Good Life, Good Economy

自己流経済学再入門、その他もろもろ

「職業としての科学」を読んでみる

2011-01-28 | Weblog
佐藤文隆著「職業としての科学」(岩波新書;2011)を読んでみました。科学と社会との関係は、科学の制度化・大規模化、研究者の雇用流動化のみならず、国際政治動向(冷戦の終結等)などにも影響され、再定義されねばならなくなっている、という現状を多面的な筆致で解き明かしています。

骨格となるストーリーを抽出してみると、

a.1995年の科学技術基本法成立以来、科学技術関連予算は増加を続けている。

a'.しかし、この予算は公募のなかから勝ち残った研究プロジェクトに配分される「競争的資金」であり、そこで雇用される研究者はみな任期付きとなり、研究現場は不安定雇用の者で溢れかえることになった。

a".日本は人口1万人あたりの研究者数では世界で断然トップである。従来、「科学」的営為とは、ある種の聖域として自律的な地位を保持していたが、ここまで規模が大きくなると、科学と国家あるいは社会の関係は変わっていかざるを得ない。

b.科学のあり方として、マックス・プランクとエルンスト・マッハという対立軸を考えることができる。

プランク:
1)「制度化された科学」を目指す。社会から隔離された専門家集団としての科学界。
2)科学の学問としての純粋化を目指す。研究それ自体が目的。

マッハ:
1)科学精神をもって一般市民の力を向上させることができるとする。問題解決のための科学。
2)「科学は思惟経済である」=労働や思考を節約する手段としての科学。道具としての科学。

b'.制度科学のエートスを、カール・ポパーとトマス・クーンという対立軸で考える。

ポパー:
1)制度科学は、科学者魂を体現する独立な科学者たちに支えられている。
2)反証主義に基づく「漸次的社会技術」piecemeal engineeringを唱導。
3)科学の理論は、人類全体に共有な客観的実在である、とする。科学の実在論。

クーン:
1)制度化された科学における研究者は、研究対象と対峙するだけでなく、同業者の動向や科学業界の気配を読むことにエネルギーを注いでいる。いわば、科学業界「市場」で
の評価が研究の価値を決めると言える。
2)社会構成論(制度科学内の社会=「市場」)。

1980年代くらいからクーンの言ったことが現実化しだしたとされる。制度科学は批判精神の集団ではなく、ノーベル賞を目指して成功を競い合う知識エリートたちの集団と見なされるようになった。

c.問題系a-a"の解決策として、「科学技術エンタープライズ」を提唱する。これは「研究者を主とした科学界という構造に代わって、今日の医療業界の姿が示唆するような、さまざまな専門の職能集団というイメージに拡大した」(p.18)ものである。

c'.日本の科学技術の「生きた」人的・物的資産を活用するため、研究という狭い分野にとどまらず、起業や教育、臨床や基礎、事務・財務といった周辺分野にまで拡大したエンタープライズ(事業体)を構想し、雇用を創出していく。

b-b'とc-c'をつなぐロジックとして、第6章「知的爽快」において科学の効用理論を提唱している。即ち、

d.科学を「思考する」営みと見たうえで、以下の二つの効用を仮定する。

I.科学が見出す新しい知識は、社会に有用なインパクトを与える源泉である。
II.科学の実行は、達成感を伴う楽しいことである。

d'.3つの仮想国家を想定してみる。
A国:政府が科学研究を監視・統制する。
B国:徹底した省エネ・エコ社会を目指す。反「進歩」の安定社会。
C国:科学研究は市場原理に委ねられる。科学者の経済的・社会的ステイタスは高く、世界中の野心的な若者が科学者を目指す。実験装置の開発・製造、出版・教育、博物館等が多様な雇用をもたらしている社会。

d".A国はI型効用を純化させた社会、B国はI型効用の意義を反転させた社会、そしてC国はI型効用を排し、II型効用に特化した社会。

著者はII型科学に期待を寄せている。しかし、その目指すところはC国のような科学と享楽的文化産業の融合とは、いささかベクトルを異にするようである。

例えば、著者は「マッハ=ポパー的な科学者魂」という視点を提示する。様々な課題に対し、形而上学を排して合理的・実証的批判精神で立ち向かう姿勢を指す。そして、「科学者こそその体現者であり、この精神を社会的に広げることが、科学の営みの一つの社会貢献だというのである。民主主義社会を担う市民のロールモデルというわけである。これがマッハの夢である。」(p.160)

