということもあると、両方充足させると云う事はなかなか厳しい判断もあるでしょうね」と。これに対して田中氏は、最終的には国益に基づいた政府の責任による判断で、今回の尖閣映像のように客観的な事実関係を伝えるものは、原則公開して然るべきだと述べ、立花氏は、公開、非公開の判断基準は公共の利益であり、あの映像を見た人は皆「好いことを知った」と思っていると述べた。結局、話は主権が侵害されたという事件の本質に触れて深まることなく、途中から話題は告発サイト「ウィキリークス」に移ってしまっう。
●屈服を偽善にまぶした自己欺瞞
問題なのは上の引用した国谷氏の言葉に端なくも窺える一種の傾向である。番組冒頭の映像で仙谷官房長官は「何よりも重要なのは、日本も中国も他の国も、余り偏狭で極端なナショナリズムをっ刺激しないと言うことを、政府の担当者としては心すべきだろう」と述べる。
この官房長官の頭脳の赤い刷り込みが、世間を渡る必要上ピンクになったところで、国家=悪という反体制の情緒までは変わらない。「自衛隊は暴力装置」発言も別に不思議ではない。こうゆう人にとっては国を憂うるが故の真っ当な主張や正当な怒りでも「偏狭で極端なナショナリズム」に見え、危険に映るのだろう。何かというと危険だ危険だと言いたがる人種は戦後の進歩的文化人以降、今に至るも後を絶たない。
よくまあ飽きないで同じことばかり言うよと思う。国谷氏も多分に仙谷氏と同じメンタリティーなのではないかと思う。尖閣沖での中国漁船の体当たり映像を見れば、彼の国及び漁船の無法に憤りが込み上げるのは誠に正常な反応ではないか。
映像をすべて公開して、早く世界に日本の正当なることを訴えよと云うことも至極真っ当な国民感情ではないか。しかも、あろうことか中国は海保が船をぶつけてきたと主張しているのである。国谷氏はどのような状況を指して「非常に極端なナショナリズムの台頭」というのだろうか。
内容の定義のない全く無意味な雰囲気語に過ぎない。また「日中関係への配慮」と日本人の「知る権利」を両方充足させる必要は毛頭ない。この場合に限って言えば、中国への配慮よりも日本人の「知る権利」が優先する事は理の当然ではないか。
国谷氏のそうゆう発想やそうゆう言葉それ自体に、すでに屈服を偽善にまぶした自己欺瞞が潜んでいる。早い話が、日本が配慮を示せば相手も日本に配慮を示すのか、示して来たのか。むしろ確固たる国家観を欠いたまま「日中関係への配慮」をし過ぎて足下を見られたから、遂にこんな始末になってしまったのではないか見終わった後の一種の不得要領感は、結局何だか大事なことが「掏り替え」られたというところに生じた気分だろう。
話の成り行きで記しておく。今回の尖閣の危機で、ようやく「国家」を構成するするものは国家主権と領土領域だと云うことが人々の意識に上がったようだ。主権と領土については国会のメディアでも多くの時間を費やして議論がなされた。だが不思議なことに、根本的に大事なことが殆ど忘れられている。云うまでもなく国家を成立させるもう一つの要素は「国民」である。日本に生まれただけでは「国民」にはならない。
日本という共同体の歴史的連続性のかけがえのなさを教えるのが本来の公教育の役割で、その教育を通して初めて人は「国民」になる。そこに国を愛する心も祖先を誇りに思う心も、自然に湧いてくる。これはどこの国でも同じだろう。
ところがその反対をやったのが日本の戦後教育であり、公教育の場で日本人一人一人の問題として領土を考えさせる教育など、皆無であったと言っていい。それは日本の教科書の領土に関する記述を見れば分かる。歴史を垂直に貫く国家観がないから、結局何を護るべきかが分からない。
ルーピー前首相や国歌嫌いの現首相、暴力装置発言官房長官や中国へ大朝貢団を引率して国民の顔に泥を塗った、剛腕氏などは、この国家観不在の戦後教育のなれの果てである。
今回の事態を招いた遠因は真の国民教育の不在にある。無理な注文だがあえて言えば、そのことをこそ本来メディアは取り上げるべきなのだ。国家百年の計に立ってこの事を真剣に議論し、真剣に反省しなければ日本の将来は無く、我々の子孫に重大な災厄を負わせることになるだろう。
このままであれば「中共日本自治区」の悪夢は現実になる。
●中国のプロパカンダを垂れ流した「クローズアップ現代」
これに関連して、いささか旧聞に属するがどうしても言及し、此処に記録しておきたいことがある。それは平成二十二年六月一日放送の「クローズアップ現代」のことである。
「クローズアップ現代」は開始以来、放送回数すでに三千回に迫るNHKの看板番組の一つだが、私は未だにこの日の同番組を見た時の、何とも言えない屈辱感と苦々しさを思い出す。タイトルは『中国 温家宝首相が語る』で、国谷裕子キャスターだった。当然事前に質問項目を中国側に提出し、チェックを受け、摺り合せをした上でのことだろう。結論からいえば温家宝首相の用意周到な美辞麗句に何の突っ込みもなく、ただうやうやしく拝跪し、鞠躬如として仕えただけのインタビューだった。
この時の温家宝の言葉と、インタビュー以前及び以後における現実の展開とのあまりの乖離を考えると、これこそNHKが、すでに情報・心理戦において中国にのも込まれていることを証明する好個の材料である。
つまり、夕飯時に流れるNHKのこの看板報道番組は、いいように中国による日本国民へのプロパカンダに利用されたのである。尖閣事件以降に一段と露骨になった中国の嵩にかかった力づく路線、一連の対日圧力を考えればそのことは明白であろう。しかし残念だが、当のNHKには恐らく利用されたことについての自覚と反省は毛筋程もあるまい。些か長くなるがインタビューと温家宝の回答要点は適記すれば、概略以下の様に進んだ。
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続きは明日写します、本文は旧かな使いで書かれていますが、大変読みやすいまるで山本夏彦翁を彷彿させ懐かしい気持ちですが
新仮名使いで写します。