Good Life, Good Economy

自己流経済学再入門、その他もろもろ

難波和彦氏「神宮前日記」より、ペヴスナー『モダン・デザインの展開』に関する記述を拾ってみる

2014-09-01 | Weblog

難波和彦氏が「神宮前日記」でニコラス・ペヴスナーの『モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで』について触れている。これが何やら非常に重要なことのような気がする(あくまで「気がする」)ので-他人の日記を転載するのは些か野暮なようにも思われるが-ここに関連箇所を抜書きしてみたいと思う。

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2014年8月23日のエントリーより:

JIAからウィリアム・モリスに関するシンポジウム開催の告知メールが届いたので直ちに参加を申し込む。思い立って本棚から 『建築の世紀末』(鈴木博之:著 晶文社 1977)と『ウィリアム・モリス---近代デザインの原点』(藤田治彦:著 鹿島出版会 1996)を抽き出して目を通してみる。ニコラス・ペヴスナーが『モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで』でモリスをモダニズムの創始者に位 置づけたのが嚆矢だと思うが、モダニズムのその後の展開にはイギリスはほとんど寄与していないように見える。モリスの仕事自体もモダニズムの具体的なデザ インとはかけ離れている。『インターナショナル・スタイル』展にはスカンジナビアの建築は多数とり挙げられ日本の建築も何点か紹介されているのにイギリス の建築でとり挙げられているのは1点だけである。要するにモリスが原点だとしてもその後のモダニズムの展開がイギリスにどうフィードバックされたのかが スッポリと抜け落ちているのである。シンポジウムでは是非ともその点を確認してみたい。そのためにペヴスナーを再読してみようか。

2014年8月27日のエントリーより:

『モダン・デザインの展開』を読み続ける。再読するとさまざまな発見がある。ウィリアム・モリスがモダニズムの創始者でありながら英国が20世紀以降のモダニズムデザインの展開に寄与していない理由がよく分かった。レイナー・バンハムが本書に対する批判として『第一機械時代の理論とデザイン』を書いた理由も頷ける。何しろモダン・デザインの歴史を論じた本書はタイトルとは裏腹に1914年すなわち第一次世界大戦前で終わっている からである。1930年代末に出版されたのに第1次大戦後の1920年代のモダニズムの爆発が取り挙げられていないのでは「モダン・デザイン展開」ではな く「モダニズム前史」と言わざるを得ないだろう。

2014年8月28日のエントリーより:

『モダン・デザインの展開―モリスからグロピウスまで』(ニコラス・ペヴスナー:著 白石博三:訳 みすず書房 1971)を読み終わる。三度目の再読だったが何点か新しい発見があった。まず本書は英語圏の読者に向けて書かれている点であることが分った。モダニズム・デザインは1920年代に最盛期を迎えるが本書の対象は1914年までの初期モダニズムである。ペヴスナーはこの時点でモダン・デザインは完成したと 考えたのではないかと訳者は解説しているが、それは事実に反している。そうではなくペヴスナーは英語圏(英国とアメリカ)がモダン・デザインに寄与したの は1914年までと判断したからだと僕は考える。それを傍証する記述には、以下のように事欠かない。
「モリスの後を慕った工芸家は、たいていモリスの基準に忠実な態度を続け、伝統を激しく破ることは一切しないという点でも、忠誠を持ち続けた。そしてこのことで、彼らは所詮英国人であることを証明し たのである。英国は、近代運動が伝統の完全な破壊を意味しない正にその間だけ、近代運動をリードしたことが、よく判るように思われる。そのことは、工芸の デザインに関すると同様に、建築にも適用され、従って1860年から1900年までの英国が、この二方面において、ヨーロッパ諸国をリードする国だったこ とも、判るのである。」(p.41)
「(ヨーロッパ大陸の)アール・ヌーヴォーは、いかなる時代を模倣することにも、あるいはそれからインスピレイションを受けることにも、強く反対した。アーツ・アンド・クラフツはそうではなかった。英国は、どうしても生まれながらの保守主義に忠実で、近代的にな ろうと努力しても、やはり伝統を守る。近代運動が英国以外の国でのみ、その有力な表現を見出しえたのは、この理由によるのであって。それ以外の理由ではな いのである。」(p.73)
C・F・アネスリー・ヴォイジーやチャールズ・レニー・マッキントッシュの先駆性に注目しながらもペヴスナーはこう続けている。
「彼 ら(上記二者)の様式をかくのごとく綜合したこと、それが英国は来るべき近代運動に遺した形見なのだ。第一次世界戦争前に、英国がヨーロッパ建築に尽くし たその他の貢献は、ここで論ずるほどの重要さを持っていない。何となれば、色々な理由で、英国は、新様式の具体化における主導権を、ちょうど1900年頃 に、すなわちすべての先覚者達の個々の事業が一つの普遍的な運動に集合し出したその瞬間に、喪失したからである。その一つの理由は、盛んになってきた大衆運動の持つ平均化の傾向---新の建築様式とは、すべての人々のためのものなのだが---は、英国人の性格にとってあまりに反していたからである。それと 似た反感が、伝統を容赦なく削り取ることも妨げた。(中略)大陸の建築家たちが、未来のための真の様式の要素を、英国の建築家と英国の工芸に発見したその瞬間に、英国自身は、折衷的な新古典主義に退いた。」(p.111)
ウィリアム・モリスのデザインだけでなく彼の先駆的な社会主義思想についても 同じようなことがいえると思う。ヨーロッパ大陸では近代デザイン運動と社会主義思想はほとんど一体的に展開したが、その発祥地である英国には最終的には根づかなかった。本書のベヴスナーの結論はこうである。
「近代運動は一つの根から生じたのではない。その本質的根源の一つは、ウィリアム・モリスと アーツ・アンド・クラフツであり、他の一つはアール・ヌーヴォーである。そして19世紀の工学技術者の業績は、他の二つの源泉と同様に、有力な現代様式の 第三の源なのである。」(p.77)
ペヴスナーがアングロサクソン的近代建築史を目ざしたのだとすれば、近代運動を総体として捉えようとすれば当然ペヴスナーとは異なる視点を持たざるを得ない。同世代のギーディオンもそうだが続く世代のバンハムがまったく異なる近代建築史を書いたのは当然である。

