Good Life, Good Economy

自己流経済学再入門、その他もろもろ

難波和彦氏「神宮前日記」より、ペヴスナー『モダン・デザインの展開』に関する記述を拾ってみる

2014-09-01 | Weblog

難波和彦氏が「神宮前日記」でニコラス・ペヴスナーの『モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで』について触れている。これが何やら非常に重要なことのような気がする(あくまで「気がする」)ので-他人の日記を転載するのは些か野暮なようにも思われるが-ここに関連箇所を抜書きしてみたいと思う。

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2014年8月23日のエントリーより:

JIAからウィリアム・モリスに関するシンポジウム開催の告知メールが届いたので直ちに参加を申し込む。思い立って本棚から 『建築の世紀末』(鈴木博之:著 晶文社 1977)と『ウィリアム・モリス---近代デザインの原点』(藤田治彦:著 鹿島出版会 1996)を抽き出して目を通してみる。ニコラス・ペヴスナーが『モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで』でモリスをモダニズムの創始者に位 置づけたのが嚆矢だと思うが、モダニズムのその後の展開にはイギリスはほとんど寄与していないように見える。モリスの仕事自体もモダニズムの具体的なデザ インとはかけ離れている。『インターナショナル・スタイル』展にはスカンジナビアの建築は多数とり挙げられ日本の建築も何点か紹介されているのにイギリス の建築でとり挙げられているのは1点だけである。要するにモリスが原点だとしてもその後のモダニズムの展開がイギリスにどうフィードバックされたのかが スッポリと抜け落ちているのである。シンポジウムでは是非ともその点を確認してみたい。そのためにペヴスナーを再読してみようか。

2014年8月27日のエントリーより:

『モダン・デザインの展開』を読み続ける。再読するとさまざまな発見がある。ウィリアム・モリスがモダニズムの創始者でありながら英国が20世紀以降のモダニズムデザインの展開に寄与していない理由がよく分かった。レイナー・バンハムが本書に対する批判として『第一機械時代の理論とデザイン』を書いた理由も頷ける。何しろモダン・デザインの歴史を論じた本書はタイトルとは裏腹に1914年すなわち第一次世界大戦前で終わっている からである。1930年代末に出版されたのに第1次大戦後の1920年代のモダニズムの爆発が取り挙げられていないのでは「モダン・デザイン展開」ではな く「モダニズム前史」と言わざるを得ないだろう。

2014年8月28日のエントリーより:

『モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで』(ニコラス・ペヴスナー:著 白石博三:訳 みすず書房 1971)を読み終わる。三度目の再読だったが何点か新しい発見があった。まず本書は英語圏の読者に向けて書かれている点であることが分った。モダニズム・デザインは1920年代に最盛期を迎えるが本書の対象は1914年までの初期モダニズムである。ペヴスナーはこの時点でモダン・デザインは完成したと 考えたのではないかと訳者は解説しているが、それは事実に反している。そうではなくペヴスナーは英語圏(英国とアメリカ)がモダン・デザインに寄与したの は1914年までと判断したからだと僕は考える。それを傍証する記述には、以下のように事欠かない。
「モリスの後を慕った工芸家は、たいていモリスの基準に忠実な態度を続け、伝統を激しく破ることは一切しないという点でも、忠誠を持ち続けた。そしてこのことで、彼らは所詮英国人であることを証明し たのである。英国は、近代運動が伝統の完全な破壊を意味しない正にその間だけ、近代運動をリードしたことが、よく判るように思われる。そのことは、工芸の デザインに関すると同様に、建築にも適用され、従って1860年から1900年までの英国が、この二方面において、ヨーロッパ諸国をリードする国だったこ とも、判るのである。」(p.41)
「(ヨーロッパ大陸の)アール・ヌーヴォーは、いかなる時代を模倣することにも、あるいはそれからインスピレイションを受けることにも、強く反対した。アーツ・アンド・クラフツはそうではなかった。英国は、どうしても生まれながらの保守主義に忠実で、近代的にな ろうと努力しても、やはり伝統を守る。近代運動が英国以外の国でのみ、その有力な表現を見出しえたのは、この理由によるのであって。それ以外の理由ではな いのである。」(p.73)
C・F・アネスリー・ヴォイジーやチャールズ・レニー・マッキントッシュの先駆性に注目しながらもペヴスナーはこう続けている。
「彼 ら(上記二者)の様式をかくのごとく綜合したこと、それが英国は来るべき近代運動に遺した形見なのだ。第一次世界戦争前に、英国がヨーロッパ建築に尽くし たその他の貢献は、ここで論ずるほどの重要さを持っていない。何となれば、色々な理由で、英国は、新様式の具体化における主導権を、ちょうど1900年頃 に、すなわちすべての先覚者達の個々の事業が一つの普遍的な運動に集合し出したその瞬間に、喪失したからである。その一つの理由は、盛んになってきた大衆運動の持つ平均化の傾向---新の建築様式とは、すべての人々のためのものなのだが---は、英国人の性格にとってあまりに反していたからである。それと 似た反感が、伝統を容赦なく削り取ることも妨げた。(中略)大陸の建築家たちが、未来のための真の様式の要素を、英国の建築家と英国の工芸に発見したその瞬間に、英国自身は、折衷的な新古典主義に退いた。」(p.111)
ウィリアム・モリスのデザインだけでなく彼の先駆的な社会主義思想についても 同じようなことがいえると思う。ヨーロッパ大陸では近代デザイン運動と社会主義思想はほとんど一体的に展開したが、その発祥地である英国には最終的には根づかなかった。本書のベヴスナーの結論はこうである。
「近代運動は一つの根から生じたのではない。その本質的根源の一つは、ウィリアム・モリスと アーツ・アンド・クラフツであり、他の一つはアール・ヌーヴォーである。そして19世紀の工学技術者の業績は、他の二つの源泉と同様に、有力な現代様式の 第三の源なのである。」(p.77)
ペヴスナーがアングロサクソン的近代建築史を目ざしたのだとすれば、近代運動を総体として捉えようとすれば当然ペヴスナーとは異なる視点を持たざるを得ない。同世代のギーディオンもそうだが続く世代のバンハムがまったく異なる近代建築史を書いたのは当然である。

