ダマスカス留学生有志による情報ブログ

ダマスカス留学生有志とそのOBがアラビア語やイスラームについての情報をお送りします。

ムスリムになるには・・・

2014年12月31日 | ムスリムになるって?(入信体験記)


転載:駐車場で、シャハーダ(入信告白)。※
モスクでやらなければいけないわけではありません。シャハーダしたいと思った時がシャハーダの時。


※シャハーダ:ムスリムになるのは簡単で、「アシュハド アッラー イラーハ イッラッラー  ワ アシュハド アンナ ムハンマダン ラスールッラー」と言えばそれだけで十分です。(日本語:「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドがアッラーの使徒であることを私は証言します」)

難しい儀式や洗礼などは何も必要ありません。

イスラームでは、人は産まれながらにムスリム(神を知っている存在)であり、シャハーダは本来の人間の天性に戻るだけだと言います。だから、「ムスリムになる」のではなく、自分が「ムスリムであることを思い出す」のです。


イスラームは私の人生をどのように変えたか ①

2010年03月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)

アーミナ・アッスィルミさんはアメリカ人の白人女性で、オクラホマ州南部バプテスト教会の熱心なクリスチャンかつ急進的なフェミニストでした。
大学時代、アラブ人同級生をキリスト教に改宗させたい一心でクルアーン(コーラン)やサヒーフ・ムスリム、その他イスラームに関する本を15冊読み、結果として、ご自身がイスラームに改宗するに至りました。
下記は、彼女による入信記です。

第一章 決心

私が初めてムスリムに出会ったのは、大学でレクリエーション学の学位を取得しようとしているときでした。
その年は、ちょうどコンピュータで事前に履修登録ができるようになった最初の年で、私は事前に次学期の科目登録を済ませ、家族の仕事の関係でオクラホマ州へ出掛けました。
ところが、思ったより仕事が長引いたので、2週間遅れで大学に戻りました。
私は当初、出遅れた分を取り戻すのに、さほど不安を感じていませんでした。
専門科目ではクラスで常にトップの成績を修めていたし、学生でありながら、専門家を交えたコンテストで賞を獲得したこともあったからです。

多くの友人に囲まれて、大学では成績優秀、さらに自分のビジネスを運営・・・となれば、皆さんは、当時の私が文句なしの経歴を持っていたように思われるかも知れません。
しかし、実のところ、私は極端な引っ込み思案でもありました。当時の成績証明書にも「非常に無口である」と書かれています。人と仲良くなるのにとても時間がかかりました。相手がすでに知っている人か、必要を要しない限り、自分から人に話しかけるということも稀でした。
当時の私の履修科目は、どれも管理学や都市計画、児童対象のプログラム作成に関するものばかりで、私にとって、子供たちだけが心から寛げる話し相手でした。

本題に戻りますが、プリントアウトした事前登録科目を見て、私は目を丸くしました。
なんと私は、演劇科目にも登録されていたのです。
つまり、実際の観衆の前で、何かを演じることが要求される科目です。私は萎縮してしまいました。クラスで質問すらしたことのない私が、どうやって人前で舞台に上がることができるというのでしょう?
私の夫は、いつものように冷静で賢明な判断をしてくれました。そして、「先生に事情を説明して、背景画を描いたり、衣装の縫製をする係に回してもらったら?」と、アドバイスしてくれました。

先生が、私にできる参加の仕方を考慮することに同意して下さったので、翌週の火曜日、私はクラスに出席しました。
さて、教室に一歩入ったところで、私は再びショックを受けてしまいました。
教室は「アラブ人」と「ラクダ乗り」でいっぱいだったからです!といっても、そうした名で呼ばれる彼らのことを実際に目にしたことはなく、単に話を聞いたことがあっただけですが・・・。
こんな薄汚い未開人だらけの教室に座れるわけないじゃない?!こんなところにいたら、何か悪い病気をもらってしまいそう!彼らが汚いってことは、みんなよく知っているし、まして信用なんてできっこない!
私はそそくさと教室のドアを閉めて、帰宅してしまいました。
(その頃の私は、ワイングラスを片手に、ぴったりした革ズボンにホルターネックといういでたちでした。にもかかわらず、彼らのことを「悪い奴ら」だと思っていたのです。)

私は夫に、クラスにいたアラブ人の話をし、あんなところにまた戻るつもりはないということを打ち明けましたが、夫はいつものように落ち着いて、こう話してくれました。
「君はいつも、こう言っていたじゃないか。何事にも理由がある。神様は理由なしには何事もなされない御方だ、って。」
私は、このクラスについて、最終決断を下す前にもう少し時間をかけて考えてみる必要があると思いました。
夫は、私が奨学金を受けていること、今後も交付を受けるには今の成績を維持しなければならないことを指摘しました。実際、この科目を落とすことは、奨学金を断念することを意味していました。
その日から2日間、私は導きを求めて祈りました。そして木曜日、「神様は、あのかわいそうで無知な未開人を地獄の炎から守るために、私をクラスに送られたに違いない」と確信して、クラスに戻りました。

私は事あるごとに、イエスを個人的な救世主として受け入れなければ、地獄で永遠にどんな風に焼かれることになるか・・・といったことを彼らに話して回りました。
彼らはとても紳士的に対応してくれましたが、改宗はしませんでした。
そこで私は、イエスさまがどれほど彼らを愛しておられるか、そして、彼らをその罪から救うために十字架にかかって死んでくださったことを説明しました。
とにかく、イエスを彼らの心に受け入れさえすればいいのだ、と。それでも、彼らは紳士的に対応するものの、改宗はしてくれませんでした。

それで、私は、彼らの聖典を読み、イスラームが偽物の宗教であること、ムハンマドが偽物の神様であることを証明してみせようと決心しました。
クラスメイトの一人が、イスラームに関する本とクルアーンをくれたので、早速、それを読み調べ始めました。
必要な証拠はすぐ見つかるだろうと確信していたのですが、クルアーンを完読し、もう一冊の本も読み終え・・・、他にも15冊の本とサヒーフ・ムスリムを読み、その後、再びクルアーンを読み始めました。
「きっと、彼らをキリスト教に改宗させてみせる!」そう決心していた私は、その後1年半に渡って、調べものに明け暮れていました。

そうこうしているうちに、私は夫との間に幾つか問題を抱え始めました。私に、少しずつ変化が現れていたのです。ほんの少しずつでしたが、夫の気分を害するには十分でした。
私たちは、毎週、金・土曜日には、よく一緒に飲みに出掛けたり、パーティに出席していました。でも、もはや、そうした場に出掛けたいとは思わなくなっていたのです。
私はより物静かになり、夫は私との間に距離を感じるようになりました。
夫は、私が浮気していると確信し、私を家から追い出しました。私は子どもたちと一緒にアパートを借り、その後も、ムスリムたちをキリスト教に改宗させるために必死に努力をしました。

そんなある日、誰かが私のアパートのドアをノックする音が聞こえました。
ドアを開けると、長くて白いナイトガウンを着、紅白のチェックのテーブルクロスを被った男性が立っていました。他にも、寝巻きのようなものを着た男性が3人立っていました。(彼らの伝統的な民族衣装を目にしたのは、その時が初めてだったのです。)
寝巻きを着て私の家の前に立っている男たちには、本当に腹が立ちました。
私のことを一体どんな女だと思ってるの???あなた達には誇りや尊厳というものがないの???

