アルゼンチンといえば、2001年の経済破綻に象徴されるように、今でこそ経済危機の代名詞のような存在になってしまいましたが、20世紀初頭には世界で最も豊かな国の一つとして知られていました。そのアルゼンチンの経済停滞の原因について、Edward Glaeserが考察しています。
実のところ、とりたててアルゼンチンに興味がある訳ではないのですが、マクロ経済学者やアルゼンチン経済の専門家ではなく、都市経済学者のGlaeserが書いているところに惹かれて読んでみました。
マクロ経済の視点から見れば、
(1)農業から工業への産業転換がうまくいかず、技術革新に乗り遅れた
(2)日本や韓国といった後発国が輸出主導の経済成長を遂げたのに対し、アルゼンチンは保護主義に走った
(3)国営企業のプレゼンスが高く、国内の規制も過剰であった
(4)銀行セクターが脆弱で、しばしば経済危機の発端となった
といった点にアルゼンチン経済の停滞の原因が求められることになるのでしょうが、そこは都市経済学者らしく、20世紀初頭のブエノスアイレスとシカゴとの比較を通じて、この問題を検討しています(以下はCampanteとの共同論文の要旨です)。
CampanteとGlaeserによればブエノスアイレスとシカゴには幾つかの共通点が見られます。いずれも穀物や牛肉の流通拠点であり、内陸部の農畜産物を都市部に供給するネットワークの結節点として機能していました。両都市の実質賃金を比べるとシカゴの方が7割程度高かったのですが、現在と比べると実質賃金の差異はずっと小さいものに留まっていました。
しかし、より注目すべきは相違点の方です。それは以下の3点に集約されます。
(1)教育レベルはシカゴの方がかなり高かった。19世紀初頭のコモンスクール再興運動の影響から米国の教育レベルが向上したことや、シカゴには比較的教育程度の高いドイツ移民が多かったことが、その原因として挙げられる。これに対し、ブエノスアイレスはスペインやイタリア系の移民が多く、彼らの教育レベルはあまり高くなかった。
(2)シカゴは労働者1人あたり資本装備率でブエノスアイレスを凌駕しており、工業都市としても発展した。工業の発展をもたらしたのはシカゴの高い教育レベルに支えられた技術進歩である。また、シカゴは中西部という広大なマーケットを有していたが、ブエノスアイレスは狭隘な国内市場しか有していなかった。
(3)政治的要因に目を転じると、シカゴは南北戦争以来、成人男性の普通選挙権が認められていたが、ブエノスアイレスでは参政権はずっと制限されていた。さらに重要なのは、ブエノスアイレスはアルゼンチンの首都であるのに対し、シカゴは首都ではないという点である。首都で騒擾・内乱が起こった場合、政権の動揺につながる。ブエノスアイレスへの一極集中はアルゼンチンの政治経済を不安定化させた。
(1),(2)は、経済成長に与える教育の重要性を説いている点で興味深いのですが、割合常識的な観点といえるでしょう。おもしろいのは(3)で、都市経済学者らしい(あるいは社会学的関心の強いGlaeserならではの)視点だと思います。 実際、当時はアルゼンチンにおいて政治的暴動が頻発しており、そのうちの多くはブエノスアイレスで発生しています。シカゴにも暴動は起きていますが、ブエノスアイレスのそれは大統領の交替に発展するなど、国政に直接影響を及ぼしています。
CampanteとGlaeserは、これらの政治的混乱の原因はアルゼンチンの未熟な民主主義だけでなく、ブエノスアイレスへの人口と経済機能の一極集中にも求められるとしています。一般に都市への人口集中と政治的不安定性の間には双方向の因果関係が見られ、古くはアテネ、ローマから19世紀のパリに至るまで例証を挙げることができるとしています。
確かに、政治と経済の中心が江戸と大坂に分かれていた江戸時代は天下泰平の世でしたが、東京に政治経済の中心が移行した明治以降、近現代の日本も多くの騒乱を経験してきていると言えます。
また、計量分析の結果、教育のもたらす人的資本の蓄積が将来の民主政治の安定性に寄与することが示されており、20世紀初頭の教育レベルの相対的な低さが、その後のアルゼンチンの政治的不安定性の源になったのではないか、と解釈しています。
