Good Life, Good Economy

自己流経済学再入門、その他もろもろ

つながりの経済

2010-02-21 | Weblog
C.Terry Warner, Bonds That Make Us Free, 2001を経済学の視点から読んでみようと思います。著者の C.Terry Warnerは哲学者でThe Arbinger Instituteの中心メンバーでもあります。The Arbinger Instituteの名前は「自分の小さな『箱』から脱出する方法」「2日で人生が変わる『箱』の法則」などの自己啓発本ですでにご存知の方も多いと思います。"Bonds That Make Us Free"も、対人関係とコミュニケーションを扱った本です。

その中心的なメッセージは以下のように要約されます(うまく要約できているか自信がありませんが)。
◆家族や友人、他人から意に沿わない扱いを受けたとき、人は容易に自分の「箱」の中に閉じこもってしまう。
◆しかし、それは家族や友人、他人の意図を曲解することから生じており、そんなときは相手をひとつの人格ではなく、「モノ」として見ている(I-It relationship)。
◆お互いがお互いの「箱」に閉じこもることにより、相手に対する誤解が増幅される。そして、あたかも双方が結託して解決を遠ざけているような状態に陥ってしまう(collusion cycle)。
◆こうした事態を避けるためには、相手が発するシグナル("light")を感じるままに受取り、自分の心を変える必要がある。相手の心を変える一番良い方法は、まず自分の心を変えることである。
◆そうすることで、結託のサイクルから抜け出し、お互いがプラスに影響しあう関係(「思いやる関係」= considerate relationship)を創っていける。このとき、我々は相手をモノではなくひとつの人格として尊重していることになる(I-You relationship)。

人間心理や感情が経済行動に与える影響の重要性は、昨今の行動経済学の隆盛を見るまでもなく、すでに広く世人の認識するところとなっています。しかし、"Bonds That Make Us Free"で提起されたテーマを扱う場合、実験心理学をベースとした行動経済学よりも、道徳哲学と経済学を結びつけたアダム・スミスのアプローチの方がより適切であるように思われます。とりわけ、堂目卓生著「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」(中公新書、2008)が、極めて魅力的なスミス像を余すところなく描いていますので、同書に拠って話を進めたいと思います。

さて、「道徳感情論」によれば、人間とは「どんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、...他人の幸福を...自分にとって必要なものだと感じる」存在です。「他人の感情や行為の適切性を判断する心の作用」をスミスは「同感」(sympathy)と呼びました。堂目教授は「同感」を以下のように解釈しています。

「同感は、他人の喜びや悲しみ、怒りなどの諸感情を自分の心の中に写しとり、想像力を使って、それらと同様の感情を引き出そうとする、あるいは引き出せるか否かを検討する人間の情動的な能力といえる。」(同書 p.30-31)

人は「同感という能力を使って他人の感情や行動を観察し、それらに対して是認・否認の判断を下す」(p.31)。と同時に、人は親や友人、あるいは他人から自分の感情・行動を是認してもらいたいという願望を持つ。そして、自己の経験から、どのような感情・行動ならば親や友人、あるいは他人から是認されるかを学んでいく。そのような経験から、人は自分の胸中に「公平な観察者」(impartial spectator)を形成していく。

もしも、自分がある対象に対し何らかの感情を抱いたり、行動を起こしたりすると、もう1人の自分である胸中の公平な観察者が、自分の感情や行動が適切なものであるかどうか判断する。そして、自分の感情・行動が公平な観察者の視点から是認できるものに合わせようと努力していくことになる。

Warnerの言う「箱」に入った状態とは、いわば胸中の公平な観察者が否認するような感情・行動を敢えてしてしまう状態、まさに自己欺瞞(self-deception)の状態だと言えるでしょう。

同書ではこの後、世間の評価と胸中の公平な観察者の判断が食い違うケースを取り上げ、世評よりも公平な観察者の判断を重視する人を「賢い人」、公平な観察者よりも世評をにおもねってしまう人を「弱い人」と名づけ、公平な観察者の判断を曲げてしまう弱さを同じく「自己欺瞞」(self-deceipt)と呼んでいます。「箱」に入った状態は、このケースとは若干違いますが、公平な観察者をないがしろにしている点で、弱さの表れと言えます。