私の受けたショックを想像してみてください。テーブルクロスを被った男性に「あなたがムスリムになりたいということを知っています」と言われたときのことを!
すぐに私は、ムスリムになりたいなどと思ってはいないことを伝えました。私はクリスチャンだったのですから・・・。
でも、もし少し彼に時間があるなら、幾つか質問したいこともありました。
彼の名前はアブドゥ・ル=アジーズアル=シェイフといい、私のために時間を割いてくれました。彼は私の抱いている疑問に一つ一つ答えて、忍耐強く説明してくれました。
私が質問する内容をバカにすることは決してありませんでした。

私は彼に「神さまは唯一の御方であることを信じているか」と聞かれ、「ええ」と答えました。そして、また、「ムハンマドは神の使徒であることを信じているか」と聞かれ、「ええ」と答えました。
すると、なんと、私はすでにムスリムであると言うではないですか!私はクリスチャンであることを主張し、イスラームのことは単に理解したいだけなのだ、と言い張りました。
(と同時に、内面ではこんな思いが駆け巡りました。自分がムスリムになんて、なれるわけがない!私はアメリカ人で白人なんだから!夫になんて言われると思う?もし私がムスリムだったら、夫と離婚しなきゃならないじゃない!家族を失ってしまうじゃないの!)

私たちは話し続けました。そして、彼は、こう言いました。
「知識を得、精神性を理解するということは、はしごをのぼるようなものです。はしごをのぼるとき、数段またいで一気にのぼろうとすれば、落下する危険があります。シャハーダ(入信告白)は、はしごの最初の一段にすぎないのです」、と。
私たちは、まだしばらく話す必要がありました。

そして、その日の午後、1977年5月21日アスルの時刻に、私はシャハーダ(入信告白)をしました。
それでも、私はまだイスラームの教えについて納得の行かないことが幾つかあり、自分の気質から、完全に真実だと認めることができるまでは、これらのことについてまだ責任を負う気がないことを表明しました。
私は、「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」ことを証言しましたが、「それでも、決して髪の毛を覆ったりなんかしないし、夫が他の妻を娶ろうものなら、去勢してやる!」と言ったのです。
同伴していた男性の間から「はぁ・・・」というため息が洩れるのが聞こえましたが、アブドゥ・ル=アジーズは彼らを制しました。
あとで聞いたところによると、アブドゥ・ル=アジーズは、そのとき、「彼女の言ったこと(スカーフと一夫多妻のこと)については、彼女と決して議論しないように。いつか、必ず正しい理解にたどり着く日が来るだろうから。」と彼らに話していたそうです。

実際、シャハーダは、神さまへ近づくための、精神的な知識への第一歩となりました。
しかし、はしごの一段一段をのぼっていくのに、その後、非常に長い時間がかかりました。アブドゥ・ル=アジーズは、その後も私のもとを訪れ、私の質問に答えてくれました。アッラーが彼の忍耐強さと寛容深さに報いてくださいますように・・・。
彼は私が質問することをたしなめたり、バカにしたりすることは決してありませんでした。一つ一つの質問を尊厳をもって受け止めてくれただけでなく、「愚かな質問とは、尋ねられなかった質問だけです」とさえ話していました。
ううん・・・、これは、まさに、私の祖母がかつて言っていた言葉です。

彼はこう説明していました。「アッラーは私達に、知識を求めるように、とおっしゃいました。そして、疑問を抱くことこそが、その知識に至る道なのです。」
彼が何かを説明するとき、それはまるで、バラの花びらが一枚一枚開き、咲いてゆくさまを見るようなものでした。花が満開になり、アッラーの栄光が満ちあふれるまで・・・。
私がイスラームについて、どうしても納得できないことがあるとき、その理由を彼に告げると、彼はいつもこう言ったものでした。
「あなたの視点から、あなたの言ったことは正しい。」
そして、彼は、その事柄をもっと別の角度から深く掘り下げてながめる術を教え、十分な理解へと導いてくれることが常でした。

アルハムドリッラー・・・。 その後、何年にも渡って、私はたくさんの先生に出会いました。お一人お一人の先生が特別で異なる存在であり、お一人お一人を通して私は成長し、イスラームをもっともっと愛するようになりました。
知識を分け与えてくださった先生方に心から感謝しています。
知識が増すにつれ、私の身に起こっていた変化はますます顕著になってゆきました。

まず、シャハーダした最初の年に、私はヒジャーブを被るようになっていました。
いつ被り始めたのか、よく覚えていません・・・。知識と理解が増すにつれて、自然にそうなったのです。
また、そのうち、私は一夫多妻までも認めるようになっていました。アッラーが許されていることならば、そこには何か良いことが含まれているに違いないと思ったからです。

私が初めてイスラームを学び始めたとき、自分の私生活に必要なものや欲しいものをイスラームの中に見出すことになろうとは、予想もしていませんでした。ましてや、イスラームが私の人生を変えることになろうとは。
そして、私がイスラームゆえに平安と愛と喜びに包まれた人生を送ることになろうとは・・・。
どんな人間にも、私にそんな変化が訪れることを説得することなどできなかったでしょう。

この聖典(クルアーン)は、唯一なる神さま、宇宙の創造主の語られた言葉です。
アッラーが世界を美しく体系づけられたさまを描写したものです。
この驚くべきクルアーンの中に、すべての答えはあります。
クルアーンは、存在するあらゆる物事に言及し、成功への確かな道すじを示してくれます。クルアーンには、赦しの地図が描かれています。
クルアーンは、人生のマニュアルそのものです。
アッラーこそが愛し給う御方、アッラーこそが平安の源である御方、アッラーこそが護られる御方、アッラーこそが赦される御方、アッラーこそが与え給う御方、アッラーこそが維持し給う御方、アッラーこそが慈悲深き御方、アッラーこそが全てのことに責任を持たれる御方、アッラーこそが広げられる御方なのです。

「第二章 イスラームは私の人生をどのように変えたか」へ続く

 

関連記事:

イスラミックソング Harris J - Salam Alaikum

イスラームのここがわからん、Q&A ①   イスラームでは、天国は母親の足元に

世界遺産 ボスラ(ブスラ Busra)     ダマスカス旧市街を紹介するFacebook 

もっとイスラームを知りたい!       イスラームについての無料冊子がほしい

イスラームは私の人生をどのように変えたか ① 


イスラームは私の人生をどのように変えたか ②

2010年03月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)

第二章 イスラームは私の人生をどのように変えたか

「私たちは光をどれほど愛することでしょう・・・。かつて暗やみに住んでいたならば。」
私が初めてイスラームに入信したとき、それがどれほど私の人生に影響を及ぼすことになるか、思いも寄りませんでした。イスラームは、私自身の人生に影響を及ぼしただけでなく、私を取り巻く環境そのものもすべて変えてしまいました。

家族生活
私たち夫婦は、互いをとても深く愛し合っていました。この愛情は、今でも互いの心の中に存在しています。それでも、私がイスラームを学び始めた頃、私たちは問題を抱えるようになりました。
夫は私が変わっていくのを見、何が起っているのか理解できずにいました。私自身も理解できずにいました、というより、自分が変わって行っていることにさえ気づいていませんでした。 夫には、私がこのように変わっていくのは他の男がいるからに違いない、としか考えられなかったようです。自分で気づいていない以上、私は、夫に自分のことを理解させる術をもち合わせていませんでした。

のちに自分がムスリムであると気づいた時も、それは状況を改善する助けにはなりませんでした。夫には、女性が宗教という人生の根本的なものを変えてしまう理由として、他の男性の存在しか考えられなかったのです。
彼は他に男性が存在する証拠を見つけられませんでした。しかし、この男性は存在しなければなりませんでした。
結局、私たちの関係は、非常に見苦しい経過をたどって離婚に終わりました。離婚裁判では、異端の宗教(イスラーム)が子供たちの成長に悪影響を及ぼすとして、私から親権を取り上げる判決が下りました。

離婚裁判中、一度、私に選択の機会が与えられたことがありました。
イスラームを放棄し子供を取るか、子供を放棄しイスラームを取るか。
私は打ちのめされました。私にとって、これはいずれも不可能な選択肢だったからです。
もし私がイスラームを放棄すれば、私は子どもたちに欺(あざむ)くことを教えることになる・・・。私は、心の中にあるものを否定することができませんでした。私にはアッラーを否定することはできませんでした。その時だけではなく、永遠に・・・。

私は、以前まるで祈ったことがなかったかのように必死に祈りました。
30分の選択猶予時間が過ぎたとき、私は悟りました。
私の子どもたちにとって、アッラーの御手の中より安全な場所はどこにもない、ということを。
もし今私がアッラーを否定すれば、将来、私の子供たちに、アッラーと共に生きることの素晴らしさを伝える術を失ってしまう。
私は裁判で、子供たちをアッラーの御手に委ねるという意思表明をしました。これは、子供たちを拒絶することではないのだ、と。

裁判所から退出する時、子供たちのいない人生がどれほど困難なものになるか、ということを私は知っていました。
心の中で、いかに自分は正しいことをしたのだと分かっていても、心は粉々に打ち砕かれていました。
私はアーヤト・ル=クルシーに慰めを見出しました。
また、アッラーのご性質(美名)を一つ一つ味わうようになり、いずれのお名前にも美しさを発見しました。

私の直面した問題は、離婚と親権の喪失だけではありませんでした。
私の他の家族も、私の選択を快くは思っていませんでした。
彼らのほとんどが、私とあらゆる関係を持つことを拒絶しました。

母は、私が一時的にこうなっているだけだと思い、そのうちこの状態から抜け出すだろうと思いました。
「精神保健の専門家」である妹は、単に私の気が触れてしまったのだと思い、精神病院に入院させるべきだと主張しました。
父は、私が地獄の奥底に落ちる前に、いっそのこと私のことを殺してしまったほうがいい、と思っていました。
あっと言う間に、私は、夫も家族も失ってしまったのです。
次には、一体何が待ち受けているというのでしょうか?

友人関係
私がムスリムになった最初の一年のうちに、ほとんどの友人が私のもとを去ってゆきました。
一緒にいても、面白くなかったからです。パーティにも飲みにも行かない、恋人探しにも興味がない。
私のすることといえば、馬鹿げた本(クルアーン)を読んで、イスラームの話をすることばかり。なんて退屈なんでしょう!
イスラームがなぜこんなにも美しいのか、当時の私にはまだ、友人たちの理解を助けられるほどの知識がありませんでした。

仕事
次は仕事でした。専門分野でよい成績を修めた私は、高給取りのトレンドセッター(流行を生み出す人のこと)として位置づけられていました。
しかし、ヒジャーブを着け始めたその日が、その仕事の終わりを意味しました。
私は、家族を失い、友人を失い、そして仕事を失ったのです。

こうしたすべての事態の中で、最初の光は、私の祖母でした。
なんと彼女は、私の選択を認めてくれただけでなく、ムスリムになったのです。
何という驚きでしょう!私はいつも、彼女のことを知恵に富んだ女性だと思っていました。でも、ムスリムになるとは!その後、間もなく、彼女は亡くなりました。

そのことを思うと、ふと、私は彼女のことが羨ましくなります。
彼女がシャハーダを唱えた日、彼女のすべての過ちは取り除かれ、善い行いはそのまま書き留められました。彼女はイスラームを受け入れたあと、すぐに亡くなったので、彼女の「本」は、善行のほうにはるかに秤が傾いているに違いありません。
そのことを思うと、私は喜びでいっぱいになります。

知識が深まるにつれ、人々からの質問に対して、より的を得た回答ができるようになり、多くのことが変わっていきました。
でもそれは、私の人となりの中に現れた変化で、それが徐々に、周囲の人々に対して大きな説得力を発揮するようになりました。

数年後、公でイスラームの話をしたとき、母から電話がありました。「イスラームがどんなものかは分からないけれど、あなたがイスラームといつも共にあることを願っているわ」と彼女は言いました。
母は、イスラームが私にもたらした変化を好意的に受け止めていたのです。
それから数年後、母はまた電話をかけてきて、「ムスリムになるにはどうしたらいいの?」と尋ねました。
私は彼女に「アッラーの他に神はないことを知ることと、ムハンマドがアッラーの使徒であることを知ることです」と答えました。
すると母は「そんなことは、どんなバカでも知ってるわ。でも、具体的に何をしなくちゃならないの?」と尋ねました。
私はただ同じ答えを繰り返すだけでした。
母は「そうなの、分かったわ。でも、お継父さんにはまだ内緒にしててね。」と言いました。
母は、私と継父が数週間前に、すでに同じような会話を交わしていたことを知らなかったのです。
私の生父(私のことを殺すべきだといった父)とも、こうした会話を2ヶ月前に交わしていました。
そして、私の妹(精神保健の妹)も、彼女の知っている人たちの中で、私が一番自由で柔軟な考え方をしている人だと言いました。今まで、あの彼女の口から出た言葉の中で、最高の褒め言葉でした!

一人一人がどんな風にイスラームを受け入れたか、という説明を試みるよりも、とにかく、毎年、私の親族からイスラームを見出す人たちが続出したということを述べさせてください。
格別に嬉しかったのは、親友であるカイセル・イマーム兄が、前夫がシャハーダをしたと伝えてくれた時でした。カイセル兄が彼に理由を尋ねると、前夫はこう言ったそうです。
「前妻を16年間見続けてきて、自分の娘にも母親の持つものを持ってほしいと思ったから。」
彼は私のところにも来て「自分のこれまでの過ちを赦してほしい」と言いました。
私は、彼のことを、ずっと前にすでに赦していました。

さて、今度は私の長男ウィットニーです。私がこの文章を書いている間に、電話をしてきて、「ムスリムになりたい」と宣言しました。数週間内にISNAConventionでシャハーダをする予定だそうです。今のところ、彼はできる限りイスラームについて学んでいるところです。
アッラーはもっとも慈悲深いお方です。

何年にも渡って、私はイスラームの語り手として知られ、聴衆の多くがムスリムになることを選びました。
私の内なる平和は、アッラーからの知識と叡智への信頼とともに増し続けました。
アッラーは私の創造主であられるだけでなく、わたしのもっとも親愛なる友です。
アッラーはいつも共に居ておられ、決して私を拒絶されることがありません。
私がアッラーに向かって一歩あゆむごとに、アッラーは私に十歩あゆみよって下さいます。なんと素晴らしい知識でしょうか。
本当に、アッラーは私に試練を与え、約束されたとおりに、私が望むことができたことをはるかに上回った報奨を与えて下さいました。

数年前、私は医師に末期がんであることを伝えられました。
がんはすでに進んでおり、治療法はないとのことでした。今後、どのような経過をたどっていくのか、ということを説明しつつ、私が死に備えられるよう支援してくれました。
余命約1年とのことでした。
私は子どもたち、特に一番下の子のことが気がかりでした。誰が彼の面倒を見てくれるのか。
それでも、私は落ち込んではいません。
私たちはみな死ななければならないのです。
私の味わっている痛みは、祝福をも含んでいると確信しています。

よき友、カリーム・アル=ミサウィのことを思い出しました。
彼はまだ20代の頃、がんで亡くなりました。
彼が亡くなる直前、彼は私に「アッラーは本当に慈悲深い御方だ」と言っていました。
この男性は、信じ難いほど激しい苦痛の中にありながら、アッラーからの愛を放っていました。「アッラーは、僕がきれいな本を携えて天国に入ることを望んでおられるんだ。」
彼の死は、私にあることを教えてくれました。彼は私にアッラーの愛と慈悲を教えてくれたのです。これは、まだ誰も論じたことのないものです。
アッラーの愛!
アッラーの祝福に気づくのに長くはかかりませんでした。

私を愛する友人が、どこからともなく現れてきました。
アッラーは、友と抱擁しあうという贈り物を与えて下さいました。
さらに私は、皆と真実のイスラームについて分かち合うことが、私にとってどんなに大切なことであるか、ということを学びました。
ムスリムか否かを問わず、人々が私に同意してくれるか、私のことを好いてくれるか、といったことは問題ではありませんでした。
私が同意を必要としたのも、愛を必要としたのも、ただアッラーお一人からでした。
それでも、特にこれといった理由もなく、私のことを愛してくれる人たちがたくさんいました。
私は、「もしアッラーがあなたを愛して下さったら、アッラーは、人々があなたを愛するようにしてくださるでしょう」という文を読んだことを思い出し、喜びました。
私はどんな愛にも値する存在ではありません。
ということは、人々からの愛はアッラーからの贈り物に違いありません。
アッラーフアクバル!(アッラーは偉大なリ)

私の人生がどのように変わったかということを、完全に説明し尽くすことはできません。
アルハムドリッラー。(すべての賞賛はアッラーに。)
私は自分がムスリムであるということをとても嬉しく思います。
イスラームは私の人生そのものです。
イスラームは私の心臓の鼓動です。
イスラームは私の血管を流れる血液です。
イスラームは私の強さです。
なんと素晴らしく、美しいことでしょう。
イスラームがなければ私は無に等しく、アッラーはその高貴な御顔を私から背けられ、私は生きることができなかったでしょう。

≪アッラーよ、私の心に光を、私の目に光を、私の耳(感覚)に光を、私の右に光を、私の左に光を、私の上に光を、私の下に光を、私の前に光を、私の後ろに光を、私に光を与えて下さい。≫(ハディース アル=ブハーリー)

≪アッラーよ、私のすべての行為とあなたが私よりよくご存知のことにおいて、私の罪と無知と過ぎた行いをお赦しください。アッラーよ、私が意図して行った、意図せず行った、無知により行った私の過ちを赦して下さい。これらのすべての罪は、私のなした行為であることを告白します。アッラーよ、私が過去と未来において、表立って、あるいは、隠れて犯した罪を赦して下さい。あなたこそ、物事を早め、また遅らせる御方、あなたこそ全能者であらせられます。≫(ハディース アル=ブハーリー)

アーミナ・アッスィルミさん(65歳)は、は病を抱えておられましたが、国内外で講演会を精力的に行っていらっしゃいました。彼女の上にアッラーのご慈悲がありますように。

引用元の記事:日本語訳:日本ムスリム協会

1)http://www.whyislam.org/spiritual-journeys/aminah-assilmi/

 

関連記事:

イスラームって?(初級)   イスラーム講座(上級)   ムスリムになりました(入信記、体験記)

イスラミックソング Harris J - Salam Alaikum

イスラームのここがわからん、Q&A ①   イスラームでは、天国は母親の足元に

世界遺産 ボスラ(ブスラ Busra)     ダマスカス旧市街を紹介するFacebook 


第二回イスラームコンクール作文の部入賞作品発表(入信記)

2006年09月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)
 私の入信記   マナーヒルさん 

『アッラーは唯一神であり、ムハンマドは使徒である。』
主人との結婚の日、私はこの言葉を言い、イスラーム教徒になった。それ以前に、私はイスラームに惹かれる事はあった。

たまたま仕事で京王線方面に乗ることがあり、その際、電車の窓から代々木上原のモスクの屋根が見えた。私は興味本位で『あー、帰りにあそこ寄ってみよう。』と思い、夕方にフラフラと立ち寄ってみた。そこには今まで見たことのない装飾と、美しいアラビア文字と、そしてすごく美しい静寂な空気があり、私はそこで何だかすごく気分が良くなる気がした。そして何だかもっとイスラームを見たくなり、その後金曜日の昼間に、集団礼拝を見学した。そこには本当に美しい景色があった。私の心に衝撃のように響くアザーン、男性も女性も同じ方向を向いて頭を下げ、唯一神アッラーに向かって祈っている。
私だけかもしれないが、皆がサジダをしている時、本当にその先に光があり、神がいるように見えた。
それまでは私もイスラームについてあまりよく知らず、毎日祈ってばかりで、酒も飲めず、豚肉を食べれず、女性には権利はなく、という偏見的なイメージばかり持っていたが、その時に、イスラームはそれだけでなく、きっといい部分もあるのではないか、と思うようになった。もしかしたらアッラーはその頃から私を導いてくださっていたのかもしれない。その後、パキスタン人の男性と知り合い、結婚に至った。
それが現在の夫である。
ムスリマになって初めの頃は、夫が『勉強しに行け、勉強しに行け』としつこく言うので、モスクや勉強会に足を運ぶようにしていた。夫が言うからなー、という何ともやる気のない動機で足を運んでいたが、勉強すればするだけ、その知識の正しさ、何を求めてどう行動すれば良いのか、どうやって生きていけばいいのか、という答えを教えてくださる。
それは時にすごく勉強になり、時に怠惰になっている自分を叱咤し、時にはもっともっと善行しよう、と思わせてくれる。
今では自ら通うようになり、そしてアッラーは私の生活の中で欠かせない存在となっている。
一日に五回の礼拝や、ヒジャーブ、善いことがあった時、悪いことがあった時もアッラーと、彼からの恩恵を思うようにしている。

