岩波新書からシリーズ中国近現代史の第1巻「清朝と近代世界 19世紀」(吉澤誠一郎著)が刊行されました。私は中国史にはまったく疎いのですが、日本の近世史・近現代史の見直し・再評価が進むなか、中国近現代史研究の「今」がどのような状況にあるのか確認するには、タイムリーかつ手頃なシリーズになりそうです。
しばらく前に読んだ加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社 2009)においても、教科書的な幕末・明治期の「落ちる中国・伸びる日本」(=弱体化する清・近代国家へ脱皮する日本)史観ではなく、「競い合う日本と中国」(=東アジアの中でリーダーシップを争う日本と中国)という視点が貫かれています。実際、同書では李鴻章、胡適、汪兆銘らに非常に高い評価を与えています。
という訳で「清朝と近代世界」ですが、全体を要約するのは困難なので、主に社会経済史の分野から興味を惹かれた点をいくつか:
(1) 18世紀の清は人口の急速な増加を経験した。17世紀にはおよそ1億人台だったのが、18世紀末葉には3億人、19世紀にはいると4億人に達したとされる。
(同時期の日本は、17世紀に人口急増、18世紀は人口停滞とされるので、この清朝の人口爆発は「驚異的」と評価しうる。)
その背景には生産の拡大、活発な移住、土地開発があるとされる。
しかし、19世紀半ばには人口は停滞ないし減少に転じる。太平天国の乱などによる戦乱が主因である。
(2) 清朝では財政収支の計算、納税、遠隔地貿易の決済等に銀を使用していたが、なぜか清朝は銀貨を鋳造しようとせず、銅銭を大量に発行していた(銅銭は日常取引に使用)。銀と銅銭の交換レートも民間業者に任せていて、相場により交換レートは変動していた。銀貨は19世紀初頭まで海外から中国に流入しており、清朝の経済を支えていたが、アヘンの密輸入が巨額になると、銀が流出するようになった。
これに関しては、斎藤修著「比較経済発展史」(岩波書店 2008)において、村松祐次の先行研究を参照しながら、「中国における政府が伝統的に市場経済の進展を規制しようとはしなかった」が、それは「中国の国家が、貨幣制度や度量衡の制度を含む民間経済のための公的インフラ整備を行わなかったことと表裏一体」と述べられています。経済については自由放任を旨としながらも、市場メカニズムを円滑に機能させるための「制度」の整備には比較的無関心であった、という特徴が、その後の経済発展に与えた影響を考えてみるのも面白そうです。
(3) 19世紀中葉、カリフォルニアやオーストラリアで金鉱が発見され、ヨーロッパに金が流入、貨幣流通量を増やし、景気を刺激するとともに、余剰となった銀はアジア貿易に使われるようになった。
金融の活況を背景に、アジアを活動の場とする英系の銀行(チャータード銀行、香港上海銀行等)が次々と設立され、中国においては貿易金融や清朝への借款等を取り扱うようになった。
また、「洋行」と呼ばれる商社(ジャーディン=マセソン商会等)が主に上海を拠点に貿易を手広く行うようになった。
これら銀行や商社で働く中国人職員は「買弁」と呼ばれた。欧米人からすれば、現地の商慣習に通じ、外国語を解する買弁を使ってはじめて円滑に貿易を行うことができた。彼らは単に職員であるに留まらず、自分の資本を持ち、投資・経営活動も行った。彼らの投資行動はしばしば投機的であり、国際市場動向に翻弄されることにもなった。
買弁といえば通常、卑賤な売国奴的存在として扱われるケースが多いようですが、本書では李鴻章のもとで汽船・電報などの事業を営む買弁である鄭観応が紹介されています。清仏戦争に際し、広東の海防を担当する高官から密命を受け、東南アジアに赴くという役どころです。その任務とは、フランス軍が食糧を確保する場所となっていたサイゴンの情勢を探ることと、シャム国王が清仏戦争に対し、どのような姿勢をとるか確認することの二つだったとされます。功罪の「罪」のほうが重く描かれる傾向はあるようですが、買弁商人が、複数の文化圏を股にかける、ある種のネットワーカーとして機能していたという部分はあるのかもしれません。
