レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

父のこと 13

2015年05月15日 | 父の話
父の母、私にとって祖母にあたる人は
あまり良い人ではなかった。
悪人ではないけど、子供っぽくて
自分本位でちょっと意地が悪かった。

父は母親の愛、というか
一方的に注がれる無償の愛に飢えていて
それは母と結婚してからも同じだった。
母と祖母の間で何かいざこざがあると
決まって祖母の味方をした。
父は頭のいい人だったけど、道理も理屈も
祖母が入ると通らなくなり、最後にはいつも
「おふくろが可哀想じゃないか!」
という言葉を持ち出した。


母は我慢強い女なので
感情的になって父を責めることはせず
じっと父を見ていた。
母は若い頃からずっと
この人は最終的に自分の母と家族、
どっちを選ぶんだろうと思っていた
と言っていた。


今考えると祖母は所謂
アダルトチルドレンだった。
当時はそんな言葉も括りもなかったから
大人のくせにこんなに
子供っぽい意地悪を...と
驚いたもんだけど
祖母は精神的に子供であったと思うと
納得出来ることばかりだ。
兄のことはすごく可愛がったけど
私は比較対象として大変分かりやすく冷遇した。
でも祖母とは深く関わっていなかったし
分かるような年になった時には
ウケるとしか思わなかったので
精神面に傷は残っていない。


しかし父にとっては実の母親で
幼少期の大事な時期に深く関わったので
残念ながら多大な影響が残ってしまった。
父はずっと母の愛を追い求めるが
小さな頃に餓えて干上がった池には
大人になった後からどれだけ注いでも
水は残らないのだ。


父のこと 12

2015年05月15日 | 父の話
父は三人兄弟の長男、
下に妹と弟がいた。
父の父の事はあまり聞いた事がない。
父が小さい頃離婚したと
聞いたような気もするが
それが父の実の父のことか、
叔母と叔父の父のことかは分からない。
祖母の持っていた仏壇に
誰の物か分からない位牌が入っていて
それが引き取り手の無かった
父の父の位牌だとは聞いていた。


父は貧しい母子家庭で
小さな妹と弟の世話をしながら育った。
小学生の時は貧しさが理由で
よくいじめられたと言っていた。

中学生の時に描いた鎧兜の絵が
同級生に絶賛されたのをきっかけに
しばしば絵を描くようになる。

中学卒業後、就職に有利になるからと
商業高校に進学するも
担任の強い勧めで学年半ばで
地元の進学校へ転校する。
でも卒業まで後少し、というところで
経済的な事情から断念せざるを得なくなり
そこから色々な仕事を転々とする。
中学卒業の学歴しか残らず
就職の際に何度も悔しい思いをした、
と言っていた。



....ここまで書いてきて
私が父について知っている事が
あまりに断片的で少ないことに愕然とし
同時に淋しさを感じている。
何かの拍子にぽつりと語った切れ端を
今になって繋げてみても足りなさ過ぎて
私は私が覚えている
既に父としての、父のことしか
ろくに語ることが出来ないんだなあ。
それは父という人を残すには
かなり片手落ちな気がするけど
細かい点を聞ける人は
もう夢にも出ては来ないのだ。

きっと私がどう書いても
あの苦笑いをして許してくれるだろう。

父のこと 11

2015年05月04日 | 父の話
父と母は今から10年前に
別居に踏み切った。
踏み切った、と言っても
母にとっては予定していた事だったが
父にとっては晴天の霹靂だった。


私の父という人は
人の話を聞くようで
全然聞かない事が多々あり、
母はそれまで何度も別居とその理由について
話をしてきた(つもり)が
一個も伝わっておらず
母が引越し準備を始めた時も
パフォーマンスだと思っていたようだ。
引越し当日にそれまで住んでいた家を
同時に出て一週間後には明け渡し、
という、まず聞き逃してはいけない部分を
多分故意に聞き逃して
いざ当日、本当に始まった引越しに怒り狂い
後日祖母(父の母)の家に移って行った。


父が1人で祖母の家に移る、
同居して面倒を見る、
と言い出したのは別居の約2年前。
母にとってはこれが別居の決定打になった。
その計画は父1人がたてた計画で
祖母が拒否して実現せず
うやむやに終わったのだけど
母の中ではそこが色々の終わりで始まりだった。
私が幼い頃から所謂嫁姑の問題があり
何度もその事で母が泣いたり
両親が喧嘩をしているのを目にしてきたから、
そんなことを言い出せばそりゃあ
下手したら離婚にも発展するんじゃない?と
子供の立場からも容易に予測出来たけど
肝心の父は
世の中の嫁姑問題のテンプレートみたいに
母の気持ちを全然理解出来なかった。


まさか
介護が必要な病気の妻が
別居を申し出るなんて。って。