本論文はアルゼンチンのケースを取り上げていますが、教育-政治-経済成長のリンクを考えるうえで、示唆に富んでいると思われます。
実のところ、とりたててアルゼンチンに興味がある訳ではないのですが、マクロ経済学者やアルゼンチン経済の専門家ではなく、都市経済学者のGlaeserが書いているところに惹かれて読んでみました。
マクロ経済の視点から見れば、
(1)農業から工業への産業転換がうまくいかず、技術革新に乗り遅れた
(2)日本や韓国といった後発国が輸出主導の経済成長を遂げたのに対し、アルゼンチンは保護主義に走った
(3)国営企業のプレゼンスが高く、国内の規制も過剰であった
(4)銀行セクターが脆弱で、しばしば経済危機の発端となった
といった点にアルゼンチン経済の停滞の原因が求められることになるのでしょうが、そこは都市経済学者らしく、20世紀初頭のブエノスアイレスとシカゴとの比較を通じて、この問題を検討しています(以下はCampanteとの共同論文の要旨です)。
CampanteとGlaeserによればブエノスアイレスとシカゴには幾つかの共通点が見られます。いずれも穀物や牛肉の流通拠点であり、内陸部の農畜産物を都市部に供給するネットワークの結節点として機能していました。両都市の実質賃金を比べるとシカゴの方が7割程度高かったのですが、現在と比べると実質賃金の差異はずっと小さいものに留まっていました。
しかし、より注目すべきは相違点の方です。それは以下の3点に集約されます。
(1)教育レベルはシカゴの方がかなり高かった。19世紀初頭のコモンスクール再興運動の影響から米国の教育レベルが向上したことや、シカゴには比較的教育程度の高いドイツ移民が多かったことが、その原因として挙げられる。これに対し、ブエノスアイレスはスペインやイタリア系の移民が多く、彼らの教育レベルはあまり高くなかった。
(2)シカゴは労働者1人あたり資本装備率でブエノスアイレスを凌駕しており、工業都市としても発展した。工業の発展をもたらしたのはシカゴの高い教育レベルに支えられた技術進歩である。また、シカゴは中西部という広大なマーケットを有していたが、ブエノスアイレスは狭隘な国内市場しか有していなかった。
(3)政治的要因に目を転じると、シカゴは南北戦争以来、成人男性の普通選挙権が認められていたが、ブエノスアイレスでは参政権はずっと制限されていた。さらに重要なのは、ブエノスアイレスはアルゼンチンの首都であるのに対し、シカゴは首都ではないという点である。首都で騒擾・内乱が起こった場合、政権の動揺につながる。ブエノスアイレスへの一極集中はアルゼンチンの政治経済を不安定化させた。
(1),(2)は、経済成長に与える教育の重要性を説いている点で興味深いのですが、割合常識的な観点といえるでしょう。おもしろいのは(3)で、都市経済学者らしい(あるいは社会学的関心の強いGlaeserならではの)視点だと思います。 実際、当時はアルゼンチンにおいて政治的暴動が頻発しており、そのうちの多くはブエノスアイレスで発生しています。シカゴにも暴動は起きていますが、ブエノスアイレスのそれは大統領の交替に発展するなど、国政に直接影響を及ぼしています。
CampanteとGlaeserは、これらの政治的混乱の原因はアルゼンチンの未熟な民主主義だけでなく、ブエノスアイレスへの人口と経済機能の一極集中にも求められるとしています。一般に都市への人口集中と政治的不安定性の間には双方向の因果関係が見られ、古くはアテネ、ローマから19世紀のパリに至るまで例証を挙げることができるとしています。
確かに、政治と経済の中心が江戸と大坂に分かれていた江戸時代は天下泰平の世でしたが、東京に政治経済の中心が移行した明治以降、近現代の日本も多くの騒乱を経験してきていると言えます。
また、計量分析の結果、教育のもたらす人的資本の蓄積が将来の民主政治の安定性に寄与することが示されており、20世紀初頭の教育レベルの相対的な低さが、その後のアルゼンチンの政治的不安定性の源になったのではないか、と解釈しています。
本論文はアルゼンチンのケースを取り上げていますが、教育-政治-経済成長のリンクを考えるうえで、示唆に富んでいると思われます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます