レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

父のこと 16

2019年03月19日 | 父の話
話を戻して
●●県がんセンターでの治療は
抗がん剤3種類を投与して、様子をみて、
投与して、様子を見て、という2クールだったと思う。
入院期間は1ヶ月強、10月の末に入院して
12月の中旬に退院というスケジュールだった。

ただ、その期間の印象が全く残っていない。
今思い返してもお約束通り
髪が抜けてたかどうか思い出せない。
吐き気とか怠さとか、そういうものが全く無くて
ピンシャンしていたのは覚えている。
「薬が身体に合ってるのか、副作用的なものは
微熱くらいなんですよ〜」と医師に言われた。


それよりも印象に残っていたのが
「当然家族が毎日見舞いに来て世話をする」のが
当たり前のようになっていたこと。
昔は付添婦さんというのがいて
患者の洗濯物を洗ったり、身体を拭いたりという
家族と看護士の間の仕事をやれる人がいた。
父の母も付添婦だった。
調べてみると平成5年〜7年の間に看護法の改正により
付添婦という制度は廃止されている。
確かにその頃、じゃあ付添婦さんがやっていた仕事を
全て家族と看護士が担うことになるのか、と
我が家も騒然としていた覚えがある。

看護士さんがやっていたらとても手が回らない、
だけど家族が毎日来てやるのも負担が大きすぎる。
付添婦さんだったらそれほど高額ではなかったし
庶民でも気軽にお願いできた。
それが今は居ない。


これ家族がいない人(又は動けない人)
どうするの??


会社が終わってから車で1時間の病院へ行き、
洗濯物を集め、新しいのを渡し
細々した用事を済ませて1時間半かけて家へ帰る。
叔父と叔母が積極的に手伝ってくれたので
本当に〜助かったが、
なんて制度だろうと思わざるを得なかった。

父のこと 15

2019年03月04日 | 父の話
最近、と言ってももう三、四年前だけど
仲のいい友人が「大人の発達障害」と診断された。
報告を受けた時には大層ウケて
そういう事だったんだねと笑った。
食事中に寝たり、子供みたいなバレバレの嘘をついたり
時間が一切守れなかったり
その他ちょっと洒落にならないので書けない事等
40過ぎのオバハンとしてどうかと思っていたが
発達障害だったのね。
悪い事をしたよ、と言ったら
友人は全くだよ、と笑った。
こういう所、わかっていても癪に触る。(笑)


友人は注意欠陥と多動があり、
学習面では数字が分からなくて
四桁くらいは平気で間違える。
社会的に害にならないサイコパスでもあるので
間違えたことや嘘に反省の色はないし
言語野だけは他を補うように発達しているので
言い訳マシンガン。
発達障害と分かるまで本気で何て奴だと思ってた。

しかしそこには彼女なりの道理があって
間違えないように、忘れないようにする
「注意する力の欠陥」だから間違いを防げない。
メモを取れば良いじゃん!と人は思うけど
メモを取る=間違えないように注意する心、だから
それが無いんだって。
そこが理解出来るとそりゃあ仕方ないかと思える。

この「仕方ないか」は
自分自身が病気になってみてようやく本当に理解できた。
やる気の問題ではなくて、ないから出来ないのだ。
私は運動面に障害が出たから、今早く走ってみて、
高く飛んでみてと言われても
小脳がこうなってしまったので難しい、と言えるし
言われた方も納得してくれると思う。
でもそれが精神面でも起こり得る。
一所懸命やろうという気持ちはあっても身体が動かない。
1つのことに夢中になると他のことが
どれだけ大事であっても疎かになり、それを繰り返す。
自分にしか見えない優先順位があり、
その順位は大抵の人と違っている。

だけどそれは精神部分に区分けされているので
「真面目に」「本気で取り組めば」「普通に考えたら」
分かるはずでしょ、出来るはずでしょ、と
思われてしまうのだ。



この話を病気の話、ではなく
父の話にしたのは
発達障害の症状は父に重なる部分が数多くあり
母が父の言い分を誤解して
別居に至る原因になっていたからだ。

ぶどうのジュース(2)

2019年03月03日 | 父の話
それからまたしばらく経って、
母と話をしていた時
あの公園にお父さんとドライブで行ってきたんだよ、
桜が散り際だったけどきれいでね、と話していたら
母が

「お父さんがね、


愛にジュース買ってやろうとしたんだけど
愛はいらないって言ったんだ
昔だったらジュース買ってやるなんて言ったら
喜んでたのになあ
愛も大きくなっちゃったんだなあ、って
寂しそうにしてたよ。」


