ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

5つの指摘(5)

2007-02-24 | 親切なお医者さん/ 5つの指摘
[指摘5]
聖書の解釈をめぐって多数の宗派が生まれた。が、聖書自体が多くの間違いと人工的教え、比喩によって出来上がっているものである以上、その文字づらの解釈(神学)だけに走れば、また新たな矛盾・問題を生み出すだけである。もともと矛盾だらけの聖書を、いくら論理的に解釈しようとしても無意味なことである。


[検証5]
これは、言い換えれば、「多くの教派があり、その間に対立や衝突があるのは、信仰の基盤である聖書に矛盾があることからして当然だ」という指摘でしょう。

少しキリスト教(プロテスタント)のことを知っている人なら、多くの教派があることは、ご存知だと思います。そして、もう少しよく知っている人は、教派の間に、神学上の対立や衝突があることを聞いたことがあるでしょう。そこへ、「それは、信仰の基盤である聖書に矛盾があることからして、当然だ」、「教派間に神学上の対立、衝突があることこそ、聖書が真理ではないことの表れだ」と言われると、「う~ん、なるほど」と思うでしょうね。でも、それは、聖書を信じさせないためのトリックです。

キリスト教界から誤解されることを恐れずに書けば、教派の間にある神学上の対立や衝突の原因は、それぞれが「独自の神学」を作り上げるところにあります。それぞれが聖書そのものだけに立ち、聖書どおりを行っていけば、現在見るような、対立や衝突はないでしょう。

教派は、ある面、家族・親戚みたいなものですから、人がいて人が増えれば、出来上がってくるのが自然なことのように思います。いくつ教派があっても、仲良くやっていれば、問題ないわけです。また、聖書を学んでいけば、それを自分なりにまとめるのも自然のことと思います。そのようにして築き上げられてきた神学は、それとして価値のあるものです。

教派としての伝統や様式が形成されていく中で、聖書にない様式が加えられたり、聖書が語っているにもかかわらず、現代にはないと言ってみたり、無視したりすることが起こります。そして、それを肯定する、「独自の神学」ができあがります。こういう部分が、教派の間にある神学上の対立や衝突として、表面化してきます。

聖書に矛盾があるから、教派間に神学上の対立、衝突があるのではありません。その彼らの指摘は誤りです。「独自の神学」を作り上げるところに原因があります。それぞれが聖書そのものだけに立ち、聖書どおりを行ってさえいれば、教派間の対立や衝突は起こらないはずです。まさに、聖書が真理であることを表しています。


「いや、聖書自体に多くの間違いがあるから、それぞれの教派が、独自の神学を作り出すのだ」と言いたい人があるかもしれません。

スポーツで考えてみましょう。どんなスポーツにも明確なルールがあります。ところが、自分たちを有利にするために、自分たちが得点を得るために、ルールにないことをしたり、ルールを無視したりする人たちがいますね。でも、それは、ルール自体に間違いがあるからではありません。ルールどおりに行わない人たちがいる、というだけのことです。ルールがどんなに正しくても、どんなにしっかりしていても、ルールどおりに行わない人たちがいれば問題が起こります。ですから、「聖書自体に多くの間違いがあるから、それぞれの教派が、独自の神学を作り出すのだ」というのは、まったく的を得ない指摘です。

(次回は、これらのことに関連して、人生の知恵をまじめにウンチクります。)