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ロドリック「世界経済の政治的トリレンマ仮説」と白川日銀総裁講演

2012-10-16 | Weblog

以前、ダニ・ロドリックの「世界経済の政治的トリレンマ」仮説について書きましたが、先日、白川方明日銀総裁が日銀・IMF共催のハイレベル・セミナーにおける基調講演で、この仮説に言及されていました。公共財としての国際金融システムの安定』と題されたこの講演で、白川総裁は「グローバル経済に対する超国家的ガバナンス」の在り方に関し、検討を行っています(講演の冒頭で述べられているように、「グローバル経済に対する超国家的ガバナンス」とは、元ECB理事パドア・スキオッパの問題関心でもあります)。

本講演において、白川総裁は国際金融システムの安定を国際公共財であるとしたうえで、最近の国際金融危機を、「国際金融システムの安定という公共財の過剰消費の結果である」と捉えています。公共財はその非競合性・非排除性という性格ゆえに、ひとたびそれが供給されると過剰に消費される傾向がある、という性質を踏まえての議論です。つまり、「金融機関が、システムの安定を当然視し、過剰なリスクをとってしま」った、「その結果、リスクが顕在化したときの影響がきわめて大きくなり、市場はそれ自身では安定性を取り戻すことができず、中央銀行による協調的な流動性の供給といった公的当局の介入」に至った、ということです。

こうした事態を回避するためには、金融システムの安定に対するグローバルなレベルでのガバナンスが必要とされますが、その対策は必ずしも進展しているとは言えません。ここで白川総裁はダニ・ロドリック教授(ハーバード大学)のトリレンマ仮説に言及します。

「同教授は、深化したグローバル化と、国民国家と、民主的な政治を同時に達成することはできないと指摘しています。.....アイスランドやアイルランドで最近生じたように、金融機関は母国以外における活動で経営危機に陥ることがあります。仮に、母国の政府が、国際金融システムの安定性を確保するためにこれらの金融機関を救済しようとする場合、母国の納税者が負担し得る以上の巨額のコストがかかり、民主主義が制約される可能性が生じます。こうした結果を回避しようとすれば、グローバルな安全網を提供できる民主的な世界政府を樹立するか、民主的に選出された各国の政府が制御できる程度までグローバルな金融活動を制限するしかありません。前者の場合は国民国家を、後者の場合はグローバル化の深化を制約することになります。」

この箇所は、極めて明快なロドリック仮説の現実への適用例となっています。そのうえで、白川総裁は「3つの選択肢のうち、ロドリック教授は、3番目の選択肢、すなわち、過度なグローバル化ではなく、賢いグローバル化(smart globalization)を提唱」しているとし、その考え方を支持しています。

勿論、白川総裁はグローバル・ガバナンスの困難さを十分認識したうえで、超国家的な公的主体による直接的な公共財の供給(たとえば世界政府による財政・金融政策)のようなドラスティックな提言は避け、実務家らしい慎重な対策(個々の国レベルでの金融機関への監督、自己資本規制、課税等の組み合わせによる複線的アプローチ)を提唱されています。

さらに引用すれば、「グローバルな金融環境を監視し、マクロプルーデンス上のリスクを特定するといった個別具体的な課題への対応を、超国家的な組織に民主的な原理と整合的なかたちで任せることは可能」と述べていることから推察されるように、ロドリックの枠組みでいえば、「国民国家を(ある程度)犠牲にして、グローバル化と民主主義を選択する」という戦略に、より親和的な態度と言えます。

 そのうえで、講演の最後でこのようにも発言されています。

「.....中央銀行は、国民国家によって与えられる権限によって制約されています。中央政府から独立しているとはいえ、究極的には国民に対してその行動の責任を負っています。中央銀行は、その行動の正統性を意識しなければなりませんが、同時に、環境の変化によって必要になるのであれば、固定観念にとらわれることは良い結果を生まないのも事実です。19世紀半ば以降、中央銀行がみせた段階的かつ自然発生的な進化は、こうした事情を示しています。この点に関してすぐに思い浮かぶのは、金融政策の国境を越えた波及とその跳ね返りの問題です。こうした効果が十分に内部化されないと、国際的な金融システムの安定性は遠ざかってしまうかもしれません。」

この微妙な言い回しには、中央銀行の置かれた立場に対するジレンマが反映されているかのようです。これからますます日銀は国内政治からの圧力を受けることが予想されますが、グローバル・ガバナンスという、ある種コスモポリタン的な価値をも追求せざるを得ない中央銀行総裁としての、ごく控えめなマニフェストが込められているように思えてなりません。


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