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10+1 web siteに「1960年代のロンドンの建築シーンを振り返る ──AAスクール、『Architectural Design』、セドリック・プライス」というインタビュー記事が紹介されている。今村創平氏と八束はじめ氏がロビン・ミドルトン(建築史)に対して行ったインタビューである。ここでは、セントラル・スクール・オブ・アート(Central School of Art and Design、ロンドン中央美術工芸学校)で教えていたレサビーという人物が登場する。「アーツ・アンド・クラフツの建築家の生き残りのうちの数少ない一人であり、建築についての思考を試み、いくつかのとても重要な本を書」いた人だそうだ。記事よりさらに引用する。

「レザビーの考えは、当時のイギリスの建築文化に浸透していました。そのなかでも特に重要なのは、何か控えめで、常識的で、普通のものについてです。スミッソン夫妻は好んだ「普通さ ordinary」はレザビーに由来しており、さらには、デニス(・スコット・ブラウン)を通じて、ヴェンチューリ夫妻の「凡庸さ」もレザビーから来ているのです。」

いったんモダン・デザインの歴史の後景に退いた英国は、しかし、セドリック・プライスやアーキグラムのような建築家・集団を生み出す。このインタビューでは、建築史の流れと社会主義との繋がりも示唆されている。この辺の継受にはかなり興味をそそられる。

 


バーク、ペイン、そして左右の政治的分裂

2014-06-08 | Weblog

5月26日のEcontalkは、EPPC(Ethics and Public Policy Center)のYuval Levinを迎えて、左翼と右翼の政治的分裂をテーマにした彼の著書The Great Debate: Edmund Burke, Thomas Paine, and the Birth of Right and Leftについて取り上げている。右とか左とかいう言い方は、現代ではすっかり有効性を失ったかのように言われるが、左右の政治的分裂はエドマンド・バークとトマス・ペインに遡るとするレヴィンの議論はとても興味深いものだ。どちらも啓蒙の世紀である18世紀に活躍した思想家であり、フランス革命やアメリカ独立戦争について健筆をふるった偉人であるが、確かにそれ以前は保守とか革新とかいう思想傾向は意識されなかったのかもしれない。

レヴィンによれば、バークは「フランス革命のような自由主義的ラディカリズムの揺るぎない批判者であって、近代的保守主義の父ともいえる人物で、世代間の連続性、漸進主義、伝統や既存の制度へのリスペクトに重きを置いて」おり、これに対しペインは「啓蒙思想の熱烈な支持者で、伝統の桎梏や過去の権威からの個人の解放を唱導する近代革新主義、近代左翼の父である」という。

ホストのラス・ロバーツはハイエキアンを自認していおり、バークにより強い共感を示している(ただし、ロバーツは「バークとペインの両者に共感する-両者の意見がまったく対立する論点においてさえ、両者に共感する」とも言っており興味深い。レヴィン自身も、よりバークに近い立場をとっている)。ハイエクは 『自由の条件』でデカルトとスコットランド/イングランドの啓蒙主義を対比しているとのことだが、レヴィンはさらにこれをフランス式庭園と英国式庭園の違いのようなもの、と言い換えている。即ち、完璧な幾何学的対称性を重んじる前者と、自然の植生を活かす後者との違い、これがそのままペインとバークに当てはまる、というわけだ。

ラス・ロバーツ(およびレヴィンの著書の読者の多く)からの「今日では保守派は既存システムの変革を熱心に唱え、リベラルは福祉国家システムを墨守しようとしている。むしろ今は左右が逆転しているのではないか」という質問に対して、レヴィンはこう答える:それは副次的な問題だ。例えば、とても非効率な医療システムを考えてみる。左翼はシステムをより中央集権的にして、専門家の管理に委ねようとする。右翼はシステムをより分権的にして、市場原理に委ねようとする。課題に対するアプローチの仕方が問題なのだ。方や、ペイン流のテクノクラティックなアプローチ、方やバーク流の漸進主義。

(この議論は日本にもそのまま当てはまるだろうか?安倍政権は保守を自認するが、むしろ戦時中の革新官僚に近いとする見解もある。しかし、そのアプローチはバーク流と言えるだろうか?)

再分配についても両者は対照的な見解をとっている。ある意味、福祉国家思想の先駆者ともいえるペインと、再分配には慎重な態度を堅持したバーク。そしてこの関係は、現代の米国政治にもそのまま持ちこされている。

しかし、問題の対象領域を更に拡大すると、後発の産業資本主義国家(日本も含まれる)にとって、そのテイク・オフ段階にあっては、ペイン流の中央集権的システムを導入する方が、はるかに容易ではないかと思われる。それが土着の社会と融合すると、多様な社会経済システムが族生する。バークとペインという二分法は、政治思想史の課題として重要であるのに加え、政治システムを観察するうえでも有効ではあるだろう。それは米国の政治システムに最も適合するが、二大政党制の見本のように思われていた英国でさえ、今はかなり様相を異にしている。バークとペインの二分法からの偏差をどうとらえるかが、むしろ要請されるように思われる。