アッラーを思うようになってから、私はいちいちくよくよしなくなった。
全ての事柄はアッラーから与えられた運命であり、また全ての力もアッラーがお持ちである為、アッラーが私にふさわしいと思う運命や力を授けてくださるから、私たちは己の最善を尽くし、後はアッラーにお任せすればいいんだ、と思うようになった。
そして最期の審判の日、アッラーに受け入れられるように現世を生きていこうと思っている。
私は信じている、私がまだイスラームでない時に見た集団礼拝の時の光で、アッラーは私を導いてくださる、と。

第二回イスラームコンクール作文の部入賞作品発表(入信記)

2006年09月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)

 私の入信記  イブラーヒームさん 

 アッサラームアライクム。イスラームを受け入れて3年。何事にも熱しやすく冷めやすい自分自身、よく続いたものだとおもっている。
入信する以前も、入信後も、一見偶然とも思える出来事や出会いがあり、様々な試練や葛藤も今となっては全てアッラーの導きだったのではないかとつくづく思う。
私は1976年(ヒジュラ歴1396年)名古屋に生まれた。今は亡き祖母は熱心な仏教徒で神社仏閣に参拝したり坐禅や写経を行っていた。私はカトリック系の幼稚園に通い、宗教が身近にあり、そうした環境が後にイスラームを受け入れる素地になったのかも知れない。
しかし、小学生頃から自然科学に傾倒し、まだ幼かった私は子供心にも自然科学が全てで絶対的な真理であると思うようになって、それに合わないものや、科学的に説明できないものを否定するようになっていった。偶像崇拝・多神崇拝への堕落の
始まりであった。

 最初にイスラームを知ったのは中学校の地理の授業であった。
当時の私の目で教科書を見る限りでは、前近代的で戒律だらけ、迷信に満ちた宗教という先入観を持ち、その直後に湾岸戦争が始まった事もあって偏見を持っていた。当時の私の知識や価値基準ではイスラーム法統治と軍事独裁政権の区別さえつかず、無理もなかったかも知れない。

 そうして高校生になった。元々歴史は好きだったので漫画や本を読んでいた。イスラーム史も、荒探しをするつもりで本を読んだ。偏見というのは言い換えれば関心があるということでもある。今から思えばこれがアッラーの、私のイスラームへの導きの始まりではなかったのではないか。読んでみるとイスラームの教えは古き良き時代の日本人の美徳に通じるものであるばかりか、無知であったアラビアの民が巨大な文明圏をほぼゼロから作る原動力にもなっていたという事実に驚く。しかもそれは世界史上まれにみる奇跡で、それなしには近代文明もありえなかった。
我々は間接的にイスラームの恩恵にあずかっているのだ。
 しかし何故、現代のイスラーム世界は混迷を極めているのだろうか?これほど素晴らしい文明はどうして西洋に遅れをとってしまっているのか?これらの疑問が解けるのはそれから10年以上も後、イスラームに入信するまで待たなければなら
なかった。

 そして最初のムスリムとの出会いがあった。家族でヨーロッパに旅行した時、列車の中で出会ったアラブ系ムスリムから非常に親切にされて感銘を受けたのであった。
 後に私は理工系の大学に進むが、入ってみると全く性に合わず、単位は落とすわ、人間関係はこじれるわ、ひどい目にあった。そうして初めて人生の意味を考えるようになっていった。何故こんなにひどい目にあうのか?こんな重苦しい、それでいて焦燥にかられる毎日をなぜ生きなければならないのか?いっその
こと死んでしまいたい。死んだらどうなるのだろうか?と自問自答しながら思い悩む毎日であった。

 そして、ここでまたアッラーの導きがあった。人生で最初の『師』との出会いだった。クリスチャンでもある一般教養の先生であり、私は藁にもすがる思いでよく研究室に行き、悩みを打ち明けていた。彼との出会いなしに今のムスリムとしての私はありえない。私の悩みを真剣に聞いてくれ、人間は誰でも神から役割
を与えられている事を教えられた。神の存在を少しは信じ始めた。
『自分にできることは何か?』そう考えた私は授業にも出ずに図書館に入り浸って様々な本を読み、旅に出て色々なものを見た。そうして思い切って大学を辞め、農業者を志した。
 もう一つ私の求めているものがあった。師との出会いによって神の実在を実感したいという思いが強まり、様々な宗教書を読んで自分が最も納得のいく宗教を消去法で探していった。どれも優れた教えだったが、キリスト教は原罪とイエスによる贖罪、父と子と聖霊の三位一体がどうしても腑に落ちず、ヒンドゥー教はカースト制のため入れない。仏教は修行が厳しく、また、出家までする気はなかった。俗人でありたかったのだ。そしてイスラーム。1400年前に下された啓示がそのまま現代でも聖典として使われ、神の唯一性と信徒の平等性は聖職者や教団組織の不在、人種や民族の差なく全て兄弟のように一体感をもつこと。これほど建前と現実が一致している宗教はただ一つ、イスラーム以外にはありえない!
 
しかしまだまだ道のりは遠かった。周囲にムスリムの知人はおらず、日本にマスジドがあることすら知らなかった。それに、断食や礼拝の義務を守るのが日本では困難な事は容易に想像がついた。
 そんな時、あるホームページの存在を知る。そこでは色々勉強でき、また、疑問に思っていた事を質問することもできた。なんと、日本にもマスジドがあるではないか。早速足を運んだものの、その独特な雰囲気に馴染めず、パキスタン人ムスリムが丁寧に応対してくれたにもかかわらず結局何も聞けなかった。
 
そして事件は起こった。忘れもしない9.11.恐ろしい悪夢だった。しかしどう考えてもこれまでに出会ったムスリムの姿と、テレビで報道される過激派の姿はあまりにもかけ離れている。その後も度々、あちこちのマスジドへ足を運んだ。それでも踏み切れず、戒律を守れないだろう自分が入って良いものかとも真剣に悩んだものである。しかし、最後の一押しをしてくれたのは意外な人物であった。
 当時の私は今では考えられないような、ビール大瓶10本を顔色も変えずに飲み干すほどの酒豪であった。そしてたまたま友達と入った居酒屋の屋台の店主がイラン系ムスリムだったのだ。なんと彼は酒を売るばかりか自分でも飲み、しかも豚骨ラーメンすら食べてしまう『とんでもない』ムスリムであった。不思議に思って聞いてみると、それでも自分はムスリムだと胸を張る姿に感銘を受けた。『それなら俺もいける』

 事前連絡もなくマスジドに行き、礼拝に来ていた人を証人に電撃シャハーダをしたのは2002年6月。その前後は胸がドキドキした。
 しかし入信したものの、礼拝の仕方すら分からない。アラビア語はイスラーム入信を考えるようになった時期から独学でアルファベットくらいは覚えていたが、クルアーンすら読めない。おまけにあいかわらず酒をあびるように飲んでいた。
 そんな時アルハムドリッラー!インドネシア人ムスリムの研修生と親しくなる。彼らの家に通い詰めて礼拝の仕方やクルアーンの手ほどきを受けた。彼らはすでに私がアルファベットを覚えていたことに驚いた様子だった。日本人は凄い!と。
最初に教えてくれた友人は今ではすでに帰国してしまっているが、私は彼らを忘れない。そうして礼拝が日常化したら自然に酒から離れる事もでき、今では礼拝の方が快感で、酒は匂いをかいだだけでも気分が悪くなってしまうほどになった。
 
しかしそれからが大変だった。家族や友人は大反対!農業の研修のために田舎に引っ越したばかりで、何せ保守的な土壌で執拗に棄教を迫られた。しかし、苦労して手にした信仰をそう簡単に捨てられるわけがない。それにタウヒードはしっかりと
私の心を捉えていた。どんなに落ちぶれてもそれを否定しない限りはムスリムだ。しかしさすがに辛くて何度も挫折しそうになった。更にニュースのテロ報道に追い討ちをかけられた。何度も辞めようと思っても気が付くと礼拝している。もうすでにイスラームは私の一部になっていた。圧力がかかればかかるほど、逆に礼拝の集中力が高まり、信仰がますます揺るぎないものになっていくのが自分でも分かった。
 
そして、大学時代の私の『師』の教え子の集まりで、今の妻と出会う。父親は私と親子ほども歳の離れた遠い先輩だったのだ。始まって結婚まで誓うようになっていた。
 そして第二の試練がやってきた。私がムスリムであることを理由に彼女の両親と教会が彼女に圧力をかけてきた。また、私のほうも彼女をムスリムに改宗させるか別れるか、外国人同胞たちから強く迫られた。
 しかし私はクリスチャンになる気は全くなかったが、無理に彼女を改宗させる事も、どうしてもできなかった。自分が苦労していたので、相手の信仰を尊重したかったのだ。途方に暮れた私はハサン中田先生に相談した。イスラーム法上、ムスリム男性とクリスチャンやユダヤ教徒の女性との結婚ができることを知り、ハサン先生のもとでニカーを行う。先生の助けがなくしては今の夫婦生活はありえない。そして、入籍するために直接彼女の両親に会って話しをした。前日まで不安でドゥアーにドゥアーを重ねた。
当日、私はイスラームはキリストの教えを貶めるものではなく、確証するために下された最後の啓示であることと、イエス・キリストを預言者として敬意を払っていることを中心に、言葉を選びながらも力を込めて話し、宗教の名前ではなく、唯一の神のみを信じることが大切であると力説した。そうしたら今までの反対は何だったのかと拍子抜けするくらいあっさりと結婚を認めてくれた。
 実は結婚に際しては大学時代の恩師に間に入って助けてもらたのだが、そうなるまでが大変だった。初めて私は師に挑戦した。無教会派のキリスト教を長年やってきただけあって手強かった。彼は宗教の違いは問題にはしなくてもイスラームの義務である礼拝や断食、そして食規定にとらわれるなと私に強く迫った。私はそのことは問題にせずにここでもタウヒードとムハンマドSAWが最後の預言者であることのみを強調した。そしてクルアーンを朗読してみせた。クリスチャンである彼女の両親や友人、そして先生からは『今までに聞いた事もない深くて力強い響きだ』との感想をいただいた。そして二人の幸せを『唯一の神』の名において全力で涙を流して祈ってくれた。私もそれに続いてドゥアーを捧げた。
 
その後、家族を含め反対していた多くの人たちが一転して理解者になり、協力してくれるようになった。そして残りの、最後まで執拗に邪魔をしていた人たちは自然に私から離れていった。そして妻とは宗教の違いにかかわらず、同じ神を崇め
信じ、お互いに支えあっている。

 ムスリムになってから苦労も増えたが喜びも増えた。明日には最後の日が来るかも知れないと思っていると一日を大切に、充実したものにしたいと思うようになって、行き方が前向きになってきた。そうなると毎日が楽しくてたまらない。時には落ち込む事もあれば、怒りにまかせて乱暴な言葉を吐いてしまう事もある。
しかし、預言者様にあやかろうと、できるだけ冷静になろうと努めている。礼拝し、クルアーンを朗読し、田畑で汗を流しながら空や山々を見渡すと、私はその御方を間近に感じ、生かされている事に感謝の気持ちから涙を流すのであった。

 以前はムスリムであることを公表することで人からどう思われるか怖くてたまらなかった。しかしもうそんな事は気にしない。クルアーンや預言者のスンナを守っていると心が満たされ、穏やかになってくる。礼拝や断食、勉強を重ねるごとに怒りや嫉妬からは遠ざかっていくのが分かる。そんな人間がテロなどに走るわけがなく、思いつきもしないだろう。どんな反証をつきつけられようが怖くはない。信仰生活で悩んでいる同胞諸君!自信をなくすことなかれ。巷にあふれかえる『イスラーム=不寛容=テロリスト』などという根も葉もない流言なんかぶっつぶしてやろうではないか! 
最後に、アッラーが愛する妻、美知子に最も良い導きをしてくれる事を日々祈っている。この世でもあの世でも共に幸せになれることを。

主催者注;イブラーヒームさんの奥様はその後めでたく入信されました、アルハムドゥリッラー。                                                                            

                                                 

関連記事:

ダマスカス旧市街を紹介するFacebook      世界遺産 ボスラ(ブスラ Busra)

イスラームでは、天国は母親の足元に     なぜラマダーンに断食するの?①

もっとイスラームを知りたい!        イスラームについての無料冊子がほしい

ハサヌ・ル=バスリー師(アッラーのご慈悲あれ)の手紙


第二回イスラームコンクール作文の部入賞作品発表(入信記)

