ウォーホル 《マリリン・モンロー》 (1967年、アンディ・ウォーホル美術館)
2014年4月6日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
ポップアートの奇才 ウォーホルを"読む"
[出演] 秋元康氏(作詞家・放送作家)
[VTR出演] 佐藤可士和氏(アートディレクター)、布施英利氏(美術批評家)、エリック・シャイナー氏(アンディ・ウォーホル美術館館長)
「アンディ・ウォーホルについてすべてを知りたいなら、ぼくの絵と映画、そしてぼくの表面を見るだけでいい。
そこにぼくがいる。
裏には何もない」
そこにぼくがいる。
裏には何もない」
ウォーホルの作品は、概して、表面的にはわかりやすい主題を扱っている。
しかし一歩踏み込むと、鑑賞者の多くは一瞬思考停止に陥る。
それから作品について思考をめぐらせようとした時点で、ウォーホルの〈勝ち〉である。
結局は、〈表面〉に戻ってくるのだから。
オスカー・ワイルドは小説『ドリアン・グレイの肖像』の序文で次のように書いている。
「すべての芸術は、すなわち表層と象徴でなりたっている。
危険を冒さなければ表層の下に踏み込むことはできない。
危険を冒さなければ象徴を読み取ることはできない」
危険を冒さなければ表層の下に踏み込むことはできない。
危険を冒さなければ象徴を読み取ることはできない」
(仁木めぐみ訳[光文社古典新訳文庫]、9頁)
ウォーホルの作品を観るにあたっても、「表層の下に踏み込むこと」は「危険」なのである。
20世紀初頭にデュシャンが発表した《泉》は、19世紀以前の美術界における「オリジナリティー」の概念を根本から覆すものであった。
デュシャン 《泉》 (1917年、オリジナル作品は現存せず)
ある種デュシャンが方向づけた20世紀の美術界において、ポップ・アートの巨匠と謳われるウォーホルもまた次のような言葉をのこしている。
「なぜオリジナルである必要があるのだろうか?」
〈オリジナルでない〉という点で〈オリジナル〉であった、稀有のアーティストである。
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