Junko散々語々

ライブ活動の紹介やシャンソン、自作の詩の解説、日常の雑感を三々五々綴ります。

北桂子追悼ライブ報告②

2012年10月11日 11時19分30秒 | Weblog

2部は各出演者と私がデュエットするコーナーを設けましたが、まずは黒ずくめの衣装で登場したえり&Junko、曲はこのブログで何度かそのエピソードを語らせて頂いた「命の声」(カッチーニのアヴェ・マリア)('12 1/11「新春命の声」参照)。この譜面を下さり「日本語をつけて歌ってください」と仰った草笛の菅間忠男さんとは、渋川の日本シャンソン館でもご一緒し、菅間ファンの方々も桂子ママがチャーターしたバスに同乗して渋川まで来て下さるという、ご縁がありました。

今は亡きお二人のためにコーラスアレンジしたこの曲を再び歌いたかった私です。慣れないクラシックの超スローな歌を、えりちゃん、よく頑張って歌ってくれました。ちなみに、私が来ているガウンのようなジョーゼットの衣装はママの遺品。えりちゃんが着ている黒ドレスは、ママの葬儀の時、私が(お古で悪いけど)あげたものです。

           

 

次は平山さんとフォルクローレの代表曲「ある古い歌の伝説」をハモりました。この曲は私が日本語詩をつけたものを、平山さんが「ママからお許しが出たので歌わせてほしい」と嬉しそうに依頼された記憶があります。「ママはそりゃあ、厳しかったワ」と思わず顔をしかめてホンネ?をつぶやき、皆さんの笑いを誘っていました。とても緩急がある歌なので、毎月毎月練習してもなかなか息が合わず大変でしたが、本番は見事にピッタリ、歌い切りました

          

 

4名のボーカル出演者のうち1名が、しかも唯一の男性歌手が減ることを札幌で知ってガク然、滞在中は北海道とは信じられない暑さ(宿舎はエアコン無し)と、最後の銀巴里出演ゆえ(前々記事参照)、色んな方々と日々ライブ後お別れ会といった状況で疲労とチョー寝不足、いつも機内で眠るヒトが帰りはずっと構成の組み直しであーでもない、こーでもない…><;(ちぃとグチらせて貰いました

その結果、まずはフレンチキスの2名にパフォーマンスしてもらう、男性歌手がいないから、私めが得意の?男っぽい衣装でキメる…大したアイデアでもなかった割に、まずFK1日目は伊勢沢ゆきが「ダニーボーイ」の歌詞を朗読して歌も披露、2日目は佐藤ふじをが「スコッチ&レイン」(南佳孝)を(いつもは私とデュエットですが)ソロで歌って、思わぬサプライズでとても喜ばれ、私も急ごしらえながら調達した衣装が結構ハマってこれまた「おお~!」の声が上がり、何とかカバーできたかと安堵しました

     

 

前述したように、かなりキツイ日程の中、2日間4回公演という、自分で自分の首を絞めかねない?ライブスケジュール、1回終わるごとに「あと3回もある!」「半分終わった!」「あと1回だ!」…こんなことを言い合いながら(すみません、決してイヤだからじゃなく、未体験のイベントを乗り越えようと励まし合い、喝を入れ合ってるんです)、遂に最終回まで頑張り通した次第です

出演者5名の他、親族とはいえプロのカクテルを無料提供して下さった香織さん、受付をして下さった、私がREDの守り神とお呼びしているMさん、サーバーを担当して下さったS君、初日に写真撮影の他サーバーも引き受けて下さったカメラウーマンのMe*Poさん、同じくお馴染み写真撮影の若松岳さん、お世話になりました。ありがとうございましたm( _ _ )m(GAKU写真館、いずれ又upします)

最後は後継者の藤木えりが、感謝の言葉と今後もREDをご支援下さい、とご挨拶、そしてアンコール無しで、私が作詞作曲、前進座でも歌わせて頂いた、北桂子讃歌「太陽の人」を全員コーラスで歌い、大団円となりましたこうして、北桂子ママの音楽一周忌を、温かいお客様に励まされ自分たちもそれぞれ感動感謝のうちに終えることができました

