レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

長いトンネル

2011年07月16日 | 長いトンネル
訃報があったのは14日の昼頃、
京都に行くのを引き留められたのかもしれない。
棺の中のOは眠っているようだった。


Oが行ってしまいました。
私と同じ歳の元同僚
私の大事な友達。

長いトンネル(01)

2005年10月28日 | 長いトンネル
私は高校を卒業してすぐ就職した。
大学へ行く学費を稼ぐ目的もあったが、
とにかく早く自立したかったのだ。
進路を大学、或いは専門学校に決めた生徒とは別に
就職組は夏の間毎日、職員室に貼ってある求人票とにらめっこだった。


就職先には全く困らなかった。当時はバブル真っ只中で
高校生といえど引く手数多、好きに会社を選べる時代だった。
翌々年にはバブルが崩壊したので
私の進路選択は実にタイミングが良かったのである。
何社か目当てを決め、同じ会社を希望する友人と一緒に
会社見学に行っては悩みながら帰ってくる。
私は目当てを二社に絞っていた。選ぶ基準は何のことはない、
求人票の中で給料が高いものだ。
就職すると言っても一生の仕事を見つけようという気は無かった。
好きな事が仕事になるとも思っておらず、
ただ早く金を貯めること、金が貯まったら大学に行くこと
これしか考えていなかった。
企業としては大変迷惑な話である。


目当ての一社(印刷会社)は何人か希望がいた上に
仕事があまり面白くなさそうであったので諦めた。
もう一社のデザイン事務所は本命だった。此方に求める条件が
かなり厳しいため希望者はほとんどいなかったのだが
私が思い描いていた「就職」に
実にぴったりの雰囲気であったからだ。
地下鉄の駅から並木道を、十分ほど歩いた所にある小さなビル。
一階と二階がいかにも洒落た事務所になっていた。
パンプスを履き、タイトスカートで小脇にファイルを抱え
髪をまとめた私が地下鉄の駅から事務所まで
足早に歩いていく姿を想像して身悶えした。


これだ。私の就職先はここしかない。(迷惑)


しかし会社見学に行った帰り道、
私と友人は近くの喫茶店に入って黙り込んだ。
採用するのは一人、しかも他校からも募った上で、だそうだ。
就職先が数多あるとはいえ、一度落ちてからの申し込みは
やはり時間的なリスクがある。
希望する就職先がかち合ってしまった友人(男)とは普段から
よく気が合った。気が合っちゃったからこそのかち合いなのだろう。
少し悩んだけど、私は彼に言った。

「Mが受けなよ。実は私、三年で金貯めて大学行こうと思ってるんだ。
 そんなの会社にとったら迷惑じゃない。
 Mは私よりもちゃんと就職しようと思ってるんだから、いいよ。」

格好つけから言った言葉ではなく、就職を真剣に考えている人を
優先すべきだと思ったのだ。
Mはびっくりしたように、でもすごく嬉しそうに
「…ありがとう」と言ったが
私は就職も、その先に予定している進学さえも
自分が真剣に考えていない気がして
Mに悪いことをしたような気持ちになった。


こうして私の就職活動は振り出しに戻った。
絞って二社にしたとはいえ、はっきり言って
その二社以外に私が働けそうな会社が無かった。
他の友人は皆希望就職先を提出し終わり、
グループになって面接の練習などしているのに
私の希望就職先は鉛筆の先で空欄のままだった。

それから暫く経った頃、担任がある求人票を持ってきた。
「株式会社○○」
私はそれを受け取って怪訝な顔をしたと思う。
確かにそれは最初から求人票の束の中にあった。
多分誰でも知っている、バカみたいに大きな会社からの
でも私にははっきりと畑違いの求人だった。
給料は確かに求人票の中で一番良かったけど
だからと言って出来る仕事と無理な仕事がある。
お金を貯めるのが目的だけど、お金が貯まる前に
クビになったら敵わない。
私は最初からその求人票を省いた所で就職先を探していた。
それなのに何で今私の手元に
この求人票があるのだろう?

担任は私にこう言った。
「M君と同じ希望でかち合っちゃったんでしょ?
 まだ就職先が見つかってないなら、ここはどうかなと思って」
どうかなもへったくれも無いのだが。
だってこの仕事は多分、私には無理だ。
その旨を担任に伝えたのだが彼女は実に暢気者で
大丈夫大丈夫、あなたなら出来ると
気軽に肩を叩いて行ってしまった。


***
暢気者の担任が薦めてくれた会社の求人票には
男女各一名を採用すると書いてあった。
(男女雇用機会均等法施行前であったため)
男子でこの会社を希望しているのは
M(同じデザイン会社を希望したMではなく、『漫画のような彼』のM)
であった。ややこしいが頭文字が一緒だったため
このまま進めていく事にする。

製図が得意で立体に強いMは
希望する会社に大変ぴったりだと思った。
そして製図が苦手で立体に超弱い私は
大変な身の程知らずであったと思う。
「女子の希望は●ちゃん(私の名前)だったんだ」
Mにそつのない笑顔で言われても私は苦笑いをしながら
せめてもの抵抗としてオンシャの歴史とか所在地なんかを
必死で勉強していた。
あとMから「志望動機」を仕入れる事も忘れなかった。
私に動機があるはずもなく、だからと言って
「担任に薦められたから」なんて言うほど落ちたいわけじゃない。
向いてないのは分かってるけど 落ちるのは嫌なんだ。


さて
入社試験に何をしたか、とか何を聞かれたか、という事は
残念ながら言えない。覚えていないとも言う。
隣にどんな人が居たかも覚えていないし、
テストの内容も印象深かった一問だけしか覚えていない。
…ただ面接の時すごくはきはき喋る人がいて、
その声が大江千里そっくりだったため笑いをこらえるのに
怒ったような顔をしてしまった事は覚えていたよ!
ともかく無事に合格だけはし、(でもその合格の知らせが
 どんな形で来たのかも忘れてしまった)
数え切れないほどの書類の束を
上から下まで説明を受けながら判子を押して
夢中のまま私は株式会社○○に入社を果たした。
これから二年、いや三年か。必死で働いてお金を貯めて
大学へ行こう。
迷惑な目標を隠したまま私の社会人生活が始まった。


***
それにしても、だ。

今思い返しても、入社試験から入社まではほとんど雪崩れだった。
気楽な学生生活の中で気楽に会社を決め、
試験を受け合格してしまうと
途端に想像もつかない程の責任と義務が圧し掛かる。
ここで言う責任と義務とは「会社人」として果たさなければならない
仕事上の責任や義務ではなく
(もちろんそれもあるけど)
自分が知らない間に手に入れていた
社会人としての責任と義務である。
自分の持っている判子一つにどれだけの拘束力があるか、
自分の稼ぎがどれだけの保障となり得るのか、
自分に最低どれだけの保険をかけておかなければならないか、
老後のために(!)何をしておかなければならないか。
一度社会人になってしまったら「知らなかった」では
済まされない事だらけなのだ。
皆は一体いつどのタイミングでこういう事を知るのだろう、
やはり入社と同時に教育されるのだろうか。
会社に向かう早朝の電車の中で
私は豪雨のように降りかかる現実に思いを馳せ、首をすくめていた。

私は当時18歳で、老後の事を考えるには非現実的すぎる年だった。



一緒に入社した同僚は女性二人、男性六人
私を含めて九人であったが
男性には一年間の工場勤務が義務付けられていた。
しつこいようだけど男女雇用機会~の施行以前であったからだ。
なので私達は一年先に入社して工場勤務を終えた、
先輩の男性社員と一緒に教育を受ける事になった。
一緒に入社したM達は同期にも関らず一年遅れになるのだが、
男女~の施行以前であったため女性は
残業出来る時間が笑っちゃうほど制限されており
一年の差などすぐに追いつかれ、追い抜かれてしまうのだ。
それは又後々の話。



「私達」の話をしようと思う。
同期入社の二人はSとO、三人とも互いを苗字で呼んでいた。
(ちなみに私はH)
働き始めてすぐ、私は二人のうちどちらとも
一緒に仕事はしたくないなと思った。
Sは典型的な女の子で、明るくてお喋り好きで楽しいんだけど
仕事に関しては責任感が無く甘えてばかりで
一緒に仕事をするのはとても疲れた。
Oは穏やかで性格に関しては可も無く不可も無く、
だが手先があまりに不器用で仕事が遅すぎた。
二人の事は今でも同僚として、友達として好きだけど
仕事をするってそういうものじゃないのだ。


***
仕事上では残念ながら、一緒に仕事をしたくない同僚
SとOと組まされる事が多かった。
「一緒に仕事をしたくない」などと一人前の発言をしているが
仕事の内容は最初から分かっていた通り、私の苦手分野だ。
とにかく女の子のS、とにかく手が遅いO、
そしてやる気はあるがセンスの無い私。


認めようと思う。
「はずれ」の年である。


『ねえ、何でこの会社に入ろうと思ったの?』
一緒に仕事をしている人とは会話の取っ掛かりとして
まずそんな話になるものだ。
まだ苗字にさん付けしていた私達は
話し掛けられ話し掛けしながらお互いを探っていた。
Sは話し出すとすぐに手が止まってしまうので
私は自分の手をせっせと動かして
(話していてもこうだぜ!)とアピールしつつ
この会社に入った成り行きを聞いた。