経済成長とモラルに関するメモ

2013-12-30 | Weblog

Benjamin M. Friedmanの著書The Moral Consequences of Economic Growth(2005)は、「経済成長と社会のモラルとは正の相関がある」という仮説を、米国史などの事例をもとに論証した浩瀚な書物である(『経済成長とモラル』という邦題で訳本が出ているが、訳本は未読。ただし、原著も斜め読み程度です)。Amazonの紹介文によれば、「本書は...アメリカを中心とした世界各国の事例をもとに、経済成長と人々の社会のモラルとの関係を詳細に分析したものである。著者によればこの2つには正の相関関係 があり、経済成長が国民の生活水準の向上をもたらすと、多様性の許容、階層間の流動性の上昇、公平性への指向、デモクラシーの重視といった社会的道徳心の向上がみられる」、とされる。

同書によれば、1865年以降の米国史は以下のように区分される。

1.ホレイショ・アルジャー時代(1865-80)

2.ポピュリスト時代(1880-95)

3. 革新主義時代(1895-1919)

4.クラン時代(1920-29)

5.ニューディール時代(1929-39)

6.公民権時代(1945-73)

7.反動時代(1973-93)

8.それ以降(1993-)

このうち、1、3、6、8は順調に経済が成長した時代(同書が2005年に発売されたことに注意)、2、4、5、7は経済が停滞した時代であり、前者においては社会の開放性、寛容性、流動性、公正性が拡大し、後者においては、ニューディール時代を除き、社会がより閉鎖的、非寛容、停滞的、非公正になったとするのが、同書の中心的な主張である。また、同書ではこの後、英国、フランス、ドイツについても同様の傾向が観察されるとしている。「経済成長は格差を拡大させる」という議論はしばしば主張されるところであるが、おそらく事態はそう単純ではない。

しかし、同書はマクロかつ通史的な視点から議論を進めているため、反証を探すことはそれほど困難ではない。例えば、上杉忍著『アメリカ黒人の歴史 奴隷貿易からオバマ大統領まで』(2013)では、1874年頃から革新主義の時代にかけてを黒人にとっての「どん底の時代」として描いている。革新主義の時代は黒人排除を前提としていたのであり、「革新主義的改革は黒人にほとんど何の利益ももたらすことはなかった」。

経済の動向と社会の寛容性・公正性の相関は、極めて興味深いテーマである。ここではこれ以上、論を進める用意はないが、未読ながら、思想史的側面からこの分野に深く関わっているのではないかと思われる作品として、マイケル・サンデルの『民主政の不満』が挙げられる。同書は経済史、経済学史の分野で取り上げられることはほとんどないようだが、米国の経済思想発展史ともいえる内容を含んでいる。ケインズ経済学以前の米国経済学の伝統として共和主義的な発想が重んじられている(「公民性の政治経済」)が、その中心的主張のようである。


浅井忠の足跡について

2013-10-20 | Weblog

日本近代洋画の父と呼ばれる浅井忠(1856-1907)は、デザインや教育の面でも極めて重要な貢献をなした人でもある。かつて私は、浅井といえば、バルビゾン派風の農村風景を描いた画家というイメージしかもっていなかったが、昨年7月に放映されたNHKの日曜美術館「近代デザインの開拓者 浅井忠」で、グラフィックデザイン、工芸デザインの分野でもユニークな足跡を残していたことを知り、意外に思うとともに、浅井という人物に何とはなしに興味を覚えたものだった。

並木誠士他編 『京都 伝統工芸の近代』(2012;思文閣出版)には、やや断片的ながら浅井の経歴、業績への言及がある。浅井は工部美術学校でフォンタネージに師事するも、明治16年(1883年)、欧化政策への反動から工部美術学校は閉鎖の憂き目に会う。しかし、明治22年(1889年)、浅井らが中心となって明治美術会が設立され、近代洋画の普及・啓蒙が図られるとともに、浅井自身も明治31年(1898年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授となる。

明治33年(1900年)には「パリ万国博覧会の鑑査官と、西洋画研究」を目的として2年間のフランス留学に向かい、かの地でアール・ヌーヴォーの洗礼を受ける。また、そこでのデザイン志向が、琳派の再発見をもたらしたとも言われている。

明治35年(1902年)に帰国後、浅井は京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学の前身)図案科の教授に就任する。このとき浅井は46歳であった。なお、浅井と同時に初代図案科教授に就任したのが建築家の武田五一である。ここでの様子を前述の 『京都 伝統工芸の近代』から引いてみる。

「図案科で指導したのは、図画法、図画実習であった。この二つの科目において、浅井は、ヨーロッパの装飾美術学校のカリキュラムにならい、デザインの基礎としてのデッサンを重視し、徹底的に教えたそうである。学生に与えた課題は、鉛筆写生にはじまり、その後に水彩画を習得するという内容であった。この指導方法は、浅井が洋画指導を行った聖護院洋画研究所や関西美術院でも同様であった。」

「浅井は京都へ赴任後、まもなく同校(京都高等工芸学校)校長の中澤岩太を通じて地元製陶家、漆芸家ともかかわりをもち、明治36年結成の遊陶園、同39年結成の京漆園に主力メンバーとして参加した。浅井は製作の現場である京都の工芸界に身を置き、工芸図案の考案や、工芸家に向けての図案指導もおこなっていたのである。」

画家と工芸の関わりは東京と比べ、京都のほうがはるかに強いと言われている。染織品の下絵を手掛けた竹内栖鳳はその典型といえるが、浅井忠もその例にもれない。同時代に活躍した図案家・画家として神坂雪佳も忘れがたい存在である。

洋画界はすでに黒田清輝を中心とする外光派の時代に入っており、浅井らの旧派は「脂派」として、流行遅れと見なされる傾向にあった。しかし、フランス留学以降の浅井の業績を見ると、黒田が「西欧伝統絵画の理念の移植」という企てに結局は挫折してしまったと見られている(Cf. 高階秀爾 『日本近代美術史論』)のに対し、そのフレクシビリティが際立っているように思える。浅井が工芸界に遺した業績は「伝統的な日本絵画の特性をいかしつつ、洋画の構図や手法を取り入れた新しい図案を導入したこと」とされる。また、京都の洋画壇にも数々の才能を送り出している。