2006年06月30日 | ムスリムになるって?(入信体験記)
 私の入信記
   
「試練の裏にあるもの」 Iqraさん 

イスラームを信仰するようになり、現在数年が経ちました。
それまでは、ごく普通にクリスマスも祝えば神社にも行く、仏教徒のような無宗教のような、「神」に対して何でもありの生活でした。
神という絶対的な存在がそういくつもあるわけがない、と薄々感じてはいたのでしょうが、イスラームに出会って初めて「神」というものはアッラーであり、絶対的な存在は他にはないんだということを素直に実感できました。そして、それが一番自然だなと、とても安心でき心地良く感じたのです。
 徐々にクルアーンを読み、祈りを捧げ、願いを請うことも日常に染み付いてきた頃、私は私生活である壁にぶつかりました。
それは、子供を授からなかったことです。
結婚当初は全く気になりませんでしたが、二年三年経つうち、周囲から頻繁に「子供はまだ?」などと尋ねられ、度重なるうちにそれが重荷になってしまったのです。
子供は好きなので、私たち夫婦もそのうち真剣に考えるようになり、とりあえず病院に行くことにしました。
しかし、検査をしても特に問題は無く、私たちは原因もハッキリと分からないまま治療を始めました。
 その頃、礼拝後に特別よく読んでいたのがクルアーンの「マルヤム章」です。
それは、年老いたザカリーヤーと不妊の妻や、貞節のマルヤムが、ただアッラーがお決めになっただけで、アッラーのお力によってそれぞれ子供を授かったことなどが記してある章です。
この章を毎朝礼拝のあとに読み、心からのドゥアーを欠かしませんでした。
それでも授かることは無く、明確な原因もないまま治療を続けるのは心身や金銭的な負担が大きいことから止めることにしたのです。私は精神的にも弱っていたのだと思います。
「どこも悪くない上に治療までして、こんなに祈っているのに、どうしていつまで経っても子供を授からないの?」
と夫に八つ当たりしたこともありました。
 夫は言いました。
「本当に心から祈っていれば、いつか絶対にアッラーは願いを聞いてくれる。」
「アッラーは世界で1番優しいのだよ。絶対、絶対、私たちに赤ちゃんをくれるから。信じて待っていよう。」
 力強い、でもとても温かい言い方でした。
夫だってきっと辛いでしょう。それなのにこんなにアッラーのお力を信じ続けているのかと衝撃を受け、励まされました。その時に、私は実際に見たことや納得したことでなければ完全に信じきれない部分がどこかにあったということに気付きました。アッラーは唯一、絶対的な存在と頭では分かっていても、きっとまだ本当はどういうことなのかを分かっておらず、アッラーの万能のお力を信じきれていなかったのです。
今はそれが人間の、というより私の弱さであり未熟さであり傲慢さであったと実感しています。

「35.アッラーに子供が出来るなどということはありえない。かれに讃えあれ。かれが一事を決定され、唯「有れ。」と仰せになれば、即ち有るのである。」

私たちが何をしようとも、アッラーがお望みにならなければ不可能で、逆にアッラーさえお望みなら何事も可能になってしまうのだというこのマルヤム章の一節がとても印象深く心に残っています。当時は、本当に私にもアッラーは子供をお与え下さるのだろうかと、弱気になり卑屈になっていましたが、夫の言葉で私の気持ちに変化が起き、この一節が強く強く心に入り込んでくるようになったのだと思います。 
それから夫と一緒に礼拝をしたり、祈ったりする時間を多く持つように心がけました。
そして、「一切をアッラーに委ねよう」という気持ちに変わっていきました。肩の力を抜いてただ祈り、待ってみることにしたのです。医療や何ものにも優るアッラーのお力で必ず私達にも、と信じて。
 治療もせずのんびりと過ごしていたラマダーンの翌月、本当に私たちはアッラーからのご褒美を頂きました。全く予期しないことに驚きもありましたが、嬉しさでいっぱいでした。アッラーは私たちが人の親になることをやっとお許しくださったのでしょう。
アッラーのお授けくださった命は、まだこの世に生れてきてはいませんが、お腹の中で一生懸命に生きているのを感じられるだけで既に幸せを齎してくれています。
 今までの辛い事は、この喜びのためにアッラーが与えてくださった試練とさえ思えてきます。
同じ悩みを持つ方や同胞に出会い、励まされ、そして様々な人間の感情も、治療というのがどんなものなのかも知ることが出来たのですから。アッラーは私がそういう事に気付き理解する機会を設けて下さったのでしょうか。
あるシスターはこんな事を言って下さいました。「アッラーは大好きな人にこそ、ムスリムであり続けさせようと、たくさん祈るように試練を与える。だからアッラーはあなたのことが大好きなのですよ」と。涙が出そうになりました。もしそうなら、辛い日々の奥にはとても幸せなアッラーの愛が隠れていたのですね。
 アルハムドゥリッラー。
簡単に授かっていたら知ることのできなかった「辛い時こそアッラーに縋り、願い続けることの大切さ」を私は今回のことで学ぶことができました。また、イスラームを知るという事には「知識を深めること」そしてもうひとつ「心で感じ得るもの」があるのだと感じました。
まだまだスタート地点に立ったばかりなのかもしれませんが、アッラーのご意思のまま前進していくことが最善で最高の道なのだと気付けただけでも幸せだと思います。試練をお与えになるのもアッラーなのだから、それを取除いて下さるのも簡単なはず。だとしたら、私は試練の裏にあるアッラーの意図をしっかりと見定めアッラーがお望みになるのを待ち、祈り続けるしかないのです。
きっとこれからは辛い出来事にぶつかっても、今までよりはダメージの少ない私でいられるのではないかと思います。
               終わり    

                                                 

第1回イスラームコンクール作文の部入賞作品発表(体験記)

2005年06月29日 | ムスリムになるって?(入信体験記)
私とイスラームの出会い

参加青年にイスラム国が多いなあ。アメリカからも参加する青年もいるのだからディスカッションのテーマ「テロリズム」・・・。どういうことになるんだろう。
世界青年の船に参加することが決定し、参加国などの資料をおくられてきたときに最初に持った感想はそのようなものでした。
乗船してから配布されたプロフィール記入用紙に「religion」の項目に「Non」と記入をしながら私はまた今までのように外国の人から同じような質問をされる光景を思い描いていました。
本格的な国際交流の事業に参加するのはそれが初めての体験でした。
それまでに、「国際交流」と胸をはっていえるくらいの活動をしていたわけではなくタイに一週間程度の観光兼ボランティアの活動に参加したり、在籍していた会社のフィリピン人
たちと仲良くしていたという程度のものでした。

そういう場でいつも私が外国人に質問されていたのは「どうしてあなたは神様のことを考えないのか」ということ。仏教国のタイで熱心に祈る僧侶、出張中の日本でも日曜礼拝へ行くことを切望していた敬虔なカトリックのフィリピンの友人たち。神様、私にはいないなあ・・と彼女らの姿を見て思いました。
「ケイコさんは、つらいとき、どうするの?神様に祈らないの?」
「そうだなあ、私は自分の力でなんとかしてきたよ。」
そう答える私に、「じゃあ私が祈ってあげるね。」彼女らはそういって笑顔を見せました。
運転手として教会まで行った私が、牧師さんの導きで中に入りともに礼拝をさせてもらい賛美歌を見よう見まねで口ずさみました。
何か自分が汚れたもののように感じられ、隣で祈る友人たちが羨ましく思えました。信じるものを持っている人は強い、こういうことをいうのかと思いました。なにかキラキラした
カタマリの隣りにいるような感じでした。
プロテスタントの大学に通い、三年間キリスト教の授業を受け、義務の礼拝をこなしていただけの不信者の自分を恥ずかしく思いました。

