goo blog サービス終了のお知らせ 

ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

2012予測不可の時代へ

2012-01-03 22:30:26 | 日記・エッセイ・コラム

あけましておめでとうございます。

Hatsumode2012_2

もう新年をきっかけにブログを再開する、なんてことは書きません。有言不実行になりそうなので。でも何らかの形で、情報発信は増やしていこうと思っています。

年末の大掃除で改めて自分の本棚を見ると『■■20○○大予測』というようなタイトルの本が、2010年で途絶えています。つまり2011年版(2010年末に発売)は1冊も買わなかったこと。まったく偶然です。しかし2011年は確かに予測不可能でした。天災、とりわけ地殻変動の予測が難しいのは道理ですが、それだけではありません。

多くの人がぼんやりと信じていた大きな力が、実は何も機能していないのではないか。そういう疑念が顕になり、道標を失ったことで、人々の行動パターン(トレンド)があまり一定・安定しませんでした。意見が対立する事象も多々ありました。

十分に機能していないと不安を与えたのは、中央政府や電力会社だけではありません。例えばオウムの特別指名手配者の出頭のドタバタは、そのことを象徴する出来事です。多くの人は日本の公安警察に良くも悪くもある種の幻想を持っているのではないでしょうか。米国やロシア、韓国に及ばなくとも、世俗から離れ、個人を犠牲にして地道に捜査・監視を続けているイメージ。実際、そういうドラマや小説、たくさんありますしね。しかし年末の東京の街を堂々と交通機関を使い、あるいは歩いて出頭し、その後も解放され、また歩いたのだというのですから。自ら出てくるまでノーマーク。普通、仮に悪戯だと思っても、留めおきますよね。たとえそれが軽犯罪でも。警察官自身のお正月の休息が大事だったと思われても仕方ありません。

何物にも守られない、何者も大きな道標にはなれない。

昨日、私的な会話で「スティーブ・ジョブズ氏は惜しまれすぎていないか」という話題が出ました。1人の有能な人の死を軽く言うつもりはありませんが、例えば最初にパーソナルコンピュータシステムを開発した人より、携帯電話を開発した人より、偉大と認定する理由は見当たりません。国内でipadは持っている人の方が圧倒的に少なく、iphoneで先行しているソフトバンクは、docomo契約者数を抜いていません。基幹技術や原型商品の初代開発者でもなければ、現時点では市場占有者でもないのです。

今や、絶対的で巨大な牽引車は、何物にも求められない。それでも都市の治安は守られ、百貨店の初売りや初詣に人が群がり、レストランで新年を祝い帰途につく。その世の中を動かす目に見えない力が、過去に力を尽くした人の遺産の続きなのか、無数の平凡な個人の努力の歯車が回っているのか?

これからはその答えが、真に求められる時代なのかもしれません。

個が輝ける可能性がある時代であり、日本であり、世界であることを信じて、今年も(今年こそ?)がんばりたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。


アクティブ ダイエット

2005-07-02 19:55:13 | 日記・エッセイ・コラム
aqdietいわゆるペットボトル飲料は、コンビニを主戦場に製品の生き残りが厳しいということは、いまやよく知られるところ。棚を陣取る定番製品の隙間を埋める新製品の定着は難しい。例えば花王のヘルシア緑茶のように明確に効果を訴求し、特定保健用食品として体脂肪に関する表示許可を取得するという離れ技ができれば別だけれど、普通に美味しいとか、カロリーがどうしたっていうレベルではどうしようもない。

最近の発売でなんとなく定着しそうなのがアクティブ ダイエット(コカ・コーラ)。機能的な差別化のロジックも一言で言えば「動いて燃やそう!」なのだけど、じっとしている時には効果がなきゃしょうがないと思われそうだし…。だからなのか歩くだけでいいと、広告で強調している。味は私には本家アクエリアスと区別がつかない。キャラクターは水野美紀。万人受けはするし、健康的でいいと思うけど、インパクトがあるかというと疑問。