渡仏後移り住んだ京都で、パリにて(再)発見したアール・ヌーヴォーと琳派の影響を図案教育に生かし、京都の伝統工芸の発展に寄与する。教育者として優れているだけでなく、浅井の鋭敏な世界感覚をも物語る後半生ではないだろうか。


今村創平『現代都市理論講義』を読む

2013-04-07 | Weblog

今村創平著『現代都市理論講義』(オーム社;2013)は、1960年代から70年代にかけて提案・発表された都市に関する理論やプロジェクトを俯瞰する書であり、初学者にもわかりやすくというコンセプト通り、リーダブルな書物でもある。各章の構成は次の通り。

第1章 近代都市計画とその限界

第2章 メタボリズム

第3章 アーキグラム

第4章 クリストファー・アレグザンダー

第5章 アルド・ロッシ

第6章 シチュアシオニストとニュー・バビロン

第7章 ロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウン

第8章 マンフレッド・タフーリ

第9章 コーリン・ロウ

第10章 デリリアス・グローバル・シティ:レム・コールハースと現代都市

代表的な現代都市理論家を網羅的に取り上げており、私のように都市計画史に不案内な者にとっては、極めてありがたい構成になっている。

まずもって注目されるのは、「1960-70年代」という時代区分であろう。著者によれば、この時代に現代の都市を考える基礎となる理論の多くが誕生したという。先進国は1950-60年代に過去に類例を見ない経済的繁栄を享受したが、その高揚した時代背景が反映しているのは間違いないところであろう。また、近年注目が集まっているメタボリズムを、同時代的な国際環境のなかで相対化する(アーキグラムなどは、まさにメタボリズムと同じ頃に展開されたプロジェクトである)材料を提供してくれている点も、同書の価値を高めている。

同時に、この時代は左翼が大きな影響力を持っていたという事実も再認識させてくれる。とりわけシチュアシオニストやタフーリなどに顕著であるが、批判的精神が創造性と結びついていた時代として記憶されるであろう。著者は60-70年代を「理論のラディカリズム」の時代として評価するのであるが、古い価値に対するプロテストの精神が時代を覆っていたのがこの頃だったといえる。

(例えば美術史では、ネオ・ダダ、ポップ・アート、パフォーマンス・アート、コンセプチュアル・アート、ミニマリズムといったあたりが、この時代の産物であろうか。日本では、ハイ・レッド・センターなどの「反芸術」やもの派などが輩出した)

では、これらのラディカリズムが現代都市とどのように接合されるか?著者はその辺を声高に訴えたりはしない。ここでは「序」からの一節を引こう。

「現代都市について考えるにあたって、まずは今の都市に見られる兆候、たとえばグローバル・シティ(サッセン)であるとかクリエイティブ・シティ(フロリダ)、金融と不動産投機、スラム、サステナビリティを取り上げるべきなのは当然である。一方で、都市には継続的に見られる問題があるから、古くは帝政ローマの水道や街道といったインフラ整備からはじまって、さまざまな過去の都市から学ぶことは多い。というか、過去から学ぶことなくしていまの現象のみを取り上げても、それは表面的な議論で終わってしまう。」(p.6)

おそらく、現代都市が離れることのできない資本主義経済の論理とは必ずしも相容れない都市固有の原理を再発見すること、それが60-70年代の現代都市理論を読み解く動機のひとつとなっているのではないだろうか。

同書はまた、その細部において、様々な問題系への想像力をかきたててくれる書物でもある。例えば、「AAスクールやヴェネツィア建築大学は都市計画史上、どのような機能を果たしたか。それは例えば、社会科学におけるフランクフルト研究所やニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ等とどのように比較できるか」、「ウォーバーグ研究所からコーリン・ロウに至る流れは、建築史上、どのような影響を残しているか」、「ワイマール期ドイツの社会・都市政策と、当時の国際政治経済環境との関連はどのようなものであったか」等々。

最後にひとつ、思いついたことを。アルド・ロッシの章で、著者はフランスの社会学者モーリス・アルヴァクスを引いて、都市とは「集団的記憶の場」であるとしている。では、戦争や災害で、多くの歴史的モニュメントを失ってしまった都市は、どのようにして集団的記憶を回復すればよいのであろうか?戦災で中心街の多くを失ったル・アーヴルが、オーギュスト・ペレの都市計画に基づく再建で世界遺産となったという事実は、ひとつの解答となるかもしれない。では、それ以外には、どのような方法が?


グリッロ、イタリア総選挙、デジタル・ポピュリズム

2013-02-26 | Weblog

2月25日に開票が行われたイタリア総選挙は、モンティ政権の改革路線を継承する中道左派が下院の過半数を確保したものの安定多数には至らず、今後の政局運営に暗雲をもたらす結果となった。ロイターは「市場の見地で想定しうる最悪の結果」(同国金融関係者)とのコメントを引き、欧州債務危機再燃への懸念を伝えている。

今回の総選挙で耳目を引いたのは、何よりも元コメディアンのベッペ・グリッロ氏率いる「五つ星運動」Movimento 5 Stelle (M5S) が大躍進を果たしたことだ。M5Sは下院で25%の支持を得るとともに、上院でも54議席を獲得した。Bloombergの記事によれば、M5Sは「反緊縮的なアジェンダでユーロに関する国民投票と公的な政党助成の廃止を掲げ、イタリアのユーロ圏離脱はタブーではない」という立場をとっているとのこと。

かくいう私もグリッロ氏という人物については、つい先日までほとんど何も知らない状態だったが、英国のシンクタンクであるデモスが公表したNew Political Actors in Europe: Beppe Grillo and the M5Sというレポートにより、若干の知識を得た次第である(なお、デモスは欧州のデジタル・ポピュリズムに関するレポートを積極的に発表している。例えば、こちら)。

