新型インフルエンザ騒動は少し収まったようで、首都圏ではもともと少なかったマスク率が、今週初めくらいから急激に減った。関西よりはるかにマスク姿が少なかった背景には、発表された感染者数の少なさが大きいが、もう一つ感じたのは生活者主体の関西地域、良くも悪くも経済の街「東京」であること。マスクをしていた人も会社のルールや、職業上の必要性という人が多かったのではないかと思う。子どもたちのマスク姿の少なさに反して、いかにも健康そうな働く人たちにマスクをしている人が多かった。
マスク率が高まれば、なんとなく街の雰囲気が暗くなり、あまり外出したくない気分になる。首都圏では学校の休校がほとんどなく、急に人出が減ったということはないが、それでも報道がピークだった頃には、浅草などの観光地には人が少なかったように感じた。京都は発表された感染者数は東京と変わらなかったが、関西ということと、修学旅行客を抱えていることでもっと打撃が多かったようだ。
東京は無意識(かどうかはわからないが)に経済への打撃を防御する本能が、都市や人に作用するように思う。
「不要不急の外出は控える」と、こういうことがあるとよく言われる。でも不要不急がもたらす消費パワーは侮れない。私自身は毎日仕事に外に出て、必要であれば帰りに外で食事をしたりくらいは、日常と変わらずずっとやっていたし、直接接した人の中にマスク姿の人もいなかった。でも不要不急の行動は、別にインフル騒ぎは関係なくとも年齢と共に減っていく。休校中にカラオケに行っていた関西の学生が問題になったが、公共心や道徳心のありよう、結果責任という問題はあるが、気持ちはわかるし、その若いパワーもまた社会を引っ張る原動力の側面であることには違いないと思う。
一方で不要不急は大事でも、マンガの殿堂はどうなのか、と思う。そんなものを作った途端に、不要不急の文化は行政的には動員数や効果を問われる義務的なものとなり、生活者にとってもお堅く垢抜けないイメージのものになる。作家視点でみても、政府・行政に寄り添わない反骨精神や、オフィシャルには認められない社会や人間の陰の部分への理解がなければ、良い作家も育たないのではないだろうか。
もったいないとか、無駄遣い以前に意味を感じない。こういうものを真に不要不急というのかも。