本日の日経新聞に掲載された東大寺襖絵の「しだれ桜」に目を留められた方も多かったのではないでしょうか。日本画の小泉淳作画伯が東大寺襖絵40枚を5年がかりで完成させた、という記事とともに、襖絵の「しだれ桜」「吉野の桜」「蓮池」などの作品が掲載されました。私は日本画には全くと言っていいほど疎いのですが、「小泉淳作」という名前に惹かれて記事にも目を通しました。
足立則夫著「遅咲きのひと 人生の第四コーナーを味わう」(日本経済新聞社, 2005)という本があります。晩年に活躍した人、長い間同じ仕事を根気よく続け、人生の後半に成果をあげた人など51人の生涯を紹介した本です(以前、この本に関して書いたエントリーはこちら)。小泉淳作もこの本で取り上げられた人のうちの1人です。
「遅咲きの人」によると、小泉淳作の略歴は以下のようになります。
◆1924年 鎌倉に生まれる
◆5歳で母を、11歳で政治家だった父を亡くす
◆慶応大学予科(仏文)に入学。小説家を志すも、同じクラスの安岡章太郎の短編を目にして「とてもかなわない」と断念
◆1943年 慶応大学文学部中退
◆東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学
◆軍隊に召集、体をこわす。療養生活後、復学
◆1952年(27歳) 東京美術学校卒業
◆日本画では食べていけず、菓子箱や自転車のデザインをする副業で収入を得る
◆1962年 陶芸を始める
◆1969年頃(45歳) 美術評論家、田近憲三と出会い、影響を受ける
◆1972年頃(48歳) フリーのデザイナーを辞め、陶芸で生活費を稼げるようになる
◆1977年 山種美術館賞優秀賞受賞
◆「画だけで食べていけるようになったのは59歳」と述懐
◆1983年頃(59歳) 水墨画を描き始める
◆70歳で妻に先立たれる
◆1999年(75歳) 鎌倉・建長寺法堂天井に「雲龍図」を描く
◆2000年(76歳) 京都・建仁時法堂天井に「双龍図」を描く
かなり曲折のある人生であると同時に、生い立ちも必ずしも幸福ではなかったようです。同書においても「私にとって最大の不幸だと思われるのは、この世の中にとって全く報いを期待しない無条件の好意を与えられる親の愛情をほとんどうけることができなかった」という本人の述懐を引用しています。
しかし、本日の日経によれば、ここ12年間の小泉の画業は「天の時、地の利、人の和」の賜物、ということになります。
◆建長寺、建仁寺、東大寺のプロジェクトへの資金的支援を、横河電機が企業メセナとして買って出た。
◆天井画や襖絵には広大なアトリエが必要になるが、帯広市内の廃校となった中札内小学校の体育館を提供してもらうことができた。
◆東大寺襖絵の大半は建長寺境内奥の民家を改修したアトリエから生まれた。もとは建長寺が買い取った無住の家だったものである。
これらのエピソードのいずれも、人的ネットワークの援助があって初めて成立したものです。例えば、中札内小学校体育館の件は、小泉作品のコレクターである六花亭製菓社長、小田豊との縁による、とのことです。
日経の記事では、もう一つ、重要な人の縁を紹介しています。若い頃、物理学者の武谷三男の知遇を得て、「人生は、主目的と従目的を作れ」というアドバイスを受けたというエピソードです。従目的ではいくらでも妥協し、主目的では絶対妥協するな、という意です。 小泉は主目的である画業では一切妥協しない姿勢を貫いていますが、従目的(=食べていくため)としては、クライアントの望むデザインや陶磁器を製作したといいます。
建長寺天井図を手がけて以来12年間、画伯はまさにライフワーク熟成の只中にいます。
足立則夫著「遅咲きのひと 人生の第四コーナーを味わう」(日本経済新聞社, 2005)という本があります。晩年に活躍した人、長い間同じ仕事を根気よく続け、人生の後半に成果をあげた人など51人の生涯を紹介した本です(以前、この本に関して書いたエントリーはこちら)。小泉淳作もこの本で取り上げられた人のうちの1人です。
「遅咲きの人」によると、小泉淳作の略歴は以下のようになります。
◆1924年 鎌倉に生まれる
◆5歳で母を、11歳で政治家だった父を亡くす
◆慶応大学予科(仏文)に入学。小説家を志すも、同じクラスの安岡章太郎の短編を目にして「とてもかなわない」と断念
◆1943年 慶応大学文学部中退
◆東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学
◆軍隊に召集、体をこわす。療養生活後、復学
◆1952年(27歳) 東京美術学校卒業
◆日本画では食べていけず、菓子箱や自転車のデザインをする副業で収入を得る
◆1962年 陶芸を始める
◆1969年頃(45歳) 美術評論家、田近憲三と出会い、影響を受ける
◆1972年頃(48歳) フリーのデザイナーを辞め、陶芸で生活費を稼げるようになる
◆1977年 山種美術館賞優秀賞受賞
◆「画だけで食べていけるようになったのは59歳」と述懐
◆1983年頃(59歳) 水墨画を描き始める
◆70歳で妻に先立たれる
◆1999年(75歳) 鎌倉・建長寺法堂天井に「雲龍図」を描く
◆2000年(76歳) 京都・建仁時法堂天井に「双龍図」を描く
かなり曲折のある人生であると同時に、生い立ちも必ずしも幸福ではなかったようです。同書においても「私にとって最大の不幸だと思われるのは、この世の中にとって全く報いを期待しない無条件の好意を与えられる親の愛情をほとんどうけることができなかった」という本人の述懐を引用しています。
しかし、本日の日経によれば、ここ12年間の小泉の画業は「天の時、地の利、人の和」の賜物、ということになります。
◆建長寺、建仁寺、東大寺のプロジェクトへの資金的支援を、横河電機が企業メセナとして買って出た。
◆天井画や襖絵には広大なアトリエが必要になるが、帯広市内の廃校となった中札内小学校の体育館を提供してもらうことができた。
◆東大寺襖絵の大半は建長寺境内奥の民家を改修したアトリエから生まれた。もとは建長寺が買い取った無住の家だったものである。
これらのエピソードのいずれも、人的ネットワークの援助があって初めて成立したものです。例えば、中札内小学校体育館の件は、小泉作品のコレクターである六花亭製菓社長、小田豊との縁による、とのことです。
日経の記事では、もう一つ、重要な人の縁を紹介しています。若い頃、物理学者の武谷三男の知遇を得て、「人生は、主目的と従目的を作れ」というアドバイスを受けたというエピソードです。従目的ではいくらでも妥協し、主目的では絶対妥協するな、という意です。 小泉は主目的である画業では一切妥協しない姿勢を貫いていますが、従目的(=食べていくため)としては、クライアントの望むデザインや陶磁器を製作したといいます。
建長寺天井図を手がけて以来12年間、画伯はまさにライフワーク熟成の只中にいます。
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