デモスによれば、グリッロ率いるM5Sはソーシャル・メディアの活用によって、この3年の間にゼロから主要な政治勢力になるまでに成長した。イタリアの既成政党がソーシャル・メディアに乗り遅れる中で、Web世界でのグリッロの存在は傑出している(2012年11月時点でフェイスブックのフォロワーは70万人を超えている。これに対し、例えば中道左派のベルサニ氏のフォロワーは14万6千人余り)。デモスはフェイスブックを使用し、グリッロの支持者に対しサーベイを行い(有効なサンプル数は1,865人)、彼の支持層の特色を炙り出している。

サーベイのファインディングスを幾つか挙げてみると、

1.グリッロのフェイスブック・ファンのうち、63%が男性、37%が女性。30歳以上が64%。イタリアのフェイスブック・ユーザー全体では30歳以上が51%なので、「M5Sの支持者は若者が多い」という印象とはやや違っている。

2.グリッロのフェイスブック・ファンのうち、54%は最終学歴が高校で、イタリア全体の34.8%を上回っている。大卒の比率もイタリア全体よりも多く、レポートでは「イタリアのデジタル・ディバイドを反映している」と評価している。しかし、グリッロのファンの19%が失業中であり、イタリア平均の7.9%を大きく上回っている。学生は18%に過ぎず、ドイツ海賊党のフェイスブック・ファンのうち36.3%を学生が占めるのとは対照的である。レポートでも、「M5Sの支持者は、若くて高学歴」というイメージとは些か異なっていることに驚きを隠していない。

3.「過去6か月の間にボイコットやストライキに参加したか(参加する意思があったか)」という質問にイエスと答える層は、イタリア全体の平均より明らかに高く、グリッロのファン層の政治的アクティビズムは顕著である。

4.18項目の社会・政治的関心事のうち何を重視するか、という問いに対しては、第1位が「経済状態」、第2位が「失業」で、経済への関心の高さが際立っている。右寄りのポピュリスト政党に顕著な移民への関心は、グリッロのファンの間では決して高くない。面白いのは、「移民はイタリアにとって、より問題だ」とする者が39%なのに対し、「移民はイタリアにとって、よりチャンスをもたらす」とする者が56%を占めている点である。イタリア全体では、前者が48%、後者が28%に逆転する。

5.総じて、グリッロのファンはイタリアの未来に対して悲観的である。イタリア全体の統計数値よりも悲観的な回答をしており、30歳以上の層に特に顕著である。

6.グリッロのフェイスブック・ファンは、自らを概ね中道左派と見なしている。また、EU、政府、政党等に対する信頼感は、イタリア全体の平均よりも低い。逆にインターネットや中小企業に対する信頼感は高い。

レポートでは、フェイスブック・ファン層の回答はM5Sの反エスタブリッシュメント的な立ち位置と整合的と評価している。欧州では政府や議会に対する信頼感は低下の一途を辿っているが、グリッロはソーシャル・メディアを使い、反既存政党のスタンスを明確にし、一気に躍進を果たした。その一方で、Meet-ups(オフ会)のようなオフライン・アクティビズムも効果的に活用している。

M5Sは既成の政治システムに風穴を開けた。しかし、同時にそれがイタリア、引いては欧州の経済危機の再燃を招く危険性も孕んでいる。しばらく欧州情勢は目が離せない。それが日本にどう波及するかも含めて。

(デモスは今後、ドイツの海賊党や、ギリシアのシリザに関するレポートの公表も予定している由。)


野口整体の体癖論と見田社会学

2012-12-16 | Weblog

見田宗介のエッセイに「晴風万里」と「アートの人間学」と題された小品二編があります。いずれも「野口整体」の生みの親である野口晴哉についての文章です。私の知る限り、野口晴哉の体癖論を社会科学者が採りあげた唯一の例です(勿論、私が知らないだけで、他にもあるかもしれませんが)。

体癖は身体の運動特性による人間のタイプの分類であり、野口晴哉の『整体入門』などで紹介されています(私は片山洋次郎さんの著書である『骨盤にきく』と『身体にきく』で体癖論を知りました。片山さんの説明のほうが、少なくとも初心者にはオリジナルより判りやすいと思います)。

体癖には1種から12種までありますが、他と分類の基準が異なる11種(過敏型)と12種(遅鈍型)を除くと、次のようにまとめることができます(「晴風万里」より一部修正して転載)。

        運動特性 活発な部位 性格特性  行動基準   体型

1種/2種   上下     脳神経系   知性型    真/偽  縦長、直線的

3種/4種   左右    消化器系   感情型   好/嫌  柔らか、曲線的

5種/6種   前後   呼吸器系    行動型   得/損  逆三角形、スマート

7種/8種   捻れ   泌尿器系     闘争型   勝/負  胴太く、がっちり

9種       閉      生殖器系      直観型   愛/憎    細く締まり強靭

10種      開      生殖器系    直観型   愛/憎  太く、ふくよか

野口晴哉は、30年に及ぶ治療歴において、100万を超える椎骨に触れ、身体反応の現象を観察してきたといいます。これらを所謂「科学的根拠に基づく医療」(Evidence-based medicine)の方法論で実証するのは困難と思われますが、圧倒的な経験的データに立脚した仮説であることは論を俟ちません。見田宗介は、これを「間身体の現象学」と呼んでいます。

実際、周りを観察してみると、人によって優先する価値基準が違うという点には思い当たる節があるかと思います。好き/嫌いで判断する人、損/得で物事を決める人、正しいかどうかにこだわる人...その人の体型や性格と照らし合わせてみると、うなずける点があるのではないでしょうか。