地方から一人出てきて寮住まいの彼女は
ともかく地元から出たかったと言った。
「ずっと立体を専攻してたし、向いてると思ってさ」
止まりがちになる手を何とか動かしながらSは笑った。
最終的に担任の勧めもあって現在に至るそうだ。
なるほど。

私が分からなかったのはOの方だ。
傍目にも明らかにこの仕事に向いていない。
何かをやらせれば人の倍時間がかかり、かといって
出来上がりはいまいちのいまいちだ。
Oはどうして?と聞くと、うーんと一言唸ったまま
黙々と仕事を続け、かなりの時間をかけてようやく
「真面目だから、向いてるんじゃないかって。先生が」
と答えた。



***
 Oは高校時代無遅刻無欠席、赤点も無く
課題提出に遅れたこともなく、成績は上位だったそうだ。
「真面目で可もなく不可もない」
これがOに抱いた私の印象だった。
確かに会社に推薦してもらう上で
大切な条件を全て兼ね備えているのは
こういう空気のような子なのだ。
遅れておらず秀でておらず、どっちの面でも目立たない。
今回はちょっと(悪い方向で)目立ってしまったが
私にはこういう空気のような知り合いが居なかったので
Oの存在が大変物珍しかった。
と同時に 大変やきもきさせられた。

Oは先回りをするという事がない。
10の仕事があれば説明を受けた順に
1から10までこなしていく。
まず10までの説明を聞き、3をやる上で
後の4の事を考えて手順を変えようとか
そういった事は一切考えない。
実際にあったことだが、床に敷く四角いシートを止めるのに
私は4箇所分の指示を出さなくてはならなかった。
つまり4つの隅、全てである。
「シート敷いてから作業するからさ」『うん』
「隅、とめといて」(一つの隅を指差す)
『わかった』(ペタ)
「…」
『…』
「…あっちの隅もさ」(もう一つの隅を指差す)
『わかった』(ペタ)
「…」
『…』 

以下繰り返しである。
決して大げさに言っているのではない、
Oは仕事の全てに関してこの調子だった。
学校の勉強や課題ならこれでも良かったのだろう。
人より時間が掛かるだけで、その分時間をきちんと掛ければ
皆と同じ成績が残せる。
ただ一緒に仕事をするには迷惑以外の何者でもなく
私は女の子女の子したSと組むのは億劫だったが
Oと組むよりは断然楽だった。



ともかく私達は三人とも
担任の勧め、という影響を受けてこの会社に集った事になる。
この仕事をやりかったの!という熱い情熱は誰にもなく
「…そこに会社があったから?」(語尾上げ)
くらいのいい加減さでみんな進路が決まっていた。
自分の進路決めが何だかいい加減だなあと思っていた私だが
案外そういうものかもしれないんだなと
帰りの電車でガラス窓に頭をくっつけて思った。
と同時に

本当にこれでいいのか?と思う気持ちも
ぼんやりした熱のように頭の隅に沈んでいた。


***
 三年でお金を貯めて大学へ行く、というのが
私の当初の目標だった。勿論公にはせず内緒である。
ところがお金というのは全然思い通りに貯まらない。

私は財形貯蓄の額を、最初から一月7万円に設定していた。
ボーナス時にはその3倍の額が給料から天引きされる。
新入社員としては欲張りすぎな作戦だった。
おかげで私はしょっちゅう金欠になり、
財形貯蓄が下ろせるようになるとすぐに
ちょろちょろと預金を切り崩して生活していた。
服や靴や鞄、冬にはコート、夏には帽子にサンダル。
会社生活って思った以上にものいりなのだ。

それから保険にも入った。
このくらいで十分だろう、と思った掛け金に対し
自分が死んだ時に貰える額の少なさにあっけにとられた。
ニュースやサスペンスで「○億円の保険が」とか
聞いていたけど、まさかそれだけ貰うのに
毎月あんなにお金を払わなければならないとは。
自分が死んだら本当は…三千万円くらい!欲しかったのだが
私が当時「えいや」の思いで入った保険は
死亡時の給付金が三百万円だった。
現実というのはかくも厳しい。

***

しばらくたって、Sは同じ職場内の事務仕事に移ることになった。
一緒に仕事をした期間は半年くらいだろうか。
Sはこの仕事に向いていないとは思わなかったけど、
向いているわけでもなかったみたいだ。
女の子の中で誰か一人事務仕事に行かないか、
という話をすぐ承諾し
作業着を脱いで事務服に着替え、仕事内容もがらりと変わった。
昼の休憩は同期の三人一緒にとっていたので
仕事が変わってもお喋りはよくした。
高校で勉強してきたことが一切役に立たないんだよなあと
最初は自分でもこの成り行きに迷っているようだったが
すぐに慣れて、まるで最初から事務員だったように
イキイキと働いていた。



***
 Sが抜けてしまい、私は必然的にOと一緒に
行動することが多くなった。
仕事の合間や休憩時間に、仕事の話や趣味の話を
ぼそぼそとしていたが
最初は何とも気が合わない人だなあと思った。
読む本、聴く音楽、好きな事、それらの感想
どれをとってもさっぱりかみ合わない。
それどころか彼女の好きなものは
ことごとく好感が持てないものであった。
とはいえどんな人でも長く付き合っていくうちに
付き合い方が分かってくる。
趣味の面ではまるで合わないが、辛抱強くて意外と気が強く
話し慣れてくるとなかなか頭の回転の早い人だった。
仕事の面ではフォローすることが多かったけど
体調を崩しやすかった私は精神面でOによく助けられた。
一年も経つうちにお互い上手く摺り合って
大変良い友達になれたのだ。


昼の休憩時間に私達は職場の隅の資材置き場に入り込み、
缶コーヒーを飲みながらだらだらしていた。
高校時代の話や仕事の愚痴、最近何を買ったか
休日には何をしたか。女の子の話はとりとめがなくきりがない。
将来の話になると二人ともぼんやりした。
私は大学に行くつもりであったが、さて
大学へ行ってその先どうしようと思うと
途端に分からなくなってしまう。
その頃には世の中の好景気も大分熱が冷めてきて
一旦会社を辞めたらまずいんじゃないかな、という
空気も見えてきていた。
Oの方には会社を辞める、という選択肢は無く
このまま何時まで仕事を続けていけるかなあという不安だった。
女性の労働時間は男性社員と比べて格段に少なく
残業できる時間もわずかだ。
一つのプロジェクトは何ヶ月も、下手すると一年がかりになるため
最初から最後まで入れる人が中心となっていく。
定時で帰ってしまう女性を入れるのは難しいのだ。

「やっぱり何年かして、結婚して辞める事になるのかなあ」
Oがぼそっと言う。
「会社とか国の目論見通りで悔しいけど、そうしないと
 必要以上に自分が気張ってるみたいになるんだよね。
 期待されないのは別に構わないんだけどさ…」
結婚かあ、とOはもう一度呟いた。その後で
なんか、人生って何だろうね。と言った。



***
そして三年が経った。
四年も経った。五年も経った。
予定通りに行かなかったものの、ある程度
まとまったお金も貯まった。
にも関らず何故私が会社を辞めなかったかというと
怖くなったからだ。辞められなくなったという言い方が正しい。
浮かれた祭りのような好景気から落ちていった、
半端ない不景気が怖くなったのもある。
大学へ進学した友人が、そんなに悪い人ではなかったのに
あまりに就職に苦労して嫌味を言ったことがある。
曰く「いいよね丁度いい時に高卒で就職して。
 大卒だと今じゃ採用してもらえないんだよね。
 …高卒なんかより余分に勉強してるのにさ」
私はかなり気分を害して電話を切ったけど
それほどの苦労だったのだなと思うと
友人を責める気持ちもすぐ失せた。
それについてどうこう言われる筋合いは無いとしても
確かにいい時に就職できたからね。

それともう一つ。私が過ごした三年間を失うのが怖かった。
自分が手につけた職(…って程でもなかったけど)が
他の機会に役立つとは思えなかったし、大学で役立つような
ものでもなかった。
私はここで大学に行ってしまったら
ただただお金を貯めただけの三年間を
無駄に過ごした事になるのではないか。
会社というのは浅くてぬるい風呂のような場所だ。
浸かっていても快適ではない。不自然な格好で浸っても
薄ら寒くてきちんと温まる事は出来ない。
しかし風呂から出てしまうと、ぬるま湯に慣れた身体に
世間が寒いであろう事を感じていた。
…寒い日のプールみたいな。うまく伝わるだろうか。

そんなこんなで5年が経った。
その時私は23歳、好きな事は山登りと水泳。
通勤バスの中でいつも「今私が30歳だったら」という
空想をしていた。現在30歳であるという前提のもとに
散々色々なシチュエーションを空想した挙句
「まだ私23歳じゃない。ああ良かった!」と思うのだ。
何と憎たらしい空想癖だろう、殴ってやりたい。
(鼻息)

閑話休題。
その当時私はもう現在の彼と付き合っていたが
Oも同じ職場内に彼がいた。
一つ年下の男の子で名前はK君。
新入社員歓迎会の食事の席でOに好意を持った彼が
熱心に口説いて付き合うことになったのだ。
Oは…こう言っては何だけど、もてるタイプではなかった。
外見は「温かみがある」「素朴な」「真面目そうな」と
評されるような子で、
女の子が男の子に「いい子だよ」と紹介して
男にその魅力がさっぱり伝わらないタイプだ。
だからK君がOに好意を持っていると知ったとき、
何だか嬉しくて、影から日向から応援した。
お姉ちゃんキャラのOと弟キャラのK君は
すぐにしっくりしたカップルとなり
最初は戸惑っていたOの口から
休憩時間のたびにK君の話ばかり聞くようになる。
私は仲の良い二人が大好きだったので
その話をいつも面白がって聞いていたのだ。


***
 二人は本当に仲が良かった。年上のOが
年下のK君を上手くあやして釣り合いを取っている感じがした。
どこに行くのも何をするのも一緒。
元々やんちゃなK君の言動に
「あの子は白か黒しかないんだよね」と言って
Oが溜息をつくこともあったけど
あまり大概の場合はOが怒り、K君が素早く謝って
丸く収まっていた。分かりやすくOの事が大好きなK君に
Oも長く怒っていられなかった。
だから二人が喧嘩をした所なんて見たことが無い。
二人で何処かへ遊びに行く時には
必ずファミリーレストランで朝食をとる。
K君の食べ方が子供のように周囲を汚すので
世話をするのが大変だとOがぼやいていた。
…Oの食べ方だって十分子供っぽいのになあ。
私はニヤニヤしながら頷く。
二人でドライブに行った時に、
車が高速道路で故障して大変だった。
新しく出来たあのショッピングモールに行って
こんなものを一緒に買ったよ。
K君の家に遊びに行ったら猫が沢山いてねえ。
そんな話をするOの横顔を見ていたら
ある時その顔がおばあさんの顔に見えた。

「…OはK君とずっとこうやって暮らして行くんだろうね」
何の気なしにそう言った。
Oもそうだろうねえと当たり前みたいに言った。
おばあさんみたいな横顔で頷いていた。
以前だったら、私が十代の若者だったら多分
こんな会話を嫌っていただろう。
Oは将来何をしたいとか、何になりたいとかいう
希望を前から持っていなかった。
将来のビジョンが明確に決まっていて、
夢に向かって努力するような
そんな生き方に憧れていたし、そうなろうと私は思っていた。
やりたい事が何も無いなんて!
保守的が過ぎて無色な彼女の生き方は若かった私にとって
…本当はすごく格好悪いと思っていたのだ。

だけどそうだろうねえと頷く彼女の横顔は
すごく安定した生活を築いてきたおばあさんの顔に見えた。
結婚して出産を機に退職し、子供が成長して孫が出来ても
結婚当初からずっと仲の良い老夫婦として
二人で幸せに生きているように見えた。
子供だった私は派手な成功をいつも妄想していたけど
そうやって「まっとうに」生きていく生き方を
初めてちょっと羨ましいなと思った。
「ねえ、今Oの顔がおばあさんに見えたよ」
笑いながらOにそう言ったら、
「そうかあ。今、おばあさんになった時のこと
 考えてたからかなあ」
Oはそう言って私の顔を見た。
このままこうしておばあさんになるのかもしれない。
でもそれも全然悪くないよね、と
おばあさんの目で笑っていた。


(02へ続く)

長いトンネル(02)

2005年10月28日 | 長いトンネル
それから暫く経ったある日、職場の皆で
早朝のわかさぎ釣りに行くことになった。
一部の人の間で冬の恒例行事になっていたのだが、
色んな人に話をしているうち、ある年
職場の人がほとんど参加するような
大規模なイベントになってしまった。
私は前の年に参加していたけど、二月の寒い日
まだ真っ暗なうちからボートを漕ぎ出して
分厚い手袋に苦労しながら餌をつけ
寝ぼけ眼で釣竿を上げ下げするのは
―――これが意外と楽しい。
陽が登ると真っ白いもやが水面を滑っていくのが見える。
魚がかかる感触がプルプルと面白くて
夢中になって釣りをしていたら
水面の照り返しに顔を炙られ、昼ごろボートから
降りる頃には顔がパンパンにはれていた。
釣れたわかさぎはその場でてんぷらにして食べるのだが
さっきまで付けてた赤虫がお腹の中に見えても
見ないふりしてパクパク食べた。
たとえ顔がアンパンマンそっくりになっても
とても楽しい冬のイベントなのだ。


イベント前日の金曜日、私は休み時間を利用して
釣りで使う椅子を自作していた。
前年に普通の座布団をボートに敷いていたんだけど
お尻がじんじん冷えてしまい、腰が痛くなって
ずっと中腰でボートに乗っていたのだ。
その痛い経験を生かし、今年は快適なボート生活を送ろうと
職場に余っていたクッション材を利用して
暖かい箱椅子を作っていた。中に赤虫もしまえるよ!

中に赤虫もしまえるよ!凍らなくて便利だね!
とか独り言を言いながら上機嫌で布を切っていたら、
明日一緒に参加するOが側にやって来た。
「あ、いいもの作ってるなあ。材料余ったら
 私の分も作っといてよ」
私はいいよと軽く答えて新しくクッション材を切った。
その位から私の頭がぼんやりしていて
はさみを持つ手もぶるぶる震え、どうしようもなく
ヤバイ状態だったのだが
イベントを楽しみにする心で浮き立っているのだと
自分を納得させようとしていた。
実は自分でも分かっていた。…風邪をひいたのだ。
よりによってイベント前日に、そしてものすごい勢いで
熱が上がっているのが分かった。
でも何とか(自分を)誤魔化せないかな、
治っちゃわないかな~と思いながら椅子を作っていたのだ。
残念ながら治っちゃわないのだが。

「Oは明日K君と来るんだっけ」
参加する気満々(休む気0)で私は聞いた。
「そうだよ。K君が3時半に迎えに来るんだ」
Oの自宅はわかさぎ釣りの池から最も遠く、
朝の5時集合となると
その位の時間にOの家を出発しなければならない。
寮に住んでいるK君が2時半に出発してOを拾い、
現地に集合するという寸法だ。
その後何か、大変だねとか喋った気がするが覚えていない。
多分私の喋りはうわごとみたいになっていたろうと思う。
ともかく何やら喋りながら作った箱椅子を
私はOに手渡した。
それはもしかしたら私の分の箱椅子であったかもしれない。
その位意識が朦朧としていたのだ。


***
 椅子を作った日の終業後、
私は準備係のO君と一緒に食料の調達をした。
わかさぎ釣りをした後は岸辺でバーベキューをするのだ。
主だった材料は他の人が準備してくれるので、
一緒に調理できそうなものや調味料、
お菓子などが私たちの担当だった。
気を紛らすためになるべく調子に乗って
お菓子を好き放題にショッピングカートに放り込んでいたが
買い物が終わる頃には自らの限界を悟り
がっくり項垂れることになる。


…まぁ あかん。(※「もうだめだ」の意。名古屋弁)


私は「この食料をどうかよろしく」とO君に頼み
這いずるように帰宅した。
自分の声が頭の中でうわんうわん響いていた。
帰宅してからもユンケルを飲んで最後の抵抗を試みたが
やがて静かに力尽き、主催者に欠席の電話連絡を入れた。




イベント当日はとても良い天気だった。
寝室に差し込む二月の日差しを顔に受け
みんなは沢山わかさぎを釣れたかなと考えていた。
額に冷えピタ、脇の下にアイスノン。
結局熱は40度まで上がり、どう頑張っても
早朝のわかさぎ釣りなど無理だった。
昼過ぎに一度起きて水を飲んだが
それ以外は一日中眠っていた。
ボートに乗って釣りをする夢を見たりした。
薄明るく揺れる水面の下に銀色の群れが見え

しかし魚は一匹も釣れない。



***
 翌日の日曜日には熱も大分下がった。
まだ少しゆらゆらする頭を抱え、パジャマのままで
足を投げ出してハウス食品劇場などを見ていた時だ。
彼から電話がかかってきた。


当時はまだ今ほど携帯が普及しておらず、
彼が電話嫌いだったこともあって
向こうから電話がかかってくることなどほとんど無かった。
彼はイベントに参加していたので
体調不良で休んだ私を心配してくれたのだろうか。
嬉しくてうきうきした声が出た。
彼が何か話し始める前から
「昨日はどうだった?」「わかさぎ沢山釣れた?」
と質問を重ねた。
しかし私は途中で口をつぐんだ。
私の質問に対する彼の口篭もるような返答に、
そして何かを切り出そうとして切り出せずにいる口調に
私は急激に胃の辺りがどしんと重くなるのを感じた。
どうしたの、と無理やり声を出したけど
本当はそんな事聞きたくなかった。
物凄く嫌な予感がした。恐かった。


落ち着いて聞いてほしい、と言われたのに
私はその時点でまんまと大パニックになってしまった。
何があったんだと聞きながら大泣きして
パジャマを片手で脱いでいた。
何処へでも出かけられる準備をしていたのだ。
受話器の向こうでわあわあ泣く私をなだめながら
彼は自分の持っている情報もあまり沢山は無いんだけど、
と前置いて、それから昨日あった事を話し出した。
昨日イベントが終わった帰り道に、K君の車が事故にあった。
Oを自宅まで送っていく途中だった。
居眠り運転だったらしい。
K君は鼻と指を折る怪我で、Oの方はもっと良くない状態らしい。
彼は私に、今病院に行ってもOは集中治療室にいて
会う事は出来ないから家にいなさいと言った。
後で分かったけど、事故の連絡を直後に受けていた彼は
すぐに病院に行って二人と家族に会っていた。
本当はもう少し詳しい情報を持っていたのだが
私が思ったより激しく動揺していたので
それ以上言うのを止めたそうだ。

