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ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

悪童キャラで生きるアスリート

2015-09-07 22:37:12 | スポーツ

USオープンテニス、男子ボトムハーフ1Rが行われた翌日のニューヨークポストが発行するスポーツ紙のUS OPEN特集です。

テニスに割かれたたった4Pのうち、約1Pを1回戦で負けた勝敗よりオンコートでの悪しき振る舞いが目立つ若手オージーが持っていくわけですから、スポーツをエンターテインメントの一つと捉えるアメリカでは、強さや成績だけではない何かが求められるのでしょうね。(ちなみにこのオージー、実力もありますが)

そういえば、あまたいる名選手の中では、実績はぱっとしないはずの大リーガーの川崎宗則(彼はカナダのチーム?)も人気はあると聞きます。

セット間に居眠りしている(←普通はしない)写真の扱いが、隣のフェデラーより大きいという若手オージーのニック・キリオスは、USオープン前にオンコートで個人のスキャンダルを暴く発言をし、世界のメディアで取り上げられていました。その後初のメジャー大会だったと思いますが、態度の方は相変わらず大きい。おとなしくなっていたのは、髪の色だけです。

対戦相手がBIG4一角のアンディ・マレーという組み合わせの妙とはいえ、アーサーアッシュ(特大センターコート)のナイトマッチ1戦目という、その日のメインイベントに組まれても、しっかり自分のキャラは忘れないところは大物としかいえません。

審判にたてつくのは、彼にとってはまったくふつうの行為。このときはジャッジにではなく、マナーを守らない観客に怒っていました。理解できる面と、あんたが言うな、という厚顔無恥は許さない日本人的感想も。

写真以外にも苛立ちを壁にぶつけていた場面もありました。(写真を撮り損ねたというより、見損ねています)

この日は静かなほうだったと思いますが、どうも最初から最後までふつうにはできないようです。

それでもゲーム中の声援は、対戦相手のこの人より多いわけですから、何とも不思議です。イギリスの英雄にとって、USAはやっぱり異国なのですね。

ちなみにこのお方(マレーではなくキリオスの方)、秋には日本の楽天オープンに参戦予定のようです。

秋までに悪行を繰り返し、現在執行猶予中の出場停止になっていなかったら、という条件付きですが、スポーツに対する捉え方がアメリカや欧州ともまた異なる日本の観客がどんな感じで迎えるか、少し興味があります。六本木あたりで暴れてほしいという囁きも聞こえてきましたが、それよりも錦織との対戦が実現してほしいです。

同じく大柄ビッグサーバーでもラオニッチ戦とは、まったく違う雰囲気になるとは思います。キャラが優等生(ラオニッチ)と悪童ではまったく違うので。


なでしことウィンブルドン――スポーツと文化

2015-07-15 23:48:21 | スポーツ

話題として遅れた感はありますが、気になったニュースの言葉ーー

なでしこジャパン・宮間キャプテン「女子サッカーをブームでなく、文化にしなければ」

これは彼女に限らず、さまざまな競技のアスリートが時折口にする言葉です。女子サッカーの選手がアルバイトをしながら、競技生活を送ることを殊更美化する人がいますが、それはおかしいと思います。非凡なことを続けるには、平凡な私たちが考える以上のコストがかかります。アルバイトで賄えるものではなく、ましてや競技生活を続けながらの独立した生活は難しいでしょう。おそらく家族が学生スポーツの延長線上で、ある部分負担をしているのではないでしょうか。それはすなわち同じく才能があっても機会均等ではないことを意味します。もっといえば、女子だから独立して生計を立てなくていいという前提が見え隠れします。

サッカーはそうとは言いきれませんが、政府や企業が積極的に振興、育成しないスポーツ競技は、女子の方が強いのです。一昔前のテニスやフィギュアスケート、ゴルフ。オリンピックでしか姿を現わさない日本におけるテコンドー、カーリング、アーチェリーなどのマイナー競技も女子の方が活躍しています。とくに個人競技は育成期間にかかる資金が半端なく、富裕層の子どもが明らかに有利です。さらに、例えばオーナー企業経営者の家庭に、男の子と女の子がいたとすれば、よほど頭の出来が偏っていない限り、男の子には跡取りを期待し、女の子には好きなことをやりなさい、という話になります。スポーツに限らず、音楽や美術、バレエなど芸術分野でも同様です。

