ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

お父さんの橋(7)ウンチク後編

2007-02-11 | 自由だから愛/ お父さんの橋
信じるっていうのは、
まるで、このストーリーのお父さんの橋の上を渡る子どもたちみたいなものです。

子どもたちは、自らのすべて、体はもちろん、生きることも、将来も、何もかも、お父さんの上に乗っけて進みました。すべては、橋となっているお父さん次第です。これが、信じている、ということです。(信じていなかったら、とてもじゃないけど、こんなことできないですよね)

イエス・キリストを信じるとは、自らのすべて、体に関することも、生きることも、将来も、何もかも、イエス・キリストの上に乗っけて、イエス・キリストに任せて、進むってことです。


「でも、そこまでイエス・キリストを信じて、大丈夫??」

そういう、用心深い人もいますよね。(ッテ、それが普通だと思いますが・・・)

イエス・キリストがあなたのためにしてくださったことがわかれば、信じきって、任せきって、自分の全てを乗っけて進んで、大丈夫ってことがわかりますよ。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。」
(ヨハネの第一の手紙 3章16節)

ストーリーのお父さんは、自分が橋となって、子どもたちを救いましたね。子どもたちの救いのために、自分のいのちをささげたわけです。イエス・キリストも、私たちを救う架け橋となって、自分のいのちを十字架の上に私たちの罪の身代わりとしてささげたのです。これだけのことをしてくださったイエス・キリストですから、信じて、自らをまったく投げ出して、大丈夫です。決して、裏切られることはありません。


イエス・キリストを信じて、自らをまったく任せて進むと、どうなるかって?

神様との和解、う~ん、おもいっきり噛み砕いて言うと、神様の子どもとして受け入れられます。っていうことは、神様の子どもですから、「子よ。お前はいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」(ルカの福音書 15章31節)と神様から言ってもらえる関係になるわけです。



(イエス・キリストは)ご自分によって神に近づく人々を、
完全に救うことがおできになります。
(ヘブル人への手紙 7章25節)

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
私たちの主イエス・キリストによって、
神との平和を持っています。
(ローマ人への手紙 5章1節)


次回からは、新しいストーリーです。アクセスしてくださいね。