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ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

不要不急の重要度

2009-05-30 09:40:42 | まち歩き

新型インフルエンザ騒動は少し収まったようで、首都圏ではもともと少なかったマスク率が、今週初めくらいから急激に減った。関西よりはるかにマスク姿が少なかった背景には、発表された感染者数の少なさが大きいが、もう一つ感じたのは生活者主体の関西地域、良くも悪くも経済の街「東京」であること。マスクをしていた人も会社のルールや、職業上の必要性という人が多かったのではないかと思う。子どもたちのマスク姿の少なさに反して、いかにも健康そうな働く人たちにマスクをしている人が多かった。

マスク率が高まれば、なんとなく街の雰囲気が暗くなり、あまり外出したくない気分になる。首都圏では学校の休校がほとんどなく、急に人出が減ったということはないが、それでも報道がピークだった頃には、浅草などの観光地には人が少なかったように感じた。京都は発表された感染者数は東京と変わらなかったが、関西ということと、修学旅行客を抱えていることでもっと打撃が多かったようだ。

東京は無意識(かどうかはわからないが)に経済への打撃を防御する本能が、都市や人に作用するように思う。

「不要不急の外出は控える」と、こういうことがあるとよく言われる。でも不要不急がもたらす消費パワーは侮れない。私自身は毎日仕事に外に出て、必要であれば帰りに外で食事をしたりくらいは、日常と変わらずずっとやっていたし、直接接した人の中にマスク姿の人もいなかった。でも不要不急の行動は、別にインフル騒ぎは関係なくとも年齢と共に減っていく。休校中にカラオケに行っていた関西の学生が問題になったが、公共心や道徳心のありよう、結果責任という問題はあるが、気持ちはわかるし、その若いパワーもまた社会を引っ張る原動力の側面であることには違いないと思う。

一方で不要不急は大事でも、マンガの殿堂はどうなのか、と思う。そんなものを作った途端に、不要不急の文化は行政的には動員数や効果を問われる義務的なものとなり、生活者にとってもお堅く垢抜けないイメージのものになる。作家視点でみても、政府・行政に寄り添わない反骨精神や、オフィシャルには認められない社会や人間の陰の部分への理解がなければ、良い作家も育たないのではないだろうか。

もったいないとか、無駄遣い以前に意味を感じない。こういうものを真に不要不急というのかも。


電球が買えない都会

2009-05-14 23:24:29 | まち歩き

数日前に洗面所の電球がプチッと切れた。もう6年住んでいる自宅なので初めてではまったくないが、これは忘れた頃にやってくる悲劇。買い置きもなかった。自宅の選挙区は東京1区、つまり都市部だが、知っている限りいわゆる電機屋は徒歩10分圏内に1軒のみ。開いている時間に自宅周辺にはいない。いちばんベーシックな電球ならコンビニにも売っているのだが、名称は知らないが、大きく丸っこいタイプで、以前はローソンにも売っていたが、今はない。イオンやIYなんて洒落たものは最初から近所にはない。

電球1つ買うために一駅地下鉄に乗り、ビックカメラやヨドバシなどの家電量販店に行かなければならないのが都会の現実と思えば何だか面白い。コンビニ(24時間営業)も100円ショップ(22時まで)も、食品スーパー(23時まで)もドラッグストア(21時まで)も全部徒歩5分以内にあっても、電球は買えない。

そんなしょーもないことに不平やクレームを言うつもりはなく、でも一方で最寄の小売店って、意外とまだ可能性があるのではないかと思う。地方ではシャッター商店街ばかりと言われて久しいが、都市部でも一部の住宅密集地などは別に、シャッター通りと言わないまでも、うちの近所も大資本のチェーン店ばかりが増え、移り住んで6年で多くの個人経営店が姿を消した。辛うじて残っている昔ながらの店は、帰る頃には閉まっている。

例えばだけれど、近所の大規模マンションをマーケティング調査し、必要な消耗品やちょっと個性的な食品を抽出し、品揃えしたセレクトショップのようなコンビニ型の中小規模店、午後から夜の10時頃まで開店するような変な店があってもいい。近所の食品スーパーも価格帯、品揃えが画一的で、多くの近隣住民が夕方になると1駅先のデパ地下の紙袋やレジ袋を持って歩いている。

いくら農業が注目されたとしても都市部に畑ができても採算性が合わないように、小売店も経済効率は良くないのはわかる。でも品揃えを住民のニーズに合わせることはできる。現に特色のあるオシャレなパン屋や、ケーキショップ、老舗和菓子店は6年間変わらずある。