個人的にはポメランツの「大分岐」への言及が欲しかった気もしますが、本来、経済史の本ではありませんのでやむをえません。一読し、コンパクトにまとまった良書であると感じました。
しばらく前に読んだ加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(朝日出版社 2009)においても、教科書的な幕末・明治期の「落ちる中国・伸びる日本」(=弱体化する清・近代国家へ脱皮する日本)史観ではなく、「競い合う日本と中国」(=東アジアの中でリーダーシップを争う日本と中国)という視点が貫かれています。実際、同書では李鴻章、胡適、汪兆銘らに非常に高い評価を与えています。
という訳で「清朝と近代世界」ですが、全体を要約するのは困難なので、主に社会経済史の分野から興味を惹かれた点をいくつか:
(1) 18世紀の清は人口の急速な増加を経験した。17世紀にはおよそ1億人台だったのが、18世紀末葉には3億人、19世紀にはいると4億人に達したとされる。
(同時期の日本は、17世紀に人口急増、18世紀は人口停滞とされるので、この清朝の人口爆発は「驚異的」と評価しうる。)
その背景には生産の拡大、活発な移住、土地開発があるとされる。
しかし、19世紀半ばには人口は停滞ないし減少に転じる。太平天国の乱などによる戦乱が主因である。
(2) 清朝では財政収支の計算、納税、遠隔地貿易の決済等に銀を使用していたが、なぜか清朝は銀貨を鋳造しようとせず、銅銭を大量に発行していた(銅銭は日常取引に使用)。銀と銅銭の交換レートも民間業者に任せていて、相場により交換レートは変動していた。銀貨は19世紀初頭まで海外から中国に流入しており、清朝の経済を支えていたが、アヘンの密輸入が巨額になると、銀が流出するようになった。
これに関しては、斎藤修著「比較経済発展史」(岩波書店 2008)において、村松祐次の先行研究を参照しながら、「中国における政府が伝統的に市場経済の進展を規制しようとはしなかった」が、それは「中国の国家が、貨幣制度や度量衡の制度を含む民間経済のための公的インフラ整備を行わなかったことと表裏一体」と述べられています。経済については自由放任を旨としながらも、市場メカニズムを円滑に機能させるための「制度」の整備には比較的無関心であった、という特徴が、その後の経済発展に与えた影響を考えてみるのも面白そうです。
(3) 19世紀中葉、カリフォルニアやオーストラリアで金鉱が発見され、ヨーロッパに金が流入、貨幣流通量を増やし、景気を刺激するとともに、余剰となった銀はアジア貿易に使われるようになった。
金融の活況を背景に、アジアを活動の場とする英系の銀行(チャータード銀行、香港上海銀行等)が次々と設立され、中国においては貿易金融や清朝への借款等を取り扱うようになった。
また、「洋行」と呼ばれる商社(ジャーディン=マセソン商会等)が主に上海を拠点に貿易を手広く行うようになった。
これら銀行や商社で働く中国人職員は「買弁」と呼ばれた。欧米人からすれば、現地の商慣習に通じ、外国語を解する買弁を使ってはじめて円滑に貿易を行うことができた。彼らは単に職員であるに留まらず、自分の資本を持ち、投資・経営活動も行った。彼らの投資行動はしばしば投機的であり、国際市場動向に翻弄されることにもなった。
買弁といえば通常、卑賤な売国奴的存在として扱われるケースが多いようですが、本書では李鴻章のもとで汽船・電報などの事業を営む買弁である鄭観応が紹介されています。清仏戦争に際し、広東の海防を担当する高官から密命を受け、東南アジアに赴くという役どころです。その任務とは、フランス軍が食糧を確保する場所となっていたサイゴンの情勢を探ることと、シャム国王が清仏戦争に対し、どのような姿勢をとるか確認することの二つだったとされます。功罪の「罪」のほうが重く描かれる傾向はあるようですが、買弁商人が、複数の文化圏を股にかける、ある種のネットワーカーとして機能していたという部分はあるのかもしれません。
個人的にはポメランツの「大分岐」への言及が欲しかった気もしますが、本来、経済史の本ではありませんのでやむをえません。一読し、コンパクトにまとまった良書であると感じました。