goo blog サービス終了のお知らせ 

レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

がんセンターのこと

2015年03月28日 | 父の話
ついでに思い出したこと。


転院する前
私は父のレントゲン写真を持って
がんセンターで受診というか
事前の説明をしなければならなかった。
大人になるとこういう
「やり方は全く分からないけれど
たった1人で行わなければならない
憂鬱な手続き」
が数多く発生する。
平日の朝早く、広い敷地の奥に建つ巨大な病院の受付へ
私は茶封筒に入れた写真と紹介状を持って赴いた。


この「がんセンター」には
...全国にあるがんセンターは大抵そうだと思うけど
医師の紹介状なしにかかることはできない。
ちょっと調子が悪い、なにかしら?と思って行く場所ではなく、
他の病院でがん又はその疑いありの患者が
医師の紹介を経て改めて来る場所だ。
巨大な院内は受付から明るく清潔で
システマティック。
右も左も分からない人間が行っても
即座に対応してくれる。
病院としての雰囲気は大変良い。
しかし扱う病ゆえか、不思議にどこか一本
ピンと張った空気があった。


待合へ行くとすぐに診察室の一つへ呼ばれ、
レントゲン写真とMRI画像から
予測できる病状と入院手続きの説明
担当医の紹介などをしてもらった。
時間をかけて診察をしてくれた医師の説明は丁寧で分かりやすく、
これから本人と私が何をしたら良いのかが
そこでようやくまとまった気がした。
私のように混乱して消沈した家族や本人に
何度も同じ説明をしてきたんだろうな。


診察室を出て改めて待合を見たら
多くの人が順番待ちをしていた。
診察室は幾つもあって
受付順に次々番号が呼ばれているのに
人が減る様子はなかった。

そこではたくさんの人と家族が口を引き結び
不安と戦っていた。

父のこと 9

2015年03月02日 | 父の話
PET検査の結果は数時間で出たと思う。
検査時間中の暇つぶしに
父が好きそうな本を持ってきて渡したけど
老眼鏡を持ってきていなかったので
読めなかったんだか、
腰が痛くてそれどころじゃなかったか
ともかくその本は
ろくに読まれないまま帰ってきた。
大災害や緊急事態が起こったとき
どんな行動をとった人が助かったか、
という内容の本は
結局いまだに読んでいない。


腫瘍は骨盤のちょっと上あたり、
整形外科の先生が指摘した通りかなりの大きさで
レントゲン写真よりはっきりと写っていた。
直径8から10センチ位、長さが12センチ位。
放射性物質が集まって発光して
他は暗い身体の中で
その存在を示していた。
ほかにも脳と睾丸に光が集中していて
私はそれが転移なのかと気になったのだけど
そこは特に、異常があるからそうなるわけではないらしい。


担当の医師はおそらく私より若い女の先生。
私と父と医師と3人で
脳と腫瘍と睾丸が光っている画像を見るのは
とてもシュールだった事を
これを書いていてはっきりと思い出した。


きっと私はここから先、
くだらないことを次々と思い出すと思う。

父のこと 8

2015年02月25日 | 父の話
父の人生は怒りで彩られていた。


私が思い出す父は大体怒っている。
顔を真っ赤にして怒鳴っている姿、
あの姿は嫌だったなあ。


父は短気だった、なんていう表現では収まらない。
父はある部分において病的に短気だった。
それは主に、父の考える「こうあるべき」が
そうでなかった時。
例えば静かにするべき場所で静かにしない人、
並ぶべき場所で正しく並ばない人、
そうするべき、をそうしない人。
そういう人相手によく爆発していた。


父は自分が正しいと思っていて、確かに正しい部分もあった。
父が怒る部分はモラルに関わる事が多く、
言うことが正しいか間違っているかといったら
そりゃあ、まあ正しい。
自分の中だけで何か思うだけなら、ただのモラルのある人だ。


...でも時々居るでしょう。
言っている事は確かに正しいけど
全面否定するような言い方で食ってかかり、否定される人。
ただ間違えているだけかもしれないのに
普段から何も考えていなくて気が利かなくて
まるでそれが悪気から、
あるいはその人の中のモラルの低さからきているかのような
理不尽な怒りを爆発させる人。


父はまさにその典型で、それが原因で敬遠される事が多かった。
小さい頃、そんな正しい自分が敬遠される世の中を
冗談交じりに嘆いている父を見て
父によく似ていた私は心底同情していた。
それから少し大きくなり、友達が出来た私は
「正しい、でもそれだけではない」という事も知り
父を見る目がその頃から少しずつ変わっていく。

父のこと 7

2015年02月25日 | 父の話
分かっていた事だけど
父は独り暮らしの中で不摂生をし続けだった。
家事や料理が一切出来ない、というのもあって
食事はインスタント、一日一箱の煙草は欠かさず
お酒は酩酊状態になるまで飲んだ。
体調を崩しては連絡が取れなくなり
病院からの電話で私が駆けつける、
といった事が二年くらい続いて
父は他界した。


多分父は一日も早い迎えを望んでいた。
そんな道を選んだのは他ならぬ父なのに
父は選ばされたと思っていただろう。


普段から私はちょいちょい父の不摂生を怒っていたから
父から治療について思うところなど
聞きもしなかった。
今回ばかりは許さない、
とにかく荒れた生活を立て直して
...言葉がちょっとおかしいかもしれないけど
父を生きさせなくては、その事しか頭になくて
ただただ自分のためだけに奔走していた。


父がこうなっている根本の原因
「この世で生き辛い理由」
を考えなかった。

がんのこと

2015年02月22日 | 父の話
昨日たまたま、がんの「無治療」について
テレビで放映されていたのを見た。

父が悪性リンパ腫と分かった時
私は無治療という選択を知らなくて
ただ「ああ、これから抗癌剤による厳しい治療が始まるのだな」
としか思わず、それ以上調べもしなかった。
父の死後、がんの無治療や緩和ケアの本が
よく目につくようになったのは
有無を言わさずがんセンターに転院させた自分の行動が
正しかったとは思えない時があるからだ。


私は父の、最後の病床での姿をほとんど思い出すことが出来ない。
きっと見ているようで目を背けていたのだろう。
…こんな姿にさせたのは私なのだ、という事実から
目を背けていた。


番組に出ていた末期がんの女性は「元気なまま死にたい」と言い
実際それを敢行するべく生活している。
もちろん通常の生活とは違う、緩和ケアのための通院と服薬
抗えない体調不良に悩まされつつも、モニターの向こうで
彼女は変わらぬ生活を送ろうとしていた。


父も、そうありたかったのではないか?


全て過ぎた話で、実際それは難しかった。分かっている。
がんの進行は追々説明するけど驚くほど早かったし
歩けなくなるのも時間の問題だった。
腰痛イタタと言いつつ、好きな酒を飲み、煙草を吸って
飼い猫と一緒にそれなりに余生を過ごすのは
到底無理であったと分かってはいるのだ。


でも、分かってはいるんだけど。
時々ありもしない結末を想像しては思う。
治療はするべきだったのか?
まだ答えは出ないし、この答えはずっと出ないかもしれない。