Oはその時すでに危篤状態だったのだ。



***
 イベントは午後二時ごろお開きになったそうだ。
わかさぎがちっとも釣れなかったり、
主催者がてんぷら鍋を忘れたりして
決してスムーズに進行した訳じゃないけど
それでも和気藹々のうちに終了し解散した。
K君はOを家に送っていくために車を走らせた。
助手席ではOがすっかり寝入っていたため
眠りの妨げにならないようにとカーステレオの音量を落とした。
二月とは思えないぽかぽか陽気に
K君は高速に上がってすぐ眠気を覚えた。
あともう少し走ればOの自宅近くのインターだったけど
K君は無理をせず、最寄のSAで休んで行こうと思ったのだ。

事故が起きたのはSAの僅か1km手前だった。

ブレーキ痕は無かった。見ていた人の話によると
K君の車は走行車線から吸い込まれるように路肩へ入り
ガードレールの継ぎ目に正面から突っ込んでいった。
ほんの二三秒目を瞑ったと思った、物凄い音で我に返ると
事故が起きてしまっていたとK君は病院で言ったそうだ。


ガードレールはフロントバンパーの真ん中から侵入して
後部座席まで突き抜けていた。
つまり車は縦半分に、運転席と助手席の間を
ガードレールで切断された形になる。
事故車両の写真を見た。のこぎりで切ったように
車体が切れている場所もあれば
引きちぎったように捩れている箇所もあった。
車とは思えない、まるで紙で出来ているみたいだった。
そうやって車内を駆け抜けたガードレールは
二三秒の間にOの頭の右側半分を持っていった。


***
詳しい話が聞けたのは休みの明けた月曜日だった。
職場では緊急でミーティングが行われ、
何故事故が起きたのか、そして今後事故を起こさないように
どうすべきかを皆で話し合った。
部長は事故が起きた日から病院につきっきりだった。


私はOと最後に喋った内容を思い出そうとしていた。
それは最後にしては日常的すぎて
思い出してちょっと涙が出たけど、少し笑いもした。
私以外の皆にはわかさぎ釣りの思い出があるのに
私は椅子作って、だってさ。
毎日は連続した巻物だと思っていたけど
実は一日一時と分割されたカードだった。
今日が終り、明日を捲ったら夜があった。
夜の次には捲るカードも無いかもしれない。
明日なんて初めからひとつも約束されていなかった事に
私はようやく気がついた。


Oの危篤状態は三日間続き、それから少し持ち直して
それでも予断を許さない重体の状態が一月続いた。
最初救急隊が現場に到着した時、事故の程度と損傷具合から
もう駄目だと思ったそうだ。
しかし救急隊員の呼びかけに、Oの指先がほんの少し反応を示した。
それで救急患者として病院に搬送されたのだ。
病院の医師からそう聞いた部長が嬉しそうに皆に報告した。
偶然そうなったのかもしれない、でもOが頑張ったに違いない。
…いけるかもしれない。
私はあらゆる何かに向かって祈った。
彼女がもう少し頑張れますように、この事故の結末が
死で終わる事がありませんように。
あんな会話が最後でありませんように。


誰からともなく折り始めた鶴が
休憩室の机の上に溜まっていった。
散らかるので折り鶴を入れるせんべい箱を設置したら
あっという間に一杯になってしまい
大きなダンボール箱を用意しなくてはならなくなった。
男職場でそんな事はしないと思っていたのに
独身の男の人達が寮で鶴を折ってきては
毎朝箱に入れていた。
この鶴は最終的に六千羽にもなった。


***
 事故から二週間くらい経ったころ。
Oの脳は事故直後から頭部への衝撃で膨れあがり、
頭蓋骨の中に納まらなくなっていた。
だから今は頭蓋骨の上部分を外した状態で治療を受けているそうだと
毎日のように病院に通っている部長から聞いた。

…え、「頭蓋骨を外した状態」って?

私は一度神妙に頷いてから、慌てて二度聞きした。
Oのことを心配に思う気持ちもあったが
その時ばかりはただ純粋に不思議だった。
私も脳に詳しい訳じゃないけど知っている事だってある。
血、とかは出ないのか。脳漿、とかは何処にいったのか。
脳は水に浮いている豆腐のようなものだと習ったが、
豆腐本体だけで平気なものなのか。
…乾いたりとかしないのだろうか。
一体そんな事になっているOは大丈夫なのだろうか。
聞きたいことと、しかし聞いてもいいのだろうかという思いで
頭の中がかなり混乱した。
そうと聞いてきた部長も話しながら、何だか複雑な顔をしていた。
次めくるカードには一体何が出るのだろう。
先は全く見えない。


Oの意識はなかなか戻らなかった。
回復を待つ身としてその間何も手助け出来ないのは実に歯がゆい。
じりじりした気分で出来ることを探していると
Oのお母さんから部長づてに職場へお願いがあった。
「呼びかけテープ」を作ってほしいという。
Oのお母さんは毎日娘の枕元で呼びかけているが
なかなか反応が得られない。
なるべく沢山の、しかも知りあいの呼びかけが
意識回復の手助けになるそうなのだ。
これはやらないわけにはいくまい。

しかしやはり照れくさいので
小さな部屋にカセットレコーダーを置き
(病室にカセットしか持ち込めないそうなのだ)
それに向かって職場の皆が一人ずつメッセージを入れていった。
声を掛けたい事が色々あったはずなのに、いざレコーダーに
吹き込もうとすると口が動かなかった。
元気?も変だし大丈夫?もおかしい。
随分時間をかけた挙句、月並みな台詞を吹き込んで終わったと思う。
本当は言いたい事がひとつあった。
K君は無事だよ、だからOも早く良くなってねと。



しかしこれだけは言えない。
Oのお母さんはK君の事を ひどく憎んでいたからだ。



***
最初から先行きが不安だった。

Oの家族とK君は面識があったものの
特にこれといって悪意を持たれていた訳ではない。
…が、好意を持たれていた訳でもない。
迎えに行った時にちょっと挨拶をする程度で
いつもそれ以上の話にならなかった。
事故直後、K君はあまりの事に混乱してしまい
駆けつけたOの家族とろくに話が出来なかった。
K君は感情が表情に出にくいので
Oの家族にはそれが、事故を起こしておいて
ボーっと突っ立っている男に見えたのだ。
実際にこんな事故を起こしてしまったらどうだろう、
泣いたり喚いたり家族に謝ったり出来るだろうか。
ショックから逃れるために現実ではないと思い込み
K君のようにぼんやりとしてしまうのではないだろうか。

Oと日ごろから仲の良かったOのお兄さんの
怒りは凄まじかった、と
事故直後に病院に駆けつけたOの上司が言っていた。
Oのお母さんもK君の事を大声で罵っていた。
ただ一人だけ、Oのお父さんが大変冷静な人で
「娘が助手席で寝ていなかったら、
 事故は起こらなかったかもしれない」と言ったそうだ。
Oのお兄さんとお母さんに大変な反感を買ったそうだが
身内でもなかなか言える事じゃないよな、と
上司は深い溜息をついた。


***
Oは事故から数え切れないくらい多くの手術を経て
二週間目の終わりか三週間目に、何と意識が戻った。
二三日持つか持たないかと言われていたのに
すごい回復力だと医者も驚いていたそうだ。
奇跡が起こったと思った。よく映画やドラマで起こるあれが
私達の元にも起きたのだと。
もう大丈夫だ。これで全てが上手くいく。


事故があった直後、私は病院にOを見舞いに行く夢を見た。
一般病室の扉を開けると、頭に包帯を巻いたOが窓辺にいて
K君と談笑している。
私はそれを見てその場に座り込み、大声で泣くのだ。
意識が戻ったOに会ったら、私は夢と同じように
安心して泣いてしまうだろうなあと思った。
しかし少し前に聞いたOの容態は決して
安心できるようなものではなかったはずだ。
その辺りが気になって部長に聞いたところ
(部長が病院の様子を伝える係りのようなものだった)
部長もOと会った訳ではないのでよく分からないが
Oのお母さんからの情報では

・脳に損傷を受けたため、危ぶまれていた半身不随だが
 元気に両手両足を動かしているので多分大丈夫
・頭蓋骨はまだ外したままである
・頭以外の、例えば手足などはまったく無事である
・記憶がほとんどなくなっている

という事だった。


幾つかの物凄く気になる点があるが、
見舞いに行っても良いかと伺った所
Oのお母さんは是非娘に会ってやってほしい、
そして記憶を戻す手助けをしてほしい
と言っていたそうだ。
一日も待てなかった私はその日仕事が終わった後、
後輩のKちゃんと一緒にOに会いに行った。
その後何度も乗ることになるH駅行きの電車に乗って。


***


奇跡は起こると思っていた。

本気で祈れば、必死で抗えば、何かを絶ったり
何かを犠牲にしたり、ともかく全身全霊で念じれば
起きない奇跡は無いとさえ思っていた。
Oが死の淵から生還したのは確かに奇跡だった。
そして私は当時、奇跡が起これば問題解決と思っていた。
実際奇跡が起こるか、起こらないか、の二択ではなく
その度合いが問題になってくる。
或いはいくつの奇跡が重なるか。