一方で、文化が国の支援ありきでつくられるべきものなのかとも思います。今でこそ、コミックやアニメは、クールジャパン戦略のもと、日本の重要なコンテンツのように扱われていますが、昔はサブカルチャーというか、大人のサラリーマンが堂々と電車でマンガを読んでいると批判されたものです。どちらかといえば、日陰の存在でした。それでもアニメ作家やマンガ家の才能や制作者、編集者の情熱で、文化の一つといえるものに昇華した感があります。もっとも、そのコンテンツをお金を出して買い、テレビで楽しみ、映画館に足を運んだファンの力が何よりも大きかったかもしれません。

先日、今年の大会を閉幕したテニスのウィンブルドンは、日本では全英と称されることが多いですが、実際は英国の一テニスクラブが主催している民間の大会です。しかし、頑なに伝統と品格を守り、毎年イギリスのロイヤルファミリーやセレブが観戦に招かれ、世界中からファンを集めています。ほかのグランドスラムはそれぞれの国の協会が主催であるにもかかわらず、ウィンブルドンが最も高い権威を保っているのです。スポンサーの数も比較的少なく、ほかの大会のように大きなロゴ看板を出してもらうこともできません。それでも最もチケット入手困難とされ、また高額で、出場選手にも潤沢な賞金を用意できているのです。

イギリスの社交界が支えてきたテニスや競馬やゴルフと、日本のスポーツ文化の現状を比べるのは、少し酷ではあります。おそらくアニメのように日本らしい文化の育み方があるような気がするのですが、どうも今はそれが見えないのです。片や、新国立競技場問題ではアスリートの存在そっちのけで、政治家が責任のなすり合いをしている醜い現状が露わになり、これはもう文化を育むという精神とは真逆の無粋なことです。スポーツに限らず、日本の伝統文化とされるものは数多くありますが、当の日本人が今一つ関心を示さず、市場がどんどん縮小している分野が大半です。たぶんそれはオールドファンから、若い人たちにうまく引き継ぎができていないからだと思います。


ファッションセンスもグローバル化?

2015-06-08 23:11:41 | スポーツ

全仏オープンが終わりました。フェデラーが敗退したときに、いったん興味を失いましたが、バブリンカの躍進で復活し、結局決勝は最初から最後まで観ていました。

それって、両方にバブリンカが絡んでいるわけですが、ナダルファンには申し訳ないですが、ナダルVSジョコビッチ戦は第1セット以外は凡戦に思えました。テレビ解説がいうほど、削り合いでも事実上の決勝戦でもなく、むしろジョコビッチが削られたのは、サスペンデッドも含めマレー戦のほうだと思います。それにしても、スポーツに予定調和はないですし、頂点をきわめている人であっても、人生はままならないものだと感じましたね。ジョコビッチの敗戦には……

それはともかく、バブリンカのウエアの話です。彼はトップランカー男子にしては、唯一の全身(ウエアだけでなく、シューズ、ラケットなどのギアも)ヨネックスです。つまり、日本メーカーだということ。最近、テニス界では、ブランドの日本勢はユニクロが目立っていますが、所詮ウエアだけでスポーツブランドではありません。ギアの提供は無理です。そういう意味では、プロテニス界における日本ブランドの希望の星は、ヨネックスなわけですが。

選手が躍進すると、当然身に付けているブランドも話題にのぼります。ツイッターなどのSNSでは、フェデラー戦あたりからか、いや、その前のシモン戦か最初からかわかりませんが、とにかくバブリンカのウエア、とくにパンツの柄がおかしいと揶揄されていました。単にテニスウエアとして変わっているというより、パジャマに見える(私にはトランクス柄にも見えた)と……。

ヨネックスだから日本人だけが指摘したわけではありません。世界のテニスファンの人々、彼の地元スイスでもとり上げています。

ファッションに関するセンスというか、感じ方は、もっと国によって違うと思ったのですが、そうでもないのですね。これもグローバル化の形の一つなのか、パジャマ柄は万国共通パジャマ柄で、スポーツウエアには見えないということなのでしょうか。