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10+1 web siteに「1960年代のロンドンの建築シーンを振り返る ──AAスクール、『Architectural Design』、セドリック・プライス」というインタビュー記事が紹介されている。今村創平氏と八束はじめ氏がロビン・ミドルトン(建築史)に対して行ったインタビューである。ここでは、セントラル・スクール・オブ・アート(Central School of Art and Design、ロンドン中央美術工芸学校)で教えていたレサビーという人物が登場する。「アーツ・アンド・クラフツの建築家の生き残りのうちの数少ない一人であり、建築についての思考を試み、いくつかのとても重要な本を書」いた人だそうだ。記事よりさらに引用する。

「レザビーの考えは、当時のイギリスの建築文化に浸透していました。そのなかでも特に重要なのは、何か控えめで、常識的で、普通のものについてです。スミッソン夫妻は好んだ「普通さ ordinary」はレザビーに由来しており、さらには、デニス(・スコット・ブラウン)を通じて、ヴェンチューリ夫妻の「凡庸さ」もレザビーから来ているのです。」

いったんモダン・デザインの歴史の後景に退いた英国は、しかし、セドリック・プライスやアーキグラムのような建築家・集団を生み出す。このインタビューでは、建築史の流れと社会主義との繋がりも示唆されている。この辺の継受にはかなり興味をそそられる。

 


バーク、ペイン、そして左右の政治的分裂

2014-06-08 | Weblog

5月26日のEcontalkは、EPPC(Ethics and Public Policy Center)のYuval Levinを迎えて、左翼と右翼の政治的分裂をテーマにした彼の著書The Great Debate: Edmund Burke, Thomas Paine, and the Birth of Right and Leftについて取り上げている。右とか左とかいう言い方は、現代ではすっかり有効性を失ったかのように言われるが、左右の政治的分裂はエドマンド・バークとトマス・ペインに遡るとするレヴィンの議論はとても興味深いものだ。どちらも啓蒙の世紀である18世紀に活躍した思想家であり、フランス革命やアメリカ独立戦争について健筆をふるった偉人であるが、確かにそれ以前は保守とか革新とかいう思想傾向は意識されなかったのかもしれない。

レヴィンによれば、バークは「フランス革命のような自由主義的ラディカリズムの揺るぎない批判者であって、近代的保守主義の父ともいえる人物で、世代間の連続性、漸進主義、伝統や既存の制度へのリスペクトに重きを置いて」おり、これに対しペインは「啓蒙思想の熱烈な支持者で、伝統の桎梏や過去の権威からの個人の解放を唱導する近代革新主義、近代左翼の父である」という。

ホストのラス・ロバーツはハイエキアンを自認していおり、バークにより強い共感を示している(ただし、ロバーツは「バークとペインの両者に共感する-両者の意見がまったく対立する論点においてさえ、両者に共感する」とも言っており興味深い。レヴィン自身も、よりバークに近い立場をとっている)。ハイエクは 『自由の条件』でデカルトとスコットランド/イングランドの啓蒙主義を対比しているとのことだが、レヴィンはさらにこれをフランス式庭園と英国式庭園の違いのようなもの、と言い換えている。即ち、完璧な幾何学的対称性を重んじる前者と、自然の植生を活かす後者との違い、これがそのままペインとバークに当てはまる、というわけだ。

ラス・ロバーツ(およびレヴィンの著書の読者の多く)からの「今日では保守派は既存システムの変革を熱心に唱え、リベラルは福祉国家システムを墨守しようとしている。むしろ今は左右が逆転しているのではないか」という質問に対して、レヴィンはこう答える:それは副次的な問題だ。例えば、とても非効率な医療システムを考えてみる。左翼はシステムをより中央集権的にして、専門家の管理に委ねようとする。右翼はシステムをより分権的にして、市場原理に委ねようとする。課題に対するアプローチの仕方が問題なのだ。方や、ペイン流のテクノクラティックなアプローチ、方やバーク流の漸進主義。

(この議論は日本にもそのまま当てはまるだろうか?安倍政権は保守を自認するが、むしろ戦時中の革新官僚に近いとする見解もある。しかし、そのアプローチはバーク流と言えるだろうか?)

再分配についても両者は対照的な見解をとっている。ある意味、福祉国家思想の先駆者ともいえるペインと、再分配には慎重な態度を堅持したバーク。そしてこの関係は、現代の米国政治にもそのまま持ちこされている。

しかし、問題の対象領域を更に拡大すると、後発の産業資本主義国家(日本も含まれる)にとって、そのテイク・オフ段階にあっては、ペイン流の中央集権的システムを導入する方が、はるかに容易ではないかと思われる。それが土着の社会と融合すると、多様な社会経済システムが族生する。バークとペインという二分法は、政治思想史の課題として重要であるのに加え、政治システムを観察するうえでも有効ではあるだろう。それは米国の政治システムに最も適合するが、二大政党制の見本のように思われていた英国でさえ、今はかなり様相を異にしている。バークとペインの二分法からの偏差をどうとらえるかが、むしろ要請されるように思われる。


経済成長とモラルに関するメモ

2013-12-30 | Weblog

Benjamin M. Friedmanの著書The Moral Consequences of Economic Growth(2005)は、「経済成長と社会のモラルとは正の相関がある」という仮説を、米国史などの事例をもとに論証した浩瀚な書物である(『経済成長とモラル』という邦題で訳本が出ているが、訳本は未読。ただし、原著も斜め読み程度です)。Amazonの紹介文によれば、「本書は...アメリカを中心とした世界各国の事例をもとに、経済成長と人々の社会のモラルとの関係を詳細に分析したものである。著者によればこの2つには正の相関関係 があり、経済成長が国民の生活水準の向上をもたらすと、多様性の許容、階層間の流動性の上昇、公平性への指向、デモクラシーの重視といった社会的道徳心の向上がみられる」、とされる。

同書によれば、1865年以降の米国史は以下のように区分される。

1.ホレイショ・アルジャー時代(1865-80)

2.ポピュリスト時代(1880-95)

3. 革新主義時代(1895-1919)

4.クラン時代(1920-29)

5.ニューディール時代(1929-39)

6.公民権時代(1945-73)

7.反動時代(1973-93)

8.それ以降(1993-)

このうち、1、3、6、8は順調に経済が成長した時代(同書が2005年に発売されたことに注意)、2、4、5、7は経済が停滞した時代であり、前者においては社会の開放性、寛容性、流動性、公正性が拡大し、後者においては、ニューディール時代を除き、社会がより閉鎖的、非寛容、停滞的、非公正になったとするのが、同書の中心的な主張である。また、同書ではこの後、英国、フランス、ドイツについても同様の傾向が観察されるとしている。「経済成長は格差を拡大させる」という議論はしばしば主張されるところであるが、おそらく事態はそう単純ではない。

しかし、同書はマクロかつ通史的な視点から議論を進めているため、反証を探すことはそれほど困難ではない。例えば、上杉忍著『アメリカ黒人の歴史 奴隷貿易からオバマ大統領まで』(2013)では、1874年頃から革新主義の時代にかけてを黒人にとっての「どん底の時代」として描いている。革新主義の時代は黒人排除を前提としていたのであり、「革新主義的改革は黒人にほとんど何の利益ももたらすことはなかった」。

経済の動向と社会の寛容性・公正性の相関は、極めて興味深いテーマである。ここではこれ以上、論を進める用意はないが、未読ながら、思想史的側面からこの分野に深く関わっているのではないかと思われる作品として、マイケル・サンデルの『民主政の不満』が挙げられる。同書は経済史、経済学史の分野で取り上げられることはほとんどないようだが、米国の経済思想発展史ともいえる内容を含んでいる。ケインズ経済学以前の米国経済学の伝統として共和主義的な発想が重んじられている(「公民性の政治経済」)が、その中心的主張のようである。


浅井忠の足跡について

2013-10-20 | Weblog

日本近代洋画の父と呼ばれる浅井忠(1856-1907)は、デザインや教育の面でも極めて重要な貢献をなした人でもある。かつて私は、浅井といえば、バルビゾン派風の農村風景を描いた画家というイメージしかもっていなかったが、昨年7月に放映されたNHKの日曜美術館「近代デザインの開拓者 浅井忠」で、グラフィックデザイン、工芸デザインの分野でもユニークな足跡を残していたことを知り、意外に思うとともに、浅井という人物に何とはなしに興味を覚えたものだった。

並木誠士他編 『京都 伝統工芸の近代』(2012;思文閣出版)には、やや断片的ながら浅井の経歴、業績への言及がある。浅井は工部美術学校でフォンタネージに師事するも、明治16年(1883年)、欧化政策への反動から工部美術学校は閉鎖の憂き目に会う。しかし、明治22年(1889年)、浅井らが中心となって明治美術会が設立され、近代洋画の普及・啓蒙が図られるとともに、浅井自身も明治31年(1898年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授となる。

明治33年(1900年)には「パリ万国博覧会の鑑査官と、西洋画研究」を目的として2年間のフランス留学に向かい、かの地でアール・ヌーヴォーの洗礼を受ける。また、そこでのデザイン志向が、琳派の再発見をもたらしたとも言われている。

明治35年(1902年)に帰国後、浅井は京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学の前身)図案科の教授に就任する。このとき浅井は46歳であった。なお、浅井と同時に初代図案科教授に就任したのが建築家の武田五一である。ここでの様子を前述の 『京都 伝統工芸の近代』から引いてみる。

「図案科で指導したのは、図画法、図画実習であった。この二つの科目において、浅井は、ヨーロッパの装飾美術学校のカリキュラムにならい、デザインの基礎としてのデッサンを重視し、徹底的に教えたそうである。学生に与えた課題は、鉛筆写生にはじまり、その後に水彩画を習得するという内容であった。この指導方法は、浅井が洋画指導を行った聖護院洋画研究所や関西美術院でも同様であった。」

「浅井は京都へ赴任後、まもなく同校(京都高等工芸学校)校長の中澤岩太を通じて地元製陶家、漆芸家ともかかわりをもち、明治36年結成の遊陶園、同39年結成の京漆園に主力メンバーとして参加した。浅井は製作の現場である京都の工芸界に身を置き、工芸図案の考案や、工芸家に向けての図案指導もおこなっていたのである。」

画家と工芸の関わりは東京と比べ、京都のほうがはるかに強いと言われている。染織品の下絵を手掛けた竹内栖鳳はその典型といえるが、浅井忠もその例にもれない。同時代に活躍した図案家・画家として神坂雪佳も忘れがたい存在である。

洋画界はすでに黒田清輝を中心とする外光派の時代に入っており、浅井らの旧派は「脂派」として、流行遅れと見なされる傾向にあった。しかし、フランス留学以降の浅井の業績を見ると、黒田が「西欧伝統絵画の理念の移植」という企てに結局は挫折してしまったと見られている(Cf. 高階秀爾 『日本近代美術史論』)のに対し、そのフレクシビリティが際立っているように思える。浅井が工芸界に遺した業績は「伝統的な日本絵画の特性をいかしつつ、洋画の構図や手法を取り入れた新しい図案を導入したこと」とされる。また、京都の洋画壇にも数々の才能を送り出している。

渡仏後移り住んだ京都で、パリにて(再)発見したアール・ヌーヴォーと琳派の影響を図案教育に生かし、京都の伝統工芸の発展に寄与する。教育者として優れているだけでなく、浅井の鋭敏な世界感覚をも物語る後半生ではないだろうか。


今村創平『現代都市理論講義』を読む

2013-04-07 | Weblog

今村創平著『現代都市理論講義』(オーム社;2013)は、1960年代から70年代にかけて提案・発表された都市に関する理論やプロジェクトを俯瞰する書であり、初学者にもわかりやすくというコンセプト通り、リーダブルな書物でもある。各章の構成は次の通り。

第1章 近代都市計画とその限界

第2章 メタボリズム

第3章 アーキグラム

第4章 クリストファー・アレグザンダー

第5章 アルド・ロッシ

第6章 シチュアシオニストとニュー・バビロン

第7章 ロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウン

第8章 マンフレッド・タフーリ

第9章 コーリン・ロウ

第10章 デリリアス・グローバル・シティ:レム・コールハースと現代都市

代表的な現代都市理論家を網羅的に取り上げており、私のように都市計画史に不案内な者にとっては、極めてありがたい構成になっている。

まずもって注目されるのは、「1960-70年代」という時代区分であろう。著者によれば、この時代に現代の都市を考える基礎となる理論の多くが誕生したという。先進国は1950-60年代に過去に類例を見ない経済的繁栄を享受したが、その高揚した時代背景が反映しているのは間違いないところであろう。また、近年注目が集まっているメタボリズムを、同時代的な国際環境のなかで相対化する(アーキグラムなどは、まさにメタボリズムと同じ頃に展開されたプロジェクトである)材料を提供してくれている点も、同書の価値を高めている。

同時に、この時代は左翼が大きな影響力を持っていたという事実も再認識させてくれる。とりわけシチュアシオニストやタフーリなどに顕著であるが、批判的精神が創造性と結びついていた時代として記憶されるであろう。著者は60-70年代を「理論のラディカリズム」の時代として評価するのであるが、古い価値に対するプロテストの精神が時代を覆っていたのがこの頃だったといえる。

(例えば美術史では、ネオ・ダダ、ポップ・アート、パフォーマンス・アート、コンセプチュアル・アート、ミニマリズムといったあたりが、この時代の産物であろうか。日本では、ハイ・レッド・センターなどの「反芸術」やもの派などが輩出した)

では、これらのラディカリズムが現代都市とどのように接合されるか?著者はその辺を声高に訴えたりはしない。ここでは「序」からの一節を引こう。

「現代都市について考えるにあたって、まずは今の都市に見られる兆候、たとえばグローバル・シティ(サッセン)であるとかクリエイティブ・シティ(フロリダ)、金融と不動産投機、スラム、サステナビリティを取り上げるべきなのは当然である。一方で、都市には継続的に見られる問題があるから、古くは帝政ローマの水道や街道といったインフラ整備からはじまって、さまざまな過去の都市から学ぶことは多い。というか、過去から学ぶことなくしていまの現象のみを取り上げても、それは表面的な議論で終わってしまう。」(p.6)

おそらく、現代都市が離れることのできない資本主義経済の論理とは必ずしも相容れない都市固有の原理を再発見すること、それが60-70年代の現代都市理論を読み解く動機のひとつとなっているのではないだろうか。

同書はまた、その細部において、様々な問題系への想像力をかきたててくれる書物でもある。例えば、「AAスクールやヴェネツィア建築大学は都市計画史上、どのような機能を果たしたか。それは例えば、社会科学におけるフランクフルト研究所やニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ等とどのように比較できるか」、「ウォーバーグ研究所からコーリン・ロウに至る流れは、建築史上、どのような影響を残しているか」、「ワイマール期ドイツの社会・都市政策と、当時の国際政治経済環境との関連はどのようなものであったか」等々。

最後にひとつ、思いついたことを。アルド・ロッシの章で、著者はフランスの社会学者モーリス・アルヴァクスを引いて、都市とは「集団的記憶の場」であるとしている。では、戦争や災害で、多くの歴史的モニュメントを失ってしまった都市は、どのようにして集団的記憶を回復すればよいのであろうか?戦災で中心街の多くを失ったル・アーヴルが、オーギュスト・ペレの都市計画に基づく再建で世界遺産となったという事実は、ひとつの解答となるかもしれない。では、それ以外には、どのような方法が?