それでもスポーツの時に飲んでいる人、とても多い(という私も…)。これはもちろんメーカーの企業力でもあると思うのだが、やっぱり「ダイエット」ってワードを商品名に入れたのが大きい。よく商標がとれたと思うくらい、普通の言葉の組み合わせなのだけど、製品の機能を直接的に表し、なおかつ消費者の気持ち(ダイエットしたいという)に突き刺さる。かといって、例えば「激ヤセウォーター」みたいなネーミングだと、家では飲めても、人前ではちょっと抵抗がある。ダイエットくらいだと、本来の健康的に…という言葉のイメージもあるので受け入れられやすい。ボトルのデザインもスマートなので、なおのこと。そんなわけで、この製品は生き残るのではないかと思う。

話は変わるが、最近これぞという製品に出会うと、コンビニの棚から消えないように、多めに買ったりする。1人で頑張っても何の意味もないのだが…。


デリバリーサービスの不親切

2005-04-29 19:06:44 | 日記・エッセイ・コラム
pizaいわゆるピザなどの調理品のデリバリーサービスを頻繁に利用する人は、どれくらいいるのだろうか。例えば撮影スタジオみたいなビジネスユーザーを別として。多くはたまに利用するレベルの客だと思うのだが…。私もせいぜい数ヶ月に1度くらいのレベル。メニューはたくさんあるが、整理されていない。だから悪いと言われればそれまでだが…。

先日急にある有名な中華料理のデリバリーサービスチェーンにオーダーの電話をかけた。応対した男の子の声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。「はい」の返事が既にサービス業のそれではない。書くと同じ「はい」だが、若い男の子がよく学校の先生など、どうしても「うん」や「おお」とは言えない相手に対して、答えるときと同じ気のない感じの鼻にかかった「はい」だ。そしてオーダーするメニューがことごとく「それは今やっていません」のオンパレード。断り方もこのワンフレーズのみ。5品くらいこれが続いた時点で、メニューが古いことに気づいた。そのことを相手に告げると「それじゃ、今もうないですね」と一言。一緒にいた友人が「やめれば」と言ったので止めて、「お届けケンタ」を頼むことにした。同じく古いメニューだったが、「定番メニューはいつでもありますから」と掲載位置も含めて教えてくれて、気持ちよく注文は完了。そもそも最初の「はい」から、まったく違い、プロのサービス業の「はい」だった。中華のメニューの方は結局その後全部捨てた。

電話で注文を受ける仕事は簡単なようで対応が難しい。話し方一つで相手の様子や心持ちはわかる。競合も激しいから、メニューをコロコロ変更して、商品に新鮮さを出すというのはよくわかる。でも全部変えてどうする?レイアウトをできるだけ統一して、定番メニューと季節メニューを明確に分けて、季節メニューの有効期限を示せば、多少古いメニューでも注文できる。実は私が住むマンションはある時から無断で外部からポスティングができなくなった。だからほとんど最近のメニューがない。それでもドミノピザ柿家鮓のメニューは定期的に入ってくる。管理センターか警備員に頼んで入れさせてもらっているのだと思う。

デリバリーサービスは、コンビニやファミレス、ファストフードと比較して、脇役のポジションから抜け切れていないようにみえる。ヘビーユーザーをつかみ難いという業態の限界はあるだろうが、もう少し工夫のしどころもありそうだ。


蛍光灯と白熱灯

2005-04-27 17:55:09 | 日記・エッセイ・コラム
light

いちばん長い時間点けている部屋の蛍光灯が切れた。

室内のメインライトとして使われる多くの照明器具は、ほとんど昼光色というのだろうか、白い透明感のある光のものがついてくる。最初から設置されていた廊下のダウンライトや玄関の照明器具は、白熱灯や 電球色(“ウォーム色”ともいう)の蛍光灯、簡単にいうと黄味かかった暖かい色だ。リビングに置いている間接照明もダイニング部分につけた照明も白熱灯。つまり各部屋のメインライトである照明だけが白く、それ以外は暖色ということになる。何ともアンバランスで、訪ねてきた人に指摘されたことがある。確かに外からマンションの各部屋を眺めると、白と暖色、色とりどりなわけだが、暖色の方がオシャレに見えるから不思議だ。