それにしても、ヨネックスも変なところで話題になったものです。担当の人も、全仏が始まったときには、パンツがこれほどとり上げられるとは思わなかったでしょう。

しかし、また何であの柄パンツを、と思いますが、戦前は優勝すると予測していなかったバブリンカにPRを担ってもらうには、ウエアで奇をてらうしかないと思ったのだとしたら、なかなかユニークな戦略だったといえます。とはいえ私自身、観ていたわりに気にしていませんでしたが、バブリンカ、クレーシーズンはその前のローマも、その前もずっとあのウェアだったはずです。結局は、どういう方向性のマーケティングだろうが、選手自身が一定以上の活躍をしない限り、ギアやウエアを提供しているスポンサーの宣伝効果は思うようには伸びません。たとえば今回、ナダルが復活優勝、全仏10勝を達成すれば、ナイキの全身ブルーのある意味奇抜なウエアがもっと話題にのぼったと思います。そこがスポーツマーケティングのリスクでもあり、予測不能な面白さなのかもしれません。


苦手なことをただ排除しても人生は豊かにならない

2015-06-04 23:46:11 | スポーツ

Yahoo!ニュースにドッジボールの是非についての提起が出ていました。(→リンク

組み体操について問題視されていることは知っていましたが、まさかここまで、とちょっと驚きましたが、実際は真剣に教育現場で議論されているわけではなさそうです。

私自身は短距離走が破滅的に遅かったので、少なくとも小学生の頃は、運動神経がないとみられていたと思います。バレーボールなどの球技は好きで、水泳もどちらかといえば得意だったので、体育から陸上競技がなくなればいいと真剣に思っていましたが、基本競技なのでなくなるわけはありません。それでも大人になって、短距離走で手を繋いでゴールする小学校か幼稚園かがあると聞いたときには、耳を疑いましたし、自分が子どものときもそうだったらよかったとは露ほども思いませんでした。

中学に上がり、テニス部に入ったことで、体育科目への苦手意識は一切なくなりました。短距離は相変わらず遅かったですが、持久力勝負の長距離は速かったし、授業で取り上げられる競技の種類も増えたので、気にならなくなりました。短距離はすべてのスポーツの基本のように思われがちですが、プロになるわけでなければ、ほかの能力でカバーできるものです。

ドッジボールと短距離走は同じレベルで語れませんが、スポーツ万能でもなければ苦手な競技は誰にでもあると思います。集中して当てられることでいじめの温床になるという論点があるようですが、いじめの方法なんて、別にドッジボールを使わなくてもいくらでもあります。そもそも対戦型スポーツで下手な人を攻撃するというのは、いじめでも何でもありません。ダブルスのテニスで、極端にペアの能力に偏りがあれば、下手なほうにボールを集められるし、バレーボールのように直接アタックできるスポーツなら下手なレシーバーはぶつけられてしまうかもしれません。いじめという観点なら、バスケットで下手な人にパスを集中的に回されるのはもっと悲惨です。テニスはともかく、バレーボールやバスケの授業は、ほとんどどこでもありますよね。

苦手なことから逃げるのは簡単ですし、やらずに済むならそれに越したことはないと思うのが人情です。基幹5教科以外は、音楽も美術も体育も、基礎的な素養レベルを超えた部分は、無駄と言ってしまえば無駄かもしれません。にもかかわらず、そこに少しでも暴力的な要素があれば、廃止しようという意見が出てくるのもわかります。

でもどうしてもドッジボールが苦手なら、そこはボールから逃げ回るなり、軽く当たってさっさと外に出される方法を探ればいいのです(そんなルールじゃなかったですか)。その代わり、ほかに一生懸命になれる好きなことを見つけ、努力をすることで、自分の中から苦手なことの比重や価値を落としてしまえばいいのです。何も私のように運動能力の苦手を別の運動能力でカバーする必要はなく、絵画でも音楽でも書道でもいいと思います。

これらは将来実務的には役に立たなくても、人生を豊かにしてくれるツールにはなります。

私はピアノも弾けないし、絵も描けませんが、下手の横好きだろうが、速く走れないことで逃げずにスポーツを続けてきたことは本当に良かったと思います。

競争のない人生は味気ないものです。競争が嫌いで競争から降りたとしても、いや、勝たずに降りた人こそ、社会で苦手なことや嫌な仕事を押し付けられることはあるでしょう。ドッジボールも短距離走も大人になれば、どうでもいいことになりますが、ボール(自分が嫌なもの)を集中的に当てられることはあるかもしれないし、出世競争に負けて悔しい思いをすることもあるでしょう。勝ち続ける人の方が稀なのです。そんなとき、子どものときにボールをかわした経験や、ほかのことに活路を見いだした経験があれば、社会の中で自分なりの人生の形を見つけるのも上手になれるかもしれません。