私達二人は緊張して、病院に着くまでの間無言だった。
受付でOの病室を聞き、エレベーターに乗り込むと
ようやく顔を見合わせてちょっと笑った。
Oに会えるのが嬉しかった。時間は掛かるかもしれないが
きっと又元のように仕事をしたり、休憩したり
旅行に行ったり遊んだり出来る。
記憶がほとんど無いと言うが、もし仮に戻らなくても
もう一度私を覚えてもらおう。
最初に何と言って声をかけようか。
ここはやっぱり自己紹介からかなあ。


病室の扉をノックすると、Oのお母さんらしき人が出てきた。
Oのお母さんに会うのは初めてだったが、
全然Oに似ていなくて驚いた。控えめなOに対し
典型的な大阪のおばちゃん、といった感じのお母さんは
すぐに私達が会社の友人と分かり、大喜びで出迎えてくれた。
会ってやって会ってやって!と私達を病室へ
導こうとしたが、唐突に振り返り声を潜めた。

「ちょっと待ってや。あのな、
 …あいつの話だけはせんといてな」

私達は黙って頷き、大丈夫ですと言った。
呼びかけテープにもK君の声は入れられなかった。
事故以来、お母さんはOにK君の話は一切していない、
まるでそんな人は最初から居なかったかのように。
この問題は時が経たないと解決しない。
K君を弁護したい気持ちは山ほどあったが
今どうこうしてはいけない事なのだ。


「●子さん●子さん、お友達が来たで」
Oの名前を呼びながらお母さんが先に入り、
次いで私達は恐る恐る中へ入った。
広い個室のベッドサイドには沢山の機器があり
そこから伸びたチューブに埋もれるようにOのお父さんがいて
落ち着いた笑顔で迎えてくれた。
そのお父さんの袖口のボタンを弄る
包帯を巻いた手があった。ベッドから伸びた青白い手。




「●子さん、この人誰や?お友達やで」
Oにそう聞きながらお母さんは振り返り、
お名前は?と私達に尋ねる。
私が名前を言い、Kちゃんも言った。
その名前を繰り返してOに話しかける。
ほら●子さん、○ちゃんと△ちゃんが来てくれたで。

そうしている間、私達はOから目が離せなかった。
顔に怪我をしているのは分かっていたから
覚悟はしてきたつもりだった。
だけどそれは怪我以前の問題だったのだ。
…この人は誰だろう?
無表情にボタンを弄っている彼女は
顔半分を包帯で覆い、額から上はさらしのようなもので
巻かれていた。包帯から出ている左の顔面には
目立った傷も無く、だから余計に不思議だった。
何も変わっていないはずのに
どうしてもこの人がOと思えないのだ。




ドラマでよく「記憶をなくした人」を見る。
あなたの名前は?家は?この人は誰?等聞かれた助演女優が
眉間にしわを寄せて「分からない…」と言う。
それを聞いてがっかりした顔をする主人公、
ごめんなさい、でもあなたの事、分からないのと
女優は申し訳なさそうな顔をする。




記憶を無くした人とは恥ずかしながら
そんな感じかな、と思っていた。
お母さんが嬉しそうに、これ誰や?と私を指差す。
知らん、とOが言う。
これは誰や?とKちゃんを指す。
知らん、とOが言う。
そしたらこれは誰や、とお父さんを指差すと
暫く間があっておっちゃん、と言う。
じゃ●子さん、これは?
お母さんが自分を指差す。Oは又少し黙って
分からん、と言う。

そこには忘れてしまった、どうしようという焦りも
思い出せなくて悔しいという苛立ちも
喪失感も悲壮感も無かった。
Oは誰の顔も見なかった。
ただ見るともなくボタンを見て、それを
ずっと指先でなぞっているだけだった。



***
Oはボタンをいじる傍ら、何度も頭に手をやり
頭の傷を包帯の上から掻こうとしていた。
お母さんはそれを幾度も制しながら
「掻いたらあかんて言ったやろ」と
Oの手をボタンまで導く。
するとOの興味はボタンに移り、又それをなぞりだすのだ。
「こんなんしてずっと弄ってるんやで、ところで●子さん
 これは誰や、これは」
お母さんは自分を指差す。Oはお母さんの顔をチラッと見て
知らん、と言う。
「違うやろ、教えたやろー。お母さんやで、お母様やで」
「おかあさん」
「そうやお母さんや、昨日まで言えたやないの」


私は何を考えられるでもなく、ただニコニコと
その会話を見守っていた。それだけで許容一杯だった。
身内であるご両親の方がどれだけ一杯一杯だった事か、
だけどお母さんはひたすら気丈に振る舞っていて
それがたまらない気持ちになった。


本当は一方的にK君を責めたというOのお母さんを
私は良く思っていなかった。
私は仲の良い二人が大好きで、二人ともが大好きだった。
二人に早く良くなって欲しかった。
K君は大した怪我ではなかったとはいえ、
大した怪我ではなかったからこその傷が残った。
例えOが全快したとしても
これから先ずっと苦しまなくてはならない傷だ。
…今考えると青ざめるけど、当時はそんなK君の事も
少しは分かって欲しいと思っていたのだ。


だけどこの状況で何を理解しろと言えるだろう。


「又来てや!」というお母さんの言葉に
私達は頭を下げて病院を出た。
帰りの電車の中ではKちゃんと二人、
「…思ったよりもずっと元気そうだったね」と
話しながら帰った。
二人ともそう思い込みたかったのだ。
こういう言い方が適切かは分からないし、
誤解を招くかもしれないけど
当時の私が理解できる範疇の出来事ではなかったのだ。
『重体』と言えば少しも動けない状態、
意識が回復したと言えばもう大丈夫、
そんな安易なイメージだけで生きてきた私が
初めて捲った暗い夜のカード。

それは私の手に余り、だけど捨てられる物ではなかった。
一人でバスに乗り帰る道すがら
私は目の前に広がる道が
もう以前と同じではない事に気が付いた。
見えていたのに見ないふりをしていた道に
私の足は踏み込んでいた。


その暗い道の先に口をあける
長い長いトンネル。



(03へ続く)

長いトンネル(03)

2005年10月28日 | 長いトンネル
それからは毎日 会社帰りにOのいる病院へ寄るのが
私の日課になった。
二両しかないローカル線に揺られて30分、
駅に着くと走って病院に向かう。
単線なので帰りの電車までの時間が限られているのだ。
往復20分、病院に居られる時間は10分くらいしかない。
それでも通える限り毎日通った。
10分の間に話せるだけ話し、じゃ又来るからと走って帰る。
まるで早送りみたいなお見舞いだったけど
そんな忙しない私の来訪をOの家族はとても喜んでくれた。


お見舞いに行った次の日は、Oの様子を一番にK君に報告していた。
軽傷だったK君は事故から一週間後くらいに出社していた。
直後はあまりにも痛々しすぎて
何を話しかけられる訳でもなかったが、
Oに会わせてもらう事はおろか
いつも門前払いで謝罪も出来ないらしいK君に
会えるようになったら私が様子を見てきてあげる、と
約束していたのだ。
慎重に、なるべく自分の見解は交えず見たままを話した。
…でもついつい良い方へ言ってしまうことも、
或いは楽観的な意見を言ってしまったりもした。
悪い事を言うと、何だか自分の言葉で悪くなるような
そんな気がしたからだ。
私の話を聞いて嬉しそうなK君の顔を見るにつけ
Oの事をK君に話すように、K君の事をOに話したかった。
多分だけど、Oの記憶に一番残っているのは
K君じゃないだろうか。


様子を毎日見るうちに、Oには全く記憶が
残っていない訳ではない事に気が付いた。
何か新しい話をすれば、それに応じた返事が返ってきたりする。
相変わらず誰の事も見ないOの手に
ハンドクリームとか塗りながら
10分間一方的に話しかける私。
すると時々、お母さんには分からない相槌をうつのだ。

「一人で休憩してんだよ。寂しいんだからさ、早く帰って来てよ
 ブースの裏で一緒に休憩しようよ。」
『ああ、幽霊の足音なあ』

傍から聞くととんちんかんな返事だけど、
これにはすごい意味がある。
その昔ブース裏でOと休憩してた時、変な足音を聞いた。
階段を降りてくるトントントンという足音だけど
すごくはっきり響いているのに、階段の裏側から見ていても
誰も降りてこないのだ…。
二人して顔を見合わせて、それから素早く退散した。
私の事は覚えていないのに、あの出来事は覚えていたのだ。
話をすればするほど記憶がぱらぱらと戻ってくる。
勿論返ってこないボールも多々あったけど
返って来た時の感動が物凄いキャッチボールだった。
…私と遊んだ話より、K君と遊んだ話が出来れば!
Oの記憶はそれこそ波濤の如く戻ってくるんじゃないだろうか。
しかしOの家族の前でK君の名前は出せない。
私はじりじりしながら、それでも何とかK君を思い出させようと
K君も関る思い出話をまるで暗号のようにちりばめながら
素知らぬ顔して彼女に話し続けた。