そう話す母の言葉を聞きながら
私もなんだか少し寂しくなった。
あの時喉乾いてたら良かったのにな、とか
当時はそういう方向の残念さだったけど。



そこから年月が経って、母が病気になり
母と父は別居して、私は父が嫌いになって
不摂生がたたった父は病気になり
本当にあっという間に死んでしまった。


大人になった私は色々な事が出来る。
煩雑な事務手続きも計算も手配も出来る。
だから父が死んだ時も、家の整理も入院の後片付けも
アパートの引き払いも葬式の手配も死亡届提出も
携帯電話の解約も出来た。


だけど本当はいつまでも
何も出来ないけど、父のことが大好きな
小さい私でありたかった。
ジュースを買ってもらって喜んでいる
父の思い描く私でありたかった。



今でも辛くて寂しくなると
私は自動販売機でぶどうのジュースを買う。
小さな頃、私はいつも父に
ぶどうのジュースをねだっていた。
…父に買ってもらった事にして、
取り出し口に落ちたジュースを手に取ると
なんだか少しだけ元気が出るのだ。


ぶどうのジュース

2019年03月02日 | 父の話
思い出したこと

小さい頃、父とよく行った場所があった。
最寄りの駅からたった一駅、
絶景無人駅から程よい距離の自然歩道を登った先にある
大きな池のある公園。
公園には今と違ってスリリングな遊具 (大怪我をする危険性のある楽しい遊具)が充実していて
広い芝生もあり、ボートにも乗れ、桜も見られる。
子供を連れて来て遊ばせるには絶好のスポットだった。
父はここへ私たち兄妹を連れて来ては
一緒に釣りをしたりボートに乗ったり
ボール投げやフリスビーで遊んでくれた。
兄は昔からマイペースなインドア派だったので
駅から結構な距離を登らなければ行けない
あの公園を好いてはいなかったが
私は歩くの大好き、何より父が大好きだったので
父の連れてってくれるあの場所が大好きだった。
いくつになっても良い思い出の場所として
私の中にあの公園は君臨していた。


それから時が流れ、私が幾つの時だったか
どうしてだったか覚えていないが
父と2人であの公園を訪れた事がある。
とりたて自動車免許の運転練習に、父を助手席に乗せて
ドライブしたのだったかなあ。
危険な遊具が撤去された公園はがらんとなっていて
ボートにも乗れなくなっていたが
懐かしい場所を思い出しながら2人で歩き
昔のように味噌田楽を食べた。

そのあと、父が自動販売機の前で 「愛、ジュース買ってやろうか」と言って
財布を取り出した。
父がいつも尻のポケットに入れていた
古い小さな革の財布だ。
私はその時喉が渇いていなかったのと、
車の運転が出来る大人になってるのに
ジュース買ってもらうって...(照)という気持ちから
とっさに「ううん、いらない」と言った。
父はちょっと意外そうな顔をして
「なんだ、いいのに」とか小さい声で言って
元どおり尻ポケットに財布をしまった。

(続)

父のこと 14

2018年10月02日 | 父の話
 父は小さい頃、貧しさが理由でいじめられたと言っていたけど
理由は多分それだけじゃない。
父と話していて思うことや、自分の事と重ねて考えると分かる。
それがなんという病気、あるいは障害かは分からないけど
何らかの発達障害があったことは確かだ。

父は頭が良く、独特の記憶法を持っていて
私にもそれを実践しろと言っていたけど
私には父が何を言っているのかちょっと分からなかった。
私は父と違い勉強の神に見放されていて、
本当に本当に頭の悪い子供だった。
でも父にはそれが理解できず
勉強の面では随分酷いことを言われた覚えがある。

そういう事を、同年代の友達にも言ったらどうなるだろう。



父はずっと、父自身のことを嫌っていたはずだ。
友達の気持ちを考えられず、場を白けさせるような事を
言ってしまう自分。
身勝手な考え方をしてしまう自分。
ネガティブな思考に陥ると抜け出せない自分。
常に自分の事を一番に考えてしまって
「つい」他の人のことが二の次になってしまう自分。


でもそれらは多分、父の心の持ちようではなくて
氏育ちの問題でもなくて
頑張れば何とかなる問題でもなかった。
次に父に会ったら言ってあげたい事がある。

お父さんは頑張ったよ。
一所懸命生きてたよ。
悪くなんか思っていないよ。


父は善人たろうと必死で生きていたけど
父の中のちょっとした脳の回路が
その思いと反対に動くことがあった。
父があんなにもがき苦しみ、
弱さに泣いたのも

父が善人だったからに他ならない。