テニス報道で感じる、まだマスメディアの影響力は大丈夫

2015-06-03 23:59:16 | スポーツ

残念ながら、フレンチオープンで錦織圭さんは準々決勝で負けましたが、冷静に俯瞰すると、ここ1年(爆発したのは、昨年9月なので1年は経ちませんが)のワールドプロテニスに関する報道量の増加には驚きます。以前から、生も含めてテニス観戦をし、テニス競技人口にも一応入っている身としては、異様とも思えるほどです。

今回、錦織戦に限り、テレビ東京で中継をしましたが、雨天、日没順延(今回は看板落下)とほかの大会にも増してアクシデントの多いフレンチにもかかわらず、順延後の深夜の放送で10%前後の視聴率を取ったそうです。民放キー局とはいえないテレ東にしては、大きな数字でしょう。試合結果や展望に関するワイドショーや報道番組の量もすごい。

前にも書いたかもしれませんが、「本当に皆、観ていて面白い?」。

ルールは原則ボールを打ち合うわけですから、それほど難しくはありません。過去にやったことがある人も多いスポーツですからなおさらです。でも、よく知らない人が観たら、それだけを延々何時間も繰り返すスポーツと思えなくもないと思うのです。まあ、こんなことを言っちゃあ、サッカーだって、延々ボールを蹴り、互いのゴールを狙うだけとも言えますが、チームスポーツは好きという日本人の伝統には当てはまります。

影響については視聴率だけではありません。関連株が上がったことは、すでに昨年からいわれていますが、テニスコートやテニススクールも目に見えて盛況です。

マスコミの影響力の低下がいわれて久しいですが、ネットメディアだけではまったく無理な現象です。マスコミが騒ぎ、ネットで拡散しているのです。

テニスがメジャースポーツになることは個人的には痛しかゆしです。情報アクセスの機会が増えたり、ウェアやシューズのバリエーションが増えたりすれば嬉しいのですが、意外とそうでもありません。むしろ情報が偏り、狭まっている気さえします。

テニスをはじめ、ゴルフもそうですが、個人競技のグローバルスポーツの良さは、極端にナショナリズムに流れないことです。確かに全仏のフランス人びいきの応援が日本でも話題になっていますが、錦織が負けたツォンガクラスのトップ選手が4人、ランキング50位以内まで広げれば6人前後は常にいるのです。しかもスーパートップがいないところも熱狂的になる一因でしょう。近隣国とあまり仲がよろしくないのは、日韓、日中の専売特許ではなく、欧州の隣国同士でもあることです。イギリスとフランスの因縁は有名ですが、EUが一枚岩ではないことも周知のとおりです。そんななかでテニス大国の意地として、全仏チャンピオンを出したいという(実際は現状難しい)フランス人の思いはわかる気がします。

フランスはだからといって、自国人以外の情報をシャットアウトはしていません。去年まで何年もフランス人は残っていない全仏決勝だからといって、決勝を放送しないとか、ニュースでほとんど取り上げないとか、あり得ないことです。前にも書きましたが、日本は今、テニスブームではないのです。欧米主体のプロ男子ツアーで、唯一輝く日本人の姿に熱狂しているだけです。それ自体は、心情としてわかります。

問題なのは、それをとくにテレビメディアが煽っていることです。テニス報道をみていると、テレビ報道の構造がよくみえます。重要なニュース以外、あるいは重要なニュースであっても、偏重した報道や煽りで世論を動かしているのです。ネット上でマスコミを過度に批判している人ほど、動かされているようにも思います。

テニスに限らず、個人競技のアスリートは自国開催以外、どこでも少なからずアウェーのなか、孤独なたたかいを強いられています。そのなかで自分自身でファンサービスのためのイベントや慈善事業に参加して、自国民に限らない世界の人々の心をつかむ努力を重ねています。プレーだけで十分に魅せられるトップ選手ほど顕著ですし、そうすることで競技そのものの人気が世界的に高まり、維持されていくのです。そういう思いや取り組みを少しでも支える報道のあり方もあっていいのではないでしょうか。

テレビメディアがテニス人気を継続に支えていく意味はないのでしょうか。そんなことはありません。スポーツが映像メディアの重要なコンテンツなのは明らかですし、実際今年に入って、グランドスラムに限らず、ATP大会の争奪戦を繰り広げています。1人の選手の力だけに頼るのは、あまりに経営目線では近視眼的ですが、これもスポーツ報道に限った話ではないのでしょう。