著者はプランク対マッハという対立軸ではマッハに、ポパー対クーンではポパーに、より共感を寄せているように思える。「科学技術エンタープライズ」という発想も、研究者の雇用状況の改善というプラグマティックな問題関心とともに、科学者的な批判精神や社会へのコミットメントといったマッハ=ポパー的な問題系への回答とも解釈できよう。もちろん、制度科学はプランク的な純化を進めてきたし、制度科学内部ではクーン的な市場競争原理が働いていることを前提としたうえでの回答である。

通貨戦争を闘う(和訳)

2011-01-22 | Weblog
通貨戦争を闘う

Latin American's economies 
Waging the currency war
from The Economist 15th-21st Jan, 2011

強い経済、高騰する通貨、高進するインフレは政策当局にジレンマをもたらしている。非正統的な手段に訴える国も出てきた。


世界的なリセッションを素早く振り払った後、ラテンアメリカ諸国の多くは再び繁栄を迎えている。国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の暫定推定値によれば、この地域の経済は昨年平均6%で成長した。この力強いパフォーマンスは-世界的な商品ブームに大部分結びついているのだが-巨額の海外資金の流入を引き寄せた。それに伴ってお馴染みの問題となったのは、この地域の通貨が米ドルに対して急上昇し、ラテンアメリカの製造業者の生活を脅かしていることだ。彼らの輸出価格は高くなり過ぎているし、安価な輸入品との競争にも四苦八苦している。心配した政府は、自国通貨の価値を抑えるため、一連の政策手段を講じている。それらは上手くいくだろうか?

今月だけをとっても、チリは2011年に120億米ドルの外貨準備を買い入れるとアナウンスし、ブラジルは国内の銀行に対し、米ドルの売りポジションの60%をカバーする中央銀行への無利子の準備預金を義務づけ始めた。ペルーも米ドル買いを進めており、同様に銀行の外貨売りに対する準備預金を課した。メキシコとコロンビアの中央銀行は米ドル買い介入をしている。チリのアナウンスはすぐさまペソの下落を誘発し、他の通貨も一時的に安定しているが、しかし、中期的にみてこれらの政策手段が有効である保証はない。

ある意味、強い通貨はラテンアメリカの強い経済を反映している。商品ブームはこの地域の比較優位にかなっている。中国とインドはブラジルの大豆や鉄鋼石、チリの銅やペルーの銀を貪り食っている。ブラジルとコロンビアでは巨大な油田が見つかった。これらの国々は皆極めて健全な経済政策を行っており、金融システムは深化している。先進諸国の通貨安と低リターンのため、ラテンアメリカは投資家にとって魅力的な投資先となっている。ブラジルの蔵相ギド・マンテガは「レアル高とうなぎ登りの輸入額は、米国の緩和的金融政策と元の切り上げに反対する中国のせいだ」と非難している。

しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。例えば、過去2年間、レアルは米ドルに対し38%上昇した。全体的に見て、ラテンアメリカは2006年にGDPの1.6%にあたる経常収支の黒字を記録した。IMFによれば、今年は同程度の経常赤字になる見込みだ。過熱を示す他の兆しもある。チリの非貿易財価格の上昇は6.4%、ブラジルの賃金は2桁のレートで上昇している。

影響を被っている事業は悲鳴をあげている。チリのワイナリーが利益をあげるためには1米ドル530ペソの為替レートが必要なのだ(今月初には464ペソだった)、とワイン産業の代表であるルネ・メリノは述べている。ブラジルでは、サン・パウロの産業者団体が「消費財の輸入過剰によって、目のまわるような産業空洞化が進展しており、2010年1月から9月までに製造業雇用46、000人分と100億米ドル分の産出高が失われた」と主張している。

