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変貌するパリを描く ギュスターヴ・カイユボット

2013-12-08 09:47:34 | 番組(日曜美術館)
2013年12月8日(朝)放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
変貌するパリを描く ギュスターヴ・カイユボット

現在(2013年10月10日~12月29日)、ブリヂストン美術館(東京・京橋)では、「カイユボット展ー都市の印象派」が開かれている。
「日曜美術館」の番組HPによると、アジアにおけるカイユボットの本格的な回顧展は初めてのことという。

本展にはまだ訪れていないものの、今回「日曜美術館」の特集をみてみた。

番組内では、「印象派」の枠にとどまらない、といった形容をよく使っていた。

たしかに辞書的な定義(ブリタニカ国際大百科事典)では、「フランスの印象派の画家」とあるし、印象派の絵画を多数収集したことも事実だ。

しかし一口に「印象派」といっても、個々の画家をみてゆけば違いは多分にあるわけで、同時代だからといってステレオタイプ的に「印象派」として一括りにすることは時に危険である。

番組をみていて受けた印象としては、カイユボットは、ルノワールやモネら「純粋」な印象派画家よりも、むしろクールベ(や一部のセザンヌ)のような「リアリズム(自然主義)」的感性をもった画家であると感じた。

実際、英語版のWikipediaでは、「リアリズムの手法を用いて描いた」とある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gustave_Caillebotte

ただ、カイユボットの「リアリズム」の場合、それはクールベのような徹底的なリアリズムとは異なる。
クールベほどの「重さ」はないのだ。

すなわち、対象を特別「美化」しないという点では「リアリズム」的であるが、カイユボットの作品の本質は、そのリアリズムの追及にはおそらくないということである。

先にカイユボットが印象派画家の作品を収集したことに触れた。
いわば、カイユボットは19世紀後半のパリにおけるひとりの画家であると同時に、ひとりの「パトロン」でもあったわけだ。

「パトロン」として、「庇護」している画家たちの生きた時代の「証言者」となろうという意識があったかどうかはわからない。
しかし少なくとも、カイユボットの絵画には、そうした「オブザーバー」的あるいは「(時代の)目撃者」的なタッチが読み取れる。

それゆえ、クールベほどは「重く」ないし、だからといってルノワールやモネのように「美しいものだけを描く」というわけでもない。

おそらく両者の中間的な立場に位置するのが、カイユボットなのだろう。

本展に行くかどうかはわからないが、放送をみながらそんなことを考えた。


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