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西洋美術関連ブログ 思索の断片
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澁澤龍彦、巖谷國士 『裸婦の中の裸婦』

2014-09-14 17:45:10 | 書籍(美術書)

裸婦の中の裸婦
澁澤龍彦、巖谷國士
河出書房新社
2007

「調査してみよう。だがぼくはいま事件を抱えているので、直接動けない。なので、取り敢えず相棒のジョン-ドクター・ワトソン-が下調べをすることになる。頼んだぞ、ジョン」
「えっ。なんで僕が。それに何をどう調べたら・・・・・・」
「何、簡単なことだ。君に『全裸連盟』に潜入してもらいたいのさ」
彼はそう言うと、目にも留まらぬ速さでウィンクをした。
―――北原尚彦 「ジョン、全裸連盟へ行く

コナン・ドイルのホームズ物語には「ありのままの真実」("naked truth"; 延原訳では「赤裸の真実」)という表現が二度用いられているが、解き明かされた真実の寓意像を〈裸体〉として描く表現形式は古来より西洋美術の歴史においてみられるものであった。


Backer, 'Venus and Cupid, Allegory of the Truth'


Bernini, 'Truth Unveiled by Time'

西洋絵画史の本流のひとつである裸体画の伝統。
それに影響を受けた近代日本の洋画。

世の東西の裸婦を扱った作品を選り抜いた澁澤龍彦と巖谷國士の手になる共著『裸婦の中の裸婦』では、裸婦像の饗宴が対話形式で催されている。

澁澤の最後の美術エッセイにあたる本書の目次は以下の通りである。

幼虫としての女―バルチュス スカーフを持つ裸婦
エレガントな女―ルーカス・クラナッハ ウェヌスとアモル
臈たけた女―ブロンツィーノ 愛と時のアレゴリー
水浴する女―フェリックス・ヴァロットン 女と海
うしろ向きの女―ベラスケス 鏡を見るウェヌス
痩せっぽちの女―百武兼行 裸婦
ロココの女―ワットー パリスの審判
デカダンな女―ヘルムート・ニュートン 裸婦
両性具有の女―眠るヘルマフロディトス
夢のなかの女―デルヴォー 民衆の声 [(※)巖谷著]
美少年としての女―四谷シモン 少女の人形 [(※)同]
さまざまな女たち―アングル トルコ風呂 [(※)同]

巖谷の文庫版解説には次のようにある。

架空の対話者たちは、旧来の美術史にとらわれず、しかもそのポイントをはずすこともなく、ときには現代人の心理分析、文明批評などをまじえつつ、気ままに、気楽に作品を鑑賞している。遊び半分でいながらたいていは何か本質的なことにとどいているような精妙な語り口に、晩年の澁澤龍彦の円熟ぶりが見えるといってもいいだろう。

正鵠を射たこの指摘は、私自身の読後感とまさしく重なるものであった。

先述したように、本書に収められている12篇のエッセイのうちで澁澤が筆を執ったのは最初の9篇であり、残りの3篇は巖谷によって書かれている。
しかし、読んでいる最中には全体としての統一性が失われたり分断されたりしているような印象を受けることは全くなかった。

個人的にはデルヴォーを扱った一篇が印象的だった。
ひとつひとつの指摘に頷くばかりであった。

全体としてはこの魅力的な饗宴を十分に堪能させてもらったのだが、少し気になったのは澁澤の担当したワットーの章の一節。
「ワットー自身はその短い生涯のあいだ、ついぞ快楽主義的な生活には縁がなかったのに、その描き出す理想の世界は、いつ果てるともない快楽の世界そのものだった」とある。

果たしてそうだろうか。
別の論者はこのように述べている。

黄昏の空のごとく、人生の幸せも観劇の歓びもあまりに短く儚く、溶けるようにフェイドアウトしてゆく。そして心には哀愁の残香が沈潜する。曰く言いがたいその物悲しさ、華やぎに添う哀愁こそが、ヴァトーの魅力の核なのだ。(中野京子 『はじめてのルーヴル』)

カンヴァス上の華やぎを画家の憂愁と異質のものと捉えるのではなく、ロココ時代における快楽への耽溺の本質的な情趣をその醸し出す哀愁にみてとることで、ワットーをロココの象徴的画家とみなす後者の見解に私はより共感を覚える。

ともかく、1990年に単行本として世に出されたこのエッセイ集が、いまなお色褪せずに新鮮さを保っているのは特筆すべきであろう。

裸婦。

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