居心地悪いほどの強い通貨と過熱した経済は政策当局にとって耐えがたいジレンマをもたらしている。もし中央銀行がインフレを抑えるために金利を上げれば、さらなる通貨高を惹起するリスクを負ってしまう。しかし、政策当局が外為市場に自国通貨売り介入をすれば、インフレを悪化させる可能性がある。

ブラジルでは、リセッションの間に立案された財政による景気刺激策の打ち止めを当局が遅らせているため、経済の過熱が増幅されている。ブラジルの新政権は財政赤字を抑えると宣言しているが、エコノミストの多くはどの程度予算の削減が実施されるか懐疑的だ。マンテガ蔵相は、拡張的財政政策が金利上昇と通貨高を招いたことを、かつては否定していたが、今や認めるにいたっている。

通貨への圧力を和らげるために、政府は資産を海外に移しつつある。コロンビアは国営石油会社エコペトロールに対し、海外での利益の本国送金を抑制するように強く勧告している。ペルー議会は、年金基金による海外投資額の上限を、資産の30%から50%に引き上げる法案を検討している。ブラジルは最近、政府系ファンドに通貨デリバティブをトレードする権限を認めた。

さらにラテンアメリカの政策当局はより正統でない政策手段を採用するに至っている。ブラジルは昨年、外国人による債券の購入に対し2%の税金を導入し、さらに税率を6%に引き上げた。コロンビアとペルーは非居住者への利息支払に課税している。コロンビアは外国人投資家に対し、同国への金融投資額の30%を無利子で中央銀行へ預託するよう要求する施策を再導入するかどうか検討している。

これらの政策効果を計測するのは困難である。これらの政策が実施されなかった場合、為替レートがいくらになるか、誰もわからないからだ。銀行は、これらの政策があまりにもうまくいくのではないかと憂慮している。「願い事には慎重になれ、だ」とBNPパリバ・サン・パウロのエコノミスト、マルチェロ・カルバロは言う。「懸命過ぎるくらいに投資を遠ざけようとすれば、うまくいくかもしれない。」しばしば見過ごされているが、税制、インフラ、官僚主義あるいは労働法の改革は、製造業者の競争を促進する。にもかかわらず、よりバランスのとれた長期的成長を確実にするために、なんとか商品ブームから泡(フロス)をすくいとろうとするのは、もっともなことだと思える。


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The Economist誌より、ラテンアメリカ経済に関する記事の拙訳です。好調なファンダメンタルが招く通貨高に、ますます難しくなる政策対応。アングロ・サクソン・モデルとは一線を画する非正統的なアプローチがどのような帰結をもたらすのか注目です。

ラテンアメリカはアジアとは対照的な意味で、民主化と経済発展の相関を考察するうえでの実験室であるように思われます。
OECDの「ラテンアメリカ経済アウトルック2009」では、民主化の流れを定着させるため、財政政策が社会的発展の重要なツールとすべきであるという見解を示しています。税制や公共サービスを、「貧困と不平等」というラテンアメリカの二大問題を解決する手段として用いようとする考え方です。
ラテンアメリカ経済は絶えず国際金融市場の動向に伴い不安定化を繰り返してきました。現在では、ベネズエラなどを除けば、ラテンアメリカ諸国の経済政策はかなり健全化している模様ですが、今般の通貨高への対応は、ラテンアメリカ経済の頑健性を試す試金石でもあるでしょう。

最後の一文は

Nevertheless, trying to scoop the froth from the commodity boom looks justified in the struggle to ensure more balanced long-term growth.