伝える情報の意味

2009-05-08 00:45:53 | まち歩き

もう昨日になるが、首都圏ではトップニュース扱いもあった朝の電車の大規模な混乱のちょっとだけ巻き込まれた。横浜のある駅に行くために、もっとも乗りたかったのは湘南新宿ライン。ところが新宿駅の電光板には定刻の運行表示がない。案内の人に聞くと、運休だと言う。理由がよくわからなかったので少し不満だったが、この線は結構乱れる。運が悪かったと山手線に乗り、品川から京急に乗り換える。しかし乗り換え口の様子がどうもおかしい。明らかにこちらも混乱している様子は体感できるが、声をかけた駅員は「動いているので、1番線でお待ちください」と言う。言葉通りの情報を受け取れば、「何の問題もない」ととれなくもない。ところが電車は来ない。もう一度別の駅員に聞くと「いつ電車が来るかはわからないし言えない」と言う。この回答では判断できないので、「12時くらいになるかもしれないということ?」と聞くと「いえ、そんなにはなりません」。そこで畳み掛けるように「11時にはなるかもしれないってこと?」と聞くと「そんなにはなりません」

定刻は10時23分。11時にもならないと断言できるということは、30分以内くらいには来るということ。そのまま品川駅で待つことにした。実際には15分も遅れずに電車は来ており、駅員が誘導尋問にひっかからなければもっと不安で悩ましいことになっただろう。首都圏では2つのパターンを逃しても、電車だけでもあと1、2種類は移動手段がある。仕事で動いている以上、方法があれば他の方法も考えたくなる。

公務員はもとよりインフラ系で働く人は、人間同士の応対や情報の伝達にも規則が最優先することが多い。彼は規則ではきっと言えなかった。10分くらいで来ると言って、30分来なければクレームになる可能性があるから。それでも11時にならないと言い切れるなら、「遅くても30分以内には来ると思う」と言った方が顧客サービスレベルは高い。

もっと深刻かつ難しい例でいえば、「新型インフルエンザ」情報に関する違和感がある。「感染の疑い」レベルを逐一公表し、マスコミ発表までする必要があるのかということ。これもルールとして国が決めたことで、自治体など関連団体が守っている。東京都は守らず独自で判断をしているとニュースになったが、批判の嵐にはならなかったのは、都の姿勢を評価する声なき声も多かったからではないか。疑いレベルで「アメリカから成田空港に帰国した◎◎県の40代の男性に・・・」という曖昧な報道に何か意味があるのか。数百万人の人口がいる自治体に1人疑わしい人がいて、しかもその人は既に隔離されている状況で、誰がどのように感染を予防したり検査を受けたりすればいいというのか。過剰反応をして、やたらめったら検査に来られても、検査機関がパンクして困るだろうに。仮に同じ飛行機に乗って帰った人への注意喚起であれば、せめて対象者が帰国した日時くらいは発表しなければ意味がない。

犯罪被害報道と同じで、報道対象の赤の他人にとってはその程度の情報でも、当事者やその周辺の人にとっては、おおよそその人が特定でき、疑いで終わったとしても、好奇の目にさらされる要因になる。伝える情報の選択は、伝えた相手にとっての意味とその対象となった人の生活への想像力があるべきと思うが、公の情報には人間の温かみを感じない。

本来は伝えることそのものが社会にとって必要でも価値あることでもなくて、伝えた情報がどんな効果をもたらすか、どういう行動を誘発するか、どんな社会をつくるのか、こうした伝えた後の現象のありようが問われるはず。にもかかわらず情報を伝えるプロであるマスコミ報道も、むやみに好奇心をかきたて、視聴率や部数をアップすることが目的とみてとれる方法や内容に終始しているように思う。


ファストファッション感覚

2009-04-29 20:57:00 | まち歩き

今日原宿にFOREVER21がオープンしたらしい。永遠に21歳、誰もが21歳に見られるファッションと言われると、逆にちょっと自分には関係ないか、と思うが、半年くらい前にオープンしたH&Mは銀座、原宿の両店で買い物をしたことがある。もっとも並ばなくてよくなってからだけど。

こういう安いショップが続々誕生する現象に、枕詞のように「不況の影響…」とメディアは言うけれど、ファッション、特に衣服がチープ化していることは何も不況の影響だけではないと思う。それ以上に女性のライフスタイルや社会の変化が大きいのではないか。

東京では就職を意識する大学の2、3年生くらいから、ファッションに色がなくなってくるとなんとなく感じる。都市部の学生は、工場で働く技術者や一部の制服が決められた公務員やサービス業ではなく、営業職も含めオフィスワーカーを目指すケースが多いが、ここ10~20年くらいで女性の制服を採用する企業は激減している。仕事柄大小かかわらず多くの会社に訪問するが、私が社会人になった頃は普通だったOLの制服が今は着ていると「珍しい」と思うようになった。

その半面、仕事で私服のスーツを着る女性も、男性の仕事服のカジュアル化とともに(あるいはそれより早く)減り、ほとんどが単品コーディネートになった。私自身も20代の頃はスーツを持っていたが、ここ10年くらいは買っていないし、ほとんど着ていない。本当は今の方がTPO的には着るべきシーンは数多いような気もするが、お会いする相手の地位がどんなに偉くても地味目のボトムスにジャケットというスタイルが多い。そのボトムスやインナーが時々GAPだったりH&Mだったりする。

つまり社会人女性の私服でいる時間が圧倒的に増え、しかもカジュアル化すると、衣服、特に着ているうちにダメになりやすい夏場のインナーや無彩色系で事足りるパンツは、単なる道具になり、またそこにお金をかけることも難しくなっている。ファッションが会社への行き帰りと休日だけでなく、毎日長時間のこととなればそれなりに数を持つ必要もあるからだ。別に私服の職場が制服の職場より給料が多いとは限らず、昔に比べて他にお金を遣うことも格段に増えている。だからジャケットだけは上質とか、バッグや小物は高級ブランド品という人でも、よく見るとコーディネートのどこかにファストファッション系ブランドが入っているケースが多い。

パンツスタイルの女性が増えていることも、その方向に拍車がかかる要因になっている。私も95%パンツだが、スカートに比べてデザイン面での選択肢は少ない。丈の長い、短いもせいぜい正寸か、七分、八分くらいのことだし、フォルムもだいたい好みによって決まってくる。派手派手しいプリントものも少ない。黒やグレーのパンツなら、よほど質の悪い素材のものを着ていない限り、パンツだけで6、7万円を超えるような高級品は別として、1万円弱のものも、2、3万のものもパッと見て区別はつきにくい。

若年層だけでなくこうして本来、服にお金を落とすべき層の多くがファストファッションをとり入れだすと、中途半端なブランドの中途半端な価格、レベルの商品はますます難しくなる。バッグや革製品で人気の海外の高級ブランドもこと女性向けの衣類に関しては日本では、以前からほとんど売れない。加えてSPAモデルが普通になりだした頃からアパレル業界の構造は様変わりしてしまったようだ。


昔からある傘屋

2009-02-09 20:31:42 | まち歩き

自宅からちょっと離れた所に小さな傘屋を発見した。センスの良い専門店でもなく、固定客を持っていそうな和装用の専門店でもない。何の変哲もない傘屋。しかも繁華街でも、住宅街でもなく、オフィスとマンションが混在した中途半端な街にある。

都市部にも昔ながらの小さな商店はまだ残っている。八百屋、肉屋、金物屋、文房具屋、本屋、花屋…決して安泰ではないまでも潰れない理由はわかる。近隣のオフィスや学校、飲食店から注文をとっていたり、毎日買うものなら固定客もいる。しかし傘。誰かが毎日買うものではないし、急に雨が降ればコンビニや駅を利用するだろう(ちなみに駅からちょっと離れている)。どこかから大量注文があるとも思えない。

都市部に土地、店舗を持っていて、儲からなくてもいいのだろう、あるいはモノを大切にする人を顧客に持っていて、もしかしたら修理なんかを請け負っている可能性もある…くらいの想像力しか働かない不思議感を放つ存在に思える。それくらい日本、しかも人口集中地の小売業は効率化を追求し、大型化・複合化・企業化してしまっている。百貨店の弱体化が槍玉にあがっているが、他の業態も磐石ではなく、総合スーパーも家電量販店も居酒屋チェーン店も厳しい。でも一方で、それら日本人が享受した「買い物の効率化」が、少なくとも今までの日本の経済成長の基盤にあった。

改めて思い出したのだが、日本人が大好きなパリの街角にも小さな傘屋はあった。そこにしかないセンスの良い色と形が美しい傘を6,000円くらい(10年ちょっと前くらい)売っていた。日本の百貨店で売っている高いライセンス料を払って有名ブランドの名前をつけた傘ではなく、手づくり感のあるノンブランド品。日本は工業製品を大量に効率的につくるのはうまいし、それは大きな強みだけど、個人が手元に置くような商品でセンスを感じるものは少ないし、そういうものを揃えている店も少ない。セレクトショップも結局はブランドの枠を超えているだけ、ユニクロは工業製品そのものだ。

工業化・効率化を否定しない。でも路地裏の看板のない飲食店に行ってみたいと思う気持ちを日本人は持っている。パリやミラノにも好んで行く。昼間観光のあと、路面店で買い物をし、オペラを見て、ツアーの観光客が行かないビストロやバーで食事やお酒を楽しみたいと思っている。今の日本の主流となっている小売り業態の多くは、車社会である北米大陸のものを移植している。今は人気のシネコンやDIYショップを包括した大型商業施設も、車が売れない、高齢化する中では、いずれ今の百貨店業態の後を追いかねない。

かといって、パリと同じものを日本の街のどこかに移植しても、消費者が毎日観光客気分で生活できるわけではない。昔ながらの商店街をそのまま復活させても、一時的にはブームになっても、生活者は今を生きているわけで活況は持続しない。

その土地の文化や産物、生活者の嗜好性、センスを大切にした専門店の集合体であれば可能性があるのではないだろうか。企業が行う大規模開発でもなく、古い慣習や力関係にとらわれた人が牛耳る商店会でもない、個人オーナーの力が結集させられるようなカタチを作れれば。そこにはシネコンではなく、音響や映像は今時なミニシアターやコンサートホールをつくり、自治体や企業、アーティストが一部支援してもいい。変な大きなハコモノを造るより費用もかからず批判も少ないと思う。それはおそらく大都市ではなく、小中規模の地方都市に必要な機能のように思う。