レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

オノ・ヨーコ

2011年09月04日 | ぼそぼそ


オノ・ヨーコって好きじゃなかった。

元々解説のいる現代アートが好きじゃなくて、
抽象的な作品に「これは何々を表現しました」とか書いてあるのを見ると
無条件で「ケッ」となってしまう。
今でも現代アートは好んで見に行ったりしない。
思わせぶりで自己満足っぽい、そういう僻みとかやっかみに近い評価を
今でもちょいと持っている。

オノ・ヨーコの何を知っている訳でもなかったけど
オノ・ヨーコに対する思いは現代アートに対するそれに近かった。
なんだか分からないものに対する僻み、やっかみに拒絶。
それが変わったのはあるテレビ番組を見てからだ。


それは数多くあるバラエティー番組のひとつだったと思う。
オノ・ヨーコが「表現」の講師として登場した。
オノ・ヨーコの事を好きじゃない割に何も知らない私は
いったいどんな事をするんだろうと思いながら、興味薄く画面を見ていた。
椅子を使ったパフォーマンスとか、土器のかけらをくっ付けていくパフォーマンス
それは私が現代アートに抱いていた印象そのままで、
やっぱり好感を持てないはずだった。
だけど私の中の「オノ・ヨーコ」という人は
そんなバラエティー番組ひとつでがらりと変わってしまったのだ。


彼女は番組の間中、一切の否定を口にしなかった。


ゲストの芸能人が椅子を使ったパフォーマンスを勧められ、
苦笑いを浮かべながらほんの小さなアクションをする。
ふざけたアクションをする。
アクションとは呼べないほどの動きでごまかす。が、
その全てに対してオノ・ヨーコは
賛辞を送り、肯定し、手放しの拍手を送った。
土器をくっ付けるパフォーマンスの時も同じ、それはただただ
割れた土器をゲストみんなでくっ付けていくだけのパフォーマンスなんだけど
ひとつ何かをするたびに素敵な言葉で肯定するオノ・ヨーコの周りには
いつしかゲストが手に手に自分の「成果」を持ち、
賛辞と彼女の言葉を求めて集まっていた。
これは実際の番組を見てもらえば分かるんだけど、ゲストは皆子供のように
彼女の周りに集まっていたのだ。
「先生、これはどう?」「先生これは?」「これは?」


人は誰でも心の底で肯定を求めている。
そこに理由は無くてもいいのだ。
何がどうだから良い、なんて考えなくてもいい。
ただ肯定するだけで人は明るい顔になり、屈託が消え、
自分に他人に素直になっている。
たった数十分のパフォーマンスの中で
とんでもなく大きなものを表現して、オノ・ヨーコは平然と去っていった。


今でも私は現代アートが苦手だけど
オノ・ヨーコの事は心から尊敬している。
あんな風に周囲を肯定出来る人になれたらな。
否定的な気分になるたびに、心の小さな自分を省みて
いつもそう思うのだ。

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