piano class emi.i.

いいピアノを弾きたい

ピティナ地区予選通過!

2011年06月26日 | 音楽教室
就学前の幼稚園児にピティナに出てみたら?と勧めることはしない方針でしたが、
年中さんから始めて発表会を経て14ヶ月目。おかあさまの的確なフォローのおかげも大きいのですが、一音一音きちんと弾こうという持って生まれた性質がすくすく伸びているので、4月の後半になって、挑戦を勧めてみた生徒さんです。まだまだ練習している曲は短くて単純な曲ばかりですがこれだけしっかり「演奏する」姿勢を持って弾く事が出来れば 受かるに違いないと思ったのです。
選んだ課題曲に本人が気に入った曲もあったし、毎週のレッスンも同じ注意は2度しなくていい、という大変順調な仕上がりで、たとえ少々ミスがあっても受かる基準にいると思った通り、「合格した」と先ほどメールがありました。
やった。
他の先生たちから評価してもらえると 間違ってなかったんだなと…一安心です。
年長さんという若さ(^^)で軌道に乗ったといえるでしょう。

これまで もうピアノなんかきらいだ、と云ったこともあったし、器用なタイプでもないし、なんせまだ小さい。あまり厳しくし過ぎてピアノ嫌いになったら元も子もないと注意しながら、ほんとうによく期待に応えてくれました。
今は ピアノやっててよかった、と思ってくれるかな?

さて地区本選が待っている。
が 
とりあえずお祝いにビールをいただかねばならぬので^^;まみつー(おつまみ)を作りましょうか…。


グスタフ・マーラー

2011年06月02日 | 音楽教室
6月になっています。
先月「君に捧げるアダージョ」という映画を観ました。
MAHLER AUF DER COUCH という原題がどうして 君に捧げるアダージョ、なんつー甘ったるい邦題になるのかセンスを疑いつつ…。
直訳すると 「寝椅子(ソファー)の上のマーラー。」
映画を見れば マーラーが心理学者フロイトに相談にいった時、折りたたみの簡易ベッドに横たわるシーンがあり、なるほど。と
その少し薄汚れたベットに素直に横たわりたくなかったマーラー。だけど妻の不倫、ウィーン歌劇場総監督という音楽家としての最高峰の仕事から解任されそうな、自身の体の不調、不安定な精神状態をあの「フロイト博士」に訊いてもらいたいと予約を取った。
ソファーの上でくつろぐマーラーの話ではなく、精神科医に悩みを打ち明けるときに横たわった時のマーラーの話でした。医師の前に横たわったとき 人は本当に真実を吐露するものなの?

マーラー51年の生涯の42歳から50歳までの妻アルマからみたマーラーの一部です。マーラーの苦悩の中でも凡人にも想像しやすい部分、の映像化かな?
サロネン指揮の未完の第10交響曲が何度も流れて 映画館を出てマーラーの全部の交響曲を聴きたい!「嘆きの歌」から1番から8番「大地の歌」と9番、10番。と思いましたがトータル多分13時間を超える長さ。
前日にお弁当を作って これぞ、という録音をそろえて ソファーに横たわって、聴き続けよう。
とことん贅沢な一日になるでしょう。…いつになることか。

彼の最も有名な5番の4楽章「アダージェット」はアルマと一番しあわせな時期に書かれた曲ですが 映画ではその譜面をアルマが読み感動して涙していた。その様子をマーラーが見て「私の音楽を理解してくれている!」と満足そうな表情をするシーンがありました、彼女でなくとも (この私だって)あのスコアをみたらエンエンと泣くだろうと思うのだが…。

あの映画を見てマーラーを語るのはあまりにも早計な話です。ぜひともそんなことがないように願います。

この本によると (桜井健二著 二見書房)
マーラーのくちぐせ
「三つの意味で私には故郷がない。
 オーストリアではボヘミア人として
 ドイツではオーストリア人として
 そしてこの世界においてはユダヤ人として…。
 どこにいても歓迎されない人間だ」

マーラーはウィーン宮廷歌劇場に就任するにあたって ユダヤ教からカトリックへ改宗している!
今で云う「ウィーン国立歌劇場歴代総監督」最高峰のこの地位に10年間もいた音楽家はその直前のウィルヘルム・ヤーンの16年に続く2位です。
(カラヤンは6年。)
その地位は当時(今も)オーストリアでは誰が首相になるかより強い関心事です。
ウィーンの人々というのは家族会議で「子供に最初に鑑賞させるオペラを何にするか、」真剣に話し合うところなのです。(私もそれはまじに悩む問題だと思います。バラの騎士もカルメンも子供には見せられない^^;)
そんな音楽家の夢のような街ウィーンから指揮者としての仕事がなくなり、そのマーラーを受け入れるのがやはり アメリカなんですよねー。アメリカって…。

ニューヨークフィルでの演奏会を最後に体調をくずしてウィーンに向けて長い旅をするなか、(ウィーンへ向かうマーラーの容態は毎日新聞で報じられたそうです、)いく先々でたくさんの人がマーラーを静かに出迎えた。
ウィーンのレーヴェ病院は花束でいっぱいになっていた。
「愛する、私のウィーンフィルハーモニーからだ」と何度もマーラーはくりかえして云ったそうです。

「私の墓には名前だけ刻まれればよい。私を訪ねてきてくれる人なら私が何者であったか知っている。そうでない人たちにそれを知ってもらう必要はない。」

「モーツアルト、」と二回つぶやいて 51歳で愛妻に看とられて亡くなった。
(マーラーの死後アルマは映画で出てきた不倫相手と再婚、そのあとまた他の人とも再々婚している。)


作曲家の人生の中でも 1911年ころにまでなると そんなに遠くないです。
長い交響曲を聴く時に 彼がその曲を作った時、何を想っていたのか思いめぐらせようと思います。
1900年をまたぐ世紀末に活躍した芸術家の遺したもの。
バーンスタインはその後世界大戦、宗教の争い、そういうものを経験した人類がはじめて共感できる世界がマーラーの音楽だと云っています。マーラーの音楽は50年先を予言していた。実際にムッソリーニとヒットラーの死、ファシズムが崩壊したその2ヶ月後、かつてマーラーが通ったウィーン音楽院の壁に一枚の記念碑がはめこまれた。
「グスタフ・マーラー 1945年6月3日、その偉大な音楽芸術はオーストリアの文化にふたたびよみがえった」と刻まれています。


震災のあとこの日本でマーラーの音楽が震災前より沁みてくるのは私だけじゃないように思います。

もうひとつ、マーラーはドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を愛読していたそうです。村上春樹氏とおんなじ。(だからme,too! )





(彼の曲は 出版社からとか誰かからの依頼で作った曲は一曲もなかったそう。知らなかった=。)