池澤夏樹「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(小学館 2009;以下「ぼくたち」と略記)を読んでみました。
本書は池澤氏と、聖書学・比較宗教学の研究者であり、池澤氏の親戚でもある秋吉輝雄教授との対話という形式をとっており、聖書について、ユダヤ人について縦横に語り合い、飽きさせません。とはいえ、聖書に関する知識をほとんど持たぬ私のような者にとっては、かなり歯応えのある内容となっています。
本書を通じて繰り返される通奏低音のひとつが「時間論」です。古典ヘブライ語には過去形がない、という話に始まって、言語の生み出すセム・ハム語族系のメンタリティへと話が及びます。
ヘブライ語では、過去に話された会話もすべて直接話法となる。しかし、聖書がヘレニズム世界の共通語であるギリシャ語に翻訳される過程で、過去形で語られる物語へと移し変えられた。そして、聖書は過去から現在・未来にかけて直線的に進むクロノス的時間軸に沿った物語に再編成された。
しかし、秋吉教授曰く、「ヘブライ語の聖書を読むかぎりでは、ユダヤ人にとって歴史というのは過去から現在に縦に連なるものではなく、どうも並列的というか横軸としてとらえているよう」であり、こうした時間感覚の違いが西欧との歴史観の違いを生み出している、という論へと展開されます。
動詞の共時制という言語特性は、「過去はそのまま現在である(!)」という無時間性のメンタリティを生み出します。これは、未来は過去よりも良いものだという進歩史観とは、まったく相容れないものです。池澤氏に言わせれば、イスラエルとパレスチナの間には「時間を超えて、対決が無時間の空間で起こっている」のです。時の経過とともに過去が忘却されるということがない。いつまでも水に流されることのない、無時間の歴史。
以前読んだ「時間の比較社会学」(岩波書店、初版は1981)において真木悠介は、ヘブライズムの時間意識を「線分としての時間/不可逆性としての時間」と定義しました。ヘブライズムの時間は直進する時間ですが、それは近代社会におけるクロノス的時間(均質な数量としての、直進する時間)ではなく、カイロス的時間、出来事の「始まり」と「終わり」によって画期される(量ではなく質としての)線分的時間として捉えられています。
そして、ヘブライズムの直進する時間意識は、終末論に起源があるとされます。「古き世」即ち現存する世界と、「新しき世」即ち来るべき世界とを区切る「終末」は一回きりのものであり、不可逆の過程であると認識されています。
「ぼくたち」の時間論は、真木の所説とは異なっているように見受けられます。少なくとも「ぼくたち」で語られるヘブライの時間意識は、言語の特性から来る時間的遠近法の欠如によって特徴づけられており、終末論による影響は指摘されていません。
どちらの説が適切か、私には判断する術はありませんが、言語の育むメンタリティから、2500年の時を超えて現在の中東情勢までカバーしてしまう「ぼくたち」の時間論に魅力を感じます。真木の時間論においては、ヘブライズムはヘレニズムと並んで近代社会の時間意識を準備した架橋として描かれますが、「ぼくたち」の解釈では、現代社会の只中に、まったく異質な時間意識を持つ集団・民族が、かなり広範に存在し、かつ現代の国際政治に影響を及ぼし続けていることになります。
(とはいえ、日本の社会学の古典ともいえる「時間の比較社会学」に難癖をつけるつもりは毛頭ありませんので、念のため)
なお、現代のヘブライ語は東欧系のアシュケナジームが作ったものなので時制を持つ、とのことです。
本書は池澤氏と、聖書学・比較宗教学の研究者であり、池澤氏の親戚でもある秋吉輝雄教授との対話という形式をとっており、聖書について、ユダヤ人について縦横に語り合い、飽きさせません。とはいえ、聖書に関する知識をほとんど持たぬ私のような者にとっては、かなり歯応えのある内容となっています。
本書を通じて繰り返される通奏低音のひとつが「時間論」です。古典ヘブライ語には過去形がない、という話に始まって、言語の生み出すセム・ハム語族系のメンタリティへと話が及びます。
ヘブライ語では、過去に話された会話もすべて直接話法となる。しかし、聖書がヘレニズム世界の共通語であるギリシャ語に翻訳される過程で、過去形で語られる物語へと移し変えられた。そして、聖書は過去から現在・未来にかけて直線的に進むクロノス的時間軸に沿った物語に再編成された。
しかし、秋吉教授曰く、「ヘブライ語の聖書を読むかぎりでは、ユダヤ人にとって歴史というのは過去から現在に縦に連なるものではなく、どうも並列的というか横軸としてとらえているよう」であり、こうした時間感覚の違いが西欧との歴史観の違いを生み出している、という論へと展開されます。
動詞の共時制という言語特性は、「過去はそのまま現在である(!)」という無時間性のメンタリティを生み出します。これは、未来は過去よりも良いものだという進歩史観とは、まったく相容れないものです。池澤氏に言わせれば、イスラエルとパレスチナの間には「時間を超えて、対決が無時間の空間で起こっている」のです。時の経過とともに過去が忘却されるということがない。いつまでも水に流されることのない、無時間の歴史。
以前読んだ「時間の比較社会学」(岩波書店、初版は1981)において真木悠介は、ヘブライズムの時間意識を「線分としての時間/不可逆性としての時間」と定義しました。ヘブライズムの時間は直進する時間ですが、それは近代社会におけるクロノス的時間(均質な数量としての、直進する時間)ではなく、カイロス的時間、出来事の「始まり」と「終わり」によって画期される(量ではなく質としての)線分的時間として捉えられています。
そして、ヘブライズムの直進する時間意識は、終末論に起源があるとされます。「古き世」即ち現存する世界と、「新しき世」即ち来るべき世界とを区切る「終末」は一回きりのものであり、不可逆の過程であると認識されています。
「ぼくたち」の時間論は、真木の所説とは異なっているように見受けられます。少なくとも「ぼくたち」で語られるヘブライの時間意識は、言語の特性から来る時間的遠近法の欠如によって特徴づけられており、終末論による影響は指摘されていません。
どちらの説が適切か、私には判断する術はありませんが、言語の育むメンタリティから、2500年の時を超えて現在の中東情勢までカバーしてしまう「ぼくたち」の時間論に魅力を感じます。真木の時間論においては、ヘブライズムはヘレニズムと並んで近代社会の時間意識を準備した架橋として描かれますが、「ぼくたち」の解釈では、現代社会の只中に、まったく異質な時間意識を持つ集団・民族が、かなり広範に存在し、かつ現代の国際政治に影響を及ぼし続けていることになります。
(とはいえ、日本の社会学の古典ともいえる「時間の比較社会学」に難癖をつけるつもりは毛頭ありませんので、念のため)
なお、現代のヘブライ語は東欧系のアシュケナジームが作ったものなので時制を持つ、とのことです。