2014年9月20日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
クロード・モネ 「草上の昼食」
What is it that makes Michelangelo's incomplete statues, sometimes really resembling fragments, such powerful images? The scholars who studied these unfinished works of Michelangelo often pointed out that in the Renaissance-a period, that is, when a fragment was produced by intention-the beauty of these incomplete statues was recognized. Thus Vasari said about the Madonna in the Medici Chapel, "Although unfinished, the perfection of the work is apparent." And Ascanio Condivi, Michelangelo's contemporary who recorded the master's thoughts, wrote that the incomplete condition of an artistic image "does not prevent the perfection and beauty of the work."
---Moshe Barasch, Theories of Art: 3. From Impressionism to Kandinsky
不完全な断片の孕む有機的世界観に積極的な価値を認める美意識はとりわけロマン派の時代に顕著な文芸思潮であったが、均整のとれた完全な姿ばかりでなく断片的な対象にも美を認める意識自体は既にルネサンスの時代にみられるものであった。
その代表格こそ、断片的ながら筋骨隆々たる凄まじい迫力の《ベルヴェデーレのトルソ》に衝撃を受けて、身震いを禁じ得なかった希代の彫刻家ミケランジェロに他ならなかった。
さて、一見こうした断片の美意識とは無縁の印象派の画家のなかにも、意図的に絵画を断片的な形で遺し、その作品を生涯愛した人物がいた。
モネである。
現在開催されている「オルセー美術館展 印象派の誕生 -描くことの自由-」にも出品されている大作《草上の昼食》は、印象派の運動が本格的に始まる前に描かれた若き日の画家の意欲作であった。
一大スキャンダルを巻き起こしたマネの手になる同名の絵画に触発されて着手されたモネの本作は、先輩画家マネやクールベへのオマージュであったと同時に、1874年に始まったと一般にみなされる印象主義運動のエッセンスを先取りするものでもあった。
伝統的に聖書や神話上の人物に限定されていた女性の裸婦像を描くにあたって、そのしきたりに従わず市井の女性をモデルとして使用したマネの《草上の昼食》は、表面上は舞台を完全に現代に移しているようにも映るが、その実はルネサンス期周辺の古典的な作品に大きく依拠している。
その意味で、マネは、番組内での言葉を借りれば「過去と現代を一つに融合させて新たな絵画の可能性を追求していた」画家であった。
一方、モネはどちらかというと、あくまで「今という時代を戸外の光の中でとらえようとしていた」画家であった。
それは、画面上のモデルの服飾を徹底的に最新のものに拘ったり、刻一刻と移ろう光の諸相に意識を集中させたりといった画家の態度から窺われるものである。
永久不変の完全な美ではなく、移ろいをみせる光の有り様に積極的な価値を見出す画家の美意識は、あんがい断片の美意識との親和性が高いのかもしれない。
モネが意気込んで描いた《草上の昼食》は、画家の晩年になって、湿気の影響で巨大なカンヴァスの切断を余儀なくされた。
理由は何であれ、意図的にカンヴァスを切断して、のこされた不完全な作品(切断以前にそもそも未完の作だった)を生涯愛した画家の美意識には、断片の美学に通ずるところがないともいいきれない。
それこそ、とりわけ断片的性格の強い詩を数多くのこしたロマン派の詩人キーツが、盛期ルネサンスよりは洗練さにおいて劣る粗野な初期ルネサンスの作品の画集をみて、こう述べたように。
"yet still making up a fine whole-even finer to me than more accomplish’d works-as there was left so much room for Imagination."
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