私が初めて旅行をした欧米の国はアメリカで、今から四半世紀以上さかのぼります。当時はとくにニューヨークやサンフランシスコのような都市部では、車椅子の人など体の不自由な方が、例えばスーツ姿で1人街を行き交う、そんな姿を見てさすが欧米の街のバリアフリー化と機会平等(いわゆるビジネスマンと見受けられたので)はずいぶん進んでいるなあと感心したものです。
その後、日本でも都市のバリアフリー化は幾分進化し、企業の障害者雇用も義務付けられています。おおかたのサービス業は、障害者を客として受け入れないということはないし、時折拒絶したことがニュースになり、その店や宿泊施設が批判の対象になっています。同じマンションにも盲導犬とともに1人で暮らす男性がいらっしゃいます。
それでも街を介添えなしに闊歩している障害者の方は少ないと感じますし、ベビーカーで交通機関を使う母親が堂々と批判され、保育所建設に苦情が出る社会をみていると、まだまだ非寛容ではないかと思わざるを得ません。
障害を持つ人と子どもや子育て中の人は違うと思われるかもしれませんが、根っこは同じです。体の不自由な人は批判しにくいが、多くの女性が通る道である子育て中の母親は批判しやすいからしているだけです。
新年早々、そんなことを感じたのは、正月に訪れた旅先で日本ではまず見られない光景を見たからです。都市部ではありません。健脚な若い人でもうっかり滑り落ちそうな岩道を周囲の人に支えられ、車輪付きのベッド(車椅子ではなくベッドです)に横たわった人が登っていったのです。
こんな道ですが、ここはましな方です。もっと狭いところや、階段になっていないところもありました。
顔立ちから欧米系外国人グループでしたが、その障害を持つ人がこの地にどれほどの思いを持っているのかは知る由はありません。
岩山登山のような場所の例を出すのは極論とも思いますが、たとえば京都のような観光都市であっても、ベッドのまま介添えしての観光というのは見たことがないし、車椅子の方ですら少ないと感じます。もちろん今回、岩山登山まで介添えしてきたのは、お仲間であり、受け入れた観光地でも社会でもありません。でもどこかの国から「どこでもドア」でやってきたわけではなく、飛行機に乗り、ホテルに泊まっているはずです。日本のエアやサービス業も断りはしないだろうけれども、受け入れる社会の側に寛容さがなければ、人は自然に行動できません。それは障害を持つ人に限らないことです。健康な人であっても、他人の視線を気にする社会です。
日本の社会は、高齢者、子育て中の人、生活保護世帯やそれに近い収入の親を持つ子どもたちなどに対して、ここまではいいけどここから先のことは望んではだめだと、当事者より前に赤の他人が線を引いているように思えてなりません。もちろん高齢者に際限なく運転免許を認めることで事故を起こされては困るので制限は必要でしょう。でも公共交通網がない地域の高齢者から車を奪えば、旅行の自由どころか病院や買い物にも行けません。もともと高齢であっても自分で運転できるくらい活発だった人が急に家にこもりきりになっては、認知症など病気や老いが進む要因にもなり得ます。
さらに問題なのは、所得の低い家の子どもに大学進学をあきらめさせるような論調です。大学どころか高校も贅沢だとSNSか何かで発信して批判されていた女性代議士もいました。教育の機会平等を贅沢ととらえる政治家が存在する国に明るい未来はありません。今の日本は先進国のはずです。心も先進国であってほしいし、自分もそうありたいと思います。