ヴィルヘルム・フォン・フンボルト『双数について』(村岡晋一訳、新書館、2006年)
現代言語学の偉大な先駆者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)の名著の訳書。
ベルリン大学の創設者としてその名が知られていることからもわかるとおり、同時代の政治活動にしばしば深くかかわっていたため、言語学研究者としてのきわめて時間は限られたものだったという。しかし、そのわずかな時間のなかで進められた研究成果は、多方面に大きな影響を与えている。
フンボルトからの影響について語っている言語研究者、心理学者、哲学者、思想家は数多い。ざっとあげてみただけでも、言語心理学や民族心理学を企てたハイマン・シュタインタールやヴィルヘルム・ヴント(ご存知のとおり、1879年に世界初の心理学実験室を開設)、歴史言語学者アウグスト・シュライヒャー、文化人類学者フランツ・ボアズ、また言語相対論を唱えたエドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフ(いわゆるサピア-ウォーフ仮説)、デンマークの構造主義者イェルムスレウ、アメリカの構造主義者ブルームフィールド、ロシアの言語思想家ミハイル・バフチン、さらには思想家ヴァルター・ベンヤミンと哲学者ハイデガー。こうして並べてみるだけでも、フンボルトの言語論が圧倒的な魅力をもっていたことが窺える。
本書は『双数について』、『いくつかの言語における場所の副詞と人称代名詞の類縁性について』、『人間の言語構造の相違について』という三つの独創的な論考を収録。
それら論考を貫く思想は、「言語の本質は対話である」というもの。
単数でもなく複数でもない「双数」という形式は、古くはギリシア語に見られる。
双数は、密接な関係にある二つのものを組にして指す。両目や双子がその代表例。
この双数という理解は世界に広く分布しており、フンボルトによればアラビア語、サンスクリット語、スラヴ語、リトアニア語、ラップランド語などにみられ、とりわけアジアのマレー語、タガログ語、ニュージーランド語、南太平洋の島々に見られるという。
これらの語の中でも双数をもつ言語の多くは、圧倒的に双数がすべての品詞に登場する。そこからフンボルトは、双数を言語の根本にあると見定める。
「言語の根源的本質のうちには、ある変更不可能の二元性がひそんでおり、言語活動の可能性そのものが呼びかけと応答によって条件付けられている」(31頁)。
双数の二元性、つまり対話こそが言語の本質をなす。
「すべての言語活動は対話に基づいている」(30頁)。
言語はクローズドなものではなく、つねに他者へと開かれた対話なのである。
対話は、話し手と聞き手によって構成される。しかし、まず最初に聞き手がいなければ話し手は話のしようがない。だから対話は、何よりもまず聞くことからすべてがはじまる。
いかにも当たり前のように思えるけれども、こうした対話のあり方にいち早く着目したフンボルトの功績は大きい。
しかしフンボルトの魅力はそれだけではない。読み進めてゆくにつれて、単純にフンボルトが「通じあう」対話の側面だけを問題にしていたわけではないことがみえてくる。
たとえばフンボルトは、こうも述べている。
「ことばとその対象のあいだには、きわめて異様な深淵が横たわり続けている」(31頁)。
一人称の「私」、二人称の「あなた」、三人称の「彼・彼女・それ」のあいだには、対象をめぐって、深淵が横たわっている。対象をめぐるこの深淵を言語がどのように横断し、それぞれを結びつけてゆくのか。そうした深淵な場をめぐる言語の生きた動き、それこそ、フンボルトが見ていたものだ。
「人間の心を内的・外的に揺り動かすものが言語に移行するかどうかは、彼の言語感覚の生動性にかかっている。これによって彼は、言語をみずからの世界の鏡にするからである。このことがどの程度の深い理解のもとになされるかは、精神と想像力の純粋で繊細な気分の程度による。人間は、おのれ自身の明瞭な意識にいまだ到達しないうちにさえ、無意識のうちにこの気分をとおしてみずからの言語に影響をおよぼすのである」(32-33頁)。
聞くことを前提にしながら、言語は、それぞれの個人の精神や想像力の気分をそなえた、生き生きとした「個性」のなかから生まれてくる。
しかし、それでもやはり、言語の理解は非理解と表裏一体である。
「・・・すべての理解はつねに同時に非理解であり、思考と感情におけるあらゆる一致は同時にひとつの乖離でもあって、これは実生活においてもみごとに活用できる真理である」(168頁)。
聞くことと語ること、無意識や気分と精神と想像力、これらが聞き手と語り手のあいだに横たわる「深淵」を横切り、対象について語る。そこでそれぞれの個性が交錯しあい、対話が生まれ、同時に理解と無理解が生まれてくる。言語の生成を実に繊細かつしなやかに捉える発想である。
こうした点を踏まえるなら、フンボルトの言語論が「印欧語族主義に立った差別的なものだった」とする批判は、必ずしも正鵠を射ていないように思われる。当時のヨーロッパ中心主義に比して、多くの「未開の」言語に対するフンボルトの精力的な研究姿勢、「対話」とさらには「非理解」にまで広くしなやかなまなざしを向けた姿勢には、そうした差別主義は似つかわしくないように感じられる。むしろ彼は、対話のなかの作用と反作用の交錯のなかで、聞くことと語ることの交錯なかで、さらには聴き損なわれる声、聴きとられない声、理解されざる声にならない声をも掬い取りながら、言語の自由な使用の場所を開こうとしたのではなかったかと思うのだが、どうだろう。
訳者村岡晋一氏の巻末の解説は、フンボルトにおける対話の重要性を説きながらも、こうした自由な言語の使用への見方を解き明かしており、実に有益。訳文もたいへん読みやすく仕上がっている。