このように、スミスにおけるコミュニケーションの原点は、自分の感情・行動を人から是認されたい、人の感情・行動を是認したいという「同感」にあります。そして、スミスによれば「同感」こそが社会秩序を形成し、社会の繁栄をもたらす原動力なのです。人は、他人からの同感を得るために、富や高い地位を求め、貧困や低い地位を避けようとするからです。

おもしろいことに、スミスによれば経済発展をもたらすのは人間の「弱さ」です。「弱い人」(=公平な観察者より世評に踊らされる人)は、より多くの富を獲得し、より幸福になろうとします。しかし、このような野心は幻想に過ぎず、富が増えても個人の幸福度はほとんど変わらないので、「弱い人」はだまされてしまうことになります。しかし、このような「欺瞞」が経済を発展させ、社会を文明化するとスミスは考えました。この辺は、幸福の経済学でいう「経済成長はしたが幸福度はほとんど変わっていない」というテーゼを想起させます。

この議論はスミスの幸福観と密接に関連しています。スミスによれば、「幸福は平静tranquilityと享楽enjoyment」にあります。心の平静こそが幸福であり、心の平静のためには「健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」ことが必要だとスミスは考えました。そして、健康を維持し、負債を負わず、良心の呵責を感じる行為をしなくて済む程度の収入ないし富は必要だと考えましたが、それ以上の財産を持っても、幸福度は大して増進しないと論じました。

再び同書より引用します。
「...スミスの議論の特徴は、人間の中に「賢明さ」と「弱さ」の両方があることを認めている点である。...「賢明さ」には社会の秩序をもたらす役割が、「弱さ」には社会の繁栄をもたらす役割が与えられている。特に、「弱さ」は一見すると悪徳なのであるが、そのような「弱さ」も、「見えざる手」に導かれて、繁栄という目的の実現に貢献するのである。しかしながら、「見えざる手」が十分機能するためには、「弱さ」は放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなければならない。」(p.104)

経済発展のためには、皆が有徳の士である必要はなく、皆が利己的に振舞うことにより「見えざる手」の自動調節機能が働き、市場経済がうまく機能するという視点は、ある意味でスミス経済学のキモでもあるのですが、他方で社会が同感によって支えられているという視点も忘れてはなりません。considerateなrelationshipが市場経済を活性化させる可能性は、おそらくこの点にあります。

小野塚喜平次と社会問題

2010-02-06 | Weblog
小野塚喜平次は若い頃から社会問題・社会政策に対する関心を持っていました。彼が長岡郷友会雑誌第5号(明治26年4月刊)に寄稿した「識者何ゾ速ニ社會問題研究会ヲ組織セザル」(以下「識者」)にその一端を窺うことができます。

長岡郷友会雑誌は、小野塚自身が編輯人を務めていた雑誌で、明治25年から30年まで刊行されました。明治25年といえば、彼が一高を卒業し、東京帝国大学法科大学政治学科に入学した年、30年は独仏の在外研究に出立した年です。

「識者」は、冒頭このような文章で始まります。

「左ノ短編ハ本年二月上旬予ガ日本國民兩新聞社ニ寄セテ没書ノ栄ヲ辱フセシモノナリ聲聞ナク文筆ナキ予又タ何ヲカ言ハン只タ余ハ日本ノ社會殊ニ其先導者ヲ以テ自ラ任ズル新聞社會ガ社會問題ニ對シテ今日ノ如ク冷淡ニ済シ得ルノ日ノ意外ニ速ニ過キ去ラン┐ヲ恐ルルモノナリ今本誌ノ餘白ヲ借リ郷友諸君ノ一覽ニ供ス」

ここで「日本」は陸羯南が主筆として活躍した新聞「日本」、「國民」は徳富蘇峰が1890年に創刊した「國民新聞」ではないかと思われます。どちらも当時の著名ジャーナリストを擁する硬派で有力な新聞です。これらの有力な新聞社が社会問題に対して冷淡であるという指摘には興味深いものがあります(単にボツにされたからなのかもしれませんが)。