見田の「アートの人間学」は、体癖論を使って古今の名画に描かれた人物の特徴を解説する楽しいエッセイです。例えば、ムンクの「思春期」に描かれた少女は「9種が少し入った6種」、即ち「9種がちょっと入っていて大変旺盛なリビドー、性的なエネルギーが、6種の呼吸器の弱さに妨げられて自分の中に内攻して、純粋な憧れとか高い理想とか、潔癖な倫理観とか、そういったものに昇華する」。

また、杉山寧の「生」という作品で描かれた裸婦は、典型的な5種です。野口晴哉曰く「以前には少なかったタイプ。現代になって初めて多くなってきたタイプ」とのこと。アメリカ人は5種が多いとされます。アメリカの文化、制度、ビジネスは現実的、実用的、合理的な5種型人間を前提としたシステムになっている、とは見田の見立てです。

(今年4月、朝日カルチャーセンター新宿校で、見田先生ご自身が同じテーマで講義されました。スライドを使って名画の登場人物の解説をするというスタイルで、大変面白い講義でした。)

さて、次に知りたくなるのは、体癖論(あるいは野口整体)が見田社会学とどのような関係があるのか、ということでしょう。見田自身は2つのエッセイにおいて、直接それには言及していません。が、手掛かりのようなパラグラフを残しています。

「晴風万里」には、次のようなエピソードが引かれています。

「イスラエル人の母親が逆子で困って訪れた時、野口はヘブライ語は話せないので仕方なく日本語で胎児に「オイ逆さまだよ。頭は下になるのがまともなんだよ」と言ったら、胎児は正常に戻ったという。」

このエピソードについて、見田は

「コミュニケーションには言語的(ヴァーバル)と非言語的(ノンヴァーバル)があるが、言語に随伴する「下言語的」(サブヴァーバル)交流という領野が存在すると思う。言語が意識の交通なら、下言語は潜在意識の交通である。野口晴哉は、潜在意識の交通の達人であった。」

「経済的な「交換」のコンセプトを拡大することで、マルセル・モースやカール・ポランニーやジョルジュ・バタイユはそれぞれ豊饒な社会学の理論を展開してきたが、<気の交換>のシステムとして、潜在意識の交流し交響する空間としての「社会」の様相に光を当てるなら、また一つ新しい射程と深度とを獲得した人間世界のダイナミズムの理論が開かれてゆくだろう。」

と述べています。

社会システムは言語のみで成立するものではない。間身体・間潜在意識の社会システム論が展開されたら...と思うと、これまた楽しくもエキサイティングな試みではありませんか。


ロドリック「世界経済の政治的トリレンマ仮説」と白川日銀総裁講演

2012-10-16 | Weblog

以前、ダニ・ロドリックの「世界経済の政治的トリレンマ」仮説について書きましたが、先日、白川方明日銀総裁が日銀・IMF共催のハイレベル・セミナーにおける基調講演で、この仮説に言及されていました。公共財としての国際金融システムの安定』と題されたこの講演で、白川総裁は「グローバル経済に対する超国家的ガバナンス」の在り方に関し、検討を行っています(講演の冒頭で述べられているように、「グローバル経済に対する超国家的ガバナンス」とは、元ECB理事パドア・スキオッパの問題関心でもあります)。

本講演において、白川総裁は国際金融システムの安定を国際公共財であるとしたうえで、最近の国際金融危機を、「国際金融システムの安定という公共財の過剰消費の結果である」と捉えています。公共財はその非競合性・非排除性という性格ゆえに、ひとたびそれが供給されると過剰に消費される傾向がある、という性質を踏まえての議論です。つまり、「金融機関が、システムの安定を当然視し、過剰なリスクをとってしま」った、「その結果、リスクが顕在化したときの影響がきわめて大きくなり、市場はそれ自身では安定性を取り戻すことができず、中央銀行による協調的な流動性の供給といった公的当局の介入」に至った、ということです。

こうした事態を回避するためには、金融システムの安定に対するグローバルなレベルでのガバナンスが必要とされますが、その対策は必ずしも進展しているとは言えません。ここで白川総裁はダニ・ロドリック教授(ハーバード大学)のトリレンマ仮説に言及します。

「同教授は、深化したグローバル化と、国民国家と、民主的な政治を同時に達成することはできないと指摘しています。.....アイスランドやアイルランドで最近生じたように、金融機関は母国以外における活動で経営危機に陥ることがあります。仮に、母国の政府が、国際金融システムの安定性を確保するためにこれらの金融機関を救済しようとする場合、母国の納税者が負担し得る以上の巨額のコストがかかり、民主主義が制約される可能性が生じます。こうした結果を回避しようとすれば、グローバルな安全網を提供できる民主的な世界政府を樹立するか、民主的に選出された各国の政府が制御できる程度までグローバルな金融活動を制限するしかありません。前者の場合は国民国家を、後者の場合はグローバル化の深化を制約することになります。」

この箇所は、極めて明快なロドリック仮説の現実への適用例となっています。そのうえで、白川総裁は「3つの選択肢のうち、ロドリック教授は、3番目の選択肢、すなわち、過度なグローバル化ではなく、賢いグローバル化(smart globalization)を提唱」しているとし、その考え方を支持しています。

勿論、白川総裁はグローバル・ガバナンスの困難さを十分認識したうえで、超国家的な公的主体による直接的な公共財の供給(たとえば世界政府による財政・金融政策)のようなドラスティックな提言は避け、実務家らしい慎重な対策(個々の国レベルでの金融機関への監督、自己資本規制、課税等の組み合わせによる複線的アプローチ)を提唱されています。

さらに引用すれば、「グローバルな金融環境を監視し、マクロプルーデンス上のリスクを特定するといった個別具体的な課題への対応を、超国家的な組織に民主的な原理と整合的なかたちで任せることは可能」と述べていることから推察されるように、ロドリックの枠組みでいえば、「国民国家を(ある程度)犠牲にして、グローバル化と民主主義を選択する」という戦略に、より親和的な態度と言えます。

 そのうえで、講演の最後でこのようにも発言されています。

「.....中央銀行は、国民国家によって与えられる権限によって制約されています。中央政府から独立しているとはいえ、究極的には国民に対してその行動の責任を負っています。中央銀行は、その行動の正統性を意識しなければなりませんが、同時に、環境の変化によって必要になるのであれば、固定観念にとらわれることは良い結果を生まないのも事実です。19世紀半ば以降、中央銀行がみせた段階的かつ自然発生的な進化は、こうした事情を示しています。この点に関してすぐに思い浮かぶのは、金融政策の国境を越えた波及とその跳ね返りの問題です。こうした効果が十分に内部化されないと、国際的な金融システムの安定性は遠ざかってしまうかもしれません。」

この微妙な言い回しには、中央銀行の置かれた立場に対するジレンマが反映されているかのようです。これからますます日銀は国内政治からの圧力を受けることが予想されますが、グローバル・ガバナンスという、ある種コスモポリタン的な価値をも追求せざるを得ない中央銀行総裁としての、ごく控えめなマニフェストが込められているように思えてなりません。


「貯蓄から投資へ」は本当か?あるいは、住まい方とファイナンス再考

2012-05-30 | Weblog

5月28日、金融審議会「我が国金融業の中長期的な在り方に関するワーキング・グループ」が「我が国金融業の中長期的な在り方について(現状と展望)」と題する報告書を発表した。内容はタイトルが示す通りであり、論点も多岐にわたる。ただし、報告書そのものよりも、過去14回にわたって開催されてきたWGの資料に直接あたる方がより論旨が明確で、かつおもしろい。

例えば第8回WGでは、祝迫得夫一橋大学経済研究所准教授が家計のポートフォリオ選択について説明を行っている。基本的なファクトとして挙げられているのは、

(1)関東圏の家計データでは、リスク資産の割合は、定年前くらいの年齢でピークとなる。
(2)しかし、リスク資産の割合が年齢とともに上昇しているように見えるのは、個々の家計の資産選択の結果ではなく、リスク資産に投資している家計の割合が変化するからであり、株式を保有している家計だけを取り出してみると、リスク資産の割合は、年齢に関わらずほぼ一定となっている。
(3)日本の家計にとって重要な資産は、依然として土地と持家であり、リスク性金融資産(主として株式)への投資は限定的なものにとどまっている。

祝迫准教授は、これらのファクトに基づいた政策的インプリケーションを以下のようにまとめている。

(1)資産価格ブームがもう一度起きない限り(もっと言えば、バブルをもう一回起こさない限り)、著しい投資へのシフトということはおそらく起きない。よって、「貯蓄から投資へ」というスローガンが実現するかどうかは疑わしい。
(2)定年後に株式投資を始めるケースを考えると、投資開始後2,3年の運用利回りが重要(定年後は、手持ち資金から毎年の生活費を取り崩していき、残った余裕金額で投資を行うので、投資に回せる金額の比較的多い定年後2,3年くらいのパフォーマンスがその後の運用成績を決めるため)。よって、定年前後の投資パフォーマンスをスムージングするような金融商品の開発が効果的。
(3)若い時期からリスク資産投資を始められるような制度設計が必要。具体的には年功賃金をやめ、働きに応じて賃金を支払う。そうすれば、投資パフォーマンスをより長い期間でスムージングできる。

金融リテラシーに関しては、スウェーデンの税務調査に基づく研究の紹介をまじえつつ、以下のように説明。

(1)スウェーデンの家計は、約3分の2が株式市場に参加しており、なおかつ参加している家計の平均として60%をリスク資産、株式に投資している。
(2)スウェーデンと日本の税制を比較すると、所得税に関してはほとんど変わらない。消費税は、スウェーデン25%。法人税は日本のほうが高く、スウェーデンのほうが低い。個人家計の所得に関するリスク(人的資産リスク)は、スウェーデンの場合、完全に政府がカバーしている。逆に、政府は法人のリスクは一切面倒をみない。
(3)これに対し、日本は歴史的に大企業が労働者のリスクをカバーして、企業のリスクを政府がカバーしてきた。しかし、この体制が崩れてきている今、労働所得リスクにさらされている家計に金融リスクをとれというのはそもそも無理。
(4)スウェーデンの家計のリスク資産投資比率が高いのは「金融リテラシーが高いから」とは言い切れない。むしろ、制度的要因と絡めて考えないといけない。
(5)結局どの部門がリスクをとるかというマクロのリスク・シェアリングの問題。家計だけを取り出して、家計にもっとリスクをとれというのは無理。

そして、若年層・非富裕層への金融教育の充実や、高齢者の投資リスクを減らす手段の提供(リバース・モーゲージなど)を提唱するが、こうした手段が家計のリスク・テイキングを促進するかどうかについては懐疑的。よって、「貯蓄から投資へ」というスローガンが、家計によるリスクマネーの供給を意味するのであれば、それはあまり期待できない、と結論づける。


また、第10回WGでは大垣尚司立命館大学大学院教授が「国民のニーズに合った金融サービスの提供」というタイトルで発表を行っている。ここでの内容は、大垣教授の近著である『49歳からのお金』(日本経済新聞出版社;2012)で詳述されているが、おおまかな論旨を記すと、

(1)長期投資は現時点においては報われていない。
(2)分散投資をすればするほど勝てなくなる市場になってきている。
(3)右上がりでない市場ではドルコスト平均法は適切な運用手段とは言えない。

こうした現状を踏まえ、同教授は生命保険と住宅を活用した資産運用を提唱するのであるが、この辺の詳細はWG資料ないし、著書をご覧いただきたい。ともあれ、同教授もやはり「貯蓄から投資へ」という標語については懐疑的なスタンスをとっている。