早々に団体様でご予約下さった方、ご病身を押して看護人付で来て下さった方、連休ゆえ他にご予定があったのをキャンセルして来て下さった方、遠方からの帰りだが間に合いそうだから、と駆けつけて下さった方…本当に皆々様、ありがとうございました桂子ママもどんなに嬉しかったことでしょうそうそう、私が北桂子になりきって?歌った「吉祥寺ソング」シリーズ、その後ぜひCDをほしいという方がいらして、嬉しい後日談がありました

お客様の中には「またここでライブやってよ!」の声があり、私も、昔のように毎月は無理でも時々ならと…考慮中。その暁には何卒よろしくお願い致します

      

(撮影:若松岳)


北桂子追悼ライブ報告①

2012年10月10日 09時42分01秒 | Weblog

人類初の細胞初期化という大発見とiPS細胞作製にノーベル賞が与えられ、久々の明るいビッグニュースに日本中湧きかえっています。SF好きの私としては単純に喜ぶより、これからの人類はどうなって行くのか…人間が死ななくなる時代が来たらどうなる?…やはりSFの読み過ぎか

でも、やはりもう少し早くこの技術が薬に応用されていたら…と様々な人の死を経験すると思わず考えてしまいます。

ちょうど1年前、前進座にて大きな葬儀が執り行われた北桂子ママの一周忌ライブを、敢えて、ママが最後まで守り抜き、入院後は毎日帰りたがっていた吉祥寺「サロン・ド・シャンソンRED」で、9/16、17、2日間4回公演という、私としても初のタイトなスケジュールで敢行しました

半月前は初日昼の部以外まだ半分位しか埋まっていなかったお席が、フタを開けてみればどの回もほぼ同数の25~30名弱で、すべて満席となり、私たちも努力しましたが、やはりママの偉大さ彼女が招き寄せたに違いありません

     

ママとは直接面識がないにも拘らず、私の常日頃からの話や前進座ラストコンサートも来て感激して下さった、宇都宮「ふしぎの森」オーナーからこのような素晴らしいお花が…ママによく似合う…

       

      

冒頭は、お父様が亡くなられ、残念ながら急遽出演不可能となった佐藤健について、お詫びの言葉、そして挨拶…(歌っているようにしか見えませんね

歌のトップバッターは藤木えり。まだ20代(辛うじて?)の若さでこのREDを受継ぎ、これからこの場をお教室&ライブハウスとして発展させ、自分のアーティスト(歌、ピアノ)としての可能性も広げて行こうという、輝かしい未来と果てしないイバラの道をこの可愛さ美しさ、(多少ヌケてる?)性格のよさで乗り切って行こうとしています応援してやって下さい

次いで登場するのは平山紀美子。忘れもしない、私が39才でデビューと話題になり(あの頃はまだ珍しかった)、あちこちの新聞雑誌に載ったのを見て、私に達筆で長いお手紙を下さった人。私が教えるのはムリ、とピアノの後藤先生を紹介したことから、私同様長いREDとのお付き合いとアマチュアながら歌い続けてきた歴史を持っています。

私は「半分愛して」北桂子エピソードとして、この曲が日本クラウンから発売されたのをママが大変喜んでくれて、私を講師として「半分愛してを歌おう教室」を開いてくれた話を…その時のテープが残っていたので、ママの例のおしゃべりで仕切り屋ぶりを発揮している場面をお聞かせし、大ウケ…泣く人も…

   

 

1部の最後は、私が桂子ママを髣髴とさせる?と信じて選んだ衣装(提供:有里企画)で登場、ママがリリースした3曲のオリジナル「炎~吉祥寺ラブソング~光の街吉祥寺タウン」を熱唱この3曲の歴史をご存知の方は喜んで下さり、知らない方も「こんな吉祥寺の歌があるとは!とても新鮮に聞けた」と、声を掛けてくださいました

        

 

休憩に入る前に、ママの長女で「バー・カオス」店主・中原香織さんより、親族としてのご挨拶。「本来、親族が一周忌法要をせねばならないところ、こうして追悼ライブを企画して下さったことは、ママにもとっもふさわしいし、感謝しています」とありがたいお言葉。

しかも、バーテンとして「keikoカクテル」「Erineカクテル」を考案、提供して下さり、フリードリンクとしたため、昼間からでも皆さん飲むわ飲むわ(右端・大忙しの様子)。妹の麻里さんからはママのトレードマークだった「四葉のクローバー」のクッキーを皆さんへ、と差し入れてくださいました

       

(撮影:若松岳)