12月9日付の新潟日報に、人類学者である加藤九祚国立民学博物館名誉教授のインタビュー記事が掲載されました。加藤教授の第7回パピルス賞(在野の優れた研究成果に贈られる賞とのこと)受賞を受けての記事です。記事の見出しは「それでも人生を肯定」-
ロシアや中央アジアの論文・書籍を紹介する雑誌「アイハヌム」を2001年から個人で刊行してきた業績が評価されての受賞です。恥ずかしながら加藤教授に関しては今まで名前しか存じ上げず、学問的業績についてはこの記事で初めて知ったのですが、とても印象に残る内容だったので紹介します。
記事では、まず加藤教授の略歴が綴られます(一部、ウィキペディアを参考にしました)。
◆小学校時代は優秀な成績を納めるも、経済的な理由から進学せずに鉄工所で働く
◆その後、小学校の代用教員に採用される
◆上智大学予科の進学。ドイツ哲学を学ぶ
◆1944年(22歳)満州に出征
◆1945年8月から4年8ヶ月、シベリアに抑留
◆1950年(28歳)帰国
◆1953年(31歳)上智大学文学部独文科卒業、平凡社に就職
◆1963年(41歳)最初の著書「シベリアの歴史」刊行
◆1971年(49歳)平凡社を退職。1年間、浪人生活を送る
◆1972年(50歳)上智短大非常勤講師となる
◆1973年(51歳)助教授となる
◆1975年(53歳)国立民族学博物館教授に就任
◆1976年(54歳)「天の蛇-ニコライ・ネフスキーの生涯」で大仏次郎賞受賞
◆民博退官後、76歳で考古学の研究を始める
◆2009年(87歳)第7回パピルス賞受賞
一見して、平坦ならざる歩みであったことが見てとれます。とりわけ、シベリア抑留という苛酷な体験をされているのが目を惹きますが、この間に「日本陸軍のソ連兵捕虜尋問用の日露対訳会話集を拾い、ソ連兵に質問してロシア語を勉強」したといいます。抑留経験について、教授は「シベリアの大学に留学したと思えばいい」と前向きにとらえ直したことが人生の転機だったと振り返っています。
また、加藤教授は人の縁にも恵まれた方だということが窺われます。この短い記事の中に、少なくとも4つの重要な人の縁が介在したことが語られます。
◆小学校の代用教員に採用された陰には、小学校の恩師の推薦があった
◆上智短大に職を得たことについて、教授は「上智大の恩師に救ってもらった」と述懐している
◆民博教授に就任したのは、64年に行われたソ連・コーカサス旅行で知り合った梅棹忠夫氏の誘いがあったため
◆大仏次郎賞の受賞には、井上靖氏の強い推薦があったとされる。井上氏のシルクロード旅行の際、加藤教授は通訳として同行していた
教授は自身の半生を振り返り、
「回り道をしたが、それなりに勉強した。先生や友人に恵まれ、どんな境遇も無駄ではなかった」
「マイナス面を見れば、やり切れず、悲しく、つらい思いをしたことはたくさんある。けれど多くの人に助けられた。プラス面を考えれば余りがあります」
「世界には目を背けたくなる悲惨も多いが、それでもなお人生を肯定する」
と述べられています。ご自身の歩んできた軌跡に対する、見事な総括です。
ロシアや中央アジアの論文・書籍を紹介する雑誌「アイハヌム」を2001年から個人で刊行してきた業績が評価されての受賞です。恥ずかしながら加藤教授に関しては今まで名前しか存じ上げず、学問的業績についてはこの記事で初めて知ったのですが、とても印象に残る内容だったので紹介します。
記事では、まず加藤教授の略歴が綴られます(一部、ウィキペディアを参考にしました)。
◆小学校時代は優秀な成績を納めるも、経済的な理由から進学せずに鉄工所で働く
◆その後、小学校の代用教員に採用される
◆上智大学予科の進学。ドイツ哲学を学ぶ
◆1944年(22歳)満州に出征
◆1945年8月から4年8ヶ月、シベリアに抑留
◆1950年(28歳)帰国
◆1953年(31歳)上智大学文学部独文科卒業、平凡社に就職
◆1963年(41歳)最初の著書「シベリアの歴史」刊行
◆1971年(49歳)平凡社を退職。1年間、浪人生活を送る
◆1972年(50歳)上智短大非常勤講師となる
◆1973年(51歳)助教授となる
◆1975年(53歳)国立民族学博物館教授に就任
◆1976年(54歳)「天の蛇-ニコライ・ネフスキーの生涯」で大仏次郎賞受賞
◆民博退官後、76歳で考古学の研究を始める
◆2009年(87歳)第7回パピルス賞受賞
一見して、平坦ならざる歩みであったことが見てとれます。とりわけ、シベリア抑留という苛酷な体験をされているのが目を惹きますが、この間に「日本陸軍のソ連兵捕虜尋問用の日露対訳会話集を拾い、ソ連兵に質問してロシア語を勉強」したといいます。抑留経験について、教授は「シベリアの大学に留学したと思えばいい」と前向きにとらえ直したことが人生の転機だったと振り返っています。
また、加藤教授は人の縁にも恵まれた方だということが窺われます。この短い記事の中に、少なくとも4つの重要な人の縁が介在したことが語られます。
◆小学校の代用教員に採用された陰には、小学校の恩師の推薦があった
◆上智短大に職を得たことについて、教授は「上智大の恩師に救ってもらった」と述懐している
◆民博教授に就任したのは、64年に行われたソ連・コーカサス旅行で知り合った梅棹忠夫氏の誘いがあったため
◆大仏次郎賞の受賞には、井上靖氏の強い推薦があったとされる。井上氏のシルクロード旅行の際、加藤教授は通訳として同行していた
教授は自身の半生を振り返り、
「回り道をしたが、それなりに勉強した。先生や友人に恵まれ、どんな境遇も無駄ではなかった」
「マイナス面を見れば、やり切れず、悲しく、つらい思いをしたことはたくさんある。けれど多くの人に助けられた。プラス面を考えれば余りがあります」
「世界には目を背けたくなる悲惨も多いが、それでもなお人生を肯定する」
と述べられています。ご自身の歩んできた軌跡に対する、見事な総括です。
新聞記事を読んでいて感銘を受けるという経験は滅多にないものでエントリーしてみたのですが、多少なりともお役に立てたのであれば嬉しく思います。