政治の対立軸(1)市場原理至上主義VS弱者保護
政治・政策をめぐる論議は概ね1年以内に衆議院総選挙を控える日本にとって、極めて重要だ。本ブログでも、日々発生する諸問題への考察を通じて、日本の世直し、本当の意味における「改革」の方向を考察してゆきたい。数回に分けて、政治の対立軸について考えてみる。
次期衆議院選挙は日本の命運を分ける重大な分岐点になる。既得権益を保持する勢力は、既得権益を守ることを第一と考える。国民は小泉政権が推進した政策が日本社会に深刻なひずみをもたらしてきたことに、ようやく気付き始めた。
格差社会、後期高齢者医療制度に象徴される高齢者いじめ、障害者自立支援法に象徴される経済的弱者いじめ、などの実態がようやく広く国民に意識され始めた。
2003年半ばにかけては、日本経済が深刻な経済危機に直面した。危うく金融危機に突入するところまで事態は悪化したが、政府によるりそな銀行救済を転換点に経済金融は安定化に向かった。
洞察力を持つ国民は、一連の事態の推移を通じて外国資本が巨大な利益を獲得したことを見逃していないが、多くの国民は政治権力に支配されたマスメディアの誘導により、政府の経済政策が成功を収めたと錯覚してしまった。
私が10年来主張してきた官僚利権の根絶について、最近までほとんどの人々は無認識だった。2001年に発足した小泉政権に対しても、私は天下り利権の根絶を提言したが、竹中経財相(当時)は天下り問題を瑣末的問題にすぎないと論評した。
私は政治の対立軸として三つの問題が重要だと考える。第一は市場原理と弱者保護についての考え方だ。「市場原理至上主義」対「弱者保護重視」と置き換えてもよい。第二は官僚利権に対する考え方、「官僚利権温存」対「官僚利権根絶」と捉えられる問題だ。第三は外交の基本姿勢だ。「対米隷属外交」対「独立自尊外交」と置き換えることができる。
小泉政権の政策方針は①「市場原理至上主義」、②「官僚利権温存」、③「対米隷属外交」、を基本に据えていた。小泉政権が「改革」を旗印に掲げて「官僚利権」に切り込もうとしていたのではないかとの錯覚が存在するが、小泉政権が官僚利権、とりわけ財務省利権を全面的に擁護したことは間違いない。
2006年にかけて政府系金融機関の機構改革が論議されたが、財務省系金融機関への天下りは結局維持された。財務省利権温存の姿勢はその後の安倍政権、福田政権に引き継がれた。この点は、本年の日銀人事で福田政権が最後まで財務省の天下り利権維持に執着したことにより証明されている。
今回は、市場原理至上主義について考える。
『国家の品格』(新潮新書)の著者藤原正彦氏は市場原理主義について以下のように指摘する。
「「市場原理主義」は「共生」にも似て単なる経済上の教義ではなく、経済の枠を越え、あらゆる面に影響を及ぼすイデオロギーである。人間の情緒とか幸福より、効率を至上とする論理と合理を最重視する点で論理合理と言ってもよい。」(「国家の堕落」『文藝春秋』2007年1月号)
竹中平蔵氏は「頑張った人が報われる社会を目指す」と主張していたが、その成功事例としてあげていたのは、たとえば堀江貴文ライブドア元社長などのような人物だった。私はこの価値観に根本的な違和感を禁じえない。
金融市場の特性を利用して、労少なく巨大な富を獲得することは、たしかにひとつの才能による収穫物であるかも知れないが、そのよう金銭的成功を政府が奨励し、成功者をたたえることをもって、「頑張った人が報われる社会」だと評価するなら、私はこの主張に賛同しない。
努力を否定する考えは毛頭ないし、頑張った人が適正に報われる社会を望ましいと思う。ここで問題になるのは、「頑張った人が報われる」と表現する事象の具体的な姿である。会社を興し、株式市場に上場し、巨大な利益を獲得することをもって「頑張った人が報われる」と捉える感性に、私は強い違和感を覚える。
世の中には「頑張っているのに報われない」人々が無数に存在する。この無数の人々に焦点を当てて、頑張ったことに応じて、相応の報酬が得られるような状況を整備するとの意味で、「頑張った人が報われる社会」を目指すのなら賛同できる。
小泉政権が市場原理至上主義に基づく経済政策を推進した下で、日本の格差問題は急激に深刻化してきた。三つの重大な問題を指摘することができる。第一は、労働市場における格差が急激に拡大し、しかも格差が固定化される傾向を強めていることだ。問題はとりわけ若年層で深刻である。
現在、15-24歳の労働者では2人に1人が非正規労働者だ。悲惨な秋葉原事件などの問題が多発している大きな背景として、若年労働市場の厳しい現状が指摘されている。格差拡大、格差固定化傾向の強まりは、人々の精神的充足感に重大な影を落とし始めている。同一労働・同一賃金制度の導入などの抜本的な対応が求められている。
第二の問題は、教育の問題だ。市場メカニズムを尊重し、結果における格差を容認するための重要な前提条件は、「機会の平等」が確保されることだ。「機会の平等」を考える際に、最も重要なのが教育を受ける機会の保障だと思う。ところが、日本は教育への取り組みが貧困である。
日本政府の教育支出の対GDP比は、高等教育で0.6%とOECD加盟国30カ国のなかで、韓国と並び最下位だ。高等教育に要する費用のなかの家計負担率は、60.3%とOECD加盟国で第1位である。
能力があり、夢があり、意欲もあるのに経済的理由で高等教育を受けることができない状況の解消に政府は力を注ぐべきだと思う。小泉政権以来の政権は財政収支改善のために教育関係支出をさらに削減しようとしているが、逆行した行動と言わざるを得ない。
第三の問題は、市場原理至上主義と財政再建の重要性が喧伝されるなかで、社会的、経済的弱者に対する支出が冷酷に切り込まれてきたことだ。小泉政権の登場以降、日本の政治思潮は従来の「ケインズ的経済政策と市民的自由」の組み合わせから「ハイエク的経済政策と治安管理を重視する政治体制」の組み合わせに大きく旋回してきたと指摘される。
「頑張った人が報われる社会」との偽装されたスローガンの下に「市場原理至上主義」が日本を覆い尽くしてきたように感じられる。その具体的証左が障害者自立支援法、高齢者や母子世帯に対する生活保護圧縮、後期高齢者医療制度などである。「障害者自立支援法」は「自立」だけを強調し、障害者の「生存権」を脅かしている。
世界の大競争進展のなかで、市場メカニズムを活用し、日本経済全体の効率を高めることが望ましいことに異論はない。役割を終えたさまざまな経済的規制は撤廃すべきである。
しかし、政府が国民の幸福実現のために存在するとの原点を忘れてはならない。「豊かな社会」とは社会を構成する要員のなかの最も弱い部分が強固に支えられている社会だと私は考える。政府は基本的に強い者のために存在するのではなく、弱い者のために存在すると考える。
政治の対立軸の第一に弱者保護に対する基本姿勢を位置付けるべきだと思う。市場原理至上主義に賛同する国民も多数存在するだろう。どのような価値基準を持つかは個人の自由に帰属するのだから、そのような考え方を基軸に据える政治勢力が存在することは当然だろう。政権与党が市場原理至上主義を基軸に据えるなら、反対勢力は弱者の適正保護と機会の平等確保重視を基軸に据えた政策綱領を提示するべきだと思う。