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西洋美術関連ブログ 思索の断片
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マネ「オランピア」

2013-12-21 22:29:20 | 番組(美の巨人たち)


2013年12月21日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
マネ「オランピア」

「近代絵画の父」と呼ばれるマネ。

同様の呼称はときに、セザンヌに対しても用いられる。
しかしセザンヌを含め、印象派の画家たちがこぞってマネに敬意を表しているように、後世に与えたマネの影響力は絶大なものであった。

同時代における影響関係を明白に示すひとつの例が、アンリ・ファンタン=ラトゥールによる絵画《バティニョールのアトリエ》である。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/latourf_batignolles.html

セザンヌの絵画も当然、革新的ではあったが、大きな括りでのいわゆる「古典絵画」と「近代絵画」の決定的な分岐点に位置しているのは、マネを措いて他にいない。

このブログでは以前から(訳あって?)折に触れて西洋絵画における「裸婦」の系譜に触れてきた。
当然、マネのオランピアもこの伝統に属するものである。

マネとのちの印象派画家とは、絵画の展示に関する態度において、ひとつの違いがみられる。
アカデミーの学生であったマネが、サロンで評価されることを求めたのに対し、モネやルノワールは、完全にサロンと距離を置いていた。

もちろん、その後の画業が示しているように、マネがいわゆる「古典絵画」に固執したわけではない。
ちょうど同時代のイギリスで、同じくアカデミーの学生であった「ラファエル前派」の画家たちが、保守的な画壇の体制を「内部」から破壊しにかかったように、マネもまた、「外」からではなく「内」からの変化を推し進めようとした。

しかしアカデミーの学生だったということもあり、マネは数多くの「古典絵画」に触れ、その模写を通じて絵画技法を習得していったことは紛れもない事実である。
実際、のちに「画期的」といわれるマネの傑作のいくつかには、「オリジナル」ともいうべき「古典」の影が窺われる。

《草上の昼食》でいえば、ティツィアーノ(あるいはジョルジョーネ)による《田園の合奏》、また今回の《オランピア》でいえば、同じくティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》からの影響が濃くみられることは、古くから指摘されている。

今回の放送で意外な驚きだったのは、このオランピア(娼婦)の背後の壁が、日本の屏風の裏を描いたものであるということが、日本の研究者によって最近分かったということであった。

マネを含めた印象派の画家たちが、日本の浮世絵から多大な影響を受けていることは有名である。
しかしマネは措くとしても、印象派の画家たちが主題としたものはしばしば神話画や宗教画、歴史画とはかけ離れたものであったために、案外アカデミックな研究がときに手薄になっているのではないかと感じられた。

またここでは事細かに述べることはしないが、今日の放送をみていて感じられたのは、マネの「巧みさ」であった。

もちろん西洋絵画の歴史では、様々な技巧を駆使したり、「謎」を(おそらく)意図的に散りばめたりといった手法を用いた画家は何人もいる。

しかしフーコーがマネを論じていることからも顕著であるように、マネの絵には、ときに哲学的解釈を許容する「深み」がある。

「賢い」画家マネ。
それは彼の絵画技法にのみいえるのではなく、当時の画壇の空気を一変させる、その契機を「読む」姿勢にも窺われるのであった。

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