うつ病と無差別通り魔殺人の深淵
「厚生労働省元事務次官テロに続いて、全てのフリーターはテロに向かって激走する」、
http://alternativereport1.seesaa.net/article/110375514.html
「現在の金融恐慌に対する処方箋」より続く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/112303086.html
書物短評 : キャスリーン・コーエン 「死と墓のイコノロジー」 平凡社
14C~16Cのヨーロッパの墓には、死者の肉体が腐敗しガイコツになって行く、無気味な彫刻=「トランジ像」が彫り込まれている。
フランスのルイ12世等の国王の墓石に、なぜ、このような不気味な彫刻が行なわれたのか。
当時のヨーロッパ人達は、国王の墓に、そのような彫刻を行う事は「失礼、無礼」とは思わなかったのである。「人間は、いつか死ぬ存在であり、どれ程、権力と富を持っていても、最後は死に、醜いガイコツになる」。国王=権力者も、その家族も、このように自分たちの富と権力を「内心、嘲笑していた」。社会全体も、富と権力を、そのように考えていた。従って王族、社会全体が、このような彫刻を墓に行う事を「是」と考えていた。
中世ヨーロッパでは、王権は世襲され、「富と権力は一時的なもの」という考えは形式のみであり、実態的には、王族の世襲で富と権力は永続して行った。
しかし古代にまで遡ると、王は「定期的に皆にリンチ殺人」される事が義務となっている社会が散在する。権力の永続化が、こうして阻止され、王は殺され、神の下に行く事で、その「偉人性」を完結させる。王が余りに善人で誰も殺そうとしなければ、王は自分から自殺し、その役割を完結させる。
社会全体のシステムが、「この世の富と権力は一時的なもの」と語っていた。
社会のシステムの中に「死」が、明確に組み込まれていた。
そこでは、人間は、現世に執着しないため、現世の「利便性」は追及されない。
科学技術によって生活の利便性を高めようとは考えない。
近代社会に入り、「この世の富と権力は一時的なもの」という考えが失われ、現世への執着が強くなる事によって、科学技術は発達した。
人間が「死すべき生き物である」という自覚を無くした時から、科学技術の発達が始まった。
近代社会は「死の無自覚」から始まった。未開の古代・中世社会の「無知」から脱出し、知識と文明の近代が始まったのでは全く無い。
古代・中世の「死の自覚」の知識を、失い、忘却し、「無知の暗闇に落ち込む事」によってこそ、現代社会は始まった。
王の死、家族の死、知人の死、自分の少年時代の終わり=死、青年時代の終わり=死を示す社会的儀式・システムにより、日常生活に「死の自覚」が織り込まれている社会。そこでは死の自覚の度に、富と権力は否定され、批判され、富者=権力者が貧者・民衆を支配し、暴力を加え、侮辱する事への強烈なタブー=禁止が、社会全体に焼き付けられる(注1)。
この死の儀式の間、人間は、富者・貧者といった社会秩序から解き放たれ、自由になり、そこで「擬似的に死を体験し、その中で生と死、社会、自分の人生の意味」について沈思黙考、再考する。
このシステム・儀式は、近代社会では失われた。
そこでは、富者・貧者といった社会秩序から解き放たれ、自由になり、「擬似的に、あるいは本当に死を体験し、その中で生と死、社会、自分の人生の意味」について沈思黙考、再考しようとする「闇に向かう強烈な力」、デモーニッシュな力が、社会システムに認知されない「非合法で破壊的な暴力性を持って」、人間個々人を捕らえる。ウツ病、引きこもり、自殺、無差別通り魔殺人である。
近代社会が古代・中世に置き忘れてきた知識、現代社会の無知によって、今、社会は「復讐を受けている」。
注1・・・数十兆円の貯蓄を持ちながら、わずか数百億円の「コストカット」のために派遣サラリーマンを解雇する、数百万円の貯金がありながら、わずか3万円のために多くの人間を失職させ路上生活へと「放り出す」現代の日本企業と、それを合法化した日本政府の「派遣業法」が、こうした「人間存在そのものへの侮辱」を典型的に示している。
参考文献
フィリップ・アリエス 「死と歴史」 みすず書房
同 「死を前にした人間」 みすず書房
同 「図説 死の文化史」 日本エディタースクール出版部
エルンスト・カントーロヴィッチ 「王の二つの身体」 上下 ちくま書房
ピエール・クラストル 「国家に抗する社会」 水声社