ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

正直村の子どもたち(9)ウンチク後編

2008-09-14 | 放蕩息子Part2
創世記19章に次のような出来事が記されています。ソドムとゴモラの町を、その罪のために、神様が滅ぼそうとされたとき、天使を遣わして、ロトの家族を救い出そうとしました。ところが、ロトの娘たちをめとった婿たちは、その話を冗談のように思い、本気にしませんでした。そして、とついだ娘たちも一緒に残り、他の人たちと同じように、町と共に滅ぼされました。

「今は恵みの時、今は救いの日です」。「今」と言われている間が、恵みを受けられる時、救いを受けられる日なのです。後回しにしたら、また次にその機会があるとは限らないのです。そして、いつ、「救いの戸が閉じられる」のか、それは、神様次第、私たちには、まったく予想もつきません。さっきまで開いていた「恵みの戸、救いの扉」を、いきなり神様が閉じても、私たちは文句は言えないのです。なぜなら、罪のために永遠の滅びを即刻身に受けるのが当然ですから。

罪を罪とわかっていながら、「でも、まだ平気。そのうち、悔い改めるから」と、なぜ言っていられるのでしょう。自分が神様のさばきを受けるのが決まっていて、「死ぬ前に、イエス様を信じて、救われれば、いいのさ。もう少し世を楽しむよ」と、なぜ言っていられるのでしょう。


今、あなたは、あなたを束縛している罪から解放され、今日、救いの喜びの中に入ることができるのに、なぜ、後回しにする必要があるのでしょう。


福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。
ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。
みことばが、それを聞いた人たちに、
信仰によって、結びつけられなかったからです。
「今日、もし御声を聞くならば、
あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
(ヘブル人への手紙 4章2、7節)

今は恵みの時、今は救いの日です
(第二コリント6:2)

(次回からは、新しいストーリーです。アクセスしてくださいね。)