暖色の光には、人の心や脳を落ち着かせる効果があるという。反対に昼光色、昼白色には、脳を覚醒させ、クリアにする効果がある。

そこでメインライトをすべて取り外し、仕事やパソコンに向かう小部屋を昼白色に、寝室とリビングを電球色の蛍光灯に換えた。これだけで随分部屋の印象が変わる。引越しでお金が入用の時には、照明器具は後回しになることが多いが、インテリアに光は大切なポイントになる。また、確かに今ではリビングにいると、何となく落ち着いてきて、早く眠くなるような気がする(いいのか、悪いのか)。

ところで余談だが、私は最近まで白熱灯と蛍光灯がどうもごっちゃになっていた。一般的には蛍光灯は白(今は電球色など暖色も多いが、やっぱりメインは白)、白熱灯は暖色が中心だ。名称から連想するイメージは逆だと思うのだが、どうだろう?近所の電器屋でも、「暖かい色の蛍光灯を」というと、店番のオバサンが自信満々出してきたのは昼白色だった。仕方がないので小部屋で使う1セットだけ買って、残りはビックカメラで買った。店の人がわからないのだから、商品説明の仕方を考えた方が良いのでは?


こだわりは美学でも贅沢でもなく

2005-04-24 01:24:10 | 日記・エッセイ・コラム
takuwan京都の「大こう」*という店の漬物を母が送ってきた。先だって帰省した時に慌しく、駅の売店の適当なものしか買って来られなかったから電話で頼んだからだ。京都で生まれ育ちながら、最近まであえて積極的には漬物を口にしてこなかった。定食屋などで必ず出てくるドギツイ黄色の沢庵がどうも視覚的にも味覚的にも苦手であえて食べたいと思わなかったからだ。ある日黄色くない沢庵を京料理の店(←東京で)で食べた時に、美味しくて一人でいくつも食べたのだが、尋ねるまでそれが沢庵とは気づかなかった。ちなみに「大こう」の沢庵も味噌漬けにしてあり黄色くない。そう美味しい沢庵は黄色くないのだ、きっと。

それ以来、京都の美味しい店の漬物だけは、積極的に食べるようになった。「大こう」も実家のそばにあり、そのうちの1店舗。もちろん東京にいても、お取り寄せやデパ地下などで美味しい漬物を買うことができる。

漬物に限らず、今取り寄せグルメが流行っている。データを見たわけではないが、いちばん活用しているのは東京などの都市部在住者だと思う。ショッピングに便利な場所にいながらわざわざ遠い地方から「こだわりの味」を調達する。限定的で距離があり、時間がかかる、これまで不便だったことが、却って便利な場所、時代には贅沢になっていることは皮肉といえば皮肉だけれど…。

好景気な時代と比べて、今モノにこだわることは、あまりカッコイイことではないという風潮も一方ではある。さまざまな局面やテーマのなかで、価値観に揺らぎがあるのは事実で、それは成熟した時代においては仕方がないことだ。でもあえてモノにこだわるということは、マーケットを成長させる原動力になる。食べることに精一杯の国では、マーケットは創造されない。「何でも感謝していただく」ということは美学としては成立するかもしれないが、マーケティングという観点からは、むしろマイナスといえる。これは食だけの問題ではなく、工業技術、サービス産業においても同じことが言える。ここまでで十分と消費者が諦めると、コンシューマー製品における技術力は停滞する。世界に誇るサービス力は脆弱化する。こだわりや消費欲を持つことは、消費経済主体で動く社会にとっては必要なことだと思う。

*「大こう本店」…通販でも買えるみたいです。
http://www.daikouhonten.com/