で、うまく訳せているかどうか、あまり自信がありませんが、商品ブームのフロス(小さな泡)がバブルにならないようにするため、非正統的アプローチを取ることも是認される、という意のようです。自由主義経済を信奉するEconomist誌がこのような見解を示しているのも興味深いものがあります。

パトリック・ゲデスに関するノート3

2011-01-08 | Weblog

東秀紀著「漱石の倫敦、ハワードのロンドン 田園都市への誘い」(中公新書 1991)によれば、ゲデスは著書「進化する都市」(1915)において田園都市に対し賛辞を送っている。

「現実に立脚したもっとも公平な社会理想主義は、エベネザー・ハワードの有名なユートピア、すなわち田園都市である。この著名な本は、今や始まりつつある新しい時代として、電気、衛生、技術そして効率性を備え、見た目にも美しいまちづくりを、田園を開発することによって行うことを提案している。彼の本の底流にあるのは、人々の協力的精神と善意に裏付けられた、技術の秩序ある進歩への信念である。.....」(西村一朗他訳)

エベネザー・ハワードといえば、「田園都市」のコンセプトを提唱した人物として、英国の都市計画学史上、ゲデスと並び称される存在と言って差し支えないと思われるが、しかし、「「漱石の倫敦...」とVolker M. Welter著 Biopolisを読み比べると、両者はかなりその思想的背景と志向性を異にすることが見て取れる。

ハワードは何よりもまず実務家であり、アカデミックなキャリアは皆無に等しいが、レイモンド・アンウィンやフレデリック・オズボーンといった優れたパートナーを巻き込むネットワーカーとしての役割を果たし、レッチワースなどの田園都市の建設に携わった。

これに対しゲデスは、スコティッシュとはいえ、オックスフォードに学び、パリでフランスの知識人たちと交流したエリートであり、エディンバラやテル・アヴィヴなどの都市デザインに携わった経験を持ちながらも、その思想的背景は(自然科学からの影響がある一方で)極めて思弁的である。ゲデスのバックグラウンドは生物学(植物学)であり、進化論からの影響は多大なものがあるが、同時にギリシア哲学や心理学・社会学等、多様な学問分野の成果を取り入れてもいる。

ハワードによれば、「田園都市」とは、アルフレッド・マーシャルの経済理論、ハーバート・スペンサーの社会進化論、ジェームズ・バッキンガムのモデル都市の、3つの融合である。このうちマーシャルについて、「漱石の倫敦...」では興味深い指摘がなされている。

「...マーシャルは、鉄道の発達したいまとなってはロンドンの中心部にビジネスが集中しているのは不合理であり、これを地価の安い郊外に分散することにより、ロンドンの過密と郊外のスプロール化の二つの問題が同時に解決されるという論文を発表していた(「ロンドン貧民の住宅問題」)。そして具体的には、ロンドン都心部からの移転を促進するために土地を購入・開発し、鉄道などの交通基盤も整備する、半公共的な事業法人を設立することを提案していた。開発により地価も上昇するので、事業法人は土地を保有したまま開発利益を享受することができ、これにより事業を運営していけるというのである。」

「...ハワードはマーシャルの提案を田園都市に全面的に採用している。」

「つまり、田園都市の理念に賛同した人々の出資によって事業法人を設立し、土地を購入し開発を行う。この事業法人はインフラストラクチャーを整備するとともに、土地を所有し続け、住民や企業に土地建物を(分譲売却するのではなく)賃貸する。そして株主たちに配当を行いながら、開発による土地価格の上昇分を事業法人が担保して、田園都市の運営にいかしていこうとしたのである。」(以上、p.73)

ハワードがマーシャルの経済学を評価したのは、その実務家的視点ゆえであり、実際の田園都市の運営に生かそうというプラクティカルな問題関心からきている。

ゲデスについて見てみると、少なくともWelterの著書においては、経済学者に関する言及はない。強いて言えば、ジョン・ラスキンの名前を挙げることができるだけだ。

ただし、例えばゲデスのConservative Surgery(保存的手術)というコンセプトは文化経済学的な視点と通底していると言えるかもしれない。

Conservative Surgery(保存的手術)とは、「新しい住宅や構造物を建造するにあたって、現存する建造物や周辺地区の破壊を最小限に抑えつつ、都市区画の修繕や改善を行うこと」と定義される。この歴史的建造物の保存手法は、いわゆるgenius loci(その土地のもつ雰囲気、文化的・社会的遺産とも言うべきもの)の具象としての都市の再生という役割を帯びている。都市の文化的価値にいち早く注目したゲデスのアプローチを、現代都市の文化戦略を先取りしていると評価することも可能ではなかろうか。