***
Oの額から上にはさらしのようなものが巻いてある、
と書いたけど、その下は頭蓋骨を外した状態だったらしい。
でもその部分がどうなっていたのか、実はよく覚えていない。
包帯が何で留めてあるとか、その巻き方だとか
私はわりと興味を持って観察する方だと思うけど
Oの頭は見られなかった。怖かったのだ。
だからやたら力をこめて、Oの目ばかり見ていた気がする。
情熱的な見舞いであった。


Oはあまり両親と仲が良くなかったらしい、と
事故が起こってから気が付いた。
飲み物以外の物が口に出来るようになった時
お母さんがOに
溶けかけたアイスクリームを食べさせていた。
Oの嫌いなものの一つに「溶けかけたアイスクリーム」があった。
アイスクリーム自体は大好きなんだけど、
溶けかけのあの感じがすごく嫌で
少し食べては冷凍庫に入れ、再度カチカチに凍らせてから
食べると言っていた。
でも私がそれを言って良いんだろうか、
Oが無表情にアイスを飲み込むのを見て
何だか何も言えずに帰ってきた。

退院したらリハビリのために犬を飼うことにした、と
お母さんが言った。Oは以前から動物を飼いたがっていたから
それはそれは良い刺激になるだろう。
「あの子、どんな犬が飼いたいって言ってた?」
お母さんが聞いたので、私はOが飼いたいと言っていた
犬種を教えておいた。柴犬かコーギー。
生真面目な顔をした犬が好きだったのだ。
反対に嫌いなのが座敷犬なのだが
好きな犬種を伝えておけば良いかなと思い
その事は伝えなかった。


結局飼ったのはシーズーだった。


もしかしたら、嫌いな事を知っていても
Oのお母さんという人は溶けかけたアイスクリームを
食べさせたかもしれないし、シーズーを買ったかもしれない。
でも知っていたらこんな事態の真っ只中、娘の嫌いな事は
出来る限り避けたのではないだろうか。
私は複雑な気持ちでOを見守り、
そして自分の両親と自分の関係も反省した。


私は両親が事故にあった時、
果たして両親の好きな物を食べさせてあげられるだろうか?
そう考えたら全く自信が無かったのだ。



***
Oの脳の腫れは結局ひかなかった。
…引かなかったというのはどういう事だろう。
書いていてもよく分からない。
そしてどうしたかと言うと、死んでしまっている
脳を部分的に切り取って、容量を小さくして「入れた」のだ。
あまり長期間頭蓋骨をあけておく事も出来ず、
それしか方法が無かったらしい。

脳を一部切り取ると聞いて私は物凄く動揺した。
たとえそれが死んでしまっている組織だとしても、
…でも、でも脳ですよ。
甘い考えだが身体に繋がってさえいれば
もしかしたら生き返る可能性とか、無いんだろうか。
切り取るという事は永遠に失われる事であり
一体その切り取る部分は、Oの身体の
Oの精神の何処を司っているんだろうか。


そしてその、何かを司る組織を無くして
これから先Oはどうなってしまうんだろうか。



人間の脳で使用されている部分は5%だとか
10%だとか聞くけども、
脳に損傷を受けた場合、なぜその5%なり10%なりが
大抵間違いなくダメージを受けるんだろうか。
「はずれ」の部分にだけ損傷があったって良いじゃないか。
勉強の出来ない私は当時よくそんな事を考えて
一人悶々としていた。
今なら何となく分かる。5%とか10%とかいうのは
範囲ではなく「出力」の事であって、
この組織からして最大出力は100と予測される内の
10くらいしか力を出していないという意味なんだろう。
100個エンジンがあるうち、10個を使っていて
その内の5個が壊れたのではなく
1個のエンジンの一部が壊れてしまったのだ。


何かを欠いたまま彼女の頭蓋骨は閉じられ
縫合された。
でもその何かの中にこそ
彼女自身があったとしたら?


***
Oはその後何度も手術をした。
手術をするたびに命の危機から遠ざかるのは分かったけど
命の危機から遠ざかって、それから?
その日も何かの手術の日で、夕方には終わるからと
私は後輩のKちゃんと一緒に見舞いに行った。
そろそろ麻酔が覚めてる頃だと思いますよ、と
看護婦さんに言われて部屋に行くと
手術後の控え室にはO一人で
Oは完全に覚醒しており、側に下がっている点滴の袋を
足で蹴り落とそうとしていた。

どの部分を手術したかは知らないけど、
どこだってこんなに動き回ってはいけないはずだ。
ほとんど逆立ちのようになって
袋につま先を伸ばすOを慌てて宥め、
点滴を遠ざけようとしたらOは
「お水を下さい」と繰り返した。
私達の顔は見ずに、点滴の袋だけに狙いを定めながら
はっきりした口調でそう繰り返した。

その後も暴れ続けるOを看護婦さんに任せ
私達は逃げるように病院を出た。
帰りの電車の中では何も話せなかった。
ただ一言、元気そうだったね、と
初めて見舞いに行った時と同じ事を言った。



私はこんな結果を予想してはいなかった。
治るか治らないか、生きるか死ぬか。
奇跡が起きるか起きないか。
当時の私に理解できるのはその二つの道だけだった。
しかし本当の道はそう分かりやすく開けている訳ではない。
危険な場所にはそうと知らせる立て札が立っている訳でもないし
入っていけない場所はガードレールで守られている訳でもない。
そして人は誰も、悲しみから特別な力で
守られているわけではないのだ。



Oは三ヶ月入院して退院した。
完治という言葉が完全に治るという意味ではなく
治療が終わったという意味でも使う事を私は知った。



***
病院での治療を終えて自宅に戻ったOに
私は時々会いに行ったけど
Oの様子にほとんど変化は無かった。
相変わらず周囲のものに興味の無い様子で
一点を見つめるか、或いは視点を定めずに
うろうろさせたまま
かさぶたをいじったり顔の傷跡を触ったりしていた。
好きだった動物にも興味がなくなり
飼ったシーズーがじゃれつくと感慨なく手で払っていた。

見慣れた自宅やその周囲の風景などを見て
何か感じるものがあるかもしれない、という
淡い期待は立ち消える。
…K君の事を話したい。
何せ事故にあう前のOはK君の話ばかりしていたのだ。
Oは様々な記憶を失ったけど、その中の大きな部分を占めていた
K君の話題を出して、少しでも記憶を戻す手助けを出来ないのは辛い。
せめてもの抵抗としてK君の話以外、
どんな些細な思い出話もOに話した。
思い出話のほとんどにK君が絡んでいたし
それがきっかけになってK君の事を思い出してくれたらと
ありとあらゆる些細な出来事を話した。
傍目に見るとおちのない話を延々と続ける女である。
さぞかし変な光景だったろう。
だけどその些細な出来事をOが思い出した時には
俯いてかさぶたを触っているOの顔が上がり、遠くを見て笑う。
そしてほんの少しだけ私の顔を見てくれるのが嬉しかった。



射撃で手ごたえは感じるのに大きな爆弾は落とせない、
そんなじりじりした日が何週も続いた。
が、そこへ待ちに待った変化が訪れる。
K君がOに会うことを許してもらったのだ。
私はその場に立ち会った訳ではなく、
後からK君ならびにOのお母さんから事情を聞いた。
口下手なK君はうまく自分の気持ちを伝える事が出来ず、
ただただ家の前に佇んでいる事が多かった、と
のちにOのお母さんはぷりぷりしながら言った。
何や、はっきりせん子やね!と何度も怒ったという。
だけど毎日のように通いつめるK君の姿に
そのうち根負けし、仕方なく家に上げて
Oに会わせた。ところがである。



何を見ても何をしても反応しなかったOが
K君に会った途端、突然喋りだした。
自分の体調のことをぽつっと話し(ちょっと頭が痛い)、
K君の顔を見、K君の名前を口にして
随分前にしたゲームの話、買い物に行った話、
以前病院に付き添ってもらったときの話をした。
そして
今日は一体どうしたのかと聞いたのだ。


***
当時はK君もOのお母さんも興奮していたし
何より私自身が大興奮していたので
二人が会った時の本当に詳しい状況ではないかもしれない。
だけどはっきり覚えている事があって
それは玄関先で佇み、謝罪を口にしたK君に
「そんな事はいいからまあ上がりなよ」と
Oが言ったということ。


それまでのOからしたら劇的な変化だ。
自分から何かを話し出すような事もなく
物事に何の興味ももたず
誰かの顔を見ることもなかったOが
K君を見た途端、以前のような口調で話しかけたのだ。
行き止まりだと思っていた道の果てに突き当たってみると
もっと先まで道が伸びていた、そんな感じだ。
病院での治療が終わっても
この先はこうして回復していけるのだと思えた。


停滞に吐く息が尽きかけていたOの家族にとっても
絶望の只中にあったK君にとっても
それは眩しすぎるほどの希望だった。



私はようやく大手を振って、皆で一緒に旅行へ行った時の写真や
K君とOを二人で写した写真などを見せる事が出来た。
当時私は写真を撮るのが好きだったので
そんな写真はいくらでも持っていた。
Oの家に行く前日は持って行く写真選びに始まり、
その写真にまつわるエピソードを思い浮かべながら
気合を入れて準備し、
K君を入れた同僚や先輩と一緒に
朝早くから張り切ってOの家の門を叩いた。