私は集団行動が嫌いです。嫌いというか苦手です。小さい頃から苦手でした。幼稚園の頃に列を組んで歩くのが嫌で、登園拒否をしたほどですから三つ子の魂なんとやら・・で大人になってからも苦手です。
集団は時として個人の意思を奪います。
私の中の「集団」のイメージは「みんなで協力してガンバロー」というものではなく、北朝鮮国家のマスゲームや、ナチスドイツの集団心理を利用した迫害、現代社会におけるいじめの構造・・・などとにかくマイナスイメージなのです。足並みをそろえた軍隊の列などをテレビでみているだけで吐き気を催します。
そこには個人など存在していません。集団のコマとなった弱い人間のカタマリです。なぜそんな風におもってしまうのか、別に私はいじめにあったことも、集団で暴力を受けた経験もないのですが小さい頃から集団をそんな風に捕らえていました。
宗教というものもある意味、そのような思想の足かせの中で人間をしばりつけるもの、そのようにとらえていた部分もあったかと思います。
世界青年の船に参加せず、ムスリマの友人たちと出会わなければ一生そういう解釈でいたと思います。

ヒジャーブをした彼女たちに出会ったのは代々木の国際オリンピックセンターでした。初めて言葉を交わしたのはバーレーンの女性でした。
穏やかな雰囲気の彼女は覚えたての日本語で私に挨拶をしてくれました。
食事のこと、お祈りのこと、男性とは隣の席にならないように注意してあげること、彼女らを守ってあげないといけないと私は変な使命のようなものを感じていました。
デリケートでナイーブなんだろうから守ってあげないといけないと思っていたような気がします。
ところが、守ってもらっていたのは私のほうでした。
乗船中、私にとって彼女たちはよりどころでした。あまりの人の多さに「船酔い」ではなく「人酔い」をして心のバランスを崩してしまった私に真っ先に手を差し伸べてくれたのはムスリマの友人たちでした。
レセプションパーティの人の多さに気分が悪くなり、すみのほうでぐったりしていた私に水を持ってきてくれ、隣で背中をさすってくれたのも彼女たちでした。

彼女たちとは言葉も違う、文化も違う。だけどこの心地のよさは何なんだろう?
今まで生きてきていろいろな人と出会ってきました。
大好きなフィリピンの友達の笑顔と同じ空気感がそこにはありました。
中学生のときに気のあう友達と一緒にいるときの安堵感と同じものを感じていました。
可愛い子犬をきゅっと抱きしめたときのあの感じ。
それに似ている・・だけど、ムスリマの友人といるときにはその反対でした。
そう、抱きしめられているのは私。私よりも大きな存在、そういう風に感じました。

今までの私の貧困な情報の中で得ていたイスラムのイメージ。
決してプラスのものではありません。それは多くの日本人が抱いている偏見とそう変わりません。
得たいの知れない人たち、という一くくりで捕らえそれ以上をみようともせず興味もありませんでした。
煙のようなアラビア語も、布をたくさん巻いた女性の姿も、すべてテロや破壊の景色の向こうに存在していました。
自分とはまったく遠い世界のものだと思っていたのです。

それが、どうでしょう。
何の警戒心もなく、私は彼女らを受け入れ心が穏やかになってしまっている。
そう、それが「サラーム」という心の状態であると後になって実感しました。
私に欠けていて、ずっと欲しかったものがそれであったと思うのです。
いろいろなものを求めてもがいてきたけれど、失っていたものは心の平安。
私が彼女らにみていたものはそれでした。

世界青年の船という事業はとにかくいろいろなイベントが青年たちの手で行われるので、参加青年によっては殺人的なスケジュールで日々過ごすことにもなってしまいます。
あらゆる活動において、きっちりこなそうとおもうと日々走り回って過ごさなければなりません。
あの活動、この活動、誰に連絡をして、ここの場所の予約を入れて・・・とにかくばたばた日々が過ぎていきます。
私は当初、自分のペースもわからなくて周りに翻弄されて戸惑ってばかりいました。
誰のために何をがんばってるのかわからなくてデッキを歩いていると、ムスリマの友人た
ちがクルアーンを詠んでいる光景に出くわしました。
最初、「いいなあ余裕があって。私は本を読む時間なんてないわ」と思っていました。
神様と向き合う時間、イスラムでは神様と自分とが直接向き合えるのよ。
食事をしながらそんな話をしたことを覚えています。
偶像崇拝をしないこと、礼拝をすること、豚肉やアルコールなどは口にしないこと、世界史の教科書に書いていたような内容が頭をよぎりました。
ムスリムの人たちに配慮して、礼拝の時間には行事をいれないとか、ブッフェでの豚肉は別な場所に設置するなどの措置がとられていました。
断食をする人たちのために、日が暮れてからの食事なども用意されていました。
「明日の早朝、集団礼拝があるから見に来ない?」
そんな誘いに二つ返事で答えた私は、翌朝とても綺麗なものを見ることになります。
それはあの日に、教会でみたキラキラしたものと同じものでした。

翌朝、集団礼拝の場所へ何を着ていけばいいのかわからず、とりあえず黒い長袖のワンピースを着てストールを頭に巻いて大ホールへ入りました。
男性と女性が別な場所で礼拝をすることもそのとき初めて知りました。
「へえ、銭湯みたいだな」と思いました。
ムスリマたちの場所へ着くと、皆が一方向に向かい手馴れた順序でサラートが始まりました。
「コメツキばったのような体勢になったりもするんだなあ」と呑気な感想を持ちながら一連の儀式をみていたのですが、サラートが終わったあと彼女たちは今までよりも一段と輝いた笑顔になり頬にキスをしたり、抱き合ったりして何かを喜んでいるようでした。
それは特別な何かではなく、今ここにいること、ここにともにいることを喜んでいるのです。
その光景をみていたら私は目頭が熱くなり、胸にさあっとそのきらきらが流れ込んでくるような気がしました。
なにかとてもいいものをみたような気分になりました。
胸の澱みが消えるのを感じました。
そして、集団の嫌悪がまったくないのが自分でも驚きでした。
気持ちがひとつになって同じ方向を向いている、それが強制ではなく自発的に同じ方向を
向くことの奇跡を目の当たりにした瞬間でした。
うまく説明ができなかったけれど、私は朝食の場でエジプトのムスリマの友人にこのことを話しました。すごく綺麗なものを見たような気がする、ありがとうと感謝を述べると彼女も私の話に心を開いてくれました。
そして、真顔になって言いました。
「こぐちゃん、こぐちゃんは早く神様を決めなければいけないよ。」
私がきょとんとしていると、彼女は言いました。
「人生は短いから。神様を決めないとあっという間に終わってしまうから。」
私はそのときはその意味がよくわかりませんでした。
正直今もよくわかりません。わからないから下船してか約一年、イスラムやアラビア語を勉強したり日本にいるムスリマにあって話を聞いているのだと思います。
知っていったからどうなるのか、私にもわかりません。
信仰したいのか、それともただの好奇心なのか、それはインシャーアッラー、神様にしかわかりません。

アッサラームアライクム。あなたがたの上に平安が訪れますように。
何年も前から初詣や神社に行くと私が祈っていた言葉、「世界が平和でありますように」
私の中の「平和」とは戦争がないということだけではなく、一人ひとりの心から、葛藤や迷いや恨みなどの暗いエネルギーが消え、心が平和になるようにという願いだったのです。
私の心の奥の祈りが、挨拶の言語、アラビア語をもっと学びたいと思っています。
そして私が見て感じたことが形となり、日本社会とイスラム世界の架け橋になるように貢献できたら素敵だなと思っています。