パラレル・エコノミー(和訳)

2011-01-07 | Weblog

パラレル・エコノミー

Economic focus: Parallel economies
From The Economist 1-7 Jan.,2011


韓国・北朝鮮がドイツの再統一から学べること


韓国人は、共産主義北朝鮮と自国を分かつ「38度線」を跨ぎ、再び戦火を交える可能性を恐れている。しかし、朝鮮半島の冷戦を別の方法-友好回復や再統一-で終わらせることを皆が望んでいる訳ではない。

北朝鮮の貧窮は、その好戦的な態度と同じくらい恐ろしい。北朝鮮のならず者独裁政権の崩壊すれば-起こりそうもないが、考えられないことではない-軍事的脅威は、さまざまな経済的危難へと置き換わるだろう。そこには、安価な移民労働力の洪水が起きる可能性や、北の国民を援助しインフラを維持するという莫大な負担が含まれる。ドイツの例はほとんど安心材料にならない。再統一から20年、東側はいまだにドイツ財政の大きなマイナス要因、失業者数の大幅なプラス要因である。

朝鮮戦争の起こる1950年以前、北はかの国の重工業の中心地であった。ソウルにある高麗大学のファン・イーガクによれば、1975年までは、北の1人あたり所得はいまだに南を超えていた。「明らかに、遅かれ早かれあの国は再統一されるに違いない」とケンブリッジ大学の経済学者、ジョーン・ロビンソンは1977年に書いている-「南が社会主義に飲み込まれることによって。」   

韓国の中央銀行は、北朝鮮の2009年の1人あたり年所得は960米ドルに過ぎず、韓国の5%程度だと推定している。(この推計値は北朝鮮の生産高を韓国の物価と対米ドル相場で評価している。)この不均衡は、再統一前における東西ドイツ間の所得格差を取るに足らないものに感じさせる。東ドイツよりも貧しい北朝鮮は、しかしまた、より大きくもある。北の2千4百万の人口は、南の約半分にあたる。これに対し、東ドイツの人口は、西のたかだか4分の1に過ぎない。

もしも韓国・北朝鮮が再統一されれば、政府は容赦ない選択に直面するだろう。政府は、援助、公共投資、補助金を通し、南北の生活水準の格差を埋めようとするかもしれない。あるいは、貧しい北の人々がより高い賃金を求めて南へ移動するため、大規模な人口移動に備えようとするかもしれない。ドイツはもっぱら前者の対応をとった。東ドイツのオストマルク建て賃金は西のD-マルクに1:1のレートで交換され、そのあと組合の圧力で西側のレベルにより近くなるよう引き上げられた。これにより、移民労働者が西側に殺到するか、あるいは東の資本が大量に流出するのではないかという懸念は鎮静化した。しかし、そのため東への民間投資はストップしー手厚い補助金による不動産投機を除いては。投機は最終的には失敗に終わるのだが-、さらに、東の労働者の多くが割高となり市場から退出させられた。

ドイツの再統一を研究した経済学者たちの中には、ハンブルク大学のミヒャエル・フンケとハノーヴァーにあるライプニッツ大学のホルガー・シュトルーリクの2人も含まれる。2005年に、彼らは同じ分析枠組を使って朝鮮半島のケースをモデル化した。彼らの計算は(「厳密な推測」と彼らは呼んでいる)、問題のスケールを例証している。南北の生活水準を均等化しようとすると、最初に南の税収の半分以上がかかるであろう。政府は財政負担を税収の30%まで軽減できるが、それは8百万人の移民を受け入れるというコストを払ってようやく可能だ、と2人の経済学者は推定している。

もちろん政府は、海外から借入をすることでコストを時間的に分散させることもできよう。今日の韓国人が国家の再統一費用を全額支払うべき理由はない。そして原理上は、北朝鮮の生産性は南のそれに極めて急速に追いつくかもしれない。北では資本は稀少であるから、理論的にはリターンは高いはずである。投資家は北の有望な立地や原料、若くて教育程度がまずまず高く安価な労働力に引きつけられるだろう。(多くの韓国・中国企業はすでに思い切って参入している。例えば、現代峨山と韓国土地公社は北の数マイル内陸にある開城工業団地を運営している。116の工場を抱え、4万人の北朝鮮国民を雇用し、月2千万米ドル相当の繊維、化学、電子機器、その他の製品を生産している。)

北朝鮮の頑固なまでの中央計画へのこだわりにも関わらず、市場は社会主義組織の割れ目に蔓のように成長しつつある。ステファン・ハガードとマーカス・ノーランドは、新著「変貌の目撃者」において、韓国と中国への難民に対するサーベイに基づき、この「下からの」市場改革を記録している。彼らは、中国への難民の62%が食料の主要な供給源として市場に依存しており、国家に頼るのはわずか3%であることを明らかにした。そして、難民のほぼ70%が、所得の半分以上をある種の私企業-作物の販売や自転車の修理など-から得ていると述べている。

北朝鮮国民は死に物狂いで市場と向き合ってきた。例えば1990年代半ばの飢饉の間、配給システムは崩壊した結果、一家は家畜を養い、どんぐりを拾い集め、海藻を採り、台所で作物を育てた。人々が法を曲げるか、無視するかするにつれ、インフォーマルな市場が芽生えていった。2002年には、こうした市場交換のうち、犯罪の対象から外されるものも出てきた。しかし、2005年からこの制度は再び瓦解した。


計画の終焉を計画する

この秘密裏の市場交換システムは、結局は、よりダイナミックな市場経済の核心なのかもしれない。しかし、北朝鮮の中央計画の崩壊は功罪相半ばする。生産高の大幅な落ち込みなしに経済を自由化した数少ない共産主義国家のひとつが中国だ。中国は中央計画を温存したまま、そこから抜け出すのに十分な時間をかけることによって、自由化を果たした。改革が始まって数年は、家計も企業も中央から割り当てられた権利や義務を保持していた。しかし、彼らは手に入れられるものは何であれ、自由に余剰分を売ったり買ったりできた。こうして価格は足りないか沢山あるかを伝えるシグナルとしての役割を果たすようになった。中国が他の移行経済諸国が被った混乱や苦難を避けているちょうどそのときに。

北朝鮮は中国の事例を模倣することで恩恵を受けられるだろう、とカリフォルニア大学バークレー校のジェラール・ロランは論じている。(少なくとも、家計は管理価格で生活必需品の割当を受ける権利を与えられるべきだ。)市場経済への移行に成功する前に、北は配給システムのようなものを再生させねばならないだろう。北の採るべき最善の道は、初歩的な計画を蘇らせることにあるかもしれない。

市場経済への道は間違いなく困難だろう。韓国のコミュニストの兄弟は、かつての東ドイツより貧しく、人口が多い。しかし、フンケ、シュトルーリク、ロラン各氏がそろって指摘するように、韓国・北朝鮮は東西ドイツにない強みをひとつ持っている。前例から学べるという点だ。

****************

前回に続きThe Economist誌からのいい加減訳です。

朝鮮半島の再統一をテーマとした最近の学術的成果をサーベイしたコラムゆえ、抑えられたトーンで冷静な現状分析が紹介されています。北朝鮮の市場経済への移行に対し、計画経済を温存しつつ市場化を図った中国を倣うべきモデルケースとして見なしていること、東西ドイツの再統一と異なり、北から南への大規模な労働移動を容認することで南の財政的負担を軽減するアプローチ(ドイツのケースと比べ、市場経済により親和的)に一定の評価を与えていることなど、論旨は明確です。

ちなみに"This surreptitious system of truck, barter and exchange ..."を「この秘密裏の市場交換システム」と訳しておきましたが、この表現はアダム・スミス「国富論」の"the propensity to truck, barter and exchange one thing for another"(あるものを他のものと取引し交易し交換する性向)から採っています。


起業国家を超えて(和訳)

2011-01-03 | Weblog

起業国家を超えて

Schumpeter: Beyond the start-up nation
from The Economist Jan 1-7, 2011


イスラエルはここ20年ほどでハイテクの超大国となった。良いニュースはまだ続くか?

アラブの新聞を読むユダヤ人に関するイスラエルのジョーク。友人が彼に不思議がって「なんでまたアラブの新聞なんか」と尋ねた。「イスラエルの新聞を読めば、ユダヤ人について悪いニュースしか書いてない。」と彼。「でもアラブの新聞はいつも書いてるからね。ユダヤ人はみんな金持ちで成功をおさめ、しかも世界を支配しているって。」
今日では、この話の主人公はさらに別のイスラエルに関する良いニュースの情報源を手にしている。ビジネス紙だ。
過去20年以上にわたって、イスラエルは半社会主義の沈滞した地域からハイテクの超大国への転換を果たしてきた。人口で調整すると、イスラエルはハイテクの起業数とベンチャー・キャピタルの規模において世界の先頭に立っている。20年前、ハーバード・ビジネス・スクールの先導的グルであるマイケル・ポーターが、855ページに及ぶ「国の競争優位」においてイスラエルに充てたのは、わずか1センテンスだけだった。今日、イスラエルのハイテク・ブームに関する著作は枚挙に暇がない。とりわけ注目に値するのが、Dan SenorとSaul Singerの「起業国家:イスラエルの経済的奇跡に関する物語」だ。

イスラエル人は正当にも自国のハイテクの奇跡に誇りを持っている。彼らは「起業国家」のような本を読みあさっては、自国のIPOの成功を喜々として語り合っている。彼らはまた、リセッション入りはかなり遅かった国が、いかにして最も早くそこから抜け出せたかという点についても誇らしげだ。9月までの年間経済成長率は4%以上。しかし、その成功のあらゆる面を考慮してもなお、イスラエルの好況は多くの問題点を惹起している。

まず最初に、イスラエル経済はあまりにも狭い基盤の上に立っているのではないか?ハイテク産業は労働力の10%を雇用するに過ぎないのに、輸出の40%を占めている。第2に、何故イスラエルは新興企業を国内の巨大企業に育て上げるのがこうも下手なのか?イスラエルは3、800の新興企業に対し、年間売り上げ10億ドル以上のハイテク企業は4社しかない。第3に、イスラエルは、コンテンツの「配管」(plumbing)を構成するハードウェアやソフトウェアと同じように、インターネットのコンテンツを製作することができるのか?そして、第4に、何故このハイテクの奇跡の国は、わずか55%という、先進国中最低レベルの労働参加率にとどまっているのか?これらの疑問は、ひとつのより大きな疑問へと集約される。イスラエルの奇跡は持続可能か?それとも、1990年代の特殊な環境の組み合わせの結果生じたものに過ぎないのか?

イスラエルの政策立案者はこれらの問題によく気付いており、解決策を真剣に考えている。彼らは高成長のポテンシャルを持ったいくつかの分野を特定している。例えば、水資源管理、農業科学、代替エネルギー、そしてもちろんセキュリティなど、イスラエルがすでに世界を凌駕する技術を持っている分野だ。生命科学の分野で、政府はベンチャー・キャピタルの基金を設立することによって、起業のスピードを上げようとしている。しかし、イスラエルの高官は、この国は依然として「トマトの種をトマトにする」能力において遅れをとっているのではないかと憂慮している。シリコン・バレーが常々行っている、新興企業をグーグルやシスコのような巨大企業に転換するという能力に、である。そうした巨大企業は、新興企業と比べて、高所得の仕事をより多く作り出している、とも彼らは言っている。イスラエルの起業家はアイディアをIPOにつなげるまで、かつてより長い時間を要するようになっているのも彼らの心配の種だ。

単なる「配管」ではなく、インターネットのコンテンツを供給することに注力するイスラエル企業が生まれてきているのは良い兆候だ。8億2千万ドル以上を管理するベンチャー・キャピタル、JVPはコンテンツと技術を融合する会社の育成に集中している。JVPの創業者、エレル・マルガリットは、イスラエルはハイテクのみならず、文化においても比較優位をもっていると論じている。ユダヤ人は-と彼は指摘する-いつも物語を語ることに卓越しているのだ。マルガリットの本拠地であるエルサレムは多くの人々の心に、とめどない文化と宗教の対立を想起させるけれども、それでもなお、3つの主要な文明の出会う場所であることから恩恵を受ける状況にあるのだ、と彼は主張している。

イスラエルの「起業国家」モデルを超えるのは易しいことではない。この国のビジネス文化は会社の設立よりも、取引の成立に重点を置いてきた。軍隊はその科学技術的な力量ゆえに、数多くの起業の裏でノウハウの提供を行っていたが、インターネットにコンテンツを供給するのには-「配管」の場合と異なり-生かされていない。イスラエルはまた、アジアの新興国よりは、欧米との間により良好な関係を有している。


強みから強みへ

それでもなお、イスラエルの強さは存続すると考えるに足る理由がある。政府は、起業に対してうまく適用されたベンチャー・キャピタル・アプローチ(勝ち馬を当てるよりも、民間部門の創造性に点火する)を、より後の段階での資金調達にも適用しようと試みている。軍隊はハイテクの孵化器以上の存在だ。軍隊は全人口を才能に関して厳密に精査し、最も有望な専門技術者たちにエリート部隊の集中トレーニングを施し、独立独歩の倫理と問題解決の手法を植え付ける。

イスラエルはまた、エキサイティングな新産業をつくりだす科学技術のマッシュアップ(訳注:複数の異なる供給元からの技術やコンテンツを複合させて新しいサービスを作ること(らしい))を得意としている。カメラ・ピル(人体の内部から映像を伝達する)は、標的を「見る」ことのできるミサイルから閃いたものだし、心臓用ステントは細流灌漑システムから着想を得ている。この国は長きにわたり、逆境を比較優位の源泉へとつなげてきたのだ。例えば、敵対する産油国に包囲されていることも一因となって、この国は代替燃料の世界的なリーダーとなったと言える。

しかし、イスラエルの長期にわたる経済的成功に対して大きな障害となるのは、企業をどう作るかではない。それは、アラブ系イスラエル人と超正統派ユダヤ人の両者をビジネス文化に同化することに失敗している点にある。両者は2025年までに合わせて人口の約3分の1になろうとしている。わずか超正統派ユダヤ教徒の男性の39%、アラブ系女性の25%が雇用されているのに過ぎない。ミルケン・インスティテュートのようなシンクタンクは、ガリラヤやネゲヴのようなアラブ系少数派地域にスモール・ビジネスを促進させようとしている。これらの問題はいずれも政治的意志によってのみ解決される。イスラエルは内なるアラブ問題に対処すべく懸命に取り組む必要がある。そして、超正統派ユダヤ教徒に対し、いかに真摯に祈ろうと、あなたたち以外の国民は、あなたたちに生計を負っている訳ではないと言い聞かせる必要がある。

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The Economist誌のSchumpeterコラムの訳です(訳はかなりいい加減)。イスラエルは日本から見て最も理解の難しい国の一つではないか、と常々思っていますが、イスラエルの現代経済に関する情報は以外と少ないもの。このコラム記事は短めで、かなりリーダブルなので訳出してみました。
同誌の新年最初のカバーストーリーは「中東で戦争の危険性が高まっている」というもので、そういった視点からもイスラエルは注目すべき存在でしょう(昔も今も変わらず、と付け加えるべきか)。

イスラエルほど政治・宗教・文化・軍事と経済が密接にリンクしている事例はないのかもしれません。また、イスラエルの繁栄がパレスチナのde-development(サラ・ロイの言う「反開発」)と表裏一体であるという視点も保持しておく必要があると言えそうです。