この時期に私は人の様々な側面を見る。
それは当時の特殊な状況が見せたものだった。
普段では絶対に見ることが出来ない
その「人として」の部分。


K君と日ごろから仲良くしていた先輩のKさんは
駅から遠いOの家までせっせとK君を送っていった。
同僚のS君は時間があるとOの見舞いに行っていた。
事故が起こった時にはもうすでに会社を辞めていた人が
家に戻ったOの元に花を届けに行った。


お見舞いに行かない人が悪い、と言っているわけではないのは
分かってもらえると思う。
目に見える形で心配するのが最良だとは思わない。
むしろ目に見える形で心配してしまう人は
何か下心のある人か、
「都合の悪いことからうまく抜け出せない人」だと思う。
悪い意味ではなく、職場にいた大半の人は
都合の悪い事実からすっと目を逸らすことが出来た。
私はそれが出来なかったから
私に出来る事を続けていただけだ。
遠くからそっと心配できるならそうしたかったけど
私はどうしても目で確かめないと駄目だったのだ。
…Oの容態をK君に伝えるという
下心もあったから。
結果はまんまと都合の悪いことにはまり
事実がどれだけ辛くても
見守り続けなくては気がすまなくなってしまった。
お見舞いに何度行ったから偉い、
行かなかったから薄情、ではなく
遠まわしな愛情、見せかけの愛情、間接的な愛情、薄情を
私は事故を通して学ぶことが出来た。


***
そんな訳で私は数人の不器用な友人と共に
Oの回復を見守り続けた。
K君という爆弾の投下で
停滞していた現状は劇的に変化した。
…だけどそれはある一定まで、
あれだけの事故だったのだ、
全く元通りと言うわけにはいかない。
尤も当時はそうじゃない、今は回復の途中なのだと
思い込もうとしていたけど。


Oの様子は時々、普通になる。
話しかければごく一般的な返事が返ってくる事もあり
私達はそれが元に戻っていくしるしだと思っていた。
でもその返答には根本的な何かが欠落している。
私達は皆気付いていたけど
聞かないふりをしたり、話を変えたりして誤魔化していた。
思いがけず続いたこの道の
終着点が何処なのか、知るのが恐かったのだ。


Oの家から帰り道、車を運転しながらぼんやりと
ああ、Oに会いたいなと思ってはっとした。
そうだ。私はずっとOに会いたいと思っていたのだ。
本人を前にして話していながら変な話だけど
私はずっとOの中に、Oらしさが残っていやしないかと思って
探りつづけていたのだ。
目の前にいるのは、見た目はちょっと変わったとは言え
紛れもなく友人なのに、話してみると違う。
私はOの様子を気にするけど
Oは私の様子を気にする事はない。
私が何かしていても、
「いいもの作ってるなあ」と話しかけてくることは
もうないのだ。



私はOが退院してから初めて泣いた。
どこ行っちゃったんだよう、帰ってきてようと
呟きながら泣いた。

***
Oにはその後も様々な体調不良が
後遺症としてついて回った。

頭痛や吐き気に苛まれ何度も入院する事になる。
その度に色々な治療を施すものの、
そう簡単にすっきりと気分の良い状態にとはいかない。
最初に命を取り留めたからもう大丈夫、な訳じゃない、
Oのお母さんにもそれは十分分かっていた。
だけどあまりに長引く苦痛と
いつ病院に飛んで行かねばならないか分からない生活、
手術跡だらけの娘の顔がお母さんの限界を超えてしまった。
最初にK君に会った時の、
あの急激な回復もしばらくすると停滞し
そして間の悪いことにK君が来る時に限って、
Oの体調が悪くなる日が重なってしまう。



ある日、私が友人のS君と二人でOの家を訪ねた時だ。
●ちゃんちょっとおいで、見せたい物があるねん、
そうお母さんに呼ばれて私は一人別室に誘われた。

そこは六畳程の和室で、
壁ぎわに大きな桐の箪笥が二棹並んでいた。
どうやら箪笥だけのための衣装部屋らしく
お母さんは「そこにお座りや」、
と言って部屋の真ん中辺りを指差した。
私がそこへ座ると、Oのお母さんはニコニコしながら
箪笥の引出しを開ける。

中には和紙で繊細に包まれた美しい着物が入っていた。
Oが18歳になった時から一着ずつ作って
今ではこの衣裳部屋の箪笥にぎっしりと
Oのために仕立てた着物が溢れていた。
地域柄、嫁入り道具を絢爛豪華にする家がまだ多く残っている。
Oから聞いた事はなかったけど、
Oの家はそういう昔ながらの家だったらしい。
プリントの柄なんて一枚もない、細かい刺繍が
ぎっしりと入った、見るからに上等な着物が
私の周りに何枚も並べられていった。
最初はすごいですね!と見入っていた私だったが
着物を広げるお母さんの手つきが段々
荒々しくなっていくのを感じて顔を見上げた。


お母さんはニコニコしながら泣いていた。


着物一枚に帯は二本て言うの、
全部の着物に帯を二本ずつ作ったんやで。
これなんか綺麗やろ、これは成人式で着た着物や。
こんな地味なのも作ったんや。あの子がこれが良いって言うから。
でもちょっと出掛けるときいいやろ。
これは訪問着、これは余所行きに
これも、これも、これも、これも、
これも、これも、これも、これも、
これも、これも!



みんなあの子のために作ったのに!



最後は叫びだった。
感情的で一方的で、だけどギリギリまで追い詰められた
悲痛な叫びだった。
私の周りにはお母さんが投げた着物が
花の川みたいに広がっていて
私はその真ん中で 言葉を忘れたように何も言えず
ただただ俯くしかなかった。


***
私はOのお母さんの事を随分長い間、
感情的で気性の荒い性格だと思っていたけど
あの人はごく普通のお母さんだったんだなあと
今になって思う。
私の事をとても好いてくれていた。
●ちゃん●ちゃん、と私が訪ねるたびに
私の名を呼んで歓迎してくれた。
Oが私の名を呼ぶ事が無いかわりみたいに
何度も私の名を呼んで
来たことをいつもとても喜んでくれた。


Oの体調が良くなればK君を歓迎し、
悪くなれば責めかかり徹底的に罵る。
そんなOのお母さんの姿は、私の目には
あまり理想的な母親像に見えなかった。
だけどだれがあの状況で理性的に振舞えるだろうか。
私達はOの友達として、K君の友達として
二人の立場から事故を見て
二人のためにK君を許してやってほしい、K君ばかりを
一方的に責めないで欲しいと願ってきたけど
Oのお母さんは「お母さん」という立場なのだ。
お母さんは私達の誰にも理解出来ないぎりぎりの所で
一人理性や感情や現実と戦っていたのだ。
もう何度目か知れない入院中、
お母さんはお見舞いに訪ねたS君に
Oについてある事を言った。


あの子はあの時、―――――――。



その言葉を「お母さん」に言わせるとは、
一体どれほどの崖っぷちから発した言葉だろう。
S君は私にそれを伝えたあと
「そんな事を言っちゃいけませんよって…
 俺に言えるわけないよ。
 だって一番分かってるに決まってる」
そう言って黙った。




Oと一時期は仲良くなかったかもしれないけど
大事に大事に育てた娘だったのだ。
その娘に「知らん」と言われて
一体誰が理性的で居られようか。


だからこの結末はもう、仕方のない事だったのだ。


(04へ続く)

長いトンネル(04)

2005年10月28日 | 長いトンネル
事故から二年が経った。
その間に同僚のSが結婚退職し、
二人でご飯を食べていたのが一人になってしまった。
大きな食堂で一人ご飯は寂しいので
昼食時は職場の休憩室に残り、
持ってきたお弁当をそっと食べた。
Oがいて、三人でご飯を食べていた頃が懐かしかった。
初物を食べる時には西を向いて、
三人で笑っていた頃だ。
十代の終わりから二十代の始め、
私達はごく普通の女の子だった。
来た道はばらばらだったけど、何かの巡りで集い
それぞれの運命を辿るために又散っていく。

三人とも似ていないようでよく似ていた。
同じ年、高校は同じ学科、担任の勧めで就職し
三人とも同じ職場の人を好きになった。
誰がどの運命を辿っても不思議はなかった。




事故から二年経ってOは職場復帰を果たした。
私はそれをとても待ち望んでいたけど
同時にそれが望んでも望めないものと
薄々分かっていた。

職場復帰はOとOのお母さんの強い希望だった。
私は以前のようにOと二人で昼食を食べ、
一緒に休憩をとった。
Oは頭蓋骨の一部が無くなっているので
いつもプラスチックの骨の入った、
特殊な帽子を被っていなければならなかった。
暑いらしく、休憩時間はその帽子を脱いで
以前のように缶コーヒーを
…味覚が弱くなっているので以前と同じ微糖ではなく
売っている中で一番甘いものを飲みながら
Oは飼っている犬の話をする。
家に帰ると犬がワンと鳴く。廊下を歩くと犬がワンと鳴く。
話しかけるとワンと鳴く。階段を見上げてワンと鳴く。

来る日も来る日も話題は変わらなかった。
誰とどんな会話をしても、
Oは犬の話だけしていた。
事故後、Oの頭の中には小さな世界があって
そこには小さなシーズーが一匹住んでいた。
Oはその話をするので精一杯だったのだ。


