レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

仄めかす

2019年03月25日 | ぼそぼそ
「犯行を仄めかす」ってよくテレビで言いますが
具体的にどんな言い方するんでしょうね。


『それは俺がやったかもしれないし……
やらなかったかもしれない……』


(考え得る精一杯のほのめかし)

父のこと 16

2019年03月19日 | 父の話
話を戻して
●●県がんセンターでの治療は
抗がん剤3種類を投与して、様子をみて、
投与して、様子を見て、という2クールだったと思う。
入院期間は1ヶ月強、10月の末に入院して
12月の中旬に退院というスケジュールだった。

ただ、その期間の印象が全く残っていない。
今思い返してもお約束通り
髪が抜けてたかどうか思い出せない。
吐き気とか怠さとか、そういうものが全く無くて
ピンシャンしていたのは覚えている。
「薬が身体に合ってるのか、副作用的なものは
微熱くらいなんですよ〜」と医師に言われた。


それよりも印象に残っていたのが
「当然家族が毎日見舞いに来て世話をする」のが
当たり前のようになっていたこと。
昔は付添婦さんというのがいて
患者の洗濯物を洗ったり、身体を拭いたりという
家族と看護士の間の仕事をやれる人がいた。
父の母も付添婦だった。
調べてみると平成5年〜7年の間に看護法の改正により
付添婦という制度は廃止されている。
確かにその頃、じゃあ付添婦さんがやっていた仕事を
全て家族と看護士が担うことになるのか、と
我が家も騒然としていた覚えがある。

看護士さんがやっていたらとても手が回らない、
だけど家族が毎日来てやるのも負担が大きすぎる。
付添婦さんだったらそれほど高額ではなかったし
庶民でも気軽にお願いできた。
それが今は居ない。


これ家族がいない人(又は動けない人)
どうするの??


会社が終わってから車で1時間の病院へ行き、
洗濯物を集め、新しいのを渡し
細々した用事を済ませて1時間半かけて家へ帰る。
叔父と叔母が積極的に手伝ってくれたので
本当に〜助かったが、
なんて制度だろうと思わざるを得なかった。

父のこと 15

2019年03月04日 | 父の話
最近、と言ってももう三、四年前だけど
仲のいい友人が「大人の発達障害」と診断された。
報告を受けた時には大層ウケて
そういう事だったんだねと笑った。
食事中に寝たり、子供みたいなバレバレの嘘をついたり
時間が一切守れなかったり
その他ちょっと洒落にならないので書けない事等
40過ぎのオバハンとしてどうかと思っていたが
発達障害だったのね。
悪い事をしたよ、と言ったら
友人は全くだよ、と笑った。
こういう所、わかっていても癪に触る。(笑)


友人は注意欠陥と多動があり、
学習面では数字が分からなくて
四桁くらいは平気で間違える。
社会的に害にならないサイコパスでもあるので
間違えたことや嘘に反省の色はないし
言語野だけは他を補うように発達しているので
言い訳マシンガン。
発達障害と分かるまで本気で何て奴だと思ってた。

しかしそこには彼女なりの道理があって
間違えないように、忘れないようにする
「注意する力の欠陥」だから間違いを防げない。
メモを取れば良いじゃん!と人は思うけど
メモを取る=間違えないように注意する心、だから
それが無いんだって。
そこが理解出来るとそりゃあ仕方ないかと思える。

この「仕方ないか」は
自分自身が病気になってみてようやく本当に理解できた。
やる気の問題ではなくて、ないから出来ないのだ。
私は運動面に障害が出たから、今早く走ってみて、
高く飛んでみてと言われても
小脳がこうなってしまったので難しい、と言えるし
言われた方も納得してくれると思う。
でもそれが精神面でも起こり得る。
一所懸命やろうという気持ちはあっても身体が動かない。
1つのことに夢中になると他のことが
どれだけ大事であっても疎かになり、それを繰り返す。
自分にしか見えない優先順位があり、
その順位は大抵の人と違っている。

だけどそれは精神部分に区分けされているので
「真面目に」「本気で取り組めば」「普通に考えたら」
分かるはずでしょ、出来るはずでしょ、と
思われてしまうのだ。



この話を病気の話、ではなく
父の話にしたのは
発達障害の症状は父に重なる部分が数多くあり
母が父の言い分を誤解して
別居に至る原因になっていたからだ。

ぶどうのジュース(2)

2019年03月03日 | 父の話
それからまたしばらく経って、
母と話をしていた時
あの公園にお父さんとドライブで行ってきたんだよ、
桜が散り際だったけどきれいでね、と話していたら
母が

「お父さんがね、


愛にジュース買ってやろうとしたんだけど
愛はいらないって言ったんだ
昔だったらジュース買ってやるなんて言ったら
喜んでたのになあ
愛も大きくなっちゃったんだなあ、って
寂しそうにしてたよ。」


そう話す母の言葉を聞きながら
私もなんだか少し寂しくなった。
あの時喉乾いてたら良かったのにな、とか
当時はそういう方向の残念さだったけど。



そこから年月が経って、母が病気になり
母と父は別居して、私は父が嫌いになって
不摂生がたたった父は病気になり
本当にあっという間に死んでしまった。


大人になった私は色々な事が出来る。
煩雑な事務手続きも計算も手配も出来る。
だから父が死んだ時も、家の整理も入院の後片付けも
アパートの引き払いも葬式の手配も死亡届提出も
携帯電話の解約も出来た。


だけど本当はいつまでも
何も出来ないけど、父のことが大好きな
小さい私でありたかった。
ジュースを買ってもらって喜んでいる
父の思い描く私でありたかった。



今でも辛くて寂しくなると
私は自動販売機でぶどうのジュースを買う。
小さな頃、私はいつも父に
ぶどうのジュースをねだっていた。
…父に買ってもらった事にして、
取り出し口に落ちたジュースを手に取ると
なんだか少しだけ元気が出るのだ。