続けて小野塚は、現下の社会のニ大問題として「各國競フテ勢力ノ擴張ヲ勉ムルヨリ生スル國際間ノ衝突」と「産業ノ發達分配ノ不平均ヨリ來ル貧富ノ軋轢」であると指摘します。そして、前者については東邦協会を組織し、東南洋を調査させたりしているのに対し、後者については研究会も組織されていない状況にあると嘆いています。

「...宜ク速ニ朝野ヲ分タズ黨派宗教ノ如何ヲ論セス學者ト實務家トノ区別ヲ問ハズ苟モ憂國愛民ノ士ハ相團結シテ社會問題研究會ヲ組織シ慈仁ナル心情ト冷静ナル頭脳トヲ以テ精細ニ勞働者ノ實状ヲ探リ之ニ對スル各種ノ方針ヲ學術的ニ講究シテ公平ナル判定ヲ下スベキナリ...」

小野塚は学者や実務家で構成される社会問題の研究会を組織すべきだと主張しています。実際、小野塚が高野岩三郎や矢作栄蔵らと社会政策学会の前身である「ドイツ工業条例研究会」を結成したのが1896年(明治29年)、社会政策学会(小野塚も設立時の会員の一人です)が発足したのが1897年(明治30年)ですから、この問題提起はかなり早い段階のものだと言えるでしょう。

面白いのは「慈仁ナル心情ト冷静ナル頭脳」という表現です。これはアルフレッド・マーシャルの"cool head and warm heart"の和訳のように見えます。この有名なフレーズはマーシャルが1885年、ケンブリッジ大学経済学教授の就任講演で述べたものですが、明治26年(1893年)当時、小野塚はすでにマーシャルを知っていたのでしょうか?小野塚は学生時代、J.S.ミルやスペンサーを読んで感化を受けたとされます。当時はアダム・スミス、J.S.ミルなどがよく読まれていたようですが、マーシャルについてはどうか。福田徳三がマーシャルに沿った講義を行っていたのが1900年代初頭くらいからだ言われているので、明治26年の段階で政治学徒の小野塚がマーシャルを知っていたとしたら、ちょっと面白いですね。

当時の世相についてもう少々付け加えると、金井延が帰朝し東大で社会政策の講義を行ったのが1890年頃、國民新聞記者の松原岩五郎が「最暗黒の東京」を刊行したのが1893年、横山源之助の「日本之下層社会」が刊行されたのが1899年です。明治初頭は明六雑誌や田口卯吉などに代表されるように、英米流自由主義経済学の影響が顕著で、実際、松方正義が大蔵大臣の頃には通貨の兌換性回復によるインフレの収束や、官営工場の民間払下げ等、自由主義経済学に親和的な政策がとられました(「殖産工業」路線からの転換の時代でもあります)。しかし、明治も半ばになると、徐々に社会政策のような改良主義的な考え方が広まっていきました。小野塚の学生時代は、そのような雰囲気の只中にあった訳です。

小野塚喜平次について 2

2010-02-05 | Weblog
現代から見た小野塚喜平次の政治学説についての評価の一例として、大塚桂編著「シリーズ日本の政治第1巻 日本の政治学」(法律文化社 2006)第1章「明治の政治学」(大塚桂)を見てみます。

小野塚以前の日本の政治学は国家学と同義と考えられていましたが、小野塚は「”政治学の体系化”、”学としての政治学の独立”」を目指し、「政治学は決して政府のための学ではないことを鮮明にした」(P.16)とされます。さらに「政治学の研究対象は国家に関する現象」であり、「政治学は国家を解明する学であると彼は理解した」とあります。しかし、大塚の小野塚に対する評価は「小野塚の議論は、上からの、国家の作用としての政策論の域を出ない。小野塚にあって国家が無条件に前提とされており、国家を離れて政治現象はありえないとされた」(p.17)というものです。

ここで小野塚と対比的に語られるのは吉野作造、および早稲田大の浮田和民と大山郁夫です。吉野は小野塚門下ですが、従来の政治学が国家研究に限定されていたのに飽き足らず、政治をより広義にとらえ、社会における支配-服従関係に焦点を当てました。浮田・大山は英米系政治学の影響を受け、社会学や政治過程論のアプローチを取り入れ、国家を相対化したとされます。要するに、小野塚の国家学的政治学は、吉野、浮田らに代表される実証学派・社会学派と呼ばれる流れに乗り越えられる運命にあった、というのが大塚の見解だといえます。

私は「政治学大綱」を読んだことがないので、小野塚の政治学説の評価を語る資格はないのですが、南原繁も小野塚の東大での講義について「学風としてはドイツ流の国家学、それに近い形だったように思います」(「聞書き 南原繁回顧録」PP.18-19)と語っており、大塚の見解は一定の妥当性を有します。ただし、そのすぐ後に南原は「先生の精神は、その学風の背後にイギリスの自由の精神というものをもっておられたですね」と続けており、むしろその側面に興味を覚えます。

小野塚がdemocracyを「衆民政」と訳したのは有名ですが、彼の関心は必ずしも国家研究にとどまらず、デモクラシーや社会問題に強いシンパシーを覚えていたのも事実のようです。松井慎一郎著「河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実」(中公新書 2009)に、河合栄治郎の小野塚評が載っているので、その箇所を引用します。

河合は、小野塚の学問の特徴を「克明な材料の蒐集と慎重な叙述」という方法的立場に加え、「時代を抜く識見」にあることを指摘する。具体的には、「英国の政治組織と政治家とに共鳴し、夙に国家の外的発展よりも内容を充実することと、少数の独断専行よりも、民意を重んずる憲政の運用を高調してゐる」、「国家の価値をその経済的領土的発展に置かずして、その文化的生活に置かんとし、又官僚専制政治を拝して、デモクラシーを主張する」という政治的立場である。(P.87)

また、小野塚の学問的業績の中でも、欧州憲政の比較政治学的研究、国際政治学の先駆者としての役割、社会政策への関心などが面白いテーマではないかと思いますが、これらの側面についてはまだ書く用意ができていませんので、本日のエントリーはここまでとします。

小野塚喜平次について

2010-02-01 | Weblog
最近、少しづつではありますが、小野塚喜平次について調べ始めています。小野塚喜平次は1871年、長岡に生まれ、東京大学で日本人初の政治学講座担当教授となり、後に東大総長も勤めています。私にとっては、郷土の偉大な先達にあたります。

小野塚は日本の政治学の礎を築くとともに、吉野作造、南原繁、今中次麿、蝋山政道、矢部貞治、岡義武、河合栄治郎ら、多くの後進を育てました。丸山真男、福田歓一らは孫弟子にあたります。つまり、その影響は政治学界に留まらず、近現代の日本における良質なリベラリズムの源流の一つになっている、と評価できるのではないでしょうか。

小野塚の生涯および業績については例えば、南原繁・蝋山政道・矢部貞治著「小野塚喜平次 人と業績」(岩波書店 1963)に詳述されています。本書冒頭に「わが国における科学としての政治学の創始者で、且つ昭和の初期に日本がファッショ政治と戦時体制へと急ぎつつあった間、東京帝国大学総長として、大学の自治と学問の自由のために闘った」とあります。

小野塚の業績のうち大学自治に関しては、最近では立花隆「天皇と東大」(文藝春秋 2005)が戸水事件について詳述しています(同書では小野塚のことを「大正デモクラシーの先駆者」と評価しています。もっとも同書では、小野塚の戦時体制への対応について批判的な記述も見られます)。また、師弟関係については松井慎一郎著「河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実」(中公新書 2009)、田沢晴子著「吉野作造 人世に逆境はない」(ミネルヴァ書房 2006)等々、最近刊行された書籍においても割合目にすることが多いのですが、こと彼の学説となると省みられる機会は極めて少ないように思われます。

なかなか彼の手になる著作を入手するのも簡単ではありませんが、少しずつアップしていけたらと考えているところです。