三人のうち誰がどの運命を辿ってもおかしくなかった。
結婚退社をしたのがOで
それを見送ったのがS、
そして事故に遭ったのが私でも
何の不思議も無かったのだ。



***
Oが復帰する少し前だったか、後だったか。
K君から好きな人が出来たと聞かされた。
仲のいい四人で夕飯を食べに行った帰り道、
K君と私、同僚のS君と先輩のKさんで歩いていた。
いつの間にかS君とKさんがずっと後ろを歩いており、
それはK君が事前に頼んであった事らしかった。
私に話があったのだ。



好きな人が出来た、と言われて
私はぼんやりしてしまった。
しばらく黙って歩いた後で、その人は
私の知っている人かと聞いたけど
別にそれを知りたかった訳でもない。時間稼ぎだ。

K君が好きになった人は私の知らない人で
事故の事も、Oの事も知っているという事だった。
彼女の方からK君を好きになり、アプローチがあったとき
K君は自分のことを全て話したけど
彼女はそれでもいいからと言ったそうだ。

そう、と頷いて、それから
ちゃんとOに話さなきゃ駄目だよと言った。
K君ははいと返事した。
無言で歩いた駅までの道がとても長かった。


私は今でもあの時のK君に
何と言ったら良かったのか分からない。
私はK君がOの事をどれほど好きだったか知っていた。
K君がずっと責任を取るつもりだった事も知っていた。
この決断に至るまで
K君はどれだけ泣いただろう。
OはK君の事を思い出したけど
K君の事を思い出したOは、以前のOではなかった。
でもそうしてしまったのは自分だという事実の前で
K君はどれほど思い悩み、離れる事を選んだのだろうか。
私なんかよりもっと強く
K君はOに逢いたかったはずだ。



K君たちと別れて、私は一人駅のホームで列車を待っていた。
今起きたことと、これまでに起きた事を考えて
滲んだ遠い線路の向こうを見つめていたら
不意に恐怖が訪れたのだ。


私が明日死んでしまったとしたら
たとえ死なずとも、私が私でなくなったとしたら
私は色々な事を忘れ
皆は私を忘れてしまうのだ。



それが私の大好きな人であっても。



***
私にはやりたい事があったはずだ。


広かった私の世界はいつの間にか
会社という限定された枠に入っていた。
バブルの中でも崩壊後も安定した企業であり
いつしかここに居れば安心であり、
そしてここに居なくては駄目だという
強迫観念に支配されつつあった。
やりたかった事も目標も全て二の次になっていた。
この会社で仕事をし、安定した収入を得つつ
やりたい事は趣味の範囲で。
…それで良いじゃないか。そう思い込もうとしていた。
世の中にはそうやってきちんと仕事もしつつ
上手く自分の時間を確保して
好きな事をしている人が沢山いると。

でもこの時ばかりはもう誤魔化す事が出来なかった。
「やりたい事を明日忘れてしまったら」
この思いが恐怖となって押し寄せた。
誰にでもいつでも起こり得る現実の残酷さに
一刻もぐずぐずしていられなかった。
私はこの仕事が割と好きだったし
七年間で身につけたものに未練が無いと言えば
それは嘘になるけど
もっと好きな事が、やりたい事があったのだ。


何故七年間も逃げていたんだろう。


私はOに会社を辞めるよ、と言った。
犬の話をしていたOは言葉を切り、
そうなんだ、と相槌を打って
犬が昨日何をしていたかの続きに戻った。
Oにもっと話したい事が沢山あったけど
これから先、一緒にご飯を食べてあげられなくて
ごめんねと言いたかったけど
それを聞いたOはきっとどうしてか分からなくて
ぼんやりしてしまうと思ったので
私はOに
私が居なくなったら寂しいよ!
私はOが居ない間ずっと寂しかったんだから。と言った。

Oは私の顔をみて、ちょっと笑った。



***
ある日K君はOに「他の人が好きになった」と話し、
Oは次の日にその事を私に話してくれた。
Oがどこまで理解しているか分からなかったけど
Oの口調は元彼女というよりは
K君のお母さんみたいだった。
しょうがない子だよね、と。

そんな告白以降もOの態度は以前と変わらず
というか以前よりもよくK君に話しかけていた。
話の内容は他愛のないものだったけど
相手がK君でなくてもいい話がほとんどだった。
私も、周囲の人も、何よりK君が
…Oは話の内容を
よく分かっていなかったのかな、と思った。



私の最後の出社日はごくごく普通に過ぎていった。
仕事がとても忙しく、最後の最後まで駆け回っていた。
皆に早く帰れと言われて照れ笑いしながら帰った。
適当に就職先を選んだ日から随分経ち
色々あって退職の日を迎えた訳だが
それは思い描いていたような日ではなかった。
花をもらい、涙声で挨拶するような
それっぽい儀式は全くなく
会社に増えた私物をまとめるのに精一杯だった。
小学校の卒業式どころか学期末に近い。
皆に貰った寄せ書きと私物を持ってよろよろと帰った。



*****


会社を辞めてしばらく経った頃、
私の元へOから手紙が届いた。
何度目かの治療が終わったという報告だった。
多分Oのお母さんが、手紙を書きなさい
●ちゃんに報告なさいと言って
書かせたものだと思うけど
鉛筆の下書き跡が濃く残った便箋に
事故前と同じような、几帳面そうな字が並んでいた。

字は事故前と変わらなかったけど
内容は子供が書いた感想文みたいにたどたどしかった。
犬の近況報告も添えられていて
相変わらずだなあと笑って読んでいたけど
ある一節に差し掛かってどきっとした。

「辛くて、死にたいと思った事もありました」

…お母さんの前でこれが書けるだろうか。
私は一字一句お母さんが添削して書いた手紙だと思っていたけど
そうではなかったかもしれない。
Oは色々な事を全て理解していたのかもしれない。
私の話をまるで聞いていないように見えていた時も
何にも興味がないように見えた時も
もしかしたら全部分かっていたのかもしれない。


あの時、全部理解した上で
それでもK君と以前のように話がしたかったのだ。



***
あんな事故が起きなければ、と何度思ったか知れない。
私達には子孫がいないんじゃないかと
後輩のKちゃんと話し合った事がある。
子孫がいたらこんな悲しいばかりで
何の益もない事故なんか、
事前に防いでくれるんじゃないかと思ったのだ。
タイムマシンに乗ってさ。

だけどOの事があって
私は人の色々な面を見ることが出来た。
時にはがっかりするほど汚い面もあったけど
大部分は思いがけず純粋で優しいものだった。
そのことを考えると私達の通ってきた道は
決して無駄に悲しく
苦しいだけの道ではなかったのだと思える。
こんな出来事以外では決して学べなかった事だ。


酒癖が悪くて乱暴だと思っていたS君は
私が一人でお弁当を食べていた時
「一緒に食堂で食べようよ」と誘ってくれた。
S君が一緒に食べていたグループは
男の子ばかりだったので、その中に私を入れるのは
大変勇気がいったと思う。本当に嬉しかった。

調子のいい事ばかり言って、いわゆるビッグマウスのF君。
彼が入った時から私もOもよく思っていなかった。
しかしOのために鶴を毎日毎日折ってきて
昼の休憩中も仲間と談笑しながら折っていた。
一番折鶴が似合わない人だったのに
一番数を折ってくれたんじゃないだろうか。

後輩のS君はやんちゃで悪い事ばかり言う、
強いゆえに残酷な子だった。
だけどK君や私の事をなにくれとなく気にかけてくれ、
元気付けようと家に食事に呼んでくれたり、
仲間同士のバーベキューに誘ってくれたりした。
大人みたいな気遣いをする子だったのだ。

同僚のS君、後輩のKちゃん、その他大勢で
フリーマーケットに出店して
みんなの家から集めた品物を売った。
そのお金を手術費用の足しにしてもらおうと思って
何週間も準備した。
結果は…多分会場で一番お客さんが集まった。大成功だ。


*****


本当はこんなに何もかも書くつもりじゃなかったのに
(35)も続いてしまった。
(あのコメントは冗談だったのに)
事故の一部と周囲の人の心模様と
それに関った私の話を少しだけ書こうと思っていたのに
まとめている内にもう少し、もう少しだけ
あの事故がどういうものだったのかを
何より自分のために書いておきたかった。
誰も特別な道を歩み、特別な事故に遭遇する訳じゃない。
命を脅かす出来事、死ぬほど後悔を残す出来事、
辛くて死んでしまいたいと思う出来事は
すぐ隣に無防備に存在している。
大半のロールプレイングゲームでは
よほど意地の悪いものでない限り、
落ちたら死んでしまうような穴はフィールドに空いていない。
右に行ったら死ぬような罠もない。
物凄い後悔を残すような選択肢も用意されていないし
間違ったとしてもあとから取り返しがついたりする。
人の人生はそうはいかないという事
私が二十歳を過ぎてようやく知った事を
書けるようになったらずっと書いておきたかった。
そして後悔しない生き方が出来るように
決して忘れないように覚えておきたかったのだ。



*****


書き足りない所、書けない所
書ききれない部分も多々ありますが
そろそろこの話も終わりにしたいと思います。
ずっと読んで下さった方、途中からでも読んで下さった方
本当にありがとうございました。




*****
OとK君の近況は詳しく書けませんが
二人ともそれぞれの道を
それぞれ幸せに進んでいます。

大丈夫です。