このようにファイナンスを専門にする識者がそろって「貯蓄から投資へ」という標語に疑問符をつきつけているのである(これが、そもそも審議会の欲していた結論と合致しているかどうか不明であるが。さて、報告書にはどのように書かれているだろうか?)。

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大垣教授の『49歳からのお金』を読むと、リバース・モーゲージや住みかえといった、住宅関連の話が随分と出てくる。読んでいて、何となく山本理顕氏の「一住宅=一家族」モデル批判を思い出した。もちろん、大垣教授はマイホームを購入したうえで、それをどう活かすかという観点で議論を進めるのに対し、山本氏は集合住宅を中心とした地域社会圏モデルを提唱しており、そのベクトルは真逆とも言える。しかし、戦後連綿と続いてきた、長期の住宅ローンをベースにした定住型住宅供給システムが行き詰まりを見せる中、少子高齢化・縮小社会においては、住まい方とファイナンスの問題が大きくクローズアップされそうである。

怪著にして快著である、坂口恭平氏の『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書;2012)にこんなエピソードが紹介されていた。坂口氏は0円ハウスを手掛ける一方、35年の住宅ローンを徹底的に批判しているとのことだが、ある日とある銀行(たぶん、スルガ銀行)からトークショーの依頼がきたという。坂口氏曰く「とても興味深い社会の動きだ。もう銀行や住宅メーカーも実は気付いている。そんな家の売り方、国民の借金によって成立している経済の在り方が間違っていることに」。

大垣、山本、坂口各氏とも、まったくベクトルは異なる。しかし、住まい方とファイナンスの多様性を志向する点では、いずれも現在のシステムとは遥かに隔たっている。


『限界デザイン』の縮小都市論

2012-05-26 | Weblog

三宅理一著『限界デザイン 人類の生存に向けた星の王子様からの贈り物』(TOTO出版;2011)は、タイトルが示すとおり、限界状況において人がどのように住まうのかを活写した著作である。そこで紹介された事例はいずれも興味深いものだが、ここでは直接に「縮小都市」について触れている部分を取り上げてみたい。

まず著者は国土交通省国土審議会国土政策部会が発表した「国土の長期展望」(2011)から「2050年には人口が9,000万人台」、「高齢化率は40%弱にな」り、更には「2050年までに居住地域の2割が無居住化」するという長期予測を引用する。「特に北海道では今の半分、中国・四国では4分の1の地域から人がいなくなる」。

しかも、こうした動きは田舎と都会双方で進行しており、「空き家化」と「無人化」は全国的に観察される現象となっている。西側諸国の重工業地帯の都市、あるいは今日ではロシア・東欧でも目立つようになってきた「シュリンキング・シティ=縮小都市」は、日本でも喫緊の課題である。

著者によれば、「旧社会主義圏の縮小都市は日本とよく似ている」という。計画経済のもとで工業化を推し進めたロシア・東欧の都市が、政治経済体制を超えて日本の都市と相似しているのはアイロニカルでもある。

「...旧社会主義圏の建築が、統制経済の恩恵を被って当初から面倒な要求を抱える居住者とのやり取りを捨象し、国の掲げる上位計画に従ってひたすら機能主義的な設計を進めてきた」ことは、「1960年代から70年代にかけて古い歴史的な市街を取り壊し、郊外にスプロールしていった」点において、日本と変わらない。(同書p.219)

「...高度成長を支えた「護送船団」と称せられる官庁の強力な指導力や階級区分のない居住形式、狭隘な住宅に甘んじる国民性、さらに昨今の少子高齢化の度合いなどは、西欧とは大きく異なり、旧社会主義国のそれに近い」。(同書p.221)

著者は「いくつかの中心業務地区があって、その周りに住区が広がり、それらを適度な交通ネットワークで繋ぐという20世紀の都市モデル」がすでに時代遅れになり、「大前提になる人間の数と行動様式が大きく変わりつつある」として、「広々とした土地に数を小さくした人々がゆったりと住む」「散住、あるいは展住モデル」の可能性を示唆する。「現に北欧ではそのような住まい方が一般的で、それゆえに距離に影響を受けないインターネットなどのコミュニケーション・ツールがきわめて有効に働いている」。(同書p.223)

この後、著者は「余剰になった建築資産を移動させる=リロケーション」(即ち住宅を解体し移築することで、資源を有効活用する)へと論を展開する。これまた興味深い提言であるが、ここは北欧的な散住モデルに意識を集中させておこう。

経済学的な視点から見れば、コンパクト・シティのように中心地区へ都市機能を集中させる方が効率的という見方もできる(かつコミュニティの機能を維持し、高齢者等にも優しいまちづくりが可能である)。しかし、ここであえて著者が言うのは「散住・展住」である(面的に広く散住して、中心都市はコンパクトにつくることは両立可能であるが)。このコンセプトが現実味を帯びるほど、日本の「空き家化」「無人化」は急速に進行している、ということだろうか。

アジア経済研究所のケオラ・スックニランは北欧諸国の(初期の)工業化をアジア諸国のそれと比較し、後者が「集積力を活かした労働集約的な産業の育成」による工業化だとすれば、前者は低い人口密度、広い国土、森林や山岳部が多いため交通アクセスが悪い、といった条件を前提とした分散力による経済発展モデルととらえている。北欧諸国の工業化の特徴は(1)国内資源とその加工が基幹産業となり、(2)国内事情に合ったエネルギーの開発(北欧の場合はとりわけ水力発電)が工業化を成功させた、という点にあるという。通常イメージされる工業化モデルはアジア諸国のそれであるが、北欧諸国は代替的な発展モデルを提供しているとも言える。

勿論、今から北欧のような工業化戦略に切り替えろと言いたい訳ではないが、21世紀の国土計画と産業配置、居住形態は従来とはドラスティックに異なるものにならざるをえないのかもしれない。