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浅井忠の足跡について

2013-10-20 | Weblog

日本近代洋画の父と呼ばれる浅井忠(1856-1907)は、デザインや教育の面でも極めて重要な貢献をなした人でもある。かつて私は、浅井といえば、バルビゾン派風の農村風景を描いた画家というイメージしかもっていなかったが、昨年7月に放映されたNHKの日曜美術館「近代デザインの開拓者 浅井忠」で、グラフィックデザイン、工芸デザインの分野でもユニークな足跡を残していたことを知り、意外に思うとともに、浅井という人物に何とはなしに興味を覚えたものだった。

並木誠士他編 『京都 伝統工芸の近代』(2012;思文閣出版)には、やや断片的ながら浅井の経歴、業績への言及がある。浅井は工部美術学校でフォンタネージに師事するも、明治16年(1883年)、欧化政策への反動から工部美術学校は閉鎖の憂き目に会う。しかし、明治22年(1889年)、浅井らが中心となって明治美術会が設立され、近代洋画の普及・啓蒙が図られるとともに、浅井自身も明治31年(1898年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授となる。

明治33年(1900年)には「パリ万国博覧会の鑑査官と、西洋画研究」を目的として2年間のフランス留学に向かい、かの地でアール・ヌーヴォーの洗礼を受ける。また、そこでのデザイン志向が、琳派の再発見をもたらしたとも言われている。

明治35年(1902年)に帰国後、浅井は京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学の前身)図案科の教授に就任する。このとき浅井は46歳であった。なお、浅井と同時に初代図案科教授に就任したのが建築家の武田五一である。ここでの様子を前述の 『京都 伝統工芸の近代』から引いてみる。

「図案科で指導したのは、図画法、図画実習であった。この二つの科目において、浅井は、ヨーロッパの装飾美術学校のカリキュラムにならい、デザインの基礎としてのデッサンを重視し、徹底的に教えたそうである。学生に与えた課題は、鉛筆写生にはじまり、その後に水彩画を習得するという内容であった。この指導方法は、浅井が洋画指導を行った聖護院洋画研究所や関西美術院でも同様であった。」

「浅井は京都へ赴任後、まもなく同校(京都高等工芸学校)校長の中澤岩太を通じて地元製陶家、漆芸家ともかかわりをもち、明治36年結成の遊陶園、同39年結成の京漆園に主力メンバーとして参加した。浅井は製作の現場である京都の工芸界に身を置き、工芸図案の考案や、工芸家に向けての図案指導もおこなっていたのである。」

画家と工芸の関わりは東京と比べ、京都のほうがはるかに強いと言われている。染織品の下絵を手掛けた竹内栖鳳はその典型といえるが、浅井忠もその例にもれない。同時代に活躍した図案家・画家として神坂雪佳も忘れがたい存在である。

洋画界はすでに黒田清輝を中心とする外光派の時代に入っており、浅井らの旧派は「脂派」として、流行遅れと見なされる傾向にあった。しかし、フランス留学以降の浅井の業績を見ると、黒田が「西欧伝統絵画の理念の移植」という企てに結局は挫折してしまったと見られている(Cf. 高階秀爾 『日本近代美術史論』)のに対し、そのフレクシビリティが際立っているように思える。浅井が工芸界に遺した業績は「伝統的な日本絵画の特性をいかしつつ、洋画の構図や手法を取り入れた新しい図案を導入したこと」とされる。また、京都の洋画壇にも数々の才能を送り出している。

渡仏後移り住んだ京都で、パリにて(再)発見したアール・ヌーヴォーと琳派の影響を図案教育に生かし、京都の伝統工芸の発展に寄与する。教育者として優れているだけでなく、浅井の鋭敏な世界感覚